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訳あり王子と秘密の恋人 第一部 第ニ章
5.飲まなきゃやってられない
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エリオットの私室には、肘掛け椅子がふたつある。
ひとつは年季の入った茶色の合皮で、クッションが柔らかくて少し背もたれが高い。そしてもうひとつは、黒いレザーのスクエア型。肘置きと背もたれが同じ高さで、座面は立方体をくり抜いたように見える。
エリオットが選んだ現代的なデザインの肘掛け椅子は、思いのほか部屋に馴染んでいた。そしてバッシュにも。
ひとりで放っておかれたバッシュは、ドローイングルームの肘掛け椅子で悠々とくつろいでいた。ヨーロッパを一跨ぎできるくらい長い足をラグに投げ出して、腹の上のタブレットで『フルハウス』を見ている。エリオットが複数の動画配信サービスを契約している端末だ。
「そんな小さな画面じゃなくて、テレビのほうで見ればいいだろ」
「部屋の主がいないから、遠慮した」
ひとの『お気に入りリスト』まで見ておいて、言うセリフじゃねーよな。
「話せる?」
「もちろん」
往年のホームコメディーの再生を止め、バッシュはさきほど預けた貝殻の小瓶の横へタブレットを置く。戸口にもたれて腕を組むエリオットを見て、茶化すように眉を上げた。
「無事に魔の手から逃れられたようだな」
「そうも言えない」
たちまち、その表情から茶目っ気が消え失せる。
エリオットは彼の前を通って自分の肘掛け椅子に座ると、足首を振り回してデッキシューズを脱ぎ捨て、両方のかかとを座面に乗せた。
「なにがあった?」
「エールの樽に頭を突っ込みたくなるようなこと」
「ひと瓶だって空けられないくせに」
あきれながら、バッシュは内線電話──今どきはわざわざベルを鳴らさない──を取り上げ、厨房に軽いアルコールを頼んでくれた。
そのあいだに、エリオットは引き寄せた膝に顎を置く。
正直、そっちで何とかしてくれと言うのが偽らざる本音だ。だって、はとこの結婚に自分が首を突っ込むのはおかしな話だろう。結局キャロルだって、エリオットの肩書をかさにきて厄介ごとを片付けようとしているだけなのだし。
けど……。
エリオットは親指の先を噛んだ。
助けを求めるべき貴族会が健全に機能していないと、学生のキャロルでさえ知っていた。元より保守的で時代に沿っているとは言いがたい組織だが、委員会の公平性までが疑われているとしたら、エリオットには「知らなかった」で済まされない責任があるのではないか。この引っかかりが、彼女に「大変だな、上手く行くよう祈ってる」と言えなくしていた。
ことりとグラスの底がテーブルに当たる音に、意識を引き上げられる。カットフルーツがこれでもかと詰め込まれたピッチャーから、バッシュが自分のグラスにサングリアを注いでいた。
「ほら、さっさと飲んで口を軽くしろ」
添えられたつまみからオリーブの皿を取った彼は、黒い肘掛け椅子に腰かける。コーラとポップコーンを用意して、映画の再生ボタンを押すような気軽さだ。
「お前は考え込むと、ろくなことにならない」
あぁ、まったくその通りだとも。
よく冷えたアルコールをふた口、続けて飲んだ。ブドウの甘さに、夏らしくレモンとパイナップルの酸っぱさが舌の上で混ざり合う。最後に爽やかすぎるミントの香りに眉間を刺されて、エリオットは鼻をすすった。
「キャロルが、マクミラン家の次男に言い寄られて困ってるから、おれの恋人ってことにしてくれって」
「チャレンジャーだな。見返りはなんだ?」
「おれを婚活市場から離脱させてくれる」
「……この話を蹴った場合の不利益は?」
「おれの『人嫌い』がリークされる。『秘密の恋人』については、気分次第かな」
「なるほど」
バッシュはオリーブに刺さっていた銀のピックで、グラスの中のブドウを追いかけまわした。本当はキャロルをつつきたいのかもしれない。それなら宮殿の倉庫にある甲冑一式から、剣でも槍でも喜んで貸し出そう。
「レディ・キャロルがマクミラン家の求婚を正面から断れない理由と、バジェット財団のパトロンにマクミランの名前があることに、関係はあるか?」
さすがは王太子の側近だ。貴族事情にも通じているから、余計な説明をしなくてもいい。
「メインパトロンだって」
「二十一世紀にもなって政略結婚か」
「二十一世紀にもなって、王子がいる国だからな」
エリオットやサイラス、ミシェルと言った、国家予算をそれなりに割いてもらえる王室メンバーにとって、ファンドの運営は公務の一環でしかない。しかし、ゆくゆく独立し『手当』を減らされる立場の傍系王族にとっては、将来の収入源になる命綱なのだ。
出資する貴族にすれば、自分たちの事業の看板として王族を利用できるから、互いにうまみのある制度ではある。けれど当然、身銭をきる貴族のほうが、現実的な力関係では幅を利かせていた。家庭でも国家でも、財布を握るものが強いのが世の常だ。
自分たちの利益になる分野にファンドを作ってくれるか、そして出資しただけの見返りがあるか。幼いころから、君主に近く宣伝効果の高い王族ほど、貴族から値踏みされるのはそのせいだ。
「まず大事なことを言っておくが、お前が意に沿わない交渉を持ち掛けられているなら」
「いるなら?」
「手段を選ばず、レディ・キャロルを黙らせる」
グラスを傾け、エリオットはくるっと目を回す。
なんて物騒で魅力的な男だ。
しかし忘れてはいけない。キャロルがエリオットを脅したのは、王子として不適格な接触恐怖症を暴露することについてだけだ。
「でも、恋人についてほのめかしたのは、おれだから」
「お前が?」
「そう」
獰猛なオオカミのように喉の奥で唸ったバッシュが、荒い手つきで額をこする。
「お前、王子だろう。そのバカ正直なところはなんとかならないのか」
「バカって言った! おれだって、だれかれ構わず言いふらしてるわけじゃないからな」
「そうだとしてもだ。表舞台に復帰するってのがどう言うことか、分かってるだろう。マスコットみたいに笑って手を振っていればいいわけじゃないんだぞ。だれがどこと繋がってるか分からないんだ。一族だろうと油断するな」
「そんな正論が聞きたいんじゃねーよ」
「おれが言わなきゃだれが言うんだ」
「きのうはあんなに甘ったるいこと言ってたくせに!」
「そうだな、きのう甘やかしたから、きょうは厳しくいく」
そんな飴とムチ制度だなんて聞いてない!
「悪魔!」
「なんとでも言え」
エリオットの不服を叩き落としたバッシュは、肘掛け椅子に深く腰かけ、前かがみになって両膝にそれぞれの肘をつく。合わせた両手で鼻と口を覆い、目を閉じた。
ヒスイカズラ色の瞳が閉ざされると、目を開けているときより二割増しで思慮深げに見える。そんなことを口にすれば真面目にやれと怒られそうだから、エリオットは黙ったまま、思案するまつ毛を見つめた。
ひとつは年季の入った茶色の合皮で、クッションが柔らかくて少し背もたれが高い。そしてもうひとつは、黒いレザーのスクエア型。肘置きと背もたれが同じ高さで、座面は立方体をくり抜いたように見える。
エリオットが選んだ現代的なデザインの肘掛け椅子は、思いのほか部屋に馴染んでいた。そしてバッシュにも。
ひとりで放っておかれたバッシュは、ドローイングルームの肘掛け椅子で悠々とくつろいでいた。ヨーロッパを一跨ぎできるくらい長い足をラグに投げ出して、腹の上のタブレットで『フルハウス』を見ている。エリオットが複数の動画配信サービスを契約している端末だ。
「そんな小さな画面じゃなくて、テレビのほうで見ればいいだろ」
「部屋の主がいないから、遠慮した」
ひとの『お気に入りリスト』まで見ておいて、言うセリフじゃねーよな。
「話せる?」
「もちろん」
往年のホームコメディーの再生を止め、バッシュはさきほど預けた貝殻の小瓶の横へタブレットを置く。戸口にもたれて腕を組むエリオットを見て、茶化すように眉を上げた。
「無事に魔の手から逃れられたようだな」
「そうも言えない」
たちまち、その表情から茶目っ気が消え失せる。
エリオットは彼の前を通って自分の肘掛け椅子に座ると、足首を振り回してデッキシューズを脱ぎ捨て、両方のかかとを座面に乗せた。
「なにがあった?」
「エールの樽に頭を突っ込みたくなるようなこと」
「ひと瓶だって空けられないくせに」
あきれながら、バッシュは内線電話──今どきはわざわざベルを鳴らさない──を取り上げ、厨房に軽いアルコールを頼んでくれた。
そのあいだに、エリオットは引き寄せた膝に顎を置く。
正直、そっちで何とかしてくれと言うのが偽らざる本音だ。だって、はとこの結婚に自分が首を突っ込むのはおかしな話だろう。結局キャロルだって、エリオットの肩書をかさにきて厄介ごとを片付けようとしているだけなのだし。
けど……。
エリオットは親指の先を噛んだ。
助けを求めるべき貴族会が健全に機能していないと、学生のキャロルでさえ知っていた。元より保守的で時代に沿っているとは言いがたい組織だが、委員会の公平性までが疑われているとしたら、エリオットには「知らなかった」で済まされない責任があるのではないか。この引っかかりが、彼女に「大変だな、上手く行くよう祈ってる」と言えなくしていた。
ことりとグラスの底がテーブルに当たる音に、意識を引き上げられる。カットフルーツがこれでもかと詰め込まれたピッチャーから、バッシュが自分のグラスにサングリアを注いでいた。
「ほら、さっさと飲んで口を軽くしろ」
添えられたつまみからオリーブの皿を取った彼は、黒い肘掛け椅子に腰かける。コーラとポップコーンを用意して、映画の再生ボタンを押すような気軽さだ。
「お前は考え込むと、ろくなことにならない」
あぁ、まったくその通りだとも。
よく冷えたアルコールをふた口、続けて飲んだ。ブドウの甘さに、夏らしくレモンとパイナップルの酸っぱさが舌の上で混ざり合う。最後に爽やかすぎるミントの香りに眉間を刺されて、エリオットは鼻をすすった。
「キャロルが、マクミラン家の次男に言い寄られて困ってるから、おれの恋人ってことにしてくれって」
「チャレンジャーだな。見返りはなんだ?」
「おれを婚活市場から離脱させてくれる」
「……この話を蹴った場合の不利益は?」
「おれの『人嫌い』がリークされる。『秘密の恋人』については、気分次第かな」
「なるほど」
バッシュはオリーブに刺さっていた銀のピックで、グラスの中のブドウを追いかけまわした。本当はキャロルをつつきたいのかもしれない。それなら宮殿の倉庫にある甲冑一式から、剣でも槍でも喜んで貸し出そう。
「レディ・キャロルがマクミラン家の求婚を正面から断れない理由と、バジェット財団のパトロンにマクミランの名前があることに、関係はあるか?」
さすがは王太子の側近だ。貴族事情にも通じているから、余計な説明をしなくてもいい。
「メインパトロンだって」
「二十一世紀にもなって政略結婚か」
「二十一世紀にもなって、王子がいる国だからな」
エリオットやサイラス、ミシェルと言った、国家予算をそれなりに割いてもらえる王室メンバーにとって、ファンドの運営は公務の一環でしかない。しかし、ゆくゆく独立し『手当』を減らされる立場の傍系王族にとっては、将来の収入源になる命綱なのだ。
出資する貴族にすれば、自分たちの事業の看板として王族を利用できるから、互いにうまみのある制度ではある。けれど当然、身銭をきる貴族のほうが、現実的な力関係では幅を利かせていた。家庭でも国家でも、財布を握るものが強いのが世の常だ。
自分たちの利益になる分野にファンドを作ってくれるか、そして出資しただけの見返りがあるか。幼いころから、君主に近く宣伝効果の高い王族ほど、貴族から値踏みされるのはそのせいだ。
「まず大事なことを言っておくが、お前が意に沿わない交渉を持ち掛けられているなら」
「いるなら?」
「手段を選ばず、レディ・キャロルを黙らせる」
グラスを傾け、エリオットはくるっと目を回す。
なんて物騒で魅力的な男だ。
しかし忘れてはいけない。キャロルがエリオットを脅したのは、王子として不適格な接触恐怖症を暴露することについてだけだ。
「でも、恋人についてほのめかしたのは、おれだから」
「お前が?」
「そう」
獰猛なオオカミのように喉の奥で唸ったバッシュが、荒い手つきで額をこする。
「お前、王子だろう。そのバカ正直なところはなんとかならないのか」
「バカって言った! おれだって、だれかれ構わず言いふらしてるわけじゃないからな」
「そうだとしてもだ。表舞台に復帰するってのがどう言うことか、分かってるだろう。マスコットみたいに笑って手を振っていればいいわけじゃないんだぞ。だれがどこと繋がってるか分からないんだ。一族だろうと油断するな」
「そんな正論が聞きたいんじゃねーよ」
「おれが言わなきゃだれが言うんだ」
「きのうはあんなに甘ったるいこと言ってたくせに!」
「そうだな、きのう甘やかしたから、きょうは厳しくいく」
そんな飴とムチ制度だなんて聞いてない!
「悪魔!」
「なんとでも言え」
エリオットの不服を叩き落としたバッシュは、肘掛け椅子に深く腰かけ、前かがみになって両膝にそれぞれの肘をつく。合わせた両手で鼻と口を覆い、目を閉じた。
ヒスイカズラ色の瞳が閉ざされると、目を開けているときより二割増しで思慮深げに見える。そんなことを口にすれば真面目にやれと怒られそうだから、エリオットは黙ったまま、思案するまつ毛を見つめた。
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