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訳あり王子と秘密の恋人 第一部 第一章
5.赤毛の彼女
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幸いコンサートの終わりまでエリオットが居眠りすることも、だれかが客席から叩き出されることもなかった。
下から向けられる顔と同じ数のスマートフォンにぎこちなく手を振って、エリオットはボックス席を後にする。彼らは外へ出た瞬間に、報道陣から写真を寄こせと群がられるに違いない。
「学生ながら、なかなかの腕前でしょう」
杖をつき、従者にエスコートされて階段を下りながら、マーガレットが自慢げに言う。
「ええ。何人か、すでにロイヤルフィルに入団が決まってるとか」
「頼もしいことです。芸術は国のレベルをはかる指標ですからね」
エリオットは失礼にならないくらいに肩をすくめ、それ以上のコメントは控えた。
なにを話して、どの話題に同意しないかと言う判断は、ロイヤルファミリーの重要な危機管理の一つだ。エリオットは『言いたいことは山ほどありそうな顔をするのに、実際には口にしない』とバッシュに批評されたことがあるが、顔に出ているようでは王族としては半人前だった。
いままでは、それでよかったんだけどさ。
心内でため息をついたエリオットの前に、イェオリがするりと歩み出る。なにかと思えば、階段を下りた先、円柱の脇に赤毛の女性がいた。
「あぁ、間に合ったわね」
マーガレットが声をかけると、髪に似合いの深紅のドレスを着た女性は、エリオットの前に進み出て礼をとった。
イェオリが視線で「どうしますか?」と尋ねて来るので、ひとまず下がらせる。
心底帰りたいけれど、ここで素通りできる心臓の強さは持ち合わせていない。
「いい演奏だったよ、レディ・キャロル」
「殿下」
背を伸ばしたキャロルの耳元で耳飾りが揺れ、反射した光が首筋から鎖骨のあたりに散った。
公演の最後、オーケストラを率いてピアノ協奏曲を披露した奏者。そしてエリオットには、きつめに結った赤毛に見覚えがある。マーガレットの読書会で王宮に赴いた際、高慢な若い子爵がエスコートしていた相手だった。
「楽にして。身内なんだから」
「格が違います。でも、覚えていてくださって嬉しい」
「はとこの顔くらい覚えてるよ」
レディ・キャロル──キャロル・ジェナ・バジェットは、父方のはとこだ。引きこもっていたエリオットとは当然それ以上の付き合いはなく、ぎりぎり顔見知りと言えるかどうか。
サイラスの成婚の儀には参列していたはずだが、パニックを起こさないよう必死だったエリオットの記憶には、さっぱり残っていない。
「以前は、思わぬところでお会いしましたね」
「挨拶もせずに、悪かったと思ってるよ」
「わたしのほうこそ」
キャロルが八重歯を見せて笑うので、エリオットは少し驚いた。
彼女からその話題を振られるとは思わなかった。話のネタにされて困らないなら、子爵とはあれきりだったのかもしれない。だとしたら賢明な判断だ。
「女伯爵から殿下がおいでになると聞いて、お礼に参りました。ご臨席を賜り、光栄です」
「こちらこそ、素晴らしい時間をありがとう」
「殿下がクラシックに興味がおありなんて、知りませんでした」
「残念ながら聞く専門で、難しい知識はないよ。夏休みで暇をしているだろうと、大伯母さまに誘われたからお邪魔したんだけど」
あぁ、しまった。
へたに予防線を張ったせいで、にこやかに歓談できる話題がない。最悪、天気の話でもして「面白くない男」の烙印を押される覚悟をしたとき、エリオットは数本向こうの柱の影からいくつかの頭が突き出ているのに気付いた。
目が合ったブルネットの女性が「きゃっ」と声を上げ、他の数人も柱の向こうに引っ込む。しかしまた、そろそろと首を伸ばしてこちらを窺っている。
エリオットの視線を追って振り返ったキャロルが、こめかみを抑えて唸る。
「あぁ、もう。ごめんなさい、同じクラスの友人なんです」
レディとしての顔が崩れ、学生のそれに変わった。
「もう行ったほうがよさそうだね」
「そうですね。失礼します、殿下」
「お疲れさま」
「女伯爵も」
「次の公演を楽しみにしていますよ」
大きく膨らんだドレスの裾を捌いて、踵を返す。
その彼女の耳元から光るものが落ちたのを見て、エリオットは屈んで拾い上げた。耳飾りは、ピアスでなくイヤリングだったらしい。
「キャロル、落とし物」
重くて冷たい宝石が、手のひらの上で転がる。ミシェルの結婚式でも思ったが、女性はよくこんな重いものを耳にぶら下げていられるものだ。
耳たぶちぎれそうだもんな。
「ありがとうございます。母のを借りたので、なくしたら叱られるところでした」
「気を付けて」
軽く放ったダイヤのイヤリングを、きれいに整えた指先でキャロルが受け止める。また、柱の影から「きゃっ」と悲鳴が上がった。
今度こそ、キャロルは野次馬な友人たちのもとへ突進して行った。
学生生活楽しんでるなぁ。
本物! すごい! などとはしゃぐ声を聞きながら、エリオットは立ち枯れした古木のような細身のマーガレットを見つめた。
「大伯母さま、申し上げておきますが」
「余計なことをしたとお思いでしょうね、殿下。ですが、あなたにはこれから山ほど同じ話が舞い込みますよ」
この遣り手婆……。
「ご忠告いただいて感謝します。ですが『どちらも』必要ありません。きょうはこれで失礼します」
エリオットはイェオリに合図して、車寄せで待つセダンへと戻った。
下から向けられる顔と同じ数のスマートフォンにぎこちなく手を振って、エリオットはボックス席を後にする。彼らは外へ出た瞬間に、報道陣から写真を寄こせと群がられるに違いない。
「学生ながら、なかなかの腕前でしょう」
杖をつき、従者にエスコートされて階段を下りながら、マーガレットが自慢げに言う。
「ええ。何人か、すでにロイヤルフィルに入団が決まってるとか」
「頼もしいことです。芸術は国のレベルをはかる指標ですからね」
エリオットは失礼にならないくらいに肩をすくめ、それ以上のコメントは控えた。
なにを話して、どの話題に同意しないかと言う判断は、ロイヤルファミリーの重要な危機管理の一つだ。エリオットは『言いたいことは山ほどありそうな顔をするのに、実際には口にしない』とバッシュに批評されたことがあるが、顔に出ているようでは王族としては半人前だった。
いままでは、それでよかったんだけどさ。
心内でため息をついたエリオットの前に、イェオリがするりと歩み出る。なにかと思えば、階段を下りた先、円柱の脇に赤毛の女性がいた。
「あぁ、間に合ったわね」
マーガレットが声をかけると、髪に似合いの深紅のドレスを着た女性は、エリオットの前に進み出て礼をとった。
イェオリが視線で「どうしますか?」と尋ねて来るので、ひとまず下がらせる。
心底帰りたいけれど、ここで素通りできる心臓の強さは持ち合わせていない。
「いい演奏だったよ、レディ・キャロル」
「殿下」
背を伸ばしたキャロルの耳元で耳飾りが揺れ、反射した光が首筋から鎖骨のあたりに散った。
公演の最後、オーケストラを率いてピアノ協奏曲を披露した奏者。そしてエリオットには、きつめに結った赤毛に見覚えがある。マーガレットの読書会で王宮に赴いた際、高慢な若い子爵がエスコートしていた相手だった。
「楽にして。身内なんだから」
「格が違います。でも、覚えていてくださって嬉しい」
「はとこの顔くらい覚えてるよ」
レディ・キャロル──キャロル・ジェナ・バジェットは、父方のはとこだ。引きこもっていたエリオットとは当然それ以上の付き合いはなく、ぎりぎり顔見知りと言えるかどうか。
サイラスの成婚の儀には参列していたはずだが、パニックを起こさないよう必死だったエリオットの記憶には、さっぱり残っていない。
「以前は、思わぬところでお会いしましたね」
「挨拶もせずに、悪かったと思ってるよ」
「わたしのほうこそ」
キャロルが八重歯を見せて笑うので、エリオットは少し驚いた。
彼女からその話題を振られるとは思わなかった。話のネタにされて困らないなら、子爵とはあれきりだったのかもしれない。だとしたら賢明な判断だ。
「女伯爵から殿下がおいでになると聞いて、お礼に参りました。ご臨席を賜り、光栄です」
「こちらこそ、素晴らしい時間をありがとう」
「殿下がクラシックに興味がおありなんて、知りませんでした」
「残念ながら聞く専門で、難しい知識はないよ。夏休みで暇をしているだろうと、大伯母さまに誘われたからお邪魔したんだけど」
あぁ、しまった。
へたに予防線を張ったせいで、にこやかに歓談できる話題がない。最悪、天気の話でもして「面白くない男」の烙印を押される覚悟をしたとき、エリオットは数本向こうの柱の影からいくつかの頭が突き出ているのに気付いた。
目が合ったブルネットの女性が「きゃっ」と声を上げ、他の数人も柱の向こうに引っ込む。しかしまた、そろそろと首を伸ばしてこちらを窺っている。
エリオットの視線を追って振り返ったキャロルが、こめかみを抑えて唸る。
「あぁ、もう。ごめんなさい、同じクラスの友人なんです」
レディとしての顔が崩れ、学生のそれに変わった。
「もう行ったほうがよさそうだね」
「そうですね。失礼します、殿下」
「お疲れさま」
「女伯爵も」
「次の公演を楽しみにしていますよ」
大きく膨らんだドレスの裾を捌いて、踵を返す。
その彼女の耳元から光るものが落ちたのを見て、エリオットは屈んで拾い上げた。耳飾りは、ピアスでなくイヤリングだったらしい。
「キャロル、落とし物」
重くて冷たい宝石が、手のひらの上で転がる。ミシェルの結婚式でも思ったが、女性はよくこんな重いものを耳にぶら下げていられるものだ。
耳たぶちぎれそうだもんな。
「ありがとうございます。母のを借りたので、なくしたら叱られるところでした」
「気を付けて」
軽く放ったダイヤのイヤリングを、きれいに整えた指先でキャロルが受け止める。また、柱の影から「きゃっ」と悲鳴が上がった。
今度こそ、キャロルは野次馬な友人たちのもとへ突進して行った。
学生生活楽しんでるなぁ。
本物! すごい! などとはしゃぐ声を聞きながら、エリオットは立ち枯れした古木のような細身のマーガレットを見つめた。
「大伯母さま、申し上げておきますが」
「余計なことをしたとお思いでしょうね、殿下。ですが、あなたにはこれから山ほど同じ話が舞い込みますよ」
この遣り手婆……。
「ご忠告いただいて感謝します。ですが『どちらも』必要ありません。きょうはこれで失礼します」
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