箱庭の子ども〜世話焼き侍従と訳あり王子〜

真木もぐ

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訳あり王子と秘密の恋人 第一部 第一章

1.夏休み

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「それで、きみ──」

 エリオットの話をひと通り聞き終わったナサニエルは、餌を付けた針をキャスティングし、水面に落ちた浮きが上下するのを見たあと、バケツふたつ分よりさらに間隔を空けて座る友人に顔を向けた。

「ぼくに、セックスの指南役になれとでも言うの?」
「違う!」

 どんな羞恥プレイだ。

「じゃあどう言うこと? 恋人をベッドから蹴り出してから、キスもしてくれない、どうしようって」
「わざわざ復唱しなくていいだろ!」

 エリオットは慌てて周りを見回す。人がいなくて本当によかった。

 多くの人々がバカンスに出かける、夏真っ盛りの八月。ナサニエル・フォスターが所有するカントリーハウスの池のほとりにある大きな樫の木陰で、ふたりは釣り糸を垂らしていた。
 自然が多いこの辺りは都心ほど暑くなく、昼間でも陽射しを避けさえすれば快適に過ごせるのどかな場所だ。
 話題は、いささかのどかとは言いがたかったが。

「あれは、なんていうか、事故みたいな……」
「なにがあったのさ」
「あいつがうちに来て、夕飯のあとに一緒にテレビ見てたんだ。その、いい感じの雰囲気にはなったんだけど、やっぱりちょっと駄目で」
「フラッシュバックを?」
「……過呼吸になって吐いた」

 修羅場を察したナサニエルが、気の毒そうに頷く。

「それで、あのハンサムを裸で蹴り出したわけだ」
「……服はまだ着てた」

 まあその、半分くらいは。

 あまりに明け透けな話だが、そもそも恋人との「初夜」に一役買ったナサニエルだ。いまさらそんなことで引かれることはないし、ことは極めて重大なのだ。

 エリオットは、十年あまり心因性の接触恐怖症を患っている。握手やハグ、さらには道端でぶつかったり。故意であろうがなかろうが、そういった他者に触れる行為が怖い。これは自分ではどうしようもない、思考より先に体が反応するアレルギーのようなものだった。

 ただこの症状は、エリオットに恋人ができたひと月ほど前から、大きな変化があった。いや、変化があったから恋人ができたと言うか。とにかく、人に近寄られるだけで震えて呼吸すらままならなかったエリオットに、高確率で触れることができる人物が現れたのだ。それも、セックスを望むレベルで。──失敗したが。

「彼、拒否されたからって怒ってるの?」
「まさか。あいつの前でパニックになるの、初めてじゃないし」

 バッシュも宥め方は心得ているし、実際そのときもうまくエリオットを落ち着かせてくれた。ただし、知恵熱まで出したエリオットを看病をすると言って、翌日の仕事を休もうとまでしたのには閉口した。

 休んだら別れるっつって、無理やり出勤させたけど。

「話し合いはした? たとえば、もう一度試してみるとか」
「焦らなくていいって、そればっかり。キスしてって言えばしてくれるけど、あいつからはしてくれない」
「もの分かりのいい恋人だね。けど、ぼくも彼に一票だな。きみが気にするのを否定はしないけど、フィジカルにこだわる必要も感じない」
「そうかな……」

 恋人なのに、手を繋いで、キスをして──それだけ?

 両手で釣り竿を握ったまま考え込むエリオットに、「いちおう確認するけど」と前置きして、ナサニエルが尋ねた。

「きみ、だれでも大丈夫なわけじゃないんだよね? ぼくが『ハグしよう』って腕を広げたら、それは無理なんだろう?」
「………三時間くれたら、一メートルくらいまでは寄れる」
「うん、それはハグじゃないね」

 いいじゃないか、エアハグ。

「彼とだから、ハグもキスもしたいし平気だと」
「……そう言ってるのにさ!」
「はいはい。この手の話がダメなわけでもない」

 こんなでも一応、健康な成人男子なんで。

「でも、それ以上は怖かった?」
「……なんでかは分からないんだ」

 空気が抜けたように項垂れて、エリオットは頭を振る。

「本当に。あいつは怖くないって、頭では分かってるつもりなんだけど」

 覆い被さって来た大きな体が、突然、とても怖いものに思えた。

「最初は上手く行ったんだろう?」
「この上なく」

 あの夜はいろいろあったあとで、ハイになってたから平気だったのかもしれないけれど。ビギナーズラック的な。

 いやいや、セックスにそんなものあってたまるか。

「……まったくきみの叔父は、なんてことをしてくれたんだろうね」

 吐息のようなナサニエルの呟きを、風に揺れた木々のざわめきがさらって行く。
 エリオットは、硬い樫の葉を見上げて目をすがめた。

 恐怖症には、原因となったできごとがある。エリオットの場合は、十二歳のころに受けた実の叔父からの性的な暴行だ。そのありがたくない経験がトラウマになり、いまも人に近寄られると怯えてしまう。──ときには、それが恋人であっても。

「でもあれだって、最後までされたわけじゃないのに」
「どこまで、と言うのは関係ないんじゃないかな。きみを傷つけた行為を、ひとつずつ仕分けして分析なんてできない──っと」

 浮きが大きく沈んだ。
 ナサニエルは慌てる様子もなく餌に食いついたマスを釣り上げると、慣れた手つきで針を口から外してバケツに放り込む。青い尾びれが、抗議するようにばしゃばしゃと水を叩いた。

「焦らないことだよ。きみは長いこと人を遠ざけてきた。ひと月くらい劇的な改善を見せたとして、揺り戻しがあっても不思議じゃないじゃない。それに、きみたちの関係はどう言う形がベストなのか、結論を出すにはまだ早すぎる」
「そう思う?」
「そりゃあね。初恋の相手と恋人になって、舞い上がってるのも分かるけど?」
「そんなんじゃない!」

 にやにやと笑われて、エリオットは一気に熱くなった頬を押さえて言い返した。
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