上 下
140 / 334
訳あり王子と秘密の恋人 第一部 第一章

1.夏休み

しおりを挟む
「それで、きみ──」

 エリオットの話をひと通り聞き終わったナサニエルは、餌を付けた針をキャスティングし、水面に落ちた浮きが上下するのを見たあと、バケツふたつ分よりさらに間隔を空けて座る友人に顔を向けた。

「ぼくに、セックスの指南役になれとでも言うの?」
「違う!」

 どんな羞恥プレイだ。

「じゃあどう言うこと? 恋人をベッドから蹴り出してから、キスもしてくれない、どうしようって」
「わざわざ復唱しなくていいだろ!」

 エリオットは慌てて周りを見回す。人がいなくて本当によかった。

 多くの人々がバカンスに出かける、夏真っ盛りの八月。ナサニエル・フォスターが所有するカントリーハウスの池のほとりにある大きな樫の木陰で、ふたりは釣り糸を垂らしていた。
 自然が多いこの辺りは都心ほど暑くなく、昼間でも陽射しを避けさえすれば快適に過ごせるのどかな場所だ。
 話題は、いささかのどかとは言いがたかったが。

「あれは、なんていうか、事故みたいな……」
「なにがあったのさ」
「あいつがうちに来て、夕飯のあとに一緒にテレビ見てたんだ。その、いい感じの雰囲気にはなったんだけど、やっぱりちょっと駄目で」
「フラッシュバックを?」
「……過呼吸になって吐いた」

 修羅場を察したナサニエルが、気の毒そうに頷く。

「それで、あのハンサムを裸で蹴り出したわけだ」
「……服はまだ着てた」

 まあその、半分くらいは。

 あまりに明け透けな話だが、そもそも恋人との「初夜」に一役買ったナサニエルだ。いまさらそんなことで引かれることはないし、ことは極めて重大なのだ。

 エリオットは、十年あまり心因性の接触恐怖症を患っている。握手やハグ、さらには道端でぶつかったり。故意であろうがなかろうが、そういった他者に触れる行為が怖い。これは自分ではどうしようもない、思考より先に体が反応するアレルギーのようなものだった。

 ただこの症状は、エリオットに恋人ができたひと月ほど前から、大きな変化があった。いや、変化があったから恋人ができたと言うか。とにかく、人に近寄られるだけで震えて呼吸すらままならなかったエリオットに、高確率で触れることができる人物が現れたのだ。それも、セックスを望むレベルで。──失敗したが。

「彼、拒否されたからって怒ってるの?」
「まさか。あいつの前でパニックになるの、初めてじゃないし」

 バッシュも宥め方は心得ているし、実際そのときもうまくエリオットを落ち着かせてくれた。ただし、知恵熱まで出したエリオットを看病をすると言って、翌日の仕事を休もうとまでしたのには閉口した。

 休んだら別れるっつって、無理やり出勤させたけど。

「話し合いはした? たとえば、もう一度試してみるとか」
「焦らなくていいって、そればっかり。キスしてって言えばしてくれるけど、あいつからはしてくれない」
「もの分かりのいい恋人だね。けど、ぼくも彼に一票だな。きみが気にするのを否定はしないけど、フィジカルにこだわる必要も感じない」
「そうかな……」

 恋人なのに、手を繋いで、キスをして──それだけ?

 両手で釣り竿を握ったまま考え込むエリオットに、「いちおう確認するけど」と前置きして、ナサニエルが尋ねた。

「きみ、だれでも大丈夫なわけじゃないんだよね? ぼくが『ハグしよう』って腕を広げたら、それは無理なんだろう?」
「………三時間くれたら、一メートルくらいまでは寄れる」
「うん、それはハグじゃないね」

 いいじゃないか、エアハグ。

「彼とだから、ハグもキスもしたいし平気だと」
「……そう言ってるのにさ!」
「はいはい。この手の話がダメなわけでもない」

 こんなでも一応、健康な成人男子なんで。

「でも、それ以上は怖かった?」
「……なんでかは分からないんだ」

 空気が抜けたように項垂れて、エリオットは頭を振る。

「本当に。あいつは怖くないって、頭では分かってるつもりなんだけど」

 覆い被さって来た大きな体が、突然、とても怖いものに思えた。

「最初は上手く行ったんだろう?」
「この上なく」

 あの夜はいろいろあったあとで、ハイになってたから平気だったのかもしれないけれど。ビギナーズラック的な。

 いやいや、セックスにそんなものあってたまるか。

「……まったくきみの叔父は、なんてことをしてくれたんだろうね」

 吐息のようなナサニエルの呟きを、風に揺れた木々のざわめきがさらって行く。
 エリオットは、硬い樫の葉を見上げて目をすがめた。

 恐怖症には、原因となったできごとがある。エリオットの場合は、十二歳のころに受けた実の叔父からの性的な暴行だ。そのありがたくない経験がトラウマになり、いまも人に近寄られると怯えてしまう。──ときには、それが恋人であっても。

「でもあれだって、最後までされたわけじゃないのに」
「どこまで、と言うのは関係ないんじゃないかな。きみを傷つけた行為を、ひとつずつ仕分けして分析なんてできない──っと」

 浮きが大きく沈んだ。
 ナサニエルは慌てる様子もなく餌に食いついたマスを釣り上げると、慣れた手つきで針を口から外してバケツに放り込む。青い尾びれが、抗議するようにばしゃばしゃと水を叩いた。

「焦らないことだよ。きみは長いこと人を遠ざけてきた。ひと月くらい劇的な改善を見せたとして、揺り戻しがあっても不思議じゃないじゃない。それに、きみたちの関係はどう言う形がベストなのか、結論を出すにはまだ早すぎる」
「そう思う?」
「そりゃあね。初恋の相手と恋人になって、舞い上がってるのも分かるけど?」
「そんなんじゃない!」

 にやにやと笑われて、エリオットは一気に熱くなった頬を押さえて言い返した。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

王道学園の冷徹生徒会長、裏の顔がバレて総受けルート突入しちゃいました!え?逃げ場無しですか?

名無しのナナ氏
BL
王道学園に入学して1ヶ月でトップに君臨した冷徹生徒会長、有栖川 誠(ありすがわ まこと)。常に冷静で無表情、そして無言の誠を生徒達からは尊敬の眼差しで見られていた。 そんな彼のもう1つの姿は… どの企業にも属さないにも関わらず、VTuber界で人気を博した個人VTuber〈〈 アイリス 〉〉!? 本性は寂しがり屋の泣き虫。色々あって周りから誤解されまくってしまった結果アイリスとして素を出していた。そんなある日、生徒会の仕事を1人で黙々とやっている内に疲れてしまい__________ ※ ・非王道気味 ・固定カプ予定は無い ・悲しい過去🐜 ・不定期

コンビニごと異世界転生したフリーター、魔法学園で今日もみんなに溺愛されます

はるはう
BL
コンビニで働く渚は、ある日バイト中に奇妙なめまいに襲われる。 睡眠不足か?そう思い仕事を続けていると、さらに奇妙なことに、品出しを終えたはずの唐揚げ弁当が増えているのである。 驚いた渚は慌ててコンビニの外へ駆け出すと、そこはなんと異世界の魔法学園だった! そしてコンビニごと異世界へ転生してしまった渚は、知らぬ間に魔法学園のコンビニ店員として働くことになってしまい・・・ フリーター男子は今日もイケメンたちに甘やかされ、異世界でもバイト三昧の日々です!

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

転生したけど赤ちゃんの頃から運命に囲われてて鬱陶しい

翡翠飾
BL
普通に高校生として学校に通っていたはずだが、気が付いたら雨の中道端で動けなくなっていた。寒くて死にかけていたら、通りかかった馬車から降りてきた12歳くらいの美少年に拾われ、何やら大きい屋敷に連れていかれる。 それから温かいご飯食べさせてもらったり、お風呂に入れてもらったり、柔らかいベッドで寝かせてもらったり、撫でてもらったり、ボールとかもらったり、それを投げてもらったり───ん? 「え、俺何か、犬になってない?」 豹獣人の番大好き大公子(12)×ポメラニアン獣人転生者(1)の話。 ※どんどん年齢は上がっていきます。 ※設定が多く感じたのでオメガバースを無くしました。

若頭と小鳥

真木
BL
極悪人といわれる若頭、けれど義弟にだけは優しい。小さくて弱い義弟を構いたくて仕方ない義兄と、自信がなくて病弱な義弟の甘々な日々。

推しの完璧超人お兄様になっちゃった

紫 もくれん
BL
『君の心臓にたどりつけたら』というゲーム。体が弱くて一生の大半をベットの上で過ごした僕が命を賭けてやり込んだゲーム。 そのクラウス・フォン・シルヴェスターという推しの大好きな完璧超人兄貴に成り代わってしまった。 ずっと好きで好きでたまらなかった推し。その推しに好かれるためならなんだってできるよ。 そんなBLゲーム世界で生きる僕のお話。

処理中です...