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番外編 重ねる日々
イェオリの引っ越し
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「大荷物だな」
かたわらにスーツケースを置いていたからだろう。そう声をかけられて、イェオリは記入していた書類から顔を上げた。
「おはようございます」
「おはよう」
軽く片手を上げたのはバッシュだった。彼は王太子の侍従だから、上級職員が住む宿舎のエントランスで顔を合わせても不思議ではない。
「引っ越しだそうだよ。まだこっちに来て二ヶ月くらいなのに」
イェオリが立っていた窓口から、管理人のカーソンが顔を出していう。六十代の彼は元王宮職員の天下り──いや、退官後の再任用だ。とうぜん、王宮内の事情には通じていて現役職員との繋がりも深い。だからといって、個人的な事情を吹聴されては困るのだが。
バッシュは「あぁ」と得心した声を出す。
「そうか。あっちに住み込みになるのか」
「はい。短いあいだでしたが、お世話になりました」
侍従を兼ねて『ヘインズ公爵』の付き人をしていた二ヶ月弱のあいだ、一般職員宿舎よりハウスに近いという理由で使わせてもらっていた部屋の鍵を、退出のサインを入れた書類とともにカーソンに渡す。
「荷物はそれだけか?」
ゴロゴロとスーツケースを転がしながらエントランスを出たイェオリに、これから出勤なのか横を歩きながらバッシュが尋ねた。
「これは、こちらの宿舎に持って来ていた日用品です。一度、一般宿舎に戻って荷造りをして、夕方にはカルバートンへ移る予定です」
「一日で片付くのか?」
「ロダスが車を借りて、手伝いに来てくれるんですよ。家具は備え付けなので大きな物の搬出もありませんし、荷物といっても衣類や書籍が少しあるくらいなので」
あちらの部屋の狭さはご存じでしょう? と問えば、バッシュは渋い顔をする。
上級職員の宿舎は、寝室のほかに小ぶりながらシッテイングルームがあり、収納スペースもそれなりに確保されている。しかし一般職員用の宿舎はワンルームで、収納もあまりなかった。共用の食堂やラウンジがあるから、さほど不満はなかったけれど、やはり短期間でも広い部屋に滞在するとその差は歴然だ。
カーソンがいった通り、こちらの宿舎には二ヶ月ほどしかいなかったので物を増やす暇もなく、イェオリの私物は狭い部屋に収まるだけしかない。引っ越しの手間を考えれば、その狭さも利点かもしれなかった。
◇◇◇
夕方にはカルバートンへ、といっていた予定は、思いがけない形で狂わされた。
一般職員用の宿舎前で待ち合わせをしたロダスを部屋へ招き、彼が持参してくれた折り畳みのコンテナを組み立てていると、同僚がふらりと現れたのだ。
バッシュから連絡を受けたという、同じく王太子付き侍従のフレッドは、恐縮するイェオリに「いーのいーの、オフだから」といいながら、Tシャツにハーフパンツという非常にラフな格好で狭いワンルームに上がり込み、さすがの手際でクローゼットの衣類を梱包していった。
日々、国内外を飛び回るロイヤルファミリーのお世話をしているだけあり、荷物の整理、梱包は侍従の得意技だ。経験豊富な先輩がふたりもいたおかげで、昼前には荷造りが終了した。
洗面用具などの日用品はすでにスーツケースへ収められているので、イェオリが自分でコンテナに詰めたのは、大学の卒業証明書や保険の契約書といった重要な書類、日本に残してある銀行口座の通帳と──シルヴァーナに来てから一度も使っていない──印鑑。その他のこまごました貴重品くらいだった。
さらにフレッドは、三階にあるイェオリの部屋からエントランスまで、コンテナを運ぶのも快く引き受けてくれた。彼を送り込んできたバッシュには呆れてしまったけれど、ほんの数往復ですべての荷物が運び出されたあとでは、その世話焼き癖に、素直に感謝した。
「暇つぶしだったからいらない」「そうおっしゃらずに」という、少しの問答を経てランチ代を受け取ったフレッドに見送られ、改めての礼はなにがいいかと考えながら、新しい職場兼住居に到着する。
するとこんどは、スタッフ用の通用口でベイカーが台車を用意して待っていてくれた。筆頭侍従自らの出迎えとはVIP待遇だ。
ロダスとはここで別れ、コンテナとスーツケースを積んだ台車を押しつつベイカーについて行く。九と四分の三番線を探す魔法使いになった気分だ。
「侍従の共有フォルダにも図面がありますが、現在カルバートンで日常的に使用しているのは、スタッフの私室も含め屋敷の四割ほどです。早いうちに、屋敷の構造と敷地の全体像を確認しておくのがよいでしょう」
つまり、あすにでもということだ。
王宮よりはコンパクトといえる屋敷なので、数日あればだいたいの場所は覚えられるだろう。
凝った装飾や壁紙などがあふれる「表」とは違い、スタッフの私室などがある「裏」の通路は、高校の校舎を思い出させる。グレーにくすんだモルタルの壁と、白い傷が重なりすり減った木目の床が屋敷の歴史を物語る廊下をなんどか折れた先に、イェオリの部屋があった。
侍従の事務所が側にあり、さらにその向こうには階段室がある。エリオットの私室に行くには一番近いそうなので、必然的にイェオリの使用頻度も高くなるだろう。
飾り気のないウォルナットに丸い真鍮のノブがついた扉を開けると、十畳ほどの広さの部屋だった。入って左手に、クローゼットと天井まで届く作り付けの収納棚があり、壁紙は花柄をモチーフにしたミントグリーンの幾何学模様。先に中へ入ったベイカーがカーテンを開けると、艶のある飴色の床板に日光が反射した。日当たりも良好。
ベッドや机などの調度はどれも新しく、学生のときに住んでいたシェアハウスよりずっと上等なものだった。
古い屋敷なので、いかにもな屋根裏部屋に案内されても驚かないぞと思っていただけに、想像に反して居心地のよさそうな部屋を、イェオリはすぐ気に入った。
「食事は厨房でいただきますので、キッチンはありません。浴室も別で少々不便かもしれませんが」
「十分です」
「家具は一通りそろっていると思います。必要なものがあれば申し出てください。ものによっては、我々から譲れるものがあるかもしれません」
いいながら、ベイカーは腕時計に目を落とした。
「申し訳ありませんが、これからひとつ会議がありますので、それが終わったら荷解きの手伝いに来ます」
「いえ、あとはひとりで大丈夫です。お気持ちだけで」
荷造りと違って、部屋に運び込んでさえしまえば、あとは何日かけてもいいような作業だ。わざわざベイカーの手を煩わせるようなことではない。
ベイカーの視線が、文字盤から慌てて首を振るイェオリに移る。
「失礼、嬉しくてついお節介を」
「嬉しい、ですか」
「えぇ。慣れた仕事と宿舎を離れることは、とても勇気のいる決断でしょう。それでもわたしたちとともに働くことを選んでくれた。あなたが思う以上に、わたしは喜んでいますよ」
ロダスもフランツもね。
柔和な目じりのしわを見つめて、イェオリは台車の取っ手を握った手に力を入れた。両肩にどっと重い疲れがのしかかってきて、あぁ、緊張していたのかといまさら自覚する。
十代で海も大陸も越えて来たのに。車でたった数十分の距離が、そのとき以上の覚悟を必要としたのだ。間違いなく、自分の人生の岐路だと思ったから。しかし。自分で決めたことには違いなくても、だからといって何もかも自分の力だけでなんとかしなくてはならないわけでもない。
「……すみません、少し意地を張ったかもしれません」
お世話になります、と頭を下げたイェオリに、ベイカーは好々爺然と頷いた。
「ようこそ、カルバートンへ」
かたわらにスーツケースを置いていたからだろう。そう声をかけられて、イェオリは記入していた書類から顔を上げた。
「おはようございます」
「おはよう」
軽く片手を上げたのはバッシュだった。彼は王太子の侍従だから、上級職員が住む宿舎のエントランスで顔を合わせても不思議ではない。
「引っ越しだそうだよ。まだこっちに来て二ヶ月くらいなのに」
イェオリが立っていた窓口から、管理人のカーソンが顔を出していう。六十代の彼は元王宮職員の天下り──いや、退官後の再任用だ。とうぜん、王宮内の事情には通じていて現役職員との繋がりも深い。だからといって、個人的な事情を吹聴されては困るのだが。
バッシュは「あぁ」と得心した声を出す。
「そうか。あっちに住み込みになるのか」
「はい。短いあいだでしたが、お世話になりました」
侍従を兼ねて『ヘインズ公爵』の付き人をしていた二ヶ月弱のあいだ、一般職員宿舎よりハウスに近いという理由で使わせてもらっていた部屋の鍵を、退出のサインを入れた書類とともにカーソンに渡す。
「荷物はそれだけか?」
ゴロゴロとスーツケースを転がしながらエントランスを出たイェオリに、これから出勤なのか横を歩きながらバッシュが尋ねた。
「これは、こちらの宿舎に持って来ていた日用品です。一度、一般宿舎に戻って荷造りをして、夕方にはカルバートンへ移る予定です」
「一日で片付くのか?」
「ロダスが車を借りて、手伝いに来てくれるんですよ。家具は備え付けなので大きな物の搬出もありませんし、荷物といっても衣類や書籍が少しあるくらいなので」
あちらの部屋の狭さはご存じでしょう? と問えば、バッシュは渋い顔をする。
上級職員の宿舎は、寝室のほかに小ぶりながらシッテイングルームがあり、収納スペースもそれなりに確保されている。しかし一般職員用の宿舎はワンルームで、収納もあまりなかった。共用の食堂やラウンジがあるから、さほど不満はなかったけれど、やはり短期間でも広い部屋に滞在するとその差は歴然だ。
カーソンがいった通り、こちらの宿舎には二ヶ月ほどしかいなかったので物を増やす暇もなく、イェオリの私物は狭い部屋に収まるだけしかない。引っ越しの手間を考えれば、その狭さも利点かもしれなかった。
◇◇◇
夕方にはカルバートンへ、といっていた予定は、思いがけない形で狂わされた。
一般職員用の宿舎前で待ち合わせをしたロダスを部屋へ招き、彼が持参してくれた折り畳みのコンテナを組み立てていると、同僚がふらりと現れたのだ。
バッシュから連絡を受けたという、同じく王太子付き侍従のフレッドは、恐縮するイェオリに「いーのいーの、オフだから」といいながら、Tシャツにハーフパンツという非常にラフな格好で狭いワンルームに上がり込み、さすがの手際でクローゼットの衣類を梱包していった。
日々、国内外を飛び回るロイヤルファミリーのお世話をしているだけあり、荷物の整理、梱包は侍従の得意技だ。経験豊富な先輩がふたりもいたおかげで、昼前には荷造りが終了した。
洗面用具などの日用品はすでにスーツケースへ収められているので、イェオリが自分でコンテナに詰めたのは、大学の卒業証明書や保険の契約書といった重要な書類、日本に残してある銀行口座の通帳と──シルヴァーナに来てから一度も使っていない──印鑑。その他のこまごました貴重品くらいだった。
さらにフレッドは、三階にあるイェオリの部屋からエントランスまで、コンテナを運ぶのも快く引き受けてくれた。彼を送り込んできたバッシュには呆れてしまったけれど、ほんの数往復ですべての荷物が運び出されたあとでは、その世話焼き癖に、素直に感謝した。
「暇つぶしだったからいらない」「そうおっしゃらずに」という、少しの問答を経てランチ代を受け取ったフレッドに見送られ、改めての礼はなにがいいかと考えながら、新しい職場兼住居に到着する。
するとこんどは、スタッフ用の通用口でベイカーが台車を用意して待っていてくれた。筆頭侍従自らの出迎えとはVIP待遇だ。
ロダスとはここで別れ、コンテナとスーツケースを積んだ台車を押しつつベイカーについて行く。九と四分の三番線を探す魔法使いになった気分だ。
「侍従の共有フォルダにも図面がありますが、現在カルバートンで日常的に使用しているのは、スタッフの私室も含め屋敷の四割ほどです。早いうちに、屋敷の構造と敷地の全体像を確認しておくのがよいでしょう」
つまり、あすにでもということだ。
王宮よりはコンパクトといえる屋敷なので、数日あればだいたいの場所は覚えられるだろう。
凝った装飾や壁紙などがあふれる「表」とは違い、スタッフの私室などがある「裏」の通路は、高校の校舎を思い出させる。グレーにくすんだモルタルの壁と、白い傷が重なりすり減った木目の床が屋敷の歴史を物語る廊下をなんどか折れた先に、イェオリの部屋があった。
侍従の事務所が側にあり、さらにその向こうには階段室がある。エリオットの私室に行くには一番近いそうなので、必然的にイェオリの使用頻度も高くなるだろう。
飾り気のないウォルナットに丸い真鍮のノブがついた扉を開けると、十畳ほどの広さの部屋だった。入って左手に、クローゼットと天井まで届く作り付けの収納棚があり、壁紙は花柄をモチーフにしたミントグリーンの幾何学模様。先に中へ入ったベイカーがカーテンを開けると、艶のある飴色の床板に日光が反射した。日当たりも良好。
ベッドや机などの調度はどれも新しく、学生のときに住んでいたシェアハウスよりずっと上等なものだった。
古い屋敷なので、いかにもな屋根裏部屋に案内されても驚かないぞと思っていただけに、想像に反して居心地のよさそうな部屋を、イェオリはすぐ気に入った。
「食事は厨房でいただきますので、キッチンはありません。浴室も別で少々不便かもしれませんが」
「十分です」
「家具は一通りそろっていると思います。必要なものがあれば申し出てください。ものによっては、我々から譲れるものがあるかもしれません」
いいながら、ベイカーは腕時計に目を落とした。
「申し訳ありませんが、これからひとつ会議がありますので、それが終わったら荷解きの手伝いに来ます」
「いえ、あとはひとりで大丈夫です。お気持ちだけで」
荷造りと違って、部屋に運び込んでさえしまえば、あとは何日かけてもいいような作業だ。わざわざベイカーの手を煩わせるようなことではない。
ベイカーの視線が、文字盤から慌てて首を振るイェオリに移る。
「失礼、嬉しくてついお節介を」
「嬉しい、ですか」
「えぇ。慣れた仕事と宿舎を離れることは、とても勇気のいる決断でしょう。それでもわたしたちとともに働くことを選んでくれた。あなたが思う以上に、わたしは喜んでいますよ」
ロダスもフランツもね。
柔和な目じりのしわを見つめて、イェオリは台車の取っ手を握った手に力を入れた。両肩にどっと重い疲れがのしかかってきて、あぁ、緊張していたのかといまさら自覚する。
十代で海も大陸も越えて来たのに。車でたった数十分の距離が、そのとき以上の覚悟を必要としたのだ。間違いなく、自分の人生の岐路だと思ったから。しかし。自分で決めたことには違いなくても、だからといって何もかも自分の力だけでなんとかしなくてはならないわけでもない。
「……すみません、少し意地を張ったかもしれません」
お世話になります、と頭を下げたイェオリに、ベイカーは好々爺然と頷いた。
「ようこそ、カルバートンへ」
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