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番外編 重ねる日々

風邪っぴき

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バッシュが知らないエリオットのこと。

※睡眠障害、摂食障害に類する表現があります。







◇◇◇





『オレンジたべたい』

 誤爆か?

 午後の休憩時間。スマホに表示された一文を見て、バッシュはまずそう思った。

 メッセージの差出人はE。エリオットだ。このチャットは複数人のグループではないから、送り先自体を間違えていると考えられる。

 いまでこそスマホもタブレットも頻繁に使うエリオットだが、引きこもっていた数ヶ月前は自分が使うとき以外は電源すら入っていなかった。
 だから、唐突な内容について考えるより先に、操作ミスを疑ったのだ。

 受信は一時間前で、それ以上の追加メッセージはなし。

 周囲に人がいないのを確認してエリオットの番号を呼び出したが、コール音が繰り返されるばかりで繋がる気配はなかった。
 これは返信しても、いつ読まれるか分かったものではない。
 バッシュは指先で別の番号をタップした。

『──ベイカーです』
「バッシュです。殿下は?」
『いまはお休みになっておいでです』
「休んでる?」
『朝から熱が高くていらっしゃいまして』
「医者は?」
『ヘインズ家へご相談申し上げたところ、あちらでの主治医をご紹介くださいました。殿下も慣れていらっしゃるご様子で、まずはオンラインで診察を』

 バッシュは見えない相手に頷いた。人に触れるのを怖がるエリオットを、押さえつけて診察させなくていい安堵──必要ならバッシュは迷わずそうする──と、主治医を確保する必要性に、いまのいままで気づかなかったうかつさへの反省だ。おそらく、ベイカーも同じ思いだろう。

「それで、診断は」
『医師の見立てでは、上気道感染とのことです』
「上気道感染?」
『いわゆる風邪でございます』
「風邪か……」

 ここ数ヶ月、気を張っていたから、その疲れが出たのだろう。

「メッセージが来てました。オレンジが食べたいそうなので、出してやってください」
『ほかに、なにかご伝言は』
「特には」
『……おそれながら旦那さま』

 エリオットの要求を伝えると、ベイカーはしばし沈黙したのち、なぜか厳かにバッシュを呼ばわった。

「はい?」
『殿下は、旦那さまにおいでいただきたいのでは?』
「…………」
『ご要望があれば、我々を直接お召しになるでしょう。素直にお気持ちを表現されないお心を拝察いたしますに、オレンジは口実ではないかと』

 バッシュは片手で額を覆った。

 いくら言葉が丁寧だろうと、「お前は朴念仁か」と言われればダメージが大きい。

「……十八時に」
『お待ちしております』


◇◇◇


 厨房から食べごろのオレンジを三つほどもらい受け、終業と同時に職場を後にしたバッシュは、宣言通り十八時すぎにカルバートンの玄関でイェオリの出迎えを受けた。

「ベイカーは?」
「ヘインズの主治医がおいでで、そのご案内をしております」
「わざわざ来たのか」
「文字通り、一番早い便で飛んで来たと」

 ヘインズの屋敷がある地方都市からは、飛行機と電車を乗り継いで四時間弱。ずいぶんフットワークの軽い医者だ。

「リビングでお待ちになりますか?」
「そうする。適当なときに声をかけてくれ」
「承知いたしました」

 バッシュはオレンジを渡してイェオリと別れると、正面の階段をあがる。

 居間の手前で、上階から降りて来る靴音が聞こえた。思わず足を止めたのは、それが明らかに高いヒールが立てる音だったからからだ。

 偶然を装うくらいのずるさは持っている。

 たったいま上がってきました、と言う顔で踊り場に立っていたバッシュは、ベイカーに先導されて現れた靴音の主を見て驚いた。

 医者と言うイメージとは、ずいぶんかけ離れていたから。

 背の高い女性だ。
 アンクルストラップのピンヒールを脱いでも、おそらくイェオリと同じくらい。自信に裏付けされた歩幅は、数々のコレクションをこなしたモデルのようだ。胸元の深く開いた黒いドレープのワンピースは、ともすればバスローブ並みにセクシーになりそうだが、襟足まで刈り込んだショートヘアと切れ味の鋭そうな目じりが、不埒な視線をけん制している。

「……きみは、どこかで見た顔だな」

 屋敷の使用人ではないと気付いたのだろう。茶色の瞳が、突っ立っているバッシュを見て瞬いた。

「王太子殿下の侍従です、ドクター。バッシュ、こちらはドクター・レス」
「初めまして、ドクター」

 ベイカーに紹介され、握手をする。

「パトリシアだ。こんな格好で申し訳ない。ランチデートの途中で電話をもらったものだから。それで、サイラスさまの侍従がここでなにを?」
「個人的に、殿下と友人なので」
「若さまと?」

 若さま?

 聞きなれない呼称に、彼女が正しく「ヘインズの主治医」であることを知る。パトリシアにとっては、ヘインズ家の当主であるエリオットが主体なのだ。

「彼は、殿下がお呼びになったゲストです、ドクター」
「……なるほど、きみが」

 ベイカーが言い添えると、パトリシアはしげしげとバッシュを眺めたあと、口角を吊り上げた。

「では、若さまの『特別な』ご友人くん、これを渡しておいてくれるかな」

 ビジューのついたハンドバッグから取り出されたのは、錠剤が入ったピルケースが二つ。

「風邪薬ですか?」
「それと、若さまの常備薬。風邪のほうは、熱も下がって来ているから、数日おとなしく寝ていれば治る」

 バッシュの手に握られたピルケースの上へ、彼女は名刺を重ねた。

「わたしは心療内科を専門にしている。なにかあれば、連絡するといい。相談に乗るよ」





◇◇◇



 バッシュの誠実さを試すように、エリオットの薬を預けたパトリシアは、「では失礼。いまならまだディナーには間に合う」と、本気か冗談か分からないことを言って帰って行った。

 面会謝絶とは言われなかったので、バッシュはリビングには寄らずにエリオットの私室へ忍び込む。

 いつも通り照明がついたままの寝室を覗けば、部屋の主はくったりとベッドで眠り込んでいた。
 それでも一日寝ていたからか、思ったほど顔色は悪くない。平素より少し浅い呼吸は辛そうだが、ひとまず安心した。

 エリオットの不調を見るのは二度目か──いや、違うな。

 フラットの屋上で、バッシュが彼の地雷を踏み抜いたとき。それから、これも同じく屋上で、箱庭の話をしていたとき。あぁ、それから階段から転がり落ちて気を失ったこともあった。

 ほんと、危なっかしいやつだな。

 おかげで目が離せない。

 そして手の中には、新たに気になることが。

 バッシュはパトリシアから預かったピルケースを、サイドチェストに並べて置いた。
 右はよく知っている総合風邪薬だ。CM放映もしているし、薬局にも並んでいる。問題は左の錠剤。
 いまの時代、検索バーに名前を入力しさえすれば、素人でもそれがどんな薬か、使用方法から効果、副作用まで調べられる。しかしそうしろと叫ぶ好奇心を無視するすべを、バッシュは身につけていた。でなければ、国家の中枢であらゆることを見聞きする、この仕事は務まらないからだ。

 が、気にならないと言えば、当然それは嘘になる。

 常備薬、とパトリシアは言っていた。ただエリオットの世話を焼いていた一ヵ月ほどの間、フラットで薬の類を見たことはない。もちろん、バッシュも必要のない引き出し──ベッド脇のチェストとか──は開けていないし、彼がひとりのときを選んで服用していたのなら別だが。

 円柱形のプラスチックケースを見つめていると、エリオットが軽い咳をした。首を回すと、ブルーグリーンに行きあたる。

「……オレンジは?」
「厨房で剥いてもらってる。悪かったな、おれが先で」
「ほんとにな」

 弱っていても、憎まれ口は健在。医師の見立ては信頼できそうだ。

「元気そうでなによりだ」
「状況見て言えよ」
「機嫌は悪そうだな」
「暇なんだよ。ベイカーにタブレット取り上げられて、映画も見られない」
「病人らしく、おとなしくしておけ」

 いつもよりとろりとした瞳が、気だるげにバッシュを見上げる。

「パットは?」
「ドクター・レスのことか? 用事があるからって、いまさっき帰ったぞ」

 バッシュはパイプ椅子を開いて、ベッド脇に腰を下ろした。

「まだ四十手前くらいだな。主治医にしては若くないか?」
「カーシェは小さい街だから」

 頭は多少すっきりしているらしい。エリオットはもぞもぞと寝返りを打って、バッシュのほうへ体を向ける。

「パットの父親は産婦人科、母親は内科。兄ふたりも外科と内科が専門で、精神的な病気を診られるのが、心療内科の専門資格を取ったばかりのパットしかいなかったんだ」
「精神……」
「夜眠れない、食事が食べられない、人が怖くて部屋の外に出られない。そう言うの、病気と診断しない医者は詐欺師だろ。王宮が保管しているカルテにも書いてあるよ。極秘だけど」

 食べられない、と言うキーワードで思い出されたのは、フラットの冷蔵庫に詰まった栄養ゼリーのパウチ。
 美味しいものが好きなわりに、目の前に並べてやらないと実際に食べることへの関心が薄いのは、単なる無精から来るものではなかったのか。

 予期せぬ方向から、横っ面を張られたような気分だった。
 黙り込んだバッシュに、エリオットが同情するように笑う。

「あんたも、『病気療養』は国民向けの建前だと思ってた?」
「……すまん」
「いいよ」

 バッシュがフットマンになったのは、ちょうど第二王子の療養が発表されたころだった。昔から地味で、スタッフの話題にのぼることもほとんどなかったから、「お気の毒に」と言う感想くらいしか抱かなかった。
 こうして近くにいて、引きこもりだったのも、その理由も知っていたのに、そこへ思い当たらなかった己の想像力のなさを突き付けられる。

「引っ張って」

 子どものように差し伸べられた両手を掴んで起こすと、エリオットはそのままぽすっとバッシュの胸の中に納まった。
 受け止めてもらえたこと、受け止めることができたことに、互いがそっと息をつく。

「それは、向精神薬。安定剤って言えば分かる?」

 サイドチェストに並んだオレンジ色のケースを、エリオットが細い顎で指した。

「お前の常備薬だと」
「お守りみたいなもんだよ。じいちゃんがひとり暮らしを許してくれたのも、常用しなくなったからだし」
「使わない薬を、医者が処方するのか?」
「手元にあるだけで、安心することもある、ってパットには言われてる。──引く?」
「…….酒に逃げて、アル中になるよりは健全だな」

 なるべく軽く聞こえるように、そして自分にも言い聞かせる。
 少なくとも、エリオットは自分の状態を理解していて、コントロールできているのだ。薬を手元に置いていても、乱用はしないと言う医者からの信頼があるのが、いい証拠だろう。

 エリオットが乗り越えてきたものを思い、その努力を讃えて、バッシュは薄い肩を叩いた。

「……で、オレンジまだ?」
「どうせ、一房食べて飽きるんだろう」
「一緒に食べればいいだろ。あんたが食べてるの見るの、けっこう好き」

 なるほど、それも「一緒に食べる」のうちに入るのか。
 
 エリオットについて、知らないことはまだありそうな気がしている。それがどんなことでも知って後悔はしないし、楽しみにしてさえいる自分に気づいて、バッシュは苦笑した。
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