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番外編 重ねる日々

料理長の白米体験

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「あの、いいですか?」

 一日の仕事終わり。ステンレスの作業台を磨いていたチャドは、遠慮がちな声に顔を上げる。
 厨房の戸口から覗いていたのは、この夏にふたり増えた宮殿の住人のうち、王子ではないほう──イェオリと言う青年侍従だった。

「どうかしたか?」
「ご相談がありまして」

 頬から顎までひげの生えたチャドとは正反対。すっきりした面の優男は、平均年齢が高いカルバートンのスタッフ内で、いまのところ唯一、王子と同年代だ。まだ侍従としての経験は少ないらしいが、よく王子の食の好みを伝えてくれるから助かっている。

 相談と言うのは、また王子のことだろうか。成人男性にしては食の細い王子のことを、侍従たちはことのほか気にしているのだ。チャドとしては、偏食がないだけでかなりありがたいので、彼らの細かな注文も苦にはならなかった。

「明日の朝食なら、スクランブルエッグと焼きトマト。パンはクロワッサンが仕込んであるぞ」
「では、ピクルスを少し添えてください。暑さで食が進まないようなので。……ではなく」

 チャドの言葉に答えたイェオリは、苦笑して咳払いした。

「厨房に、炊飯器はありませんよね?」
「炊飯器?」

 厨房を見回す。
 きっちり片付けられた厨房のどこにも、彼の言う電化製品は収納されていない。そもそもどんな形のものだったか、と考えるほどだ。

「ないな」
「ですよね……」
「王子からの要望か?」
「いえ。非常に個人的なことなのですが」

 イェオリが視線を落とした足元に、重そうなビニール袋があることにチャドは気付いた。真空パックなとかと思うほどみちみちに白い粒が詰まっていて、かろうじて読める規格で十キロと表示がある。

「米か」
「はい。日本の実家から届いたんですが、炊こうにも炊飯器がなくて」

 わざわざ空輸で送るとは。
 チャドの表情から呆れを読み取ったのか、イェオリがはにかんだ。

「正式に侍従に昇進したことを伝えたら、お祝いにと」
「……そうか」

 ちょっとズレた祝いの品は、チャドにも覚えがある。ここに就職したと連絡をしたら、実家から処理に困るほどのソラマメが届いた。実家が農家で、ちょうど収穫時期だったからだろう。

「炊飯器と言うのは、どういう仕組みなんだ?」

 パエリヤやリゾットなら炊飯器がなくても作れるが、イェオリが求めているのは故郷の味だろう。スタッフのまかないを任せられている身として、チャドはなんとかしてやろうと言う気になっていた。

「ええと、釜に米と水を入れて加熱……だと思うんですが」
「なるほど」

 この若者が料理をしないのはよく分かった。

「まあ、方法はあるだろう」

 チャドは少し待っているよう言いおいて、自室からタブレットを取って来た。

 ヘイ、シリ。仕事だ。

「米、炊飯器、なし……」

 今回に限っては侍従より優秀なアシスタントは、瞬時に何百もの回答を表示する。せっかくなら本場の情報をと、その中から日本語のサイトを選び、イェオリに訳を頼む。

「……」
「なんだ? ここにある道具じゃ足りないか?」

 コックコートを肘まで折り返した腕を組んで、作業台にもたれていたチャドは、画面をスクロールする手を止めたイェオリに尋ねた。

「……いえ、自分の常識と戦っているところです」
「料理をしないやつの常識なんて期待してないから、さっさと読め。道具はなんだ?」
「……フライパンと、大きさのぴったりなフタです。蒸気の漏れないものがふさわしいと」
「それならある。大きさは?」
「三十センチ以下でお願いします」

 チャドは整然と並ぶ鍋の中から、適当な大きさのフライパンと蒸気の吹き出し口がないふたを選び出してコンロに置く。

「米と水の分量」
「一合あたり水を百八十です」
「味付けは?」
「味? 味はつけません。そのままお願いします。そのまま」

 そうなのか。
 分かったから、そんな冒涜だとでも言いたげな目で見るな。

 チャドはカップで米をはかり、フライパンにざっと広げて水を注ぐ。

「あっ」
「今度はなんだ」
「……すみません、無洗米ではないので、研がないといけませんでした」

 彼の実家には、そうとう料理上手な家族がいるに違いない。手料理を食べたことがないと言う悲惨なパターンも頭をよぎったが、昇進祝いに米を送るような相手だ。それは考えづらい。しかし、せめて調理方法を仕込んでから材料を届けてやるべきではないのか。

 それが──なんだ、あれだ。日本人の武士の情けと言うやつだろう。

 チャドはユーチューブで探させた動画の通りに米を研ぎ、水に浸して三十分待ったものを、今度こそフライパンで火にかける。

「チャドさんは、ここに勤めて長いんですか?」

 火をつけてしまえば、あとは時間と火加減を見るだけだ。

 チャドの指示で、残った米を空のペットボトル──保存方法としてネットに書いてあった──に移し替えていたイェオリが、無難な話を振って来る。
 同じ屋敷で働いていると言っても、チャドは裏で彼は表。仕事以外の話は、まだほとんどしたことがなかった。

「十年くらいだな」

 フライパンの全面がぶくぶくと煮立ったタイミングで火を落とし、チャドは答える。


◇◇◇

 いまよりだいぶ若かったチャド・マイヤーが、カルバートン宮殿の求人に応募したのは、報酬がよかったからだ。
 もう少し考えるなら、次点で家が近かった。当時、住んでいた北向きのワンルームから徒歩十分。その道中には食料品店も安い服屋も、一杯ひっかけられる馴染みのバルも、全部が収まっていた。そして、前の職場も。

 金のためとは、王宮の関連施設で働くためには、あまり褒められた志望動機ではない。ただ、少しだけ想像してみてほしい。チャドは十五で田舎から出てきて職業訓練校に通い、中心街ではないとは言え首都にある店に見習いとして就職した。奨学金を返しながら働くこと八年。厨房を仕切っていたシェフが引退し、ようやく自分の時代だと思った矢先、オーナーが投資に失敗してあっさり店が潰れた。
 オーナーが三ヶ月分の給料を未払いのままとんずらし、まだ奨学金も残っている。貯金などはほとんどなく、家賃の支払いが迫っている。再就職先を探すにも、当面の金が必要だった。

 それでも、捨てる神あれば拾う神あり。きょうだけは落ち込んだっていいだろうと、昼間からバルで酒を飲んでくだをまいていたチャドに、店主が川むこうにある宮殿がコックを募集していると教えてくれたのだ。

 店主が見せてくれた王宮のホームページには、たしかに求人が出ており、勤務地はカルバートン宮殿と書かれていた。

『仕事内容 調理アシスタント、まかない、その他雑務。報酬 月給二千ユーロから応相談。応募資格 調理師免許。実務経験五年以上。その他 住み込みで働ける方歓迎』

 いま思えば、カフェの店先に貼り出す求人広告のようなアバウトさだが、チャドは飛びついた。だってアシスタントで二千ユーロだ。しかも住み込み。仮に家賃が引かれるとしても、手取りは十分。行くっきゃない。六杯飲んだテキーラの勢いに押されて、チャドは応募のボタンをクリックした。

 殺到したであろう応募者から、なぜ自分が採用されたのか、面接したベイカーに尋ねたことはない。けれど、雇用契約書より先にサインさせられた守秘義務契約書の分厚さに、チャドはあの冗談みたいな報酬に、口止め料も含まれていたことを知った。

 だって、知らなかったのだ。かねてから体が弱いと言われていた王子が、このカルバートンで静養しているなんてことは。

 ともかく、以来九年。カルバートン宮殿での仕事は、前の店で働いていた期間より長くなった。契約通り、チャドはときおりまとわりついて来る記者たちに、宮殿内のことについて話したことは一度としてない。たとえば──静養中とされている第二王子が、実はここにはいなかった、だとか。


◇◇◇


「お前は、この国へ来てどれくらいだ?」

 水がなくなるまで炊いて火を止め、残りは蒸らしの工程だけだ。
 タイマーを十分でセットしてからチャドが尋ねると、イェオリは一度天井に目をやったあと、刑事もののドラマに出て来る若手俳優のような笑顔を見せた。

 どうしてこう、『表』に出るやつらはキラキラしてるのかね。

「わたしも、ちょうど十年ほどです」
「そうか」
「この国に馴染めないと思ったことはないし、そうでないからこうして働いています。でもなぜか、時々こうして日本の味が恋しくなるんですよね」

 注ぎ口まで米の詰まったペットボトルにふたをして、イェオリがこぼす。

「ひとの体は、生まれたときから食べてきたもので作られてる。お前の基本を作った味と、そう簡単に離れられるものじゃないだろう」
「……チャドさんは、意外と詩人ですね」
「『意外と』は余計だ」

 フライパンや鍋を持ち上げるから腕は太いが、ちゃんと頭のほうも使っている。料理は科学でもあるのだ。

 デジタルのカウントダウンが終わり、タイマーがピピピと鳴く。チャドがフタの取っ手を掴んでウィンクすると、イェオリが身を乗り出した。

 ふわっと立ち昇る湯気とともに、チャドが初めて嗅ぐ匂いが広がった。

「あー、炊き立て白米……」

 イェオリの目が輝く。

 初挑戦のフライパン炊飯はどうやら成功らしい。一つ一つ粒の立った米は湯気と同じくらい真っ白で、テフロンの底一杯につやつやと輝いている。

 具材と一緒に炊くパエリヤやソースを使うリゾットとは違う、手を加えない米だけの状態は、なかなかに新鮮だ。

「こっちの米より、粘りがあるな」
「そうですね。もちもちしているのが特徴です」
「で、これをどう食べるんだ? 味付けは?」
「どうして味をつけようとするんですか! このままですよ」
「このまま?」
「どうしてもと言うなら、ほんの少し塩を振ってください」

 なんだ、まずは素材の味を、と言うわけではなく、本当にこれだけを食べるのか。

 そわそわするイェオリにスプーンを渡してやって、チャドも端から一口分をすくう。やはり、レストランのカレーやスープに付く米より、丸みがあって柔らかそうだ。

「──美味いな」

 驚いた。もっちりしている上に、甘い。食感は手打ちの生パスタに似ているが、あれはソースあってこそだ。これは単独でも十分に成り立つ。
 分析するチャドの横で、イェオリはただ体に染みついた故郷の味に感動していた。

「ご飯のお供がほしいですね」
「なんだそれは」
「白米と一緒に食べると、しばらくそれしか食べられないくらい、おいしい食材です。海苔の佃煮、明太子。やっぱり梅? いや、卵と醤油!」

 夕食にチャドが作った鴨のローストを食べたはずなのに、イェオリは旺盛な食欲で白米を口に運ぶ。放っておいたら二合分くらい食べ尽くしそうだ。

 若干引きつつも、彼が挙げた中で気になる単語に気付いた。

「卵?」
「炊き立てご飯の上に卵を落として、醤油を垂らすんです。わたしは卵黄だけのほうが好みですが、あれは奥が深いですよ」
「生か? それは生卵のことを言ってるのか?」

 日本人の食への挑戦怖すぎるな!

「でもチャドさん、カルボナーラの卵黄も過熱が行き渡っているとは言えませんよね? マヨネーズも生の卵を使いますし。と言うことは、こちらでも生食がすべて駄目というわけではないように思いませんか?」
「思わん。数秒でも火を通すのと、そのまま口に入れるのは明確な差だ」
「どこかに、生食できる卵の生産ラインってないでしょうか。たしか卵で起こる食中毒の原因はサルモネラ菌が多くて、サルモネラ菌のワクチン接種をしているならリスクは低いはずなんです。家畜保健衛生所に照会すれば、そうした養鶏農家も分かりそうなものですよね」
「食のために職権乱用するんじゃない!」

 どれだけ生卵が食べたいんだ、お前は。

 結局、フライパン四分の一ほどの白米をふたりで食べて、残りは冷凍保存することになった。
 イェオリは今夜と冷凍のストックで満足だと言うので、ペットボトルの米はありがたく厨房で使わせてもらうことにした。
 王子がどこか別のとこで暮らしていた十年あまりの間に、フレンチのフルコースもパティシエ並みのデザートも作れるよう勉強してきたが、次は日本食を研究してみるのもいいかもしれない。

 片づけを手伝い、丁寧に礼を言って去って行くイェオリを見送って、チャドは厨房の明かりを消した。
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