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世話焼き侍従と訳あり王子 第九章

3-1 それは愛じゃない(※)

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 次に目が覚めたとき、部屋には誰もいなかった。
 窓から見える空の色からすると、夕方にさしかかるくらいの時間だろうか。
 部屋の外がざわついているから、サイラスたちが出かけるまでにはまだ時間がありそうだが、晩餐会の手伝いに駆り出された侍従たちは、いまごろ王宮でてんてこまいだろう。

 ベッドから這い出して応接間を覗くと、テーブルにマフィンが載った皿とポットが置いてあった。それから着替えも。ローブは脱いだが、まだブランシェールが作ったシャツのままだった。

 着替えはあとにして、エリオットは少し渋いお茶を飲んだ。
 ぼんやりとソファセットの脇に立ったまま、薄いカップを揺らす。

 求められていた役割は果たせた。正直、バッシュがいたのと冠が重かったことくらいしか覚えていないが、少なくともゴシップ誌に書き立てられるような失敗はしていない。けれど達成感があるかと問われれば、よく分からない。

 とにかくほっとしているのは確かだけれど、胸のあたりがざわざわして落ち着かなかった。こう言うときに、人は酒を飲みたくなるのかもしれない。
 サイダーで二日酔いになって以来、バッシュはフラットにアルコールを持ち込まなかったけれど、機会があったらまた一緒に飲みたい。お湯で割った薄いワインとかで。

 役目を果たしたからハイさよなら、じゃないといいな。

 そんな薄情な人間ではないか、とつぶやいたところで軽いノックが聞こえた。

 まさか本当にバッシュを寄越したのかと思ったが、扉を開けるとそこにいたのはヘクターだった。

「起きていたか」
「ヘクター卿。まだ王宮へ行かなくていいんですか?」
「あぁ、予定が押しているようでね。君のようすを見に来たんだ」

 苦笑して、エリオットは大きく扉を開ける。

「時間を持て余してる、の間違いじゃないんですか?」
「そうとも言うかな」

 ヘクターが肩をすくめた。
 にわかに、玄関ホールが騒がしくなった。メイドたちの声がするから、ミシェルが戻ったのだろう。

 たしかウェディングドレスのまま王宮でテレビや雑誌向けのインタビューがあって、いったんハウスに戻ってから晩餐会用のお色直しだったはず。サイラスに比べて、やはり花嫁は忙しい。

 首を伸ばすと、ホールを突っ切って行くワンピース姿のミシェルが見えた。ドレスは王宮で脱いできたらしいけれど、髪はセットされたままだった。彼女は覗いているエリオットに気付いたのかこちらへ来ようとしたが、一緒にヘクターを見つけて足を止める。

 ほんとに苦手なんだな。

 エリオットが手を振ると、時間もないのか軽くうなずいてそのまま階段を上がって行った。

「忙しそうですね」
「主役だからな」

 避けられているのを気付いていないのか、それとも気にしていないのか。ヘクターはエリオットを部屋の中へ促した。

「しかし思い出すよ。まるで天使のようだった」
「デザイナーが、ステンドグラスの天使をイメージした衣装なんです。中身とのギャップがつらいところですが」

 まだ会っていない両親も、これから顔を出さなければならなくなる社交界でも、みんなが挨拶代わりにこの話題を持ちかけて来るに違いない。
 どうしたものかと思いながら、ヘクター用のカップに魔法瓶からお茶を注いでいたエリオットの耳に、かちりと鍵の回る音がやけに大きく聞こえた。

「いや、十年前のきみのことだ」

 扉の前に立っていたヘクターが、エリオットを見下ろしてゆったり笑う。

「サイラスの、立太子の儀の衣装合わせのときだった。小さなきみがカーテンの影から、じっとこちらを見ていた。天使が迷い込んできたのかと思ったよ」
「それは……どうも」
「残念ながら、きみはサイラスばかり熱心に見ていて、わたしのことは気付かなかったようだがね」
「あの、ヘクター卿?」

 思い出話のようでいて、夢の話をするような口調に、エリオットは困惑した。

 舞台の上で悲劇を語る俳優、もしくは夢遊病者。とにかくヘクターの様子は地に足のつかない奇妙さがあった。

「またすぐ会えるかと思っていたのに、あれからきみは姿を隠してしまうし。ようやく姿を見せてくれたと思ったら、こんどは侍従ばかり見つめている」
「待ってください、ヘクター卿」
「ひどいじゃないか。きみの体はわたしが忘れられないと言うのに」
「なにを、言って……」

 どこか焦点の定まらない目が、仄暗く弧を描いた。

「あんなに、愛してやっただろう? リオ」

 ひゅっと喉が鳴る。

 逃げ出そうと震える足を動かすより、ヘクターが手を伸ばすほうが早かった。

 もつれあって床に倒れこむ。長椅子の足にしたたか頭をぶつけて、ぐわんと目が回った。気を失っている場合じゃない、逃げなくてはと思うものの、体が震えて言うことを聞かない。

 腕を掴まれただけで動けなくなったエリオットに、ヘクターが馬乗りになる。だれも侵そうとしなかった肌で感じる他人の重みと熱に、胃液と不快感が迫り上がった。

「はなせっ……」

 闇雲に逃れようともがくと、背けた顔を叩かれる。

「わたしの天使は移り気だな」
「やっ……」

 爬虫類じみたヘクターの手が、ねっとりとエリオットの首を撫でおろす。
 ぞっとした。

 違う。こんなんじゃない。

 殴られてもいいから触れたいと、触れてほしいと思った手は、こんなんじゃない。

「やはりあのとき、わたしのものにしておくべきだったかな? かわいいリオ」

 不気味なほど甘ったるい声に反して、乱暴にシャツの合わせが裂かれる。

 エリオットは叫んだ。

「いやだ、助けて! だれか!」

 アニー!
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