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世話焼き侍従と訳あり王子 第八章
5-1 強制的な幕切れ
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だれかの話し声がした。低く交わされる言葉は小川を流れるせせらぎのような音となって、エリオットの耳を通り過ぎていく。
また少し眠ったかもしれない。目を開けると、白々とした天井のパネルと、ぐるりと周囲を囲むピンクのカーテンが見えた。ベットサイド――と言うには遠いけれど――にはバッシュが座っている。
ひどい様子だった。上着は着ていないし、ありえないことにネクタイも緩んでいた。髪は艶をなくし、幾筋か束になって額に落ちている。引き結んだ口元は硬くこっていて、頬がいびつに赤い。せっかくのハンサムが台無しだ。
「どうしたんだ、その顔」
乾いてしゃがれた声で尋ねると、バッシュが弾かれたように顔を上げた。
「どっかぶつけたのか」
「いえ……殿下に」
「ラスが、殴ったのか?」
エリオットは動きの鈍い瞼で何度も瞬きをした。あのサイラスが、人に手を上げるところなんて想像がつかない。
どっちかと言うと陰湿で回りくどい制裁をしそうなのに。
すっかり兄の印象を更新したエリオットがぼんやり考えていると、バッシュは暗い目で首を振った。
「お怒りも当然です。お側にいながら、弟君をお守りできなかったのですから」
「あぁ……」
エリオットは小さくうめいた。
真夏のリビングに放置したチョコレートみたいだった脳みそが、一瞬で何分か――もしかすると何時間か――前の記憶をエリオットに思い出させた。
「ここ、どこ?」
「フラットに一番近い救急病院です」
「いま何時?」
「十八時すぎになります」
「おれ、午後中ずっと寝てた?」
「はい」
バッシュのよれ具合も納得だ。
そこでようやく体の状態が気になったエリオットは、ゆっくり体を起こした。ひどい怪我をして痛み止めを打たれ、感覚がマヒしている可能性も考えたが、マットレスについた肘に痛みはなく、どこかに包帯や添え木が当てられている様子もなかった。ひとまず目立った外傷はなさそうだ。
上掛けをどけて足首を回すエリオットを、手を出しあぐねて中腰になったバッシュが、もの言いたげに見守っている。左右の膝の曲げ伸ばしまで滞りなく進んだところで、そのバッシュが急に背を伸ばして直立した。
断りもなくカーテンを開け、サイラスが入って来たのだ。
「なんでいるの?」
生成のシャツとジーンズ姿のサイラスは、カーテンに手をかけたままエリオットを見下ろした。
「ようやく起きて言うことがそれか」
「……すみません」
我ながらいまのはひどかった。
しかし、バッシュが殴られたと言ったから、てっきり彼が王宮へ報告に戻ったものと思っていたのだ。これが一般家庭なら、家族が意識不明で病院に搬送されたと聞けば、すぐさま駆けつけても不思議じゃないだろうが、エリオットの家族は救急のベンチに座っていられるような立場ではない。さらには結婚式をあさってに控えた身で、サイラスの自由が利くとは思えなかった。
バッシュが丸椅子を差し出すが、サイラスは断って腕を組んだ。
「お前が担ぎ込まれてすぐ、アレクから連絡がきた。顔を出したがなかなか起きないから、一度ハウスに戻って、父さんたちに知らせてきたところだ」
『お前』ね。小芝居は終わりか。まぁ、そうだろうな。
侍従の顔をしたバッシュと、他人のふりをやめたサイラス。本来、これが正しい距離なのだ。
「医師の所見を聞いたが、レントゲンもCTも異常はないそうだ」
お前は毎回、器用に落ちるな。
サイラスが笑えない冗談を言う。けれど、ハウスへ戻ったならあとは侍従に任せてもおかしくないのに、また様子を見に来てくれたのは、やはり心配してくれたからなのか。
「こんなときに、心配かけてごめんなさい」
「こんなときでなくても気を付けろ。お前の身になにかあれば、母さんたちが悲しむ」
それ以上に厄介なことになる、とまでは口に出さなかったが、言われなくても重々分かっている。
「不安があるなら一晩入院してもいいと言われたが、どうする?」
「フラットに帰りたい」
エリオットは即答した。
あちこち打ち身ていどの痛みはあるが、深刻な怪我ではないようだし、病院側も面倒が起こる前に出て行ってほしいと言うのが本音だろう。
「少しでも異変があったら、すぐ診察を受けるか?」
「うん」
「ここを出たら、母さんに電話をしろ」
「分かった」
うなずくと、サイラスは視線を水平に動かして己の侍従を呼んだ。
「アレク」
「はい、殿下」
「不始末の責任を取れ。あす一日は勤務停止。謹慎ついでにエリオットを見張っていろ。異常がなければ、ふたりともあさっての式に出てもらう」
「承知いたしました」
サイラスが出ていくとき、カーテンの隙間から、外に控えていた栗毛の侍従が頭を下げるのが見えた。
また少し眠ったかもしれない。目を開けると、白々とした天井のパネルと、ぐるりと周囲を囲むピンクのカーテンが見えた。ベットサイド――と言うには遠いけれど――にはバッシュが座っている。
ひどい様子だった。上着は着ていないし、ありえないことにネクタイも緩んでいた。髪は艶をなくし、幾筋か束になって額に落ちている。引き結んだ口元は硬くこっていて、頬がいびつに赤い。せっかくのハンサムが台無しだ。
「どうしたんだ、その顔」
乾いてしゃがれた声で尋ねると、バッシュが弾かれたように顔を上げた。
「どっかぶつけたのか」
「いえ……殿下に」
「ラスが、殴ったのか?」
エリオットは動きの鈍い瞼で何度も瞬きをした。あのサイラスが、人に手を上げるところなんて想像がつかない。
どっちかと言うと陰湿で回りくどい制裁をしそうなのに。
すっかり兄の印象を更新したエリオットがぼんやり考えていると、バッシュは暗い目で首を振った。
「お怒りも当然です。お側にいながら、弟君をお守りできなかったのですから」
「あぁ……」
エリオットは小さくうめいた。
真夏のリビングに放置したチョコレートみたいだった脳みそが、一瞬で何分か――もしかすると何時間か――前の記憶をエリオットに思い出させた。
「ここ、どこ?」
「フラットに一番近い救急病院です」
「いま何時?」
「十八時すぎになります」
「おれ、午後中ずっと寝てた?」
「はい」
バッシュのよれ具合も納得だ。
そこでようやく体の状態が気になったエリオットは、ゆっくり体を起こした。ひどい怪我をして痛み止めを打たれ、感覚がマヒしている可能性も考えたが、マットレスについた肘に痛みはなく、どこかに包帯や添え木が当てられている様子もなかった。ひとまず目立った外傷はなさそうだ。
上掛けをどけて足首を回すエリオットを、手を出しあぐねて中腰になったバッシュが、もの言いたげに見守っている。左右の膝の曲げ伸ばしまで滞りなく進んだところで、そのバッシュが急に背を伸ばして直立した。
断りもなくカーテンを開け、サイラスが入って来たのだ。
「なんでいるの?」
生成のシャツとジーンズ姿のサイラスは、カーテンに手をかけたままエリオットを見下ろした。
「ようやく起きて言うことがそれか」
「……すみません」
我ながらいまのはひどかった。
しかし、バッシュが殴られたと言ったから、てっきり彼が王宮へ報告に戻ったものと思っていたのだ。これが一般家庭なら、家族が意識不明で病院に搬送されたと聞けば、すぐさま駆けつけても不思議じゃないだろうが、エリオットの家族は救急のベンチに座っていられるような立場ではない。さらには結婚式をあさってに控えた身で、サイラスの自由が利くとは思えなかった。
バッシュが丸椅子を差し出すが、サイラスは断って腕を組んだ。
「お前が担ぎ込まれてすぐ、アレクから連絡がきた。顔を出したがなかなか起きないから、一度ハウスに戻って、父さんたちに知らせてきたところだ」
『お前』ね。小芝居は終わりか。まぁ、そうだろうな。
侍従の顔をしたバッシュと、他人のふりをやめたサイラス。本来、これが正しい距離なのだ。
「医師の所見を聞いたが、レントゲンもCTも異常はないそうだ」
お前は毎回、器用に落ちるな。
サイラスが笑えない冗談を言う。けれど、ハウスへ戻ったならあとは侍従に任せてもおかしくないのに、また様子を見に来てくれたのは、やはり心配してくれたからなのか。
「こんなときに、心配かけてごめんなさい」
「こんなときでなくても気を付けろ。お前の身になにかあれば、母さんたちが悲しむ」
それ以上に厄介なことになる、とまでは口に出さなかったが、言われなくても重々分かっている。
「不安があるなら一晩入院してもいいと言われたが、どうする?」
「フラットに帰りたい」
エリオットは即答した。
あちこち打ち身ていどの痛みはあるが、深刻な怪我ではないようだし、病院側も面倒が起こる前に出て行ってほしいと言うのが本音だろう。
「少しでも異変があったら、すぐ診察を受けるか?」
「うん」
「ここを出たら、母さんに電話をしろ」
「分かった」
うなずくと、サイラスは視線を水平に動かして己の侍従を呼んだ。
「アレク」
「はい、殿下」
「不始末の責任を取れ。あす一日は勤務停止。謹慎ついでにエリオットを見張っていろ。異常がなければ、ふたりともあさっての式に出てもらう」
「承知いたしました」
サイラスが出ていくとき、カーテンの隙間から、外に控えていた栗毛の侍従が頭を下げるのが見えた。
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