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世話焼き侍従と訳あり王子 第六章
4-2 社会見学
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お茶菓子付きの読書会には、一時間ほど参加した。
談話室に集まったのは、全員が七十歳以上の紳士淑女たち。マーガレットからは、挨拶に来た彼らに「義弟の跡を継いだヘインズ公爵です」とだけ紹介された。「マイルズはお元気?」とか「公爵はわしの孫と同年代ですかな」とか深く掘ろうとする問いには、すべて大伯母の言いつけ通り、外交用の笑顔で行儀よくほほ笑んでいた。
おかげで、参加者たちは早々にエリオットを、マーガレットが自分たちに「見せびらかす」ために連れて来た置物として認識し、以降は彼らだけでささやきを交わすのみで、声をかけられることはなかった。
ただやはり、叙爵からいままで社交界に顔を出さなかったヘインズ公爵を、初めて目にするのが自分たちであると言う静かな興奮は隠しきれず、エリオットがマーガレットから与えられたサン=テグジュペリを繰っているあいだにも、部屋中から物言いたげな視線を感じた。彼らがせっかく持参した本も、きょうは用をなさないに違いない。
「ヘインズさま、お時間です」
適当なところで切り上げるように頼んでおいたイェオリから声を掛けられ、エリオットは読んでいた章の終わりまで目を通してから本を閉じた。
「ピッツ女伯爵、この本をお借りしてもよろしいですか? ようやく王子が地球へ行くそうなので」
「えぇ、もちろんです」
「またいずれ、お返しに上がります」
「お待ちしていますわ」
二人の会話を耳を大きくして聞いていた参加者たちの気配を振り払うように、エリオットは文庫本を手に立ち上がる。
「では、そろそろ。本日はお招きありがとうございます、ピッツ女伯爵」
「年寄りの道楽にお付き合いいただき感謝します、ヘインズ公爵」
最後は互いの身分にのっとって挨拶し、エリオットは早足で談話室から撤退する。イェオリが扉を閉める直前、「さぁ、みなさん本の感想をお話ししましょうか」とマーガレットが言うのが聞こえたが、おそらくこの後は質問攻めだろう。あの杖で参加者たちをしばき回らなければいいが。
「お疲れさまでした。本をお預かりします」
午後の陽が差し込む明るい廊下を見回し、一抱えもある花瓶が鎮座する飾り棚に文庫本を置いた。エリオットが十分に離れてから、イェオリはそれを回収する。
「あとで適当な付せんでもつけといて」
「かしこまりました。地理学者の次の章でよろしいでしょうか」
「そう。読んだことあるのか?」
「日本語にも訳されておりますから、子どものころに」
「ふーん。もしかして、世界レベルで基礎教養だったりする?」
「有名ではありますが、わたくしの周囲に読んでいる子どもはおりませんでした。課題図書でもなければ、大人になって読む方のほうが多い印象の本かと」
それなりに読書も勉強もしてきたエリオットだが、家庭教師から課題に出されたことはなかった。
「じゃあ別に、童心にかえってってことで選んだわけじゃないのか」
本を開いたとき、えらく平たい文体で書かれているから、老人の朗読会で児童文学? とチョイスに疑問があったのだ。読んでみたら意外と面白かったから借りて来たが、大人でも楽しめる本と知って少し安心する。
長い廊下の端。階段の手前で、エリオットは金のドアノブがついた二つの扉のうち、片方を指さした。
「トイレ行ってくる。ちょっと待ってて」
「はい」
いくら侍従でも、さすがにトイレの中にまでは随行しない。これが王宮外の公衆トイレだったら別だろうが、スタッフが毎日チェックを怠らない施設で危険物が出てくるはずもないから、イェオリは廊下に残った。
三つ並んだ洗面台で、これまた金の蛇口をひねり、エリオットは顔を洗う。
あー、肩こった。
胃の痛みはぶり返さなかったけれど、笑顔を作りすぎて頬が悲鳴を上げている。毎日鍛えていると、表情筋が発達して自然と唇の端がほほ笑みの形に固定されるのは、家族が実証済みだから知っている。自分はきょろきょろ周囲の足元を追っていたから、目ばかり大きくなってしまった。これから表情筋を鍛えるなんて、無謀もいいところだ。
談話室に集まったのは、全員が七十歳以上の紳士淑女たち。マーガレットからは、挨拶に来た彼らに「義弟の跡を継いだヘインズ公爵です」とだけ紹介された。「マイルズはお元気?」とか「公爵はわしの孫と同年代ですかな」とか深く掘ろうとする問いには、すべて大伯母の言いつけ通り、外交用の笑顔で行儀よくほほ笑んでいた。
おかげで、参加者たちは早々にエリオットを、マーガレットが自分たちに「見せびらかす」ために連れて来た置物として認識し、以降は彼らだけでささやきを交わすのみで、声をかけられることはなかった。
ただやはり、叙爵からいままで社交界に顔を出さなかったヘインズ公爵を、初めて目にするのが自分たちであると言う静かな興奮は隠しきれず、エリオットがマーガレットから与えられたサン=テグジュペリを繰っているあいだにも、部屋中から物言いたげな視線を感じた。彼らがせっかく持参した本も、きょうは用をなさないに違いない。
「ヘインズさま、お時間です」
適当なところで切り上げるように頼んでおいたイェオリから声を掛けられ、エリオットは読んでいた章の終わりまで目を通してから本を閉じた。
「ピッツ女伯爵、この本をお借りしてもよろしいですか? ようやく王子が地球へ行くそうなので」
「えぇ、もちろんです」
「またいずれ、お返しに上がります」
「お待ちしていますわ」
二人の会話を耳を大きくして聞いていた参加者たちの気配を振り払うように、エリオットは文庫本を手に立ち上がる。
「では、そろそろ。本日はお招きありがとうございます、ピッツ女伯爵」
「年寄りの道楽にお付き合いいただき感謝します、ヘインズ公爵」
最後は互いの身分にのっとって挨拶し、エリオットは早足で談話室から撤退する。イェオリが扉を閉める直前、「さぁ、みなさん本の感想をお話ししましょうか」とマーガレットが言うのが聞こえたが、おそらくこの後は質問攻めだろう。あの杖で参加者たちをしばき回らなければいいが。
「お疲れさまでした。本をお預かりします」
午後の陽が差し込む明るい廊下を見回し、一抱えもある花瓶が鎮座する飾り棚に文庫本を置いた。エリオットが十分に離れてから、イェオリはそれを回収する。
「あとで適当な付せんでもつけといて」
「かしこまりました。地理学者の次の章でよろしいでしょうか」
「そう。読んだことあるのか?」
「日本語にも訳されておりますから、子どものころに」
「ふーん。もしかして、世界レベルで基礎教養だったりする?」
「有名ではありますが、わたくしの周囲に読んでいる子どもはおりませんでした。課題図書でもなければ、大人になって読む方のほうが多い印象の本かと」
それなりに読書も勉強もしてきたエリオットだが、家庭教師から課題に出されたことはなかった。
「じゃあ別に、童心にかえってってことで選んだわけじゃないのか」
本を開いたとき、えらく平たい文体で書かれているから、老人の朗読会で児童文学? とチョイスに疑問があったのだ。読んでみたら意外と面白かったから借りて来たが、大人でも楽しめる本と知って少し安心する。
長い廊下の端。階段の手前で、エリオットは金のドアノブがついた二つの扉のうち、片方を指さした。
「トイレ行ってくる。ちょっと待ってて」
「はい」
いくら侍従でも、さすがにトイレの中にまでは随行しない。これが王宮外の公衆トイレだったら別だろうが、スタッフが毎日チェックを怠らない施設で危険物が出てくるはずもないから、イェオリは廊下に残った。
三つ並んだ洗面台で、これまた金の蛇口をひねり、エリオットは顔を洗う。
あー、肩こった。
胃の痛みはぶり返さなかったけれど、笑顔を作りすぎて頬が悲鳴を上げている。毎日鍛えていると、表情筋が発達して自然と唇の端がほほ笑みの形に固定されるのは、家族が実証済みだから知っている。自分はきょろきょろ周囲の足元を追っていたから、目ばかり大きくなってしまった。これから表情筋を鍛えるなんて、無謀もいいところだ。
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