1LDKの糸と猫

真木もぐ

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4.Looking back

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 くもりや雨の多い季節にしては珍しく、明るい光が窓から射し込んでいた。白い出窓に伸びる猫の、気持ちよさそうな寝姿がほほえましい。

 借り物のスウェットで、知人でもないひとの家でくつろいでいるおかしな状況について考えるには、ちょうどいい落ち着いた午後。

 オリヴァーにとって、この週末は人生最悪のものだった。

 片思いが実ることなく終わったのだ。それが世界のどこかで起きている飢餓や紛争や自然災害に比べれば、どれほどちっぽけなことかということくらいは分かっている。しかしオリヴァーは、この恋に人生の半分を費やしてきた。二十年の半分だ。

 あいつの笑った頬にできる、キュートなえくぼに初めて甘酸っぱさを抱いてから、ずっとオリヴァーの恋は隣にあった。家が近所で学校も同じ。試験勉強はどちらかの部屋でやったし、クラブチーム──フェンシングをやっていた──の練習もいつだって一緒に通った。義務教育が終わって進路が分かれてからも、遊びに誘うのは決まってお互いだった。頭がよくて正義感が強く、だれからも声をかけられる彼の親友であることが誇らしかった。

 だった。だった。

 すべては過去形だ。

 親友なんて言葉で満足していた、自分の臆病さが招いた当然の結末。

 土曜の夜。オリヴァーの恋は、オリヴァーがいままで見たことがない笑顔でその心を粉々にした。そんな幸せそうに笑うなんて知らなかった。一度だって、自分にはその顔を見せたことがないのに。

 眠れないまま一夜を過ごし、普段と変わらない朝が来て、オリヴァーはなにも考えられないまま家を出た。どこへ行こうという目的はなかったけれど、近所はどこも子どものころからの思い出だらけで、カフェやファーストフードにも入れなかった。

 歩いて歩いて、いつのまにか町の反対側まで来て、人通りの増えてきた大通りをただ眺めていた。雨が降ってきたときには、ついには天からも見放されたとみじめな気分になった。雨宿りに逃げ込んだフラットの冷たくて硬い石の通路に座り込んで、どこかのパブで浴びるように酒を飲み、一夜だけ慰めてくれる相手を探そうかなんてことまで考えたほどだ。

 ジリアンには否定したが、たしかに迷子のようだった。

 オリヴァーはソファの背もたれに頬杖をつき、捨て犬でも拾うように自分を家へ招いた青年を盗み見る。彼はところどころニスの剥げたロッキングチェアに座り、手元で細かく針を動かしている。

「それ、なに縫ってんの?」
「ベールを作ってるんだ」
「……結婚式の?」
「いや、これは帽子に飾る部分的なものだよ」

 ジリアンが、わざわざピンクのひらひらしたベールを広げて見せてくれる。

「あぁ、ガーデンパーティーとかで女の人が被ってるやつ」

 欧州の君主制国家の多くがそうであるように、シルヴァーナ王宮では毎年、国王エドゥアルド二世が主催するガーデンパーティーが行われる。参加する招待客──とりわけ女性たちは、色見本のようなドレスやスーツに合わせ、どうやって頭にくっつけているのか不思議になる帽子を披露している。彼が作っているのは、その前衛的な芸術作品の一部らしかった。

 ドレスを製作するテーラーからのオーダー品だというベールは、下地となるチュールの細かな目に手作業で花やリボンの柄を刺繍するんだとか。信じられない根気強さだ。

「ああいうのは、機械で作るんだと思ってた。やっぱり細かいやつって、手作業じゃないと作れないもんなの?」
「いいや。機械生産も、いまは質のいいものがたくさんある。手作業は作り手の技量に左右されるしね。わざわざ時間とお金をかけてオーダーしてくれるひとは貴重だ」
「だから頭に乗っかるエイリアンみたいな帽子のパーツでも、注文通りに作るんだ?」
「できがよければ、次はエイリアンの本体を作らせてもらえるかもしれないからな」

 彼は飼い猫と同じグレーの瞳で笑った。

 ジリアン・エイミスは、不思議なひとだった。

 ふわふわとした癖毛に、小さめの鼻と口はなんとなく幼い感じがするのに、話し方や振る舞いはずっと大人っぽい。子どもたちにものを教える先生だというのも納得だ。初対面のオリヴァーに対しても常に自然体で、威圧されたり頼まれたわけじゃないのに、気付くとこちらがジリアンのペースに合わせていた。

 いや、合わせるという意識すらないまま、そうなるというか。

 けさジリアンは、味気ない蒸し鶏と野菜を、いとも簡単にスープにしてしまった。スポーツで世界を目指す時期はとうに過ぎたくせに、未練のように続けていたオリヴァーの習慣を、「こっちのほうがいい」と変えて見せた。

 きのうはろくにものを食べていなかったせいかもしれないが、それがあまりにも温かくおいしそうに見えて、オリヴァーは自分がこだわっていたものをひとつ、なんの決意も必要としないまま手放すことができた。

 彼のようなひとに会ったことがない。手芸家という職業もそうだ。見たこともない道具で、一本の糸から繊細な幾何学模様や鳥の形を描き出す指先は魔法みたいだ。布を滑る針と糸がたてるささやかな音を、オリヴァーは初めて知った。

 午後になると、ジリアンは窓辺のラジオをつけた。真っ赤な古いラジオからは、オリヴァーが六、七歳のころに流行ったらしいナンバーを集めた歌番組が流れている。このフラットには共有のWi-Fiが飛んでいるらしいから、ネットラジオやポッドキャストのほうがよほどクリアで聞きやすい。それでも、ときおり雑音の混じる綺麗すぎない音が好きだとジリアンはいった。

 ラジオだけじゃない。使い込まれたキッチンの鍋も、バネが弱くなって柔らかすぎるソファも、ジリアンのセピア色っぽい雰囲気に馴染んでいる。
 自分の家とは違う洗剤の匂いのするスウェットでソファを占領しながら、そんなジリアンの家に心地よさを感じていることに、オリヴァーは驚いていた。

 田舎の祖父母の家を思い出すからかもしれない。

 クリスマス休暇と夏休みに決まって家族で訪れた地方の古い家は、ここと同じ、ゆったりとした時間が流れていた。覚えのある匂いに包まれて、子どものころみたいに無防備になっている。

 DJが、ラストナンバーをかけた。読み上げた曲名とアーティストの名前はオリヴァーの知らないものだったが、ジリアンは「懐かしいな」とつぶやく。

「おれ、このひと知らない」
「ぼくが中等科のころに流行った歌だ。ギター一本背負って地方から出てきたシンガーソングライターで、この曲がヒットしてその年の新人賞を取った」
「へぇ。そのころ、まだポップスとか興味なかったな」
「シルヴァーナのエド・シーランだとかいって、ずいぶん騒がれたんだぞ」

 自分たちより上の世代なら、だれもが彼の代表作はこの失恋ソングだと答える。

 ジリアンが熱心に語るので、オリヴァーはラジオに耳を傾けた。

 失恋ソング。いまのオリヴァーに、これ以上ぴったりなジャンルの音楽はないだろう。少なくともクラシックやケルトみたいな民族的で高尚なものよりは。

『この夜が明けないでと、震えながら願っている』

 アコースティックギターが奏でるイントロに、淡い男性ボーカルがのる。

 恋に破れた男らしい歌い出しだ。オリヴァーも毛布にくるまって同じことを思った。夜が明けたら、この悪夢が現実であることを突き付けられてしまうから。

『すべてを知りたいと、きみはいう。そこに悲しみがあるとも思わないんだね』

 こんな思いをするなら、あいつのことなんて好きになるんじゃなかった。バカみたいな片思いさえしなければ、オリヴァーは知らないフラットのじめじめした通路にうずくまる羽目にならなくてすんだのに。

 彼の愛が向く先を知ってしまったいま、親友なんて関係に収まっているのはつらすぎた。ましてや──。

「いつだって時は進んでいくけれど」

 はっと息をのんだ。

 電波に分解されていない、クリアな歌声。リズムをとるようにロッキングチェアを揺らしながら、ジリアンがかき鳴らされるギターのメロディに合わせて低く仄かに口ずさんでいた。

「世界はまだ暗くていい。きみとぼくの輪郭も、どうかもう少しだけ不確かなままで」

 行き止まりのような、冷たい通路に灯された部屋の明かり。暗くてもいいと歌うジリアンの声は、あの光のなかで見た淡い輪郭のように優しかった。
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