1LDKの糸と猫

真木もぐ

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1.雨の日

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 ミステリー小説の冒頭には死体を転がす、というのがセオリーらしい。しかし現実の世界でそれを踏襲する必要はないんじゃないか。

 そもそも、ミステリー小説やドラマのキャストになった覚えもない。

 自宅前で思わぬ足止めをくったジルは、ぼんやりそんなことを思った。

 半日の仕事を終えて賄いのサンドイッチをいただき、いろいろと切らしていた食料品を買い込んで雨の中を帰宅してみれば、玄関扉の前に死体が……いや、男がひとりうずくまっていた。

 丸めた肩が上下しているから、生きてはいるようだ。短く刈り込んだ襟足からは白人らしいピンクがかった筋肉質な首筋と耳が見えるが、抱えた膝にうずめるようにした顔までは分からない。

 どうしたものかと考えている間に、傘の先から落ちた雨粒が人工大理石の床を水たまりに変えていく。このまま湖を創造することになれば、通路を共有する向かいの住人から文句をいわれるだろう。仕事道具を入れたショルダーバッグも地味に重いし、十一月の隙間風は結構つらい。

 そろそろ目の前の現実をどうにかするべきか。

 十八世紀に建てられた優美なエントランスには不釣り合いなビビットカラーの宅配ボックスを見て、ここが自分の住むフラットであることを確かめてから、ジルはチェッカーブーツの先で男のスニーカーをつついた。紳士的な接触とはいえないけれど、あいにく右手は傘を握っていて、左手は缶詰やミルクなんかを詰め込んだ帆布のバッグでふさがっている。肩をゆすってやるための手は余っていないのだ。

「おい。ちょっと、きみ」
「──あっ?」

 三度ノックしたところで、ようやく男は肩を揺らし、それから勢いよく顔を上げた。

 晴れた日の空と同じ色の瞳と視線が合った。二十六のジルよりずっと若い。

 絹糸みたいな光沢のあるブロンドが幾筋か落ちた額には、押し付けていたブルゾンのしわが転写されていたが、全体の精悍さを損なうものではない。すっきりした鼻筋と彫りの深い目元は、年を取ったらジル好みの渋みが出そうだ。しかしいまは、やや下がった眉と薄く浮いたくまが悲壮感を演出していて、路地裏に捨てられた犬のように見えた。

「えっと……」
「悪いけど、どいてもらえるか。家に入りたいんだ」

 青年がふさいでいる扉を顎で示すと、彼は慌てたように立ち上がって横にずれる。ずっとここに座っていたのか、膝がぽきぽきと鳴るのが聞こえた。

「すみません、邪魔するつもりは……」
「だろうね」

 ジルは傘を持ったままの手でポケットから鍵を取り出そうとして、濡れた布地がズボンをこするのに舌打ちする。ただでさえ裾がじっとり湿っているのに。まったくひどい雨だった。

「あの……荷物持ちますよ」

 遠慮がちに声をかけてくる青年を見上げる。さきほどまでは見下ろしていたのに、ちゃんと立つと彼のほうがジルより頭半分ほど背が高かった。

「見ず知らずの怪しい男に荷物を預けるほど、ぼくは馬鹿に見えるか?」
「いえそんな! あなたはとても賢そうです……えっと、別に盗もうってつもりじゃなくて。たしかに怪しいですけど、邪魔したお詫びっていうか」

 怪しいのは認めるのか。

 ジルは息を吐くような笑いをこぼした。ズボンを犠牲にしてポケットから鍵を取り出し、円形の穴が並んだそれを鍵穴に差し込む。

「きみ、朝からフラットの前にいただろ」
「あ、はい……すみません」

 いたずらを見つかった子どものように、青年は首をすくめた。

 やっぱり。

 通報する前に声をかけたのは、仕事へ行くときエントランスの外に立っていたのをちらっと見た覚えがあったからだった。ホームレスにしては小ぎれいな格好をしているし、空き巣や強盗なら人目に付く場所に長時間居座ったりしないだろう。ジルの家の前にいたのも、雨に降られてエントランスに逃げ込んだと想像がつく。

「家出か?」
「まぁ、そんな感じで……」
「未成年じゃないだろうな」
「違います」

 追い払われるのを警戒してか、青年の声が少し硬くなった。いい大人が家出か、といいかけて止める。自分だってひとのことはいえない。

 ドアノブをひねってノッカーのついた扉を押し開けると、ジルは明かりをつけた室内へ頭を傾けた。

「入れば」
「え!?」

 空色の目が丸くなる。

「入っていいんですか?」
「半日ここにいるってことは、友人の家にも行きづらいんだろ」
「そうですけど……」
「ほかの住人に見つかって通報されたいか?」

 ぶんぶん首を振った青年は、荷物を抱えて入るジルのために後ろから扉を押さえた。

「名前は?」
「オリヴァー」
「ぼくはジリアン・エイミス。ジルでいい」
「ジル」
「そうだ」

 温かい部屋に迎え入れられると、オリヴァーは素直にジルの後をついてきた。年の離れた弟を思い出す。
 というか、もしかすると同じくらいの年じゃないだろうか。

 よくわからない人間を部屋に入れた自分よりも、誘われてほいほい知らない人間の部屋に入る彼のほうが心配になった。

「座っててくれ。片付けたらなにか飲むものを出すから」

 短い廊下を抜けて、リビングのソファを指す。オリヴァーが指示通り腰を下ろしたのを確認して、ジルはショルダーバッグを床に置いた。買ってきた野菜と肉を冷蔵庫へ入れ、缶詰をコンロ下の収納に積む。

 マグカップをふたつ調理台に出したとき、「みゃあ」という鳴き声とオリヴァーの弾んだ歓声が聞こえた。

 そういえば、同居人の紹介を忘れていた。

「ペットは平気か?」

 対面式のキッチンから首を伸ばすと、毛の長い白とグレーの猫を膝に乗せたオリヴァーが親指を立てる。

「猫大好きです。すごく人懐っこいですね」
「客には愛想がいいんだ。ぼくのことは自動えさやり機としか思ってない」
「さすが猫って感じ。名前は?」
「アントニ。ファブ5の」
「あー。こいつイケメンですもんね」

 褒められているのが分かるのか、アントニはオリヴァーの黒いデニムを毛だらけにしながらのどを鳴らした。

 ジルは客人の接待を猫に任せると、マグカップに蜂蜜と買ってきたばかりのアーモンドミルクを注いで電子レンジにかけた。温まるのを待つあいだにトレンチコートを脱いで、寝室のベッドにかけておく。まだズボンは濡れているけれど、部屋が暖かいから着替えるまでもない。

 できあがったホットアーモンドミルクを持っていくと、オリヴァーはアントニを撫でながら部屋を見まわしていた。

 落ち着かないというより、興味津々といった感じだ。

 リビングの戸口に立って、ジルは見慣れた室内に目をやった。

 壁紙は臙脂、床は飴色の板張りでじゅうたんが敷かれている。いくつか刺繍やパッチワークのタペストリーがかかっていて、どれもが手作りだ。時代遅れの小さなテレビと、木のテーブルにはレース編みのカバー。窓際には多肉植物の鉢がみっつほど並んでいた。

「趣味丸出しだろう」

 ジルがマグカップを差し出す。他人の家をじろじろ見るのは不躾だと分かっているのか、オリヴァーは耳を赤くしてカップを受け取った。

「なんだか、祖母の家を思い出して」
「数年前まで、ぼくの祖母が住んでいた。壁の飾りは祖母が作ったんだ」

 小さいころ、月の半分はここに預けられた。夫──祖父だ──に先立たれた祖母は孫をかわいがってくれたし、ジルも彼女──ロキシーが好きだった。ロキシーの手の中から生まれてくるものたちも。

「ジルは、なにしてるひとですか?」
「手芸作家だな。刺繍、編み物、レースに裁縫。ひと通りやる」
「もしかして、これも作ったとか?」

 テーブルのレース編みを指さすオリヴァーに頷くと、彼はオーパーツでも発見したかのように身を乗り出して、花柄を編み込んだクロッシュレースのカバーを見つめた。

 ジルはロキシーがよく座っていたロッキングチェアに腰かけると、クッションを膝に置いてマグカップをのせた。温かいアーモンドミルクに蜂蜜を入れるのも、ロキシーが教えてくれたうちのひとつだ。

「オリヴァー、いくつか正直に答えてほしい」

 尋問が始まるのを察したのか、甘いミルクをすすったオリヴァーが緊張するのが分かった。力を入れた顎にしわが寄る。

「家出の理由は、犯罪に関わることか?」
「犯罪?」

 オリヴァーの声がひっくり返る。ジルは平静に候補をあげた。

「DV、虐待、薬物やアルコール依存症」
「いや、いやいや! 違う。そういうのじゃないです」
「本当に?」
「はい」

 目を白黒させながらこくこくと何度も頭を振るオリヴァーに、うそをついている様子はない。そもそも、自分が犯罪に巻き込まれることすら考えてもみなかったような顔だ。

 ひとまず安心して、ジルは自分のミルクに口をつけた。さすがに何らかの犯罪被害者を預かるわけにはいかない。そういうのは警察の管轄だ。万が一、そんな事態だったとしたら、ジルは迷わず通報しただろう。

「じゃあ次。雨がやんだら、きみに行き先はある?」
「……」

 オリヴァーの目が力なく下を向く。下唇を噛んで、泣き出しそうに見えた。

「あてがあれば、半日フラットの前に座ってたりしない」

 まあ、それはいえる。

「かもね。でも、すべての可能性を考えてみたか? 友人、祖父母や親せき、本当に誰のことも頼れないのか?」

 今度の沈黙は少し長かった。ジルの言葉の通り、ひとりずつ家を訪ねて玄関をノックできないか考えている。

 やがてオリヴァーは、両手に持ったカップを額に当てるようにしていった。

「……できない。したくない。いまはちょっと……おれを知ってるひとに慰めも励ましも受けたくない」
「そうか。なら仕方ないな」
「仕方ない?」

 またオリヴァーが拍子抜けした顔をする。精悍な造形をしているのに、こういう顔をすると愛嬌があってかわいらしい。

「『いまは』って言葉が出てくるなら、少なくとも投げやりじゃないだろ」

 自分のことを、なにも知らない他人の中にいるほうが楽だという気持ちは理解できる。

 ジルはゆったりと椅子を揺らしながら、少し冷めてちょうどいい温度になったミルクを飲んだ。蜂蜜とアーモンドの柔らかな匂いと、体のまんなかが温まって幸せな気持ちになった。

「えっと、それってもしかして、ここにおいてくれるってこと?」
「うちは1LDKだから、泊まるつもりならきみのベッドはそのソファだけど」
「それは全然いいんだけど……」
「それから、きみを心配しそうなひとには安全なところにいると連絡しておくこと。それが条件だ。捜索願を出されて、警察が突入してくる事態は避けたいからな」

 マグカップで両手を、アントニで両膝を暖めていたオリヴァーは、ようやくかすかに笑った。

「ジルって変わってる」
「類は友を呼ぶって言葉、知ってるか? いいから早く連絡しろ」
「えー、おれも変人ってこと? ……あ」
「どうした?」
「スマホ置いて出てきた……財布も」

 ジルは天井を仰ぐ。

「『変人のジル』と『一文無しのオリヴァー』か。いいコンビだな」
「それと、イケメンのアントニもね」

 みゃあ、と賛同するように猫が鳴いた。
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