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三章 趙成
格子越しの対話(三)
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趙高は優しい兄であった。幼い頃、趙成は年の離れた兄の背中だけを見て生きてきた。勤勉で品行方正な兄は一族の期待を一身に背負っていた。法治主義の秦国にあって、法に明るい兄の出世は間違いなかろうと多くの人に目されていた。あるとき、家を訪れた趙高の上官が趙成に言った。
「君の兄上は、いずれ丞相になる」
丞相がどれほどの地位であるのかなど、当時の趙成は知らなかった。兄ならばなって当然であると思い、趙成はその上官の冗談に「はい。兄上ならば必ず」と返した。兄に窘められ、丞相がとてつもない位であると知った。それでも兄ならば本当にいつの日にかは、と趙成は思った。
法律を学ぶようになって、兄がいかに秀でているのかを思い知った。頻繁に兄を訪い、教えを請うた。兄は件の上官の伝で妻を娶っていて、ちょうど女児が生まれたばかりであった。赤子の泣き声に翻弄される兄は、幸せそうに見えた。実際、幸せであったと思う。趙成は自分も兄のような家庭を築きたいと心底思った。
そこへ父の謀反疑惑が降って湧いたのである。趙成の父と親交のあった人物が謀反を企てているとして捕らえられた。調べが進む中、疑いの目は父にも向き、加担していた者として父も獄に繋がれた。
父をはじめとして、趙成の家族には皆、死罪が言い渡された。幸いにも兄の妻子にまで罪が及ぶことはなかった。兄の子が女児であったことが幸いした。それであるから、兄は宮刑を受け入れた。家族のために、頸を刎ねられる代わりに男としての象徴を失うことを選んだに違いない。兄が生きるのであれば、そう思い趙成も中人になると決めた。兄がいれば、人でなくなっても生きていける。そう思ったのである。死を受け入れるには、趙成はまだ若すぎた。
優しかった兄はもはやいない。いや、趙成に対しては依然優しくある。なにかと気遣ってはくれている。わずかばかりの身内に対してもそうである。しかし今の兄には仁愛がない。切り落とされた身体の一部に詰まっていたでもあるまいに、兄は人を思いやることをしなくなった。
李斯はもう死を受け入れている。殊更に苛まなくとも直に折れる。幾日もしないうちに、李斯は見に覚えのない罪を口にしてしまうであろう。足の腱は切られ、鼻は削がれてしまっている。韓非にはもう充分に償ったはずである。
李斯に頼みがあると言われたとき、趙成はようやく李斯を救ってやれるのだと思った。ところが李斯が望んだのは、小剣でも毒酒でもなかったのである。筆と木簡が欲しいと李斯は言った。
「上奏したい」
趙成は耳を疑った。皇帝に命乞いをしたところで、もはや助かるはずもない。にも関わらず筆と木簡を差し入れてやったのは、仁愛の宿るところを確かめたかったからかもしれない。もっとも李斯にかすかな希望を抱かせることは、却って残酷であるように感じはした。それで李斯が打ちひしがれ自害する気になるのであれば、翻って救いになると趙成は信じた。
「奴らしい、厭味で回りくどい命乞いであるな。己が働きのみによってこの国が作り上げられたと勘違いしておる」
一読して、兄はそう吐き捨てた。
李斯の上奏文である。
右丞相であった霍去疾が自害し、左丞相であった李斯が獄に繋がれて以来、皇帝まで回る文書はすべて兄の目を経ていた。正規の手続きで李斯の上奏文を届けても、兄は間違いなく棄却する。それがわかっていたため、趙成は説き伏せるために兄の邸宅を訪れたのである。
李斯の上奏文には、李斯の罪が書き連ねてある。それは李斯の息子の李由が叛乱軍と通じていたとかそうしたことではなく、李斯がこれまでに成してきたことを李斯は自身の罪であると記していた。
六国の併呑に尽力し、秦王を皇帝にまで押し上げたことに始まり、匈奴や百越など異民族の討伐の遂行を助けたこと、爵位を以て、功臣の業績に報いるよう勧めたこと、社稷を立て、宗廟を築き、秦が中華唯一の国であると明らかにしたこと、文字や度量衡の統一に骨を折ったことから、馳道を整備し、行幸を容易にしたことと続いている。ここまでを読めば、李斯は傲慢にも己の功績をわざわざ罪と称してひけらかしているように聞こえる。しかし、それに続く最後の罪を読めば、李斯に驕り高ぶる思いなどなく、ましてや命乞いではないことがわかる。
李斯は、刑罰を緩くし、税を軽くして民衆の心を掴んでしまったことも自身の罪であると記していた。おかしなことである。現在、刑罰は苛烈である。重税が課されている。そもそも李斯が罷免され、牢へ押し込められた切っ掛けはそれらを諌めたことにある。
賢しい兄がそれに気づかぬはずはない。気づいていながら、わからぬ振りをしている。
「兄上、李斯殿はとうにご自身の命を諦めておられまする。これが命乞いでないことは、わかっておいででしょう。李斯殿は置き土産をしようとなさっておられるのです」
「なに? 命乞いではないのか」
「然様。この国の行く末を案じておられるのです」
「成よ。この国の行く末を案じた者が謀叛を企てたりするか?」
李斯の謀叛の企てを捏造したのは兄であろうに、兄はしれっとそんなことを言う。
趙成は悲しくなった。次第に悲しみは憤りへと変わっていった。どのようにして趙成らは両親を失い、中人に至ったのか、兄は忘れてしまったのか。わずかばかりの温情を与えることも躊躇うのか。
「兄上!」
感情が渦巻き、言葉が続かなかった。代わりに涙がこぼれた。それを見て、兄は苦い顔をしながら「わかった」と言った。李斯と会い、その真意を確かめると言ってくれたのである。
趙成は、兄に抱きつき咽び泣いた。これで李斯を安らかに死なせてやることができる。
兄と会い、李斯は罪を認めた。二人の間にどのような会話を交わしたのかわからない。その日のうちに李斯は市中に引き立てられ、次男とともに処刑された。李斯に処されたのは腰斬であった。腰から下を斬り落とされ、死に至るまでの間、苦しみながら李斯は何を思ったのか。
「残念であるが、謀叛人であった以上、李斯の上奏を許すわけにはいかぬ」
兄にそう言われたとき、兄も安らかには死ねぬであろうなと趙成は思った。もっとも安らかな死など最初から願ってやいないのやもとも思った。
李斯の叛意を詳らかにした功績によって、兄は丞相に任ぜられた。幼い頃、趙成が兄なら必ずなると信じた丞相に兄はなったのである。しかし、誇らしくはなかった。趙成は喜ぶこともできなかった。
「君の兄上は、いずれ丞相になる」
丞相がどれほどの地位であるのかなど、当時の趙成は知らなかった。兄ならばなって当然であると思い、趙成はその上官の冗談に「はい。兄上ならば必ず」と返した。兄に窘められ、丞相がとてつもない位であると知った。それでも兄ならば本当にいつの日にかは、と趙成は思った。
法律を学ぶようになって、兄がいかに秀でているのかを思い知った。頻繁に兄を訪い、教えを請うた。兄は件の上官の伝で妻を娶っていて、ちょうど女児が生まれたばかりであった。赤子の泣き声に翻弄される兄は、幸せそうに見えた。実際、幸せであったと思う。趙成は自分も兄のような家庭を築きたいと心底思った。
そこへ父の謀反疑惑が降って湧いたのである。趙成の父と親交のあった人物が謀反を企てているとして捕らえられた。調べが進む中、疑いの目は父にも向き、加担していた者として父も獄に繋がれた。
父をはじめとして、趙成の家族には皆、死罪が言い渡された。幸いにも兄の妻子にまで罪が及ぶことはなかった。兄の子が女児であったことが幸いした。それであるから、兄は宮刑を受け入れた。家族のために、頸を刎ねられる代わりに男としての象徴を失うことを選んだに違いない。兄が生きるのであれば、そう思い趙成も中人になると決めた。兄がいれば、人でなくなっても生きていける。そう思ったのである。死を受け入れるには、趙成はまだ若すぎた。
優しかった兄はもはやいない。いや、趙成に対しては依然優しくある。なにかと気遣ってはくれている。わずかばかりの身内に対してもそうである。しかし今の兄には仁愛がない。切り落とされた身体の一部に詰まっていたでもあるまいに、兄は人を思いやることをしなくなった。
李斯はもう死を受け入れている。殊更に苛まなくとも直に折れる。幾日もしないうちに、李斯は見に覚えのない罪を口にしてしまうであろう。足の腱は切られ、鼻は削がれてしまっている。韓非にはもう充分に償ったはずである。
李斯に頼みがあると言われたとき、趙成はようやく李斯を救ってやれるのだと思った。ところが李斯が望んだのは、小剣でも毒酒でもなかったのである。筆と木簡が欲しいと李斯は言った。
「上奏したい」
趙成は耳を疑った。皇帝に命乞いをしたところで、もはや助かるはずもない。にも関わらず筆と木簡を差し入れてやったのは、仁愛の宿るところを確かめたかったからかもしれない。もっとも李斯にかすかな希望を抱かせることは、却って残酷であるように感じはした。それで李斯が打ちひしがれ自害する気になるのであれば、翻って救いになると趙成は信じた。
「奴らしい、厭味で回りくどい命乞いであるな。己が働きのみによってこの国が作り上げられたと勘違いしておる」
一読して、兄はそう吐き捨てた。
李斯の上奏文である。
右丞相であった霍去疾が自害し、左丞相であった李斯が獄に繋がれて以来、皇帝まで回る文書はすべて兄の目を経ていた。正規の手続きで李斯の上奏文を届けても、兄は間違いなく棄却する。それがわかっていたため、趙成は説き伏せるために兄の邸宅を訪れたのである。
李斯の上奏文には、李斯の罪が書き連ねてある。それは李斯の息子の李由が叛乱軍と通じていたとかそうしたことではなく、李斯がこれまでに成してきたことを李斯は自身の罪であると記していた。
六国の併呑に尽力し、秦王を皇帝にまで押し上げたことに始まり、匈奴や百越など異民族の討伐の遂行を助けたこと、爵位を以て、功臣の業績に報いるよう勧めたこと、社稷を立て、宗廟を築き、秦が中華唯一の国であると明らかにしたこと、文字や度量衡の統一に骨を折ったことから、馳道を整備し、行幸を容易にしたことと続いている。ここまでを読めば、李斯は傲慢にも己の功績をわざわざ罪と称してひけらかしているように聞こえる。しかし、それに続く最後の罪を読めば、李斯に驕り高ぶる思いなどなく、ましてや命乞いではないことがわかる。
李斯は、刑罰を緩くし、税を軽くして民衆の心を掴んでしまったことも自身の罪であると記していた。おかしなことである。現在、刑罰は苛烈である。重税が課されている。そもそも李斯が罷免され、牢へ押し込められた切っ掛けはそれらを諌めたことにある。
賢しい兄がそれに気づかぬはずはない。気づいていながら、わからぬ振りをしている。
「兄上、李斯殿はとうにご自身の命を諦めておられまする。これが命乞いでないことは、わかっておいででしょう。李斯殿は置き土産をしようとなさっておられるのです」
「なに? 命乞いではないのか」
「然様。この国の行く末を案じておられるのです」
「成よ。この国の行く末を案じた者が謀叛を企てたりするか?」
李斯の謀叛の企てを捏造したのは兄であろうに、兄はしれっとそんなことを言う。
趙成は悲しくなった。次第に悲しみは憤りへと変わっていった。どのようにして趙成らは両親を失い、中人に至ったのか、兄は忘れてしまったのか。わずかばかりの温情を与えることも躊躇うのか。
「兄上!」
感情が渦巻き、言葉が続かなかった。代わりに涙がこぼれた。それを見て、兄は苦い顔をしながら「わかった」と言った。李斯と会い、その真意を確かめると言ってくれたのである。
趙成は、兄に抱きつき咽び泣いた。これで李斯を安らかに死なせてやることができる。
兄と会い、李斯は罪を認めた。二人の間にどのような会話を交わしたのかわからない。その日のうちに李斯は市中に引き立てられ、次男とともに処刑された。李斯に処されたのは腰斬であった。腰から下を斬り落とされ、死に至るまでの間、苦しみながら李斯は何を思ったのか。
「残念であるが、謀叛人であった以上、李斯の上奏を許すわけにはいかぬ」
兄にそう言われたとき、兄も安らかには死ねぬであろうなと趙成は思った。もっとも安らかな死など最初から願ってやいないのやもとも思った。
李斯の叛意を詳らかにした功績によって、兄は丞相に任ぜられた。幼い頃、趙成が兄なら必ずなると信じた丞相に兄はなったのである。しかし、誇らしくはなかった。趙成は喜ぶこともできなかった。
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