呂布奉先という男

うたう

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192年

姉の簪

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 姉のかんざしは、随分と短くなった。
 紅昌こうしょうは、ざらざらとした石を使い、何日もかけて、木製の簪の先端を削り磨いてきた。子供の自分が挿してもおかしくない程の長さにはなった。けれど、艶やかな花模様の彫り物のある簪は、紅昌が身につけるには妙に大人っぽすぎる。
 指先に簪の先端を押し当てると、ちくりと痛みが走った。
 鋭さは十分にある。けれど、心もとないほどに細くなってしまった。本当は金属製の簪を使うべきなのだろう。でも金属を加工して尖らせるのは、十歳の紅昌には難しいし、そもそも家に金属製の簪はもうひとつも残っていない。金になりそうなものは、全て質草にしてしまったからだ。
 雒陽らくようからたくさんの人々が長安に流れてきて、生まれ育った家を追い出された。大家が家賃を引き上げたのだ。雒陽から来た小金持ちに高値で貸すつもりなのだろうと紅昌の父は言っていた。
 人口が増えたせいなのか、最近流通するようになった銅銭の作りが粗悪なせいなのか、物価があがった。以前の倍の金額を出しても、同じ物が買えなくなった。暮らし向きは日に日に酷くなり、粥は水っぽさを増していった。
 それでも家族四人、幸せに暮らしていたのだ。狭く、風通しの悪い家の中で、黴臭ささえもが笑いの種だった。
「黴臭さにも慣れてきたな。この臭いを嗅ぐと、我が家にいるのだなという気分になる」
 そう言った父に、姉は「そうなのよ。私、このままではお姑さんに隠れて、黴を育てるような嫁になるわ」と笑っていた。
「黴臭さを隠せるもんか。黴臭い嫁なんて、誰ももらっちゃくれないよ」
 そうした母の言葉に、姉は得意そうに顎を突き出して、「これでも想ってくれる人はたくさんいるんだから。ひとりくらいは、黴嫌いのお姑さんから、私を守ってくれるいい人はいるわよ」と言い返していた。
 七つ上の年頃の姉のことを恋い慕っている男は、実際かなりの数いたようだ。紅昌が街中を歩いていると、よく姉は元気かと尋ねられた。姉は、明るくて、優しくて、鼻筋の通った綺麗な人だった。
 その自慢の姉は、もう黴の臭いを嗅ぐことはない。
 二週間前に乱暴されて、殺された。
 数人の兵士がやったという話だった。拐かすところを見たという人がいた。けれど、犯人たちが裁かれたという話は聞いていない。捕まったという噂さえ耳には入ってこなかった。
 きっと赦されたのだ。そして、おそらく兵士たちは、横暴を許されているのだ。
 先日も数人の兵士が白昼堂々と商家に押し入るのを、紅昌は見た。何の無礼も働いていない通行人に、腹いせなのか兵士が殴りかかるところを見たこともある。斬り殺されるところを目撃したことはないが、そんな話もちらほらと聞いたことがあった。
 雒陽から人々が移ってきたくらいの頃から、そういった振る舞いをする兵士が増えた。
 やはり兵士たちは許されているに違いない。
 だから紅昌は、姉を殺した兵士を見つけ出そうとは思っていなかった。兵士なら誰でもよかった。誰でも同じなのだ。兵士は皆、似たようなことをやっている。
 木製の簪の先を尖らせたくらいで、兵士を殺せるとは思っていない。それも女児の手でなら尚更だ。けれど、姉の受けた痛みのいくらかは味わわすことができるはずだ。
 仇討ちとも呼べない愚かな行動を死んだ姉は喜ばないだろう。紅昌にだって、そんなことはわかっていた。
 紅昌には何もなかったのだ。父には、荷車運搬の仕事があった。母には仕立て屋での下働きがあった。姉が殺されてからも両親は休まずに働いていた。おそらく、働いていると気が紛れるのだ。そういった手段が幼い紅昌にはなかった。
 姉の簪を削り始めたのは気まぐれだった。姉の形見を身につけられるようにしようと思って始めたことだった。石で削るのは簡単なことではなかった。削るたびに悲しみが増した。そのうち、うっすらと積もった木屑の山に憤りが載るようになった。磨き終えて、簪を拭った瞬間、覚悟が決まった。

 城外での調練に向かう兵士たちの表情に嫌悪感を抱いた。誰も彼もが唇ときつく結んで行進している。黒っぽい軍装を纏った彼らは勇ましく見えた。だから余計に紅昌は憎らしく思った。兵士たちは皆、野盗のような醜い本性を勇者の装いで隠している。
 紅昌は、簪をぎゅっと握りしめた。
 兵士を目の前にすると、鋭いと思っていた簪の先端が鈍く感じた。細い簪は、上手く兵士に突き立てることができたとしても、筋肉に弾かれて、簡単に折れてしまうだろう。
 それでも良かった。傷つけることが目的なら、刃物を使う。姉の簪でやるから意味があるのだ。姉の簪で、姉の無念をほんのわずかでも晴らすことができたなら、紅昌は満足だった。
 どの兵士を狙うかということは考えなかった。選ぼうとすると迷いが出る。迷い始めたら、怖気づく。
 そうなる前に紅昌は叫んだ。
「やぁーーー!」
 一歩踏み出すと、もう片方の脚は勝手に付いてきた。
 紅昌は簪を両手でしっかりと握った。
 狙うは兵士の内腿だった。
 兵士は、腹も背も脇も防具に覆われているが、内腿は護られていない。
 また紅昌の背丈で狙うのに、絶好の部位だった。
 紅昌の叫び声に反応して身構えたのか、狙っている兵士の股が開き、内腿がよりはっきりと見えるようになった。その兵士がどのような表情をしているのかは見えなかった。紅昌の視界から消えた、兵士の槍の柄がどのような軌道を描いているのかもわからなかった。ただ内腿だけを狙いすましていた。
 刺せる!
 そう思った瞬間、兵士の内腿が遠のいた。
 紅昌の身体がふわりと浮かんだと思ったら、激痛が走った。
 別の兵士に襟を掴まれて、投げ飛ばされたようだ。身じろぎすると、紅昌の身体のそこここが痛んだ。
 立ち上がるとすぐさま怒鳴られた。
「隊列に飛び込むとは何事か!」
「姉さんの仇を討つんだ!」
 地面に打ちつけられたが、姉の簪はしっかりと握りしめたままだった。
「俺が仇?」
 狙われた兵士はきょとんとした表情をしていた。垂れた目をした、二十歳くらいの若い兵士だった。本当の仇ではないのだから、垂れ目の兵士の反応は無理もないことだと思った。
 周囲の兵士は面白がって、何をやらかしたのかと囃していた。
「悪いが人違いだ。俺には身に覚えがない」
 垂れ目の兵士は、そこまで言うとわざわざしゃがんで、紅昌と目の高さを同じにした。
「お姉さんのことは気の毒だが、こんなことはもうやめておけ。兵士に乱暴するのは許されない」
 諭すような目に、紅昌は少し罪悪感を覚えた。それを振り払うように喚いた。
「乱暴は許されない? そうね! 乱暴は兵士だけに許された特権だものね。姉さんをやったのはあんたじゃない。でもあんたがやったも同じなのよ。あんただけじゃない。あんたも! あんたも! あんたも!」
 そこら中にいる兵士に簪を向けて、紅昌はなじった。
 兵士たちは困惑して、顔を見合わせていた。そこに怒声が響いた。
「何故、隊列が乱れておる? 罰されたいのか!」
 その声に、兵士は居住まいを正した。
 怒声の主は、赤毛の馬に乗った大男だった。吊り上がった形のいい眉に大きな目をしている。
 指揮官なのだろう、綺羅びやかな白銀色の鎧を身に纏っている。
「この娘が隊列に飛び込んできたのです。姉の仇を取るのだと申しております」
「本当か?」
 ぎょろりと睨むような視線に、紅昌は気圧された。答える声は、自然と小さくなる。
「本当です。でも、この人はたぶん仇ではありません。だけど、姉は兵士に殺されたんです。だから兵士は皆、仇です」
 最後のほうは、恐ろしくて消え入りそうな声になった。
「なるほどな」
 大男は振り返り、いつの間にか現れて、後ろに控えていた黒毛の馬に乗った凛々しい若武者に向かって、言った。
張遼ちょうりょう、俺はこの娘と話すことがある。調練はお前に任せた。それから、隊列を乱した件で、この者らを罰する必要はない」
「御意。では、これにて」
 張遼と呼ばれた若武者が先頭のほうへ駆け去ると、兵士の隊列がまた流れ始めた。
 大男は紅昌に説教をするつもりなのだろうか。いや、話すというのは、言葉の綾なのだと思った。きっと姉のように乱暴されて、それから殺されるのだ。子供だから大丈夫だとは思うなと父に言われたことがあった。子供を好んで狙う輩もいるのだと教えられていた。
 大男は、きっとそういう輩なのだ。
 大男は馬を降り、轡を取って歩き始めた。その場に留まった紅昌のことを気に留めている様子はなかった。一歩、二歩と二人の間隔が広がっていく。
 紅昌は大男が歩む先とは反対側へ駆け出そうとした瞬間、大男が振り返った。
「心配するな。何もするつもりはない。そこの店で話すだけだ」
 大男が顎をしゃくった先には、酒と書かれたのぼりが立っていた。酒と料理を出す店だ。
 店の引き戸はすべて取り外されていて、店内の様子は外から覗えるようになっている。いわゆる庶民の店だが、大男は気にするでもなく、店先に馬を繋ぎ、ずかずかと店に入っていった。
「酒はいらん。二、三品、子供の好む料理を出してくれ」
 店主にそう告げて、大男はどかりと腰をかけた。
 数人いた先客は皆、慌てて酒を飲み干し、勘定を済ませて逃げるように店から出ていった。
「なんだか、悪いことをしてしまったな」
 大男は、特徴のある眉をハの字にして、小さくなって髪の毛をいじっていた。身体つきに似合わないその仕草は、なんだか滑稽に見えた。悪い人ではないのかもしれないと思いかけ、紅昌は慌ててそんな考えを振り払った。そうやって油断を誘おうとしているに違いないのだ。
「我らは并州へいしゅう兵だ。そなたの姉君を殺したのは、おそらく涼州りょうしゅう兵だろう」
 涼州は、この国の西の果てだ。長安からは、雍州ようしゅうを挟んで向こうにある。西涼せいりょうとも呼ばれる地だ。
「いや、すまない。それは関係のないことだな。涼州の兵であろうと并州の兵であろうと、そなたからすれば、同じ兵に違いない」
 大男は恥じ入るように首を横に振った。
 簪はまだ持っているかと問われ、大男に渡した。渡すときに姉の形見なのだと伝えると、「ちゃんと返すから心配するな」と言われた。
「削って尖らせたんだな」
「申し訳ありませんでした」
 叱られている気はしなかった。でも段々ととんでもないことをやったのだという意識が紅昌には芽生えてきていた。
「いいんだ。いや、良くはないのだが、私は感心した。そして我が身の臆病さを恥じている」
 店主が根菜の煮物と豚肉を炒めたものを持ってきたことで、大男は口を噤んだ。
 久々に嗅いだまともな料理の匂いに、紅昌の腹が鳴った。紅昌が生唾を飲み込むと、喉の奥でごくりと音がした。
 それでも食事に手を付けないでいると、「遠慮することはない。満足に食べていないのだろう」と大男が頷きかけてきた。
 戸惑いながらも、堪えきれなくなって、紅昌は箸を伸ばした。しっかりとした味付けに、次々と唾液が溢れてきた。
「そうだ。遠慮することはない。だが、しっかり噛めよ。きっと胃が弱っている」
 大男は料理には一切手をつけなかった。指先で簪の先端の感触をずっと確かめていた。
 紅昌が料理の三分の二ほどを平らげた頃に、大男に食べないのかと訊いたが、遠慮せずに食べろという返答だった。
「美味いか?」と問われて、紅昌が大きく頷くと、大男は「そうか」と言って、険しかった表情を少し緩ませた。
 それが合図だったように、大男は少しずつ、独り言のように話し始めた。
「もう躊躇ったりしない。何年か前に、そなたくらい――いや、もっと幼かったか、ある少女に詫びて誓った言葉だ。きつく諌めるのは命懸けなのだ。それでももう躊躇うまいとあのときに誓った。誓ったのに、私はずっと諌められないでいた。三日すれば、元のお人柄に戻るかもしれないと待ったのだ。それから三日経っても、まだもう少し時が必要なのかもしれないと先延ばしにしてきた。見て見ぬ振りをしてきたのだな。その陰で、そなたのような子供までもが苦しんでいる。そなたの姉君の件のような悲劇が起きている。それでも私は時が経てばと見ない振りをしてきた」
 大男が何の話をしているのか、紅昌にはわからなかった。わからなかったけれど、箸を置いて聴いていた。将軍と思しき人物の話を、食事しながら聞き流すのは無礼だと思ったからではなく、大男の大切なものに触れているような気がしたからだ。紅昌にとっての姉の簪のような、そういうものが大男の心の中にあって、それを見せようとしてくれているのだと思った。
 心の中にある何かを、大男はずっと削って磨いてきたのだと思った。そして今もその最中なのだろう。勇気を奮い立たせようとして削り続け、それでも迷って、怯える。紅昌にはその気持ちがよくわかった。
「少女、名はなんと申す?」
「紅昌です。じん紅昌」
「そうか。紅昌、私はそなたに勇気をもらった。約束しよう。この街の暮らしを必ず良くする。だから、そなたももう兵士を襲わぬと誓って欲しい」
 姉が乱暴されて殺されたことを紅昌は決して忘れないだろう。生涯恨み続けるだろうし、なにかの拍子にまた怒りが沸き立つことがあるだろうと思っている。けれど、姉の死に直接関係のない兵士を襲うのは、違うと今は感じていた。
 大男の表情は引きつっている。しかし、その瞳は、強く、そして優しく見えた。
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