呂布奉先という男

うたう

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190年

悲しき忠臣

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 帝として相応しいのは、今の帝だろう、と李儒りじゅは思う。
 頭の回転が早いことはもちろん、肝が座っている。雒陽らくよう城外で二人を保護したとき、董卓とうたくに状況を説明したのは、当時陳留ちんりゅう王であった今の帝だ。またその説明も的確に要点を押さえていた。
 それに対して、廃されて弘農こうのう王に落とされた当時の帝は、宦官たちが斬り殺されていった惨状を嘆き、泣いてばかりだった。優しすぎるのだ。
 人の上に立つ者は、冷酷であってはいけないが、しかし冷淡でなければならない。この国がどれだけよく治まっていようと災害は起きるのだ。その度に民草のいくらかが死ぬだろう。その死ひとつひとつに向き合って、涙を流していたのでは帝は務まらない。そうした死を事象として捉えることのできる冷淡さ――ある種の心の強さと言ってもいいかもしれない、そういったものがこの国を統べる帝には必要なのだ。
 弘農王には、それがなかった。
 だから董卓は周囲の反対を押し切って、帝を廃し、代わりに陳留王を帝に即位させたのだろう。
 しかし、それが董卓の政治をよく思わない者たちに絶好の口実を与えた形だった。そうした者たちが、今、雒陽の東で兵を集めている。
 声高に董卓を誅すると叫んではいるが、義憤に駆られて動いた者はどれほどもいないだろうと李儒は思っていた。顔ぶれを見ればわかる。家柄の良いものがほとんどだ。最高位の官職である三公を四代に渡って輩出し続けた袁家の人間を筆頭に、これまでの世で甘い汁を吸い続けてきた家の者たちが、董卓の改革に抗おうとしているだけだ。
 董卓が三公のひとつ、司空しくうに任ぜられ、この国の政治を主導するようになって最初にやったことは、竇武とうぶ陳蕃ちんばんらの名誉回復だった。竇武と陳蕃は、宦官の腐敗政治を批判し、宦官排除を掲げた人物だ。竇武は決起したが宦官側の軍に破れて自害し、陳蕃はその一件に抗議するために仲間を伴って参内したところを囚えられて、刑死した。
 李儒がまだ十代だった頃の出来事だ。宦官の専横は、二十年以上前から続いていた、根深い問題だったのだ。董卓は、竇武や陳蕃らの名誉を回復することで、宦官が歪めてきた政治に終焉を告げた。
 それと同時にやったのが、官職に見合った能力のない者たちの罷免だ。そうして空いた官職の後任の選出は、董卓自身では行わず、信頼する高官に任せているようだった。往々にして、賄賂を贈って官職を得ていた人間の陰でくすぶっていた者が選ばれている。
 そういうことなのだ。董卓が帝をすげ替えたことを糾弾するようでいて、実のところは、罷免された一族郎党の復権を目的に乱を起こそうとしている。
 本当に弘農王の復位を願っているのであれば、挙兵よりもず、どうにかして弘農王の身柄を抑えるべきだったのだ。そうしなかったことで、弘農王は厳しい立場に追いやられている。
 李儒には、それが腹立たしかった。
 董卓は政権を得たが、李儒を政治には駆り出さなかった。李儒自身も政治には興味がない。政治というのは、当たり前のことをひたすらに積み重ねていく作業だ。奇策を必要としない政の場は、面白みに欠けている。
 そうした李儒の性質を董卓は理解していたのだろう。代わりに与えられたのが、郎中令ろうちゅうれいという官職だった。帝の警護を担当する、この役職は、退屈なように思えたが、意外にもやり甲斐を感じた。自分ならどのように帝を襲うか、そうやって考えを巡らし、警護案を練るのが楽しかった。帝だった頃の弘農王は、李儒の頭の中で何十回と死んでいる。
 弘農王となってからも、李儒が引き続き警護を担当している。意味合いとしては、警護というより監視のほうが強くなった。だから、弘農王はあまり死ななくなった。連れ去られる想像のほうがずっと多かった。反董卓を掲げた軍が興ってからは、夢の中でも弘農王は攫われるようになった。このままでは、いつか実際に弘農王は反乱軍の手に落ちると思った。

 弘農王の元を訪れると、弘農王はいつものように読書をしていた。幽閉に近い生活の中で見つけた楽しみのようだった。李儒が顔を出すと決まって、弘農王は書物に記されていることについての意見を李儒に求めた。
「殿下、ご機嫌麗しゅうございますか」
「李儒か。良いところに来た」
 決まりごとのように、そう言う弘農王がこの日は違っていた。
「余の命を取りにきたのだな」
 弘農王は書物を伏せ、李儒の目をじっと見てきた。悲しそうに微笑んでいる。目をそらしたのは李儒のほうだった。
 この方が薄情であったなら、今も帝のままだったのだろうと思った。
 弘農王が察したように、李儒は董卓にそう命じられていた。国が二つに割れることを避けるためだ。
 弘農王が反乱軍の手に落ちたら、反乱軍は弘農王を擁立して、復位させるのは目に見えていた。
「殿下、益州えきしゅうへ下りませぬか?」
 益州は、南西にある険阻な山々に囲まれた僻地だ。そこで名を変え、ひっそりと生き永らえてもらいたいと李儒は思ったのだ。益州を治めているぼく劉焉りゅうえんは、反乱軍に名を連ねてはいない。劉焉は、弘農王とは遠縁にあたり、弘農王を庇護することを厭いはしないだろう。利用するということもないはずだ。
 身代わりとなる死体は、李粛りしゅくに用意させるつもりでいた。丁原ていげん暗殺の報酬として、約束通り李粛には便宜を図ってやった。三百人規模の隊の調練に李粛は日々励んでいるようだ。屈強なならず者を金で雇って、隊に引き込んでいるとも聞いている。死体の代金は、そのまま雇用に当てられる金になる。李粛は喜んで、弘農王に似た死体を探してくるだろう。
「皇帝ではなくなったと言っても、余にはこの国の民を守る責任がある。天に二日があってはならんのだ」
 天に二日なし。空に太陽が一つしかないように、国家に君主が二人いてはならないという言葉だ。
「畏れながら、殿下には野心などありますまい」
「今はそうだ。だが五年後、十年後はどうであるか、余にもわからぬ。こうやって書物に触れておると、世の仕組みの面白さに魅せられる。そうして得た知識を試したいと思う日が来るやもしれん。ほんのわずかでも野心が芽生えたら、余を担ごうとする者が現れよう」
 弘農王は、伏せた書物に手を置いた。
「しかし――」
「くどいぞ。李儒」弘農王は首を横に振った。「今日一日生き延びたら、また明日も生きたいと願ってしまう。明日も無事であったなら、ひと月後を夢見るだろう。死は日に日により恐ろしいものへと変わっていくのだ」
 弘農王は、おそらく李儒が現れるよりも前から死を覚悟していたのだろう。董卓誅滅の檄文が飛び交っていることを知ったときから、弘農王は死への恐怖を膨らまし続けてきたのだ。
 やっと死ぬときが来た。弘農王の顔にはそんな安堵の色が見えた。
「何を用意した?」
「毒酒を」
「ならば、少し酒を酌み交わさぬか? この世の名残だ。今少しだけそなたと語らいたい」
 弘農王は手を鳴らして、侍女を呼び、酒を用意させた。
「そなたには世話になった」
「お世話など何も。私は、頭の中で何度も殿下のことを殺しました」
 弘農王は一瞬驚きを見せたが、すぐに笑い出した。
「孫子だな。彼を知り己を知れば百戦あやうからず。敵の立場になって、その手を考えておったのは、そなたが忠勤であった証だ」
 惜しいという思いがまた強くなった。今よりもずっとこの国が豊かで、人智が天災を凌ぐような時代であったなら、この方は誰よりも名君たりえたのかもしれない。
 空になった弘農王の杯に酒を注ぎ足そうと、銚子を傾けた。ちょろりと垂れただけで、もう酒はほとんど入ってなかった。
「すぐに代わりを」
 侍女を呼ぼうとした李儒を、弘農王は止めた。
「いや、潮時であろう。代わりは、さぁ、毒酒を」
 弘農王は杯を李儒のほうへぐっと差し出した。
 毒酒の入った小瓶を手にして躊躇う李儒に、弘農王は諭すように言った。。
「悪い人生ではなかったよ。余は皇帝の器にない小人であったが、李儒という忠臣を得ることはできた。その忠臣に見送られて逝くのだ。贅沢なことではないか」
「勿体なきお言葉」
 李儒は天井を見上げた。凝った意匠の天井の絵がぼやけている。
「さぁ、早う」
 杯を視界に入れようとして、下を向いた瞬間に涙がこぼれ落ちるのを感じた。震える手で、杯を満たした。
 弘農王は、死にゆく者には不似合いな明るさで「さらばだ」と言ってから、毒酒をあおった。
 赦せなかった。
 手を下したのは李儒だが、そう仕向けたのは、反董卓連合を立ち上げた者たちだ。
 なぜ董卓の政治に参画しない? なぜこの国が変わることを望まない?
 とめどなく溢れる涙には、悲しみと怒りが混じっていた。

 涙が収まってから、董卓に報告へあがった。
「ご苦労」という董卓からの労いの言葉が素っ気なく聞こえた。董卓にとっては、厄介事のひとつが片付いたという感覚なのだろう。意識はすでに雒陽の東、酸棗さんそうあたりに集結している、反董卓連合の軍勢に向かっているのかもしれない。
「近日中に新たな官職を授ける。それまで、しばし安らうがよい」
 辞去しようとしたとき、董卓の脇に控えている呂布りょふと目があった。
 董卓は、先頃刺客に襲われて以来、呂布を傍に置くようになっていた。董卓自身、優れた武芸者ではあるが、呂布に護られることで安心できるようだ。眉間に寄せていた皺が見られなくなった。
 呂布を籠絡したとき、董卓は呂布が笑みを見せなかったことを気にしていたが、その日以降も李儒は呂布が笑ったところを見たことがなかった。呂布はいつも陰気な表情で董卓に侍っていて、李儒はそれが気に食わなかった。
 しかしこのときばかりは、呂布の表情が弘農王の死を悼んでいるように思えて、不快には感じなかった。
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