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第一部

3:紺碧のほとり

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 着替えて外へ出てみると、思っていたよりも空気は冷え込んでいた。……もうそんな時期になっていたのか。たまに登校するようになったくらいでは、細かな気象の変化にはやはりついていけない。

 一度戻って防寒具を足そうかと思ったが、いま引き返してしまうと、せっかくの決心が鈍ってしまいそうだ。寒さを感じるくらいでちょうどいいのかもしれないと己を納得させて、歩みを進める。

 自室で着替えているときはなんともなかったのに、空楽の家へ近づくにつれて、足取りが重くなり呼吸も乱れつつあった。

 ……何を恐れているんだ、俺は。

 何度か立ち止まりかけながらも歩みを進めるが、とうとう身体が動かなくなってしまった。平日の昼間で人通りがまばらとはいえ、道端で立ち止まるのは邪魔でしかない。一歩でもいいから踏み出せれば、この先にある空楽の家にもたどり着けるはず。

 もしくは後退するかなんかして、とにかくこの場所から離れて邪魔にならない位置まで移動すればいい。それなのに俺の足は、微動だにせず直立したままだった。

 いやな汗をかきながらうつむきつつ、立ち止まっている俺を通行人がちらりと見ては通り過ぎる。そんな視線も俺にとっては凶器で、余計に動けない理由となっていた。

 ……もう誰かにぶつかられて、不可抗力で動いてしまいたい。そんなことを考え始めていたとき、すぐそばで幼い少女の声が聞こえてきた。

「どうしたのー? だいじょうぶ?」

 無意識のうちに胸元を握りしめていた手から力が抜ける。

「……、……」

 いまだに過度の緊張状態だからなのか、声が出ない。空楽と似た髪色を持つ幼い少女は、そんな俺の手を取ると振り向いた先に視線を投げかけた。俺から見ると、ちょうど正面にあたる。

「ママー、おにいちゃん、おねつあるのかもだよー」
「…………」

 少女が呼びかけた母親の姿を見て、涙腺が緩むのを感じる。

「――鈴真くん?」

 ……おばさん――空楽のお母さんだ。そして最初に話しかけてきた子は、生前、話には聞いていたけれど会ったことのなかった空楽の妹だと思う。厳密にいえば、葬式で顔を合わせていた可能性が大いにあるけれど、あいにく俺は覚えていない。

 まさかこんな形で会うことになるなんて……。

「……お久し、ぶり……です……」

 乾いた口の中には存在しないつばを飲み込みながら、どうにか言葉を絞り出す。声が出ないままだったらどうしようかと思った。

 俺の名前を知った空楽の妹が、ぱっと顔を輝かせる。

「れいまおにいちゃんだ! おはなしきかせてー!」
「お話……?」

 なんの話だろう、と疑問に思っていると、紙で指を切ってしまったときのような表情をしながら、おばさんが間に入ってくれた。

「……空楽が元気だったころを知りたいんだと思う」

 ああ……。そういうことね。おばさんの反応にも納得だ。生前の空楽から俺の話を聞いていたから、自分が知らない――学校など普段の様子を聞きたいと思ったのだろう。

「なんだか調子が悪そうに見えたけど、体調は大丈夫?」

 俺と空楽の妹、どちらに対しても自然な形で話題が変わるように気を遣ってくれたらしく、閑話休題という形で俺に逃げ道を作ってくれる。

「……久々に外へ出たからだと思います。もう大丈夫です」
「……そう? それならいいんだけど……。ほら羽海うみ、いつまでもお兄ちゃんにくっついていないで。公園に行くんでしょ?」
「えー、やだー。おにいちゃんといっしょがいいー、おうちかえるー」
「わがまま言わないの。お兄ちゃん困ってるでしょ」

 そう言いながらも、実際に困ったような表情をしているのは俺よりもおばさんだ。

「――あの、俺――もともと空楽の家に行こうと思っていたから……おばさんが構わなければ、家でも大丈夫です」

 一緒に公園で遊びたいと誘われていたら返答に困っていただろうけれど、空楽の家なら別だ。もともと目的地だったわけなのだから、手間が省けたとも表現できる。

「鈴真くんがそう言ってくれるなら、もちろん構わないけれど……」

 ためらいがちではあるものの、一応は了承してくれた。これまでずっと訪問していなかったのだから、俺が空楽の家に行けるだけの元気があるか心配なのだと思う。

 それはもちろん、俺にとっても懸念ではあった。もしかしたら玄関や部屋の前で立ちすくんでしまうかもしれない。そして、空楽の写真――遺影を直視できるだけの精神が、今の俺には本当にあるのだろうか。

 考えても仕方ない……。三人で向かい始めた菜種家への道すがら、どう接していいのか分からず、ぎこちない対応しかできない俺を気にも留めずに、空楽の妹である羽海ちゃんは俺にあれこれ話しかけてきていた。

 夏の力強い太陽を反射してキラキラと輝く海のように、直視することすらできない存在だ。兄の死を理解していたとしても、俺の境遇までは知らないはず。

「……あのね、……おてて……つないでもいいかなあ」

 そうねだってくる羽海ちゃんの表情には、少しの照れとわずかな陰りが混じっている。……きっと、生前の空楽とはよく繋いで歩いていたんだろうな。

「いいよ」

 差し出した手が、彼女の小さな手で包み込まれる。

「えへへ、あのねー、いつもおにいちゃんとつないでたんだよー」

 それから彼女は思い出を語り始めた。お兄ちゃんの手は冬場だとちょっと冷たいから、温めてあげていたとか、遠くへ遊びに行ったとき、お兄ちゃんが迷子にならないように手をつないであげていた、とか……俺にとっては、胸が苦しくなる話題ばかりだ。

 でも、彼女に悪気なんてない。兄のことをよく知っていて、かつ同い年である俺だからこそ、話したいことなのかもしれない。

 すぐそばで一緒に歩いているおばさんは、羽海ちゃんを止めるべきなのか否か迷っているようだった。俺のことを気遣っているのかもしれないし、おばさん自身もまだ心の整理がしきれておらず、心苦しく思っているのかもしれない。

 そうしてたどり着いた空楽の家は、罪悪感から来るものなのか、直視できずに地面を見続けることしかできなかった。俺の手を握り締めてくる小さく温かな手に少しだけ勇気を分けてもらいながら、家の中へと踏み入る。

「あ……、あの……、手土産もなく……すみません」

 以前過ごしていたときの記憶がふっと頭に浮かび、当時の習慣を思い出す。簡易的ではあるけれど、いつもなら何かしら手土産を持って遊びに来ていたのに、今日はなんの準備もしていなかった。

「そんなこと気にしなくていいのよ、いつもありがとうね」

 おばさんが慈悲深い笑みを浮かべる。

「あのねあのね、れいまおにいちゃんがまえにくれたクッキー、すっごくおいしかったんだよー!」

 急に感想を述べる羽海ちゃんを、おばさんは軽くたしなめた。

 彼女の言うクッキーは、俺が前に手土産として空楽に渡したお菓子のうちのひとつだと思う。

 えーっと……、たしか期間限定と書かれていたものだったかな。どこかの洋菓子店で購入した覚えはあるけれど、詳しいことは思い出せない。数か月前の話で、何気なく買ったものだからな。

「また見かけたら買ってきてあげるよ」
「ほんと? ありがとー!」

 しゃがんで目線を合わせながら答えると、彼女はぱっと顔を輝かせながら、ぎゅっと俺に抱き着いてきた。

「……おばさん、お線香……いいですか?」

 頭を撫でてから立ち上がり、用件を述べる。

 別の世界で生きているとはいえ、この世界では亡き親友なのだから、手を合わせるべきだと思った。これまで一度も来たことがないのなら、余計に。

「もちろん。左の部屋よ」
「ありがとうございます」

 おばさんが指さしで案内する。玄関から続く廊下の左側、リビングの手前にある部屋に通じるふすまを開けると、すぐに空楽の遺影が目に入った。

「…………」

 羽海ちゃんはおばさんに連れられて、一足先にリビングのほうへ行ってしまったようだ。空楽の前では俺を一人にしておこうという、おばさんなりの気遣いだろう。

 窓から日が差し込んでいるのに、薄暗く感じる。この薄暗さは俺の心境からくるものだろうか。

 部屋に入り、後ろ手にふすまを閉めたあと、手の震えと荒い呼吸を抑え込みながらも遺影のそばへ寄った。
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