姫様、江戸を斬る 黒猫玉の御家騒動記

あこや(亜胡夜カイ)

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1巻

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 どのみち人に聞かねば江戸の町はわからないのだ。

「――本所深川ほんじょふかがわへ行きたい」
「深川か。近いな」

 日本橋ここからは一里もあるかどうかだな、と美弥は細い指を顎下にあてて小首をかしげた。
 大名の江戸屋敷が多く屋敷を構えている。実は美弥の住居、鵺森ぬえもり藩の江戸屋敷もその界隈だ。あのあたりなら目をつぶっていても歩けそうだ。
 ただし、あまりに自分の屋敷に近いと面が割れそうな気がするから要注意か。

「剣術道場に用がある。名を申してもおそらくわからぬであろう。さほど大きな道場ではないと聞いているからな。せめて本所深川とやらまで案内頂けないだろうか」

 わずかに柳眉を寄せた美弥を気遣ってか、律は「そこでまた人に聞くから」と言い添えた。

「さきほどそこの酒屋で聞いてみたが知らぬとのことであった。とりあえず、深川の八幡宮はちまんぐうを目指し、たいそうな賑わいゆえそこでまた人に聞いてはどうかと」
「なるほど、確かに」

 八幡様の界隈なら自分が連れていってもまあいいだろう。
 市のたつ日、奉納のある日でなくとも江戸最大の八幡様としていつもたいそう人出ひとでが多く、そこなら美弥ひとりが目立つこともないと思われる。
 木は森に隠せと言うしな、と、美弥はうんうんと一人でうなずき、二人の男はさても美しい若者よとこっそり囁き合いながらそのさまを見守っている。

「――あ、しかし」

 美弥は思いついたように顔を上げた。

「知っておるやもしれぬ。いちおう念のため道場主を聞いておこうか」
速水はやみ道場と聞いている。新陰流しんかげりゅうだ」
「速水……道場?」
「もしかして、ご存じか」
「ご存じもなにも」

 長い黒い睫毛まつげを二、三度瞬かせたのち。
 美弥は桜色の唇の端をきゅっとつり上げてなんとも魅力的な笑みを浮かべた。
 晴れやかなのに蠱惑こわく的で。清々しいのに艶めかしくて。
 二人の男が期せずして同時に生唾を飲み込むほどの美しさ。

「どうした、二人とも。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」

 美弥は自分の笑顔の破壊力など知る由もなく、にこやかに言った。
 そして軽やかにきびすを返す。

「参ろう。わたしの師匠の道場だ」


   ***


 江戸入りして二日目、という二人が美弥に巡り合ったのは神仏の導き以外の何物でもなかった。彼らの故郷も城下町こそ栄えてはいるが、将軍様のおひざ元、花のお江戸のそれも日本橋界隈ときたら、知らぬ者からすれば祭りでもやっているのかと思うほどのにぎやかさ。
 運よくあまり大きくもないらしい剣術道場を知っている人物に出くわすことはまずなかっただろうし(そもそも町人に剣術道場のありかを尋ねることからして誤りであったろう)、深川までといったって必ずしも要領のよい道順とは言えず、無駄に遠回りだってしかねない。健脚であっても慣れぬ町で動きまわっては疲れは倍増することだろう。
 この店の団子が美味いだの、あの店の蕎麦は絶品だの。あそこの酒屋は吝嗇けちらしいぞ、薄め過ぎだ……云々、とりあえずは目的地を目指しながらも嬉々として美弥は説明し、二人の侍はおとなしく謹聴しつつ半ば口を開けてあたりを見回しついてゆく。


 ――ほどなくして。


 八幡様前のとんでもない人混みをかいくぐり、二、三度、大小の辻を曲がったところにはあった。
 さきほどまでの喧騒は嘘のよう。静かな町屋敷だ。間口は広くはない。しかし奥行きがあるのか、上背のある男たちが背伸びをしても杉戸の向こうは見渡せない。深閑と静まり返っている。

「これでは我らでは到底見つけられまいな」

 律は唸った。何しろ、看板ひとつ出ていないのだ。

「わたしの〝もと〟師匠だ。今は師匠のゆかりの者、伝手つてのある者だけ、稽古をつけて下さる」

 美弥は言いながら、杉戸に手をかけ、二人を振り返った。

「おぬしら、初めてなのであろう。わたしが話をつけてきてやるゆえ、しばし待て」
「いたみいる」
「そうだ、〝若〟と申されたが、おぬしの名は? さきほどは名乗れぬと言われたが、さすがに名を隠したままの者を師匠に引き合わせることはできん」

 美弥の、まっすぐな黒い瞳が律と〝若〟を射抜いた。

「ちなみにわたしは美弥という」

 あまり構えることなく、するりと美弥は言った。
 男性にない名前ではない。下手な偽名を名乗るよりこれでよいと判断したまでのこと。ちなみに苗字はさりげなく省略した。佐川はまずいに決まっている。

「時任律殿はわかる。して、おぬしは?」
「……若瀬わかせと言う」
「おい、〝若〟っ!」
「え? 若君の〝若〟、では……?」

 うろたえる律と当然に聞きとがめた美弥の声が重なった。
 一人、〝若〟、つまり若瀬のみが口元をほころばせて、「若、は渾名あだなだよ。勝手に勘違いしてもらったほうが都合がいいこともあってね」とけろりとして言う。

「ね、律」
「いや、その……美弥殿。たばかるつもりはなく、いつも若と呼んでいて、それで。しかし若君、と言う意味もないでもなくてだな」
「時任殿。何を言ってるかよくわからぬゆえ、もうよい。……では、〝若〟殿もここでお待ちを」

 切り替えの早い美弥に二人は恭しく頭を下げ、馬の尻尾のように揺れる美弥の黒髪を見送った。


   ***


「――で、そこもとらはこの老人に何用か」

 挨拶もそこそこに内々のお話をぜひともさせて頂きたく、と初見の二人の侍から懇願され、美弥の口添えで彼らを奥座敷へ通した速水師匠――速水辰馬たつまは単刀直入に切り出した。
 老人、などと自分で言っているが、さほどの年齢には見えない。
 速水師匠――速水辰馬は髪こそ雪のように白いが、本人の言う通り「老人」と評すことができるのは髪の色だけだ。姿勢のよさ、眼光の鋭さはいかにも強者らしい風貌であり、かつ貫禄もあって、心なしか往来にいたときより美弥の態度は神妙に見える。
 もっとも、美弥が少しばかりおとなしいのには他に理由があったのだが。
 美弥は、自分の「姫としての」素性は隠してもらいたい、ただの「美弥」として二人に接するつもりだと師匠にごり押しをしたのである。
 かつての愛弟子は言いだしたら聞かないし、そしてまた揺籃ようらんの頃から美弥を知る速水は、剣技以外のことについて美弥のおねだりにめっぽう弱い。
 危ないことはせぬし、いわくありげな、江戸に不慣れな二人の役に立ちたいと懇願され、若き頃は剣豪と称された速水辰馬ほどの男が、わりとたやすく陥落した。
 二人が招き入れられる前のことである。

「表向きより退いた身。今になってそこもとらのような若者がおとなうてくれるとは」
「まずは礼を失した突然なる訪問、心よりお詫び申し上げます」

 若瀬、通称〝若〟は丁重に頭を下げた。律もそれに倣う。

「火急の用向きにて。命と、御家に関わることなればご助力を賜りたく……」
「して、どのような。そもそも、なにゆえに速水の名をご存じか」
「無論、申しあげます。ただ……」

 ちらり、と若と律は速水師匠の斜め後ろに控える美弥に視線を投げかけた。

「わたしは席を外しはしないぞ。おぬしらに万万が一、害意があったら、師匠に申し訳が立たぬ」
「害意などあるわけが」
「ないとは言い切れぬ。後先考えず案内したが、仇討あだうちなどではなかろうかと今頃になって心配になったのだ。師匠の傍でわたしも話を聞かせて頂く」

 美弥は自分が座を外すことなどありえないと言い張った。
 さて困った、と律と若瀬は揃って眉を寄せた。
 巾着を取り戻してくれただけでなく、道案内までしてくれた。そしてその案内先は自分の師匠だと言って、約束はもちろん面識もない、書状ひとつない二人が師匠に会えるよう口添えしてくれたのだ。

「お二人とも。これなる美弥はそれがしが剣を教えた中でももっとも優秀なる者の一人。この若さで免許皆伝の腕前じゃ。心技体まことにすぐれ、頼むに足る者。美弥を外さねばできぬ話ならお帰り頂こう」
「はっ……」

 このいかにも厳しげな男がここまで言うのだ。
 信じるしかない。信じなければ先へ進めない。
 助力を乞えと言われたのだから。
 いまわのきわの、あの男に。

「……速水師匠。そして美弥殿。申し上げるまでもないが他言無用に願いたい」

 当然だ、とうなずく美弥の白皙と、わずかに首を縦に振った速水師匠を見つめながら、律は重い口を開いた。


   ***


 あたしは退屈になってきた。
 今日も姫様の胸元に潜り込んで町見物をしよう、と思っていたのに、なんだかいつもとは違う流れになっている。
 知らないお侍が二人。
 にこにこしているお侍は人がよさそうだけれど胡散臭い。あたしが姫様と出会う前、笑いながら汚いと言って蹴飛ばしてきた男がいたんだわ。身なりもいいし温厚そうではあるけれど用心しようと思う。
 それからとても背の高いお侍。眼光が鋭い。目つきが悪い、というのとは違うから怖くはないけれど。強い人かもしれない。雰囲気というか、身ごなしというか。なんとなく稽古をしているときの姫様に似ている。
 姫様はどうしてしまったんだろう。
 今日は新しい猫じゃらしを買ってやろう、って言ってくれてたのに、剣術道場こんなところに来てなんだか難しい話が始まりそうだ。
 姫様のお師匠も厳しい顔をしているし。たまに会うこの人、皆が見ていないところで、あたしに浴びるほどおやつをくれるんだけれど、今はくれないみたい。
 あたしはとりあえず姫様の胸元から顔だけ出してみた。

「――おや」
「お、これは」

 二人は目を丸くしてあたしを見つめた。
 お師匠が少しだけ目元を柔らかくしている。
 姫様は「玉、どうした」と言ってきれいな人差し指で喉を撫でてくれた。

「ずいぶん小さいな。子猫か」

 若、と呼ばれているほうの人が言った。
 大きくなれないの。でもだから姫様の懐に入っていられるの。放っといてほしいわ。

「美しい猫だな。濡羽色ぬればいろだな」
射干玉ぬばたまと言ってやってくれ。名は玉という」

 すかさず、姫様があたしの頭を撫でながら言ってくれた。
 濡羽色ぬればいろはイヤだわ。
 あたしは小さいから、奴らからすに狙われたらたいへんだもの。奴らは天敵なの。
 律、とかいう背の高いほうの人にシャア、と鳴いて抗議してやったのだけれど、彼はくすりと笑って「悪かった、もう言わないから勘弁してくれ、玉」と言った。
 目力のすごい人だけれど、笑うとずいぶん親しみやすくなる。
 すぐに許してやるのもどうかと思って身構えていたのだけれど、「玉、ここへ」と言って胡坐あぐらをかいた自分の膝をぽんぽん叩いている。猫好きなのかもしれない。
 お屋敷を出てからずっと懐の中だったから、ちょっと手足を伸ばしたいかも。
 どうしよう? と姫様を見上げると、姫様は「撫でさせてやったらどうだ?」と言ってくれたので、あたしは飛びおりて、まず前足を伸ばして、そのあと後ろ足も伸ばしておいた。気持ちがいい。
 駆け寄るほど抱っこに飢えてないから、あたしはゆっくり歩いて彼に近寄った。

「ここだここだ、玉」

 ぽんぽん膝を叩いているけれど、あたしはまず差し伸べられた手の匂いを嗅いで、膝の匂いも嗅ぐ。うっかりお屋敷内の中間部屋なんかへ行くと、男たちの汗の臭いとか酒や煙草の臭いがしてうんざりなのだけれど、この男はそんなことはなかった。悪くない。
 慎重にまず額をぶつけてから、すり、とひねりを加えながら耳の後ろを擦りつける。

「愛いな、玉」

 あたしが勿体もったいぶっていたら、とうとう男はあたしの首の後ろをつまみ上げて胡坐あぐらの中に入れた。
 広くて温かい。
 姫様もいい匂いがしてきれいで大好きだけれど、この男の胡坐あぐらの中もかなり悪くない。
 頭、喉とゆっくりと、毛並みを整えるかのように撫でられて、あたしは喉を鳴らしながら目を閉じた。


   ***


「――我らは椿前つばきまえ藩の者。もっと言えばその継嗣あとつぎと幼馴染だ」

 黒光りする美しい猫を撫でながら、律はとんでもないことを表情ひとつ変えず口にした。
 椿前つばきまえ藩。当代の藩主は藤田令以ふじたりょうい
 佐川家同様の譜代大名ふだいだいみょうで、石高は三十五万。関八州に隣接、つまり参勤交代もたいして苦にはならない好立地の所領を持つ、堂々たる国持大名である。
 なまじのことでは表情筋を動かさない速水も眉を跳ね上げ驚きを隠そうとしない。
 若い美弥はあんぐりと口を開けた後、今度は何を思ったか大変難しい顔をしてふっくらとした唇を引き結んだ。

「名乗らずにいたわけは、まあ事情が事情だけに、ということだ。悪かった」

 美形はどんな顔をしてもさまになるな、と思いつつ、律は美弥を視界の隅にとらえながら言った。

「事の発端は殿のご不例だ。今は江戸詰めだが、昨年国元を出立される頃よりたびたび床に就かれることが多く、このたびついに隠居を決意された。そこで同じく江戸におられる嫡男・和春かずはる様が順当に家督を継がれることになったのだが」

 律はいったん口をつぐみ、傍らの若瀬をちらりと横目で見た。
 わずかに目交ぜしてからうなずくのを見届けて、彼は皆の前に置かれたまま、ぬるくなりかけの白湯さゆを一口、飲んだ。

「――なんと和春様が急死された。心の臓が急に止まった、とのことだがどうだか。幼き頃より、病ひとつされなかったというのに。まあ、死に目にも会えず、突然のことにて実感が湧かぬというのが本当のところだが。……で、家督は次男に渡ることとなった」
「それが、若瀬殿か」

 美弥姫にひたと見つめられ、若瀬は曖昧に笑んで答えの代わりとした。

「そこで、だ。国元でのほほんとしていた次男が(そんな言い方はないよねと若瀬は小声で抗議した)急遽呼び寄せられたのだ。正室の子といえど次男坊。国元で気ままに暮らしていた男に家督が渡ることになって、三日前、取るものもとりあえず出立した」
「ずいぶんと慌ただしいことだな」
「いかにも。美弥殿は聡いお方だ」

 柔らかな笑みを引っ込めると、今まで黙っていた若瀬が初めて口を開いた。
 美弥のまっすぐな視線を受け止めながら、彼は笑みは消しても感情の読めない穏やかな表情を見せている。

「慌ただしすぎた。なぜか? 嫡男急死のしらせと同時に江戸から迎えが来たからだ。もともと家督相続の届け出は済んでいて、将軍様に謁見する日が決まっているから動かすわけにはゆかぬと」
「嫡男の急死、という不測の事態があってもか」
「考えてみればそのとおり。願い出れば日時の変更は可能だったかもしれないのに、迎えの一行は我らに考える間を与えず、出立を急かした。供の者など後から呼び寄せればよい。少人数でかまわないと。それで我らとあと一人、わずか三名で江戸へ向かうことになった。迎えの二十名と共に」
「……おぬしらは二名」

 低い声で美弥が言う。

「もうお一人のお連れはいかがされた」
「死んだ。斬られた」

 口調だけはあっさりと、律は言った。
 いつのまにかすっかり寝入っているらしい玉を撫でる手は止まり、両手を握りしめている。
 激情をほとばしらせないよう、まるで拳の中に己の感情を閉じ込めようとするかのように。

「江戸はすぐそこ、しかしもっとも深い峠道にさしかかったときだ。突然、迎えの一行は我らに刃を向けた。武士の誇りもなく、後ろから前から数を頼んで斬りかかってきた。雑兵ならなんということのない人数だが、皆、けっこうな手練てだれ揃いでな。俺は腕に覚えがあるし、若もこう見えてそれなりゆえ、わが身くらいは守れる。しかしもう一人は歳であった上、囲まれ、一度に斬りかかられて。……それで」
「気の毒なことだ」

 美弥は呟いて長い睫毛まつげを伏せた。

「事の次第を吐かせようとなんとかひっとらえた一人は、太刀傷がもとで数刻後には死んでしまった。一行のうち、二人くらいは逃げおおせたと思う。今頃とっくに江戸屋敷では襲撃失敗の報を手にしていよう」
「江戸屋敷で何が起こっているのか。わからぬうちはのこのこと顔を出すわけにゆかず」

 若瀬はこのあたりまできてようやく、焦慮しょうりょと苦渋をその声にわずかににじませた。

「我らが生きていると知れている限り、必ずまた狙われる。それに、奴らはなんとしても我らを狙う理由がある」
「理由?」

 美弥は小首をかしげた。
 豊かな黒髪がふわりと動き、められたらしい品のよい香がかすかに一同の鼻腔をくすぐる。

「どんな理由が?」
「神君・家康いえやす公から賜ったという脇差わきさしだ」
「ほう、それは……いや、家宝であろう」

 それはうちにも似たようないわれのものがあるぞと言いそうになり、美弥はなんとかそつなく相槌を打った。

「して、その脇差わきさしが?」
「藩主の形代かたしろとして、家宝として、藩主が江戸にあるときは国元に、国にあるときは江戸に置く習わしなのだが、家督相続のときのみ、次代当主はこの脇差わきさしを現当主から受け取る。江戸屋敷において、将軍家から参られる使者殿の目の前で。それゆえその日までになんとしても脇差わきさしが必要なのだが、奴らはそれを奪えなかった。殺害に失敗し、脇差わきさしも奪えなかったとなると」
「……血眼ちまなこになっておぬしらを探しておろうな」

 美弥が後を引き取った。
 美弥の一言に何の誇張もないことは明らかだった。
 既に一人殺されている。そもそも、二十名もの人間を刺客として送り込むとは敵の本気度も知れようというものだ。血眼ちまなこになって探して、次男と側近を消し、家宝の脇差わきさしを奪う。そしてその後は?

「――しかし、律殿。ではいったい誰が椿前つばきまえ藩を継ぐというのだ? 嫡男、次男と消して、他に誰ぞいるのか?」
「目星はついている」

 苦々しげに、律は言った。
 のほほんとして見える傍らの若瀬も、さすがに厳しい面持ちだ。

「江戸家老が連れてきた男だ。ほんの半年前のことだ。殿のご落胤らくいんと言い張って家老みずから強引に仲立ちをして江戸屋敷の一角に住まわせた。これが発端だ」

 ――嫡男急死の半年前、椿前つばきまえ藩ではちょっとした騒動が起きた。


 藩主のご落胤が現れたのである。
 謹厳で、江戸はもちろん国元にも側室を持たなかったはずの殿にご落胤などありえない。家中は蜂の巣をつついたような騒ぎとなったが、意外にもさほどのときを経ずして鎮静化した。
 ご落胤の存在を明らかにしたのが、なんと椿前つばきまえ藩一の実力者、江戸家老・林惟信はやしこれのぶであったためだ。
 藩主・藤田令以の幼馴染であり、切れ者と名高い江戸家老は「いつか殿にお目通りのかなう日まで、恐れ多きことながら我が子とも思い大切にお育て申した」とまことしやかに語り、冷徹と評される鋭い目を光らせて異論・反論を封じ込めた。
 驚愕する家臣たちを黙らせた後、なし崩し的に藩主・令以とそのご落胤を引き合わせると、どのような話し合いが持たれたのか、その者はとりあえず江戸屋敷の一角、通称・奥棟に住まいを与えられた。

「我らはこのあたりまでの事情しか知らぬ」
「知らされていなかった、というのが正しいのでしょうが」
「昨今のことどもを知っておれば、迎えの者どもの言葉を鵜呑うのみにして出立などしなかったであろうな」

 そして仲間を失い、このように速水道場を訪ねる必要もなかったことだろう。
 若瀬も律もその先を口にすることなく、肩を落とした。


 ――ご落胤が居を構えてからというもの、椿前つばきまえ藩江戸屋敷は急速に様変わりしていった。


 ここからは、国元にいた若瀬と律の知らぬ事情である。
 まずこの頃から、あまり人相のよくない侍どもがに出入りするようになった。
 その者らは皆揃って奥棟を目指し、おそらくはご落胤とやらに目通りを果たした後、屋敷内を我が物顔に歩き回っている。じわじわと中間部屋を牛耳り始め、古参の侍と小競り合いを起こしている。
 目に余ると注意した者は、江戸家老・林によって次々と閑職に追いやられた。
 そして、実力者である江戸家老の後ろ盾をよいことに、ご落胤の贅沢三昧が始まった。
 だが、藩主の庶子として認められたかといえばどうも様子がおかしい。家臣への披露目もないままであるにもかかわらず、まるで享楽に耽ること、それを許されることこそが、彼が藩主の血筋である理由と言わんばかりである。
 殿はいかようにお考えなのだと屋敷うちで取り沙汰されるうち、正室を亡くした後、病がちであった令以は隠居したいと公言し、そしてとうとう嫡男が急死。
 江戸屋敷の実情など思いもよらず、嫡男・和春の死のみを知らされ、若瀬と律は出立して――

「そもそも毒見役はおらぬのか椿前つばきまえ藩は。目付は何をしている? どこから聞いても一服も二服も盛られたようにしか聞こえぬぞ」

 座していてもなお体格のよい二人が悄然としているさまは、憐れとさえ言えたが、美弥はあえて容赦なく指摘した。
 身元の詮議もそこそこにほだされてはならないと考えたらしい。
 そして、美弥の指摘について当然思うところはあったのだろう。
 二人の侍は大きな体を縮めるように身じろぎしつつ、目を逸らす。
 毒については藩主が体調不良となった頃から調べさせているがはっきりしないこと。
 毒見役が買収されている可能性があること。
 江戸家老と、彼が後見をするご落胤とやらが黒幕であろうが、嫡男急死と今回の二十名もの刺客の件が明らかになるまでは国元へは何も知らされず、自分たちが狙われたことで思い当たったこと。
 一人が口を噤むともう一人が後を引き継ぐように言葉を連ねる。そうしてなんとか知り得る限りのことを語り終えたらしい二人は、最後にがばりと身を伏せた。

「どうかどうか、お力をお貸し下さい。……なにとぞ」
「速水師匠、このとおりだ」
「待たれよ、お二方。そのようなことをされても」

 額を床にこすりつけ、なりふり構わずといった風情の二人を前に、美弥は困惑したように眉尻を下げて、二人と傍らの師匠を交互に見やった。
 速水は目を閉じたまま、ずっと沈黙を続けている。
 傍目には居眠りでもしているかのようだが、静かな緊張感と言おうか、黙っていてもそれとわかるぴりりとした気配が立ち込めていて、彼が全身を耳にして聞き、そして考えているのだと美弥にはわかる。


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