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1巻
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あたしは玉。
たま、でもタマ、でもない。「玉」である。これ、重要。
そのへんでにゃあにゃあ言ってる連中と一緒にしないでほしい。
姫様がつけてくれた、大切な名前だから。
あたしには母猫の記憶がない。
目が開いた頃には捨てられていたのかはぐれたのか、お腹は空くし心細いしで声を振り絞ってみいみい言っていたのがたまたま姫様のお居間の軒先だったらしい。
生け花をしていた姫様が気づいてくれて、御女中をやってあたしを連れてこさせたのだ。
初めてあたしを目にした姫様はきれいな形の眉をひそめていた。
それは、そうだろう。
毛はぼさぼさ、目やにがういて、乳も足りないからがりがり。
こんな汚い生き物なんて初めて見たに違いない。
「うるさい」
「汚い」
「縁起でもない」
どこか遠くへ捨ててきましょうと御女中たちは口々に言ったけれど、それでもあたしは助けてほしくて必死で鳴いた。
そうしたら。
姫様は無言ですいと立ち上がった。
脇息を支えにすることもなく、まるで男の人のように身軽に立って、びっくりするほど慎重な手つきであたしをそっと抱き上げた。
「母はどうした? かわいそうに」
「洗ってやろう。皆、まあそうひどく言うものではない」
お手もお召し物も汚れますと騒ぐ御女中たちを嗜め、姫様は袖であたしをくるみ込むようにしながら話しかけた。
いい匂いのする、きれいな姫様。
あのときのことは今でもたびたび思い出す。
姫様はあたしを嫌悪して眉をひそめていたのではない。かわいそうだと言ってくれたのだ。
猫的に言えば、「憐れみなどけっこう」かもしれないけれど、そんな猫の矜持は生まれて間もないあたしにあるわけがない。優しい手も穏やかな声も。耳から、全身から染みとおるようだった。助かった、と思った。実際、助かった。
けれど姫様は型破りなお方だった。
抱っこされて甘く話しかけられ、思わず気が緩んだあたしを、姫様は手桶の水にざぶんとつっ込んだのだ。
仰天したあたしはぎゃうぎゃう鳴き、御女中たちがうろたえ騒ぐ中、姫様はあたしの体中を洗い、きれいな手が汚れるのも構わず丁寧に目やにを取ってくれて、厩舎から馬の乳を持ってこさせ、乳をたっぷり含ませた手ぬぐいを何度もあたしの口元にあてがって飲ませてくれた。
ひと心地ついて顔を背けると、もうよいのかと姫様は手ぬぐいを放って、あらためてまじまじとあたしの顔を覗き込んだ。
真っ黒でぴかぴか光る姫様の目。黒曜石みたいだ。
その中に映り込んでいるちっぽけな毛玉はなんだろう。
お腹はくちくなったし、眠くなってきてゆらゆらし始めたあたしを姫様はしばらく眺め、やがて。
「――この子はわたしがもらおう」
姫様は誰にも否とは言わせぬ調子できっぱりと言って、あたしは姫様の飼い猫になった。
***
姫様に拾われて二年、あたしは何不自由ない暮らしをしている。
お屋敷に出入りの学者が「衣食足りて礼節を知る」とか誰かに講義をしていたけれど、猫も同様。
おいしい食事、新鮮な水をもらって、姫様の膝か、絹の座布団で眠る。
こんな厚遇を受けたらあたしだって猫の誇りにかけて、すぐにご不浄の場所を覚え、お屋敷の畳や柱で爪とぎをしてはいけないことも学んだ。あたしをいじめる奴の部屋ではわざといたずらしてやるけれど。
姫様をはじめ皆が「なんて賢い猫だろう」と言って頭や喉を撫でてくれるから、あたしはご機嫌で喉を鳴らし、体中を舐めまくって身ぎれいにしている。
出会ったとき、汚いだの縁起悪いだの言われた黒い毛並みは、今ではあたしのご自慢だ。
「射干玉の黒髪」という言葉があるが、お前の毛艶はまさにそれだね、と姫様は愛でてくれて、あたしの名前は「玉」となった。「射干玉」の「玉」だ。
さらに。
あたしの目の色は緑色なのだそうだ。
きれいな姫様はきれいなものが好きらしい。お前の目は翠玉のようだと褒めちぎり、ある日とうとうあたしの首輪には翡翠の玉がつけられた。それまでにも緑色の伊賀組紐を結んでもらっていたのだけれど、玉飾りまで付いたのだ。ごくごく小さくあたしの名前、「玉」と彫りものまで入れてあるという凝りよう。御女中たちは当然のこと、両親に二人の兄、下働きに至るまで姫様に逆らえる者などいないから、出入りの商人にけっこうな金額を支払ってこれを注文し、あたしの首に取り付けて姫様はすこぶるご満悦だ。
その姫様が。最近、ご機嫌が悪い。
悪いというか。気鬱なのかもしれない。月を眺めてはため息をつき、あたしを撫でくりまわす。
撫でられるのは好きだけれど、なんだか荒っぽくておざなりなのが気に入らなくて、そのうち黙って姫様と距離を置く。
すると「玉はつれないね」と言ってまた引き寄せられ、仕方なしにしばらく我慢してされるがままになるけれど、やっぱりぐりぐりと力任せで、またうんざりして飛び退る。「玉、おいで」と言われたけれど、今度は無視して尻尾で畳の縁をぱたぱた叩いて抗議してやった。
いったいどうしたの、姫様。
あたしは小首をかしげ、姫様と目を合わせて「にゃう」と小さく鳴いた。
「……玉。聞いてくれるか」
姫様はふう、とまた小さく息を吐いた。
月が見たいと戸を開け放っているから、もう夜も更けたろうに寝間は月明りに青白く照らされている。
白い寝衣を着た姫様は、気だるげに柱に背を預けて片膝を立てている。
手元には白い徳利と杯があって、月見酒と洒落こんでいるようだ。
姫様はそこらの侍よりも漢らしいのだ。
その姫様がこんなに沈んでいるなんて。
ちょっと同情したけれど、またぐりぐりされてはかなわないから、あたしは絹のお座布団の上で香箱になって続きを聞くことにした。
「許婚殿が来るらしい。……父上がそう仰った」
ぐい、と白い喉を反らせて、姫様は杯を空にした。
「一か月後だそうだ。顔合わせをする。形だけだ。そのとき、祝言の日も決めてしまうそうだ」
そうだった。姫様もお年頃だった。で、祝言の日取りまで決まってしまう、と。
一緒に連れてってもらわなくちゃ、と、あたしは夜風にひげをそよがせながら考えた。
「幼き頃より決められていた許婚殿だ。覚悟はできている。ただ――」
姫様はとうとう徳利に直接唇をつけてぐびりと音を立てて飲み下した。
姫様はうわばみなのだ。口の堅い御女中数名と、あたししか知らないけれど。
「ただ、もう少し。……あともう少し、自由でいたかったのだ、わたしは」
恋とやらも、してみたかったしな。
凛々しい、竹を割ったような性格の姫様だけれど。
ふふ、と恥ずかしそうに笑って付け加えた姫様の横顔は、絵草紙に描かれた古の美姫、そのものだった。
***
黒猫・玉が住処を得たのは鵺森藩主・佐川宣重の江戸屋敷である。
宣重は石高こそ三十万石とそこそこだが、所領は江戸に近く、何より三河以来の譜代大名であり、代々幕閣の重鎮として遇されていて、幕府における発言力は大身と呼ばれる外様の諸大名など足元にも及ばない。
公正、篤実な性格は当代の将軍・綱吉の覚えもめでたく、幕府内でのお役目もあることから宣重はほとんど江戸詰めであり、正室・お豊の方と三人の子と共にずっと江戸屋敷で暮らしている。参勤交代で所領と江戸との往復に苦労する諸大名からすれば羨ましい限りだが、将軍の信頼厚く本人も公平公正とあってはけちのつけようもなく、「ご先祖がよほどの徳を積んだのだろうさ」とやっかみを言うのが関の山である。
正室・お豊の方は鵺森藩江戸家老の娘で、宣重の幼馴染だ。
才気煥発、武芸までも嗜み、女子には惜しいと剣術指南役が苦笑するほど。十二、三までは宣重は豊を男だと思っていたらしい。家老の娘、完璧な猫かぶりであった美少女「豊」と、木刀を振り回し、木登りをし、共に学問の講義を受ける「豊」は双子の兄妹と思っていて、「豊を娶りたいが主家の権勢づくではなく気持ちを伝えるにはどうしたらよいか」と「豊」に相談した、というのは宣重の黒歴史であり、おしどり夫婦と呼ばれる佐川家の笑い話となっている。
宣重の子は三人。温厚な長男・宣秀、算術の天才と誉れ高い次男・重政、そして美弥。この美弥姫が黒猫・玉の主である
いかにも「太平の世」の武士らしいと言えばらしいが、宣秀も重政も剣術はそこそこという程度であるのに比べ、よちよち歩きの頃から練習についてきた美弥は見よう見まねで棒切れを振り回して兄と共に練習に励み、あっという間に兄たちを凌駕し、やがて出入りの剣術指南役をつかまえて本格的に教えを乞えば瞬く間に上達して、十六になった今年、師匠いわく「教え子の中で一、二を争う速さ」で免許皆伝となった。
そして今。
美弥の趣味は供も連れずに行く散歩である。
免許皆伝となったら江戸城下、ぶらぶら町歩きを一人で楽しむと勝手に誓いを立てていた美弥は有言実行の人である。
良識人の兄たちは心配してやいやいうるさいが、もともと剣術好きだった母は目を細めて「美弥は頼もしいこと」と言うし、その母に甘い父は当然美弥にも甘く、「輿入れまでは好きにさせてやれ」と言う始末。
だから美弥はこのところほとんど毎日のように一人で屋敷を抜け出していた。
正確には、一人と一匹、であったが。
黒猫・玉はその名の如く射干玉の美しい黒い毛並み、宝玉の目がご自慢の美猫であるが、その体躯はいつまでたっても子猫に毛が生えた程度。なぜか成長が止まってしまったため、それをいいことに美弥の懐や袂に潜り込んでは美弥と共に屋敷の外を満喫していたのだった。
***
美弥は人気者である。
町を歩けば人々は振り返り、ため息をつく。積極的な町娘からの付け文はひきもきらない。
目立たぬ色の袴に小袖。脇差を差して、見事な黒髪は後ろで高々と一つに結わえている。ふっくらとした桜貝を重ねたような唇、つるりとした卵肌の細おもて。人形のように整った目鼻立ち。
月代を剃らず前髪も切らず、いわゆる総髪と呼ばれるその姿は、美貌の小姓か御典医のお弟子か、はたまた少々風変わりな意匠を好む元服前の武家の令息か、と江戸のそこかしこで娘たちの心の臓を鷲掴みにしていた。
ならず者に言い寄られていた茶屋の娘を助けたり。
道に迷った老人の手を引いてやったり。
肩が触れたのぶつかっただのと因縁をつける不良侍を諫めたり。
本人が気負わず飄々としているので、ますますその評判は高くなる。
さらには時折、その胸元から愛らしい黒猫が顔を出しているものだから騒ぐなと言うほうが野暮というもの。
お強くて美しいと憧れる者。猫だけでも譲ってほしいだの、男色の相手にと不埒な目で見る者。
実際、陰間茶屋へのお誘いも一度や二度ならず、であったが、美弥はいずれも軽くいなして気にもとめない。さばけた性格であるし、女子の自分が男装をしているのだからさもありなんと腹が据わったものだ。黄色い声やら鼠鳴きやらを適当にあしらいながら江戸のあちこちを歩き回り、買い食いをし、茶屋で一休みし、「岡場所と吉原以外は踏破した」と誰に自慢するでもないがいっぱしの江戸通を自負するようになった頃の、ある日のこと。
――前を歩く男の挙動が美弥の目にとまった。
なんということはない、目立たぬ町人風に装った小男だが歩き方に隙がない。
日本橋界隈の目抜き通り。行き交う人で溢れかえっているが、用事のある者は早足、そぞろ歩きはそれなりの風情。侍か町人か僧侶か町娘か、それぞれの身分や目的で歩き方が異なっている。
(ふん、これは)
美弥は軽く目を瞠った。
小男はすい、とさらにその前を行く者との距離を詰めた。
大小を差してはいるがまるで警戒心もなく、たいへんおっとりとした歩き方で左右を楽しげに眺める着流し姿の侍に、町人風の男はとん、と軽く肩を合わせる程度にぶつかって、御武家様、申し訳ございません、と口の中で呟きながら数歩下がって人波に紛れるや、脱兎の如く走り出す。
(掏摸だ)
「おぬし! そやつを追え!」
言うが早いか、美弥は男を追った。
「おぬし? ――わたしのことか?」
掏られた侍は振り返って女のように小首をかしげるのみで埒が明かない。美弥は俊足を飛ばしてあっという間に小男に追いつくと、足払いをかけてそのまま腕を捩り上げた。まああの方よ! とか、若様、あっしが加勢を! という声を聞き流し、美弥は暴れる男の背中に軽く膝を当ててのしかかる。
男にしてみれば渾身の力だろうが、地面に這いつくばらされ、急所を押さえられていてはどうにもならない。
じたばたとしながら憎まれ口をたたく。
「くそ、いってえ、はなしやがれ!」
「貴様が掏ったものを返してもらおう」
「そんなもの、俺は知らね、ってええ!」
美弥はもう少しだけ捻る手の力を強めた。
大した力は入れていない。関節を極めているだけだ。
いたいいたい、と情けない声が上がる。
「番屋へ行く前に腕を折られたいか?」
「わ、わかったよ! 返すっからはなしてくれよ」
「はなしてもよいが逃げるなよ」
美弥は用心深く拘束を解いた。
小男は腕や手首をさすりながら、存外おとなしく巾着を投げ出す。
「これだけか?」
ぎろりと睨まれ、気弱げな掏摸は飛び上がる。
「ほんとだよ! お天道さんに誓ってこれ以上は」
「まあいい」
美弥は手を払いながら立ち上がった。
ぐるりと周りを見渡すと野次馬の山だ。
自分の巾着だろうに、目を丸くして見物しているさっきの若侍の姿も見える。
なんだ、あの男は。他人事のように。
美弥が思わず軽く舌打ちしていると、あの若さんだ、役者さんみてえだと囃す声が聞こえてきた。
さすがに、これはまずい。
この程度の掏摸、番屋に突き出したところで美弥にとっては面倒が増えるばかりだ。
男と名乗っているわけでなし、後ろ暗いことをするでもなく、特段派手にしているつもりさえないが、幕閣の重鎮、佐川の息女と知れたらことだ。
父上、兄上たちの面目にかかわる。
美弥は地べたに手をついたままうなだれる男を見下ろした。
美弥の脅しはかなり痛かったのだろう、すっかり震え上がっているらしく逃げる様子はないし、新手の掏摸にあると聞く、物騒な匕首を仕込んでいるわけでもなさそうだ。
しばしの無言に耐えかねたようにそろそろと掏摸が顔を上げると、厳しい面持ちで黙考する美弥と目が合い、またあわてて額を地面に擦り付ける。
ずいぶんと怯えているようだ。
掏摸といってもまだ素人か。掏摸の素人、というのもおかしな話だが。
美弥は内心苦笑しつつ、
「――お前の顔はようく覚えとく。二度目があればお前の利き腕、たたっ切ってやる」
はったりを利かせて言い放った。
ごきごきと音がなるほど力強く首を縦に振る掏摸を見下ろして、念を押す。
「よく聞こえるように返事をしろ」
「わか、わかりやした、おさむらいさま、もう二度と……」
「いけ」
「へ、へえ……」
ふらふらと立ち上がり、もう一度蜻蛉が切れそうなほど頭を下げると、踵を返してよろめきつつも逃げ去ってゆく。
「なんだ、逃がしちまうのか」
「若さん、お優しいこって」
「お顔もお心もおきれいだな」
「――皆、もうよい。見世物ではないぞ」
不平を言う者、美弥を揶揄する者。野次馬はてんでに騒いだが、江戸の町に掏摸は珍しいことではない。巾着は戻ったようだし、妙に威厳のあるこの若君が見逃したのだからまあそれでよいのだろう。
集まるのも早いが散るのも同様、いくらもせぬうちに人だかりは消え失せ、あたりはまたもとの平和な喧噪に包まれた。
「――おぬし」
巾着を返してやろうと美弥が向き直ると、さきほどの若侍が深々と頭を下げていた。
「かたじけない。礼を申す」
「……いや。それより、おぬし」
美弥はじれったそうに華奢な手を振った。
「不用心すぎるのではないか。あの程度の掏摸、気づかなくてどうする」
「面目ない」
顔を上げた若侍はおっとりと微笑んだ。
温和な目元が涼しげで、すっきりと整った顔立ちなのだが、にこにこと人のよさ丸出しで微笑むその姿は、陽だまりのお地蔵様のよう。
(武士とは思えぬ。腰の大小が惜しいわ)
美弥は一瞥して手厳しく決めつけた。
大名家の姫である上、武芸を極めた美弥は、当然ながら目利きである。この男の携える刀も、それなりのものであることは柄や鍔を見ればわかる。
(刀身だけ竹光ということもあるまい)
汚れのない白足袋。着流しはよく練られて鈍く光る藍色の絹地で、どこぞの旗本の跡取りか、と美弥が値踏みしていると。
「おい、……若、若‼」
焦った大声と共に人々の間から大柄な男が飛び出してきた。
勢いがよすぎてわずかに通り過ぎかけ、身を翻して「若」の肩を掴む。
「若! もう、どこへ行っちまったかと……」
「やあ、律。ずっとここにいたよ」
「嘘つけ、ちょっと目を離すと」
「それよりね、律。このお方が掏摸をつかまえて下さったのだ」
「掏摸を?」
「律からもよく礼を申し上げておくれ」
「それは……」
男はようやく美弥を振り返り、そして瞠目した。
男は背が高い。美弥は女性としては長身だが、それでも男の肩あたりまでしかない。
律と呼ばれた男は明らかに元服前のいでたちの美弥を頭の先から足の先までじろじろと眺めた。
何しろ、めったにない美貌である。男は賛嘆の色を隠そうともせず、
「これはまた」
と、まず一言、呟いた。
美弥は人々のこういう反応には慣れている。気にもとめず、
「おぬしが供の者か。江戸は掏摸にかっぱらい、夜ともなれば辻斬りもいる。せいぜいその〝若〟から離れぬことだ」
「ご親切に、いたみいる」
長身の男は年若い美弥の大真面目な説教を小馬鹿にする様子もなく、頭を下げて丁寧に言った。
「それがしは時任律と申す。こちらはそれがしのお仕えするお方だが、わけあって名を明かすわけには参らぬゆえ、ご容赦を願いたい。聞けば掏摸をつかまえ、巾着を取り戻して下されたとか。あらためて御礼申し上げる」
「行き掛かり上だ、気にするな」
美弥は簡単に応じると、律に頭を上げるよう促した。律は顔を上げるとまた遠慮なく美弥の白皙を見下ろし、感に堪えぬように小さく首を振った。
「これはまた。……男にしておくのが惜しい」
「律、江戸では衆道も盛んらしいよ」
「うむ。……俺は女子しか抱く気はなかったが宗旨替えも、って、若! 不届きであろうが」
「あはは」
のんきな主従だ、と美弥は呆れ半分、あとの半分はあらたな興味を持って二人を眺めやった。
なまっちろい若に従う律は精悍な印象の男だ。
少し日に焼けた浅黒い肌、鋭い眉、くっきりとした切れ長の目。みごとに整った目鼻立ちだが、あくまでも男性の美しさだ。堂々たる体躯、眼光、手練れらしい挙措がそれを物語る。
(強そうだな。わたしと互角、いやそれ以上、か)
賢い美弥は、自分に足りないのは実戦だとわかっていた。
この男――律は、道場で鍛えただけではない、いわば「本物の」手練れの匂いがする。
それに。
(美しいな。兄上たち以上に美しい男などそうはいないと思ったが)
剣の腕はいまひとつだが、美弥の兄たちはその男ぶりのよさで有名なのだ。
(強くて、美しくて。……このような男、女子が放ってはおくまい。聖人君子というわけでもなさそうであるし……)
「……そろそろよいか?」
「……え?」
苦笑交じりの声で我に返る。
いつのまにか、美弥は律の顔を見つめたまま物思いに耽っていたらしい。
「すまぬ」
美弥はわざとらしく二、三、咳払いをした。少し頬を染めているさまは、そこらの女など足元にも及ばない色香を漂わせている。困ったことに、本人はそれに気づいてはいないようだが、と二人の主従は期せずして同じことを考えていた。
「え、と、その……〝江戸では〟と言ったな。おぬしらは旅の者か、それともこちらへ来て間もないのか」
「いかにも」
「おい、若!」
のんきに首肯した主を𠮟責したが、もう遅い。
わずかな一言を聞き漏らさない美弥の鋭さに内心舌を巻きつつ、
「実は昨日江戸入りしたばかり。行きたいところがあるのだがわからず困っている」
と打ち明けた。
「さきほどそれがしが若から離れたのも」
「道を聞きに行ったのか」
「さよう」
「わたしの知っているところであれば案内するぞ」
心もち胸を張って美弥は言った。
江戸生まれの江戸育ち。大名家の姫君ではあるが、ここ半年かそこらは精力的に歩き回っているから、なまじ仕事で持ち場から離れられぬ町人より詳しいはず、と自負している。
どうする、とわずかに男二人は視線を絡ませてから、軽く頷き合った。
たま、でもタマ、でもない。「玉」である。これ、重要。
そのへんでにゃあにゃあ言ってる連中と一緒にしないでほしい。
姫様がつけてくれた、大切な名前だから。
あたしには母猫の記憶がない。
目が開いた頃には捨てられていたのかはぐれたのか、お腹は空くし心細いしで声を振り絞ってみいみい言っていたのがたまたま姫様のお居間の軒先だったらしい。
生け花をしていた姫様が気づいてくれて、御女中をやってあたしを連れてこさせたのだ。
初めてあたしを目にした姫様はきれいな形の眉をひそめていた。
それは、そうだろう。
毛はぼさぼさ、目やにがういて、乳も足りないからがりがり。
こんな汚い生き物なんて初めて見たに違いない。
「うるさい」
「汚い」
「縁起でもない」
どこか遠くへ捨ててきましょうと御女中たちは口々に言ったけれど、それでもあたしは助けてほしくて必死で鳴いた。
そうしたら。
姫様は無言ですいと立ち上がった。
脇息を支えにすることもなく、まるで男の人のように身軽に立って、びっくりするほど慎重な手つきであたしをそっと抱き上げた。
「母はどうした? かわいそうに」
「洗ってやろう。皆、まあそうひどく言うものではない」
お手もお召し物も汚れますと騒ぐ御女中たちを嗜め、姫様は袖であたしをくるみ込むようにしながら話しかけた。
いい匂いのする、きれいな姫様。
あのときのことは今でもたびたび思い出す。
姫様はあたしを嫌悪して眉をひそめていたのではない。かわいそうだと言ってくれたのだ。
猫的に言えば、「憐れみなどけっこう」かもしれないけれど、そんな猫の矜持は生まれて間もないあたしにあるわけがない。優しい手も穏やかな声も。耳から、全身から染みとおるようだった。助かった、と思った。実際、助かった。
けれど姫様は型破りなお方だった。
抱っこされて甘く話しかけられ、思わず気が緩んだあたしを、姫様は手桶の水にざぶんとつっ込んだのだ。
仰天したあたしはぎゃうぎゃう鳴き、御女中たちがうろたえ騒ぐ中、姫様はあたしの体中を洗い、きれいな手が汚れるのも構わず丁寧に目やにを取ってくれて、厩舎から馬の乳を持ってこさせ、乳をたっぷり含ませた手ぬぐいを何度もあたしの口元にあてがって飲ませてくれた。
ひと心地ついて顔を背けると、もうよいのかと姫様は手ぬぐいを放って、あらためてまじまじとあたしの顔を覗き込んだ。
真っ黒でぴかぴか光る姫様の目。黒曜石みたいだ。
その中に映り込んでいるちっぽけな毛玉はなんだろう。
お腹はくちくなったし、眠くなってきてゆらゆらし始めたあたしを姫様はしばらく眺め、やがて。
「――この子はわたしがもらおう」
姫様は誰にも否とは言わせぬ調子できっぱりと言って、あたしは姫様の飼い猫になった。
***
姫様に拾われて二年、あたしは何不自由ない暮らしをしている。
お屋敷に出入りの学者が「衣食足りて礼節を知る」とか誰かに講義をしていたけれど、猫も同様。
おいしい食事、新鮮な水をもらって、姫様の膝か、絹の座布団で眠る。
こんな厚遇を受けたらあたしだって猫の誇りにかけて、すぐにご不浄の場所を覚え、お屋敷の畳や柱で爪とぎをしてはいけないことも学んだ。あたしをいじめる奴の部屋ではわざといたずらしてやるけれど。
姫様をはじめ皆が「なんて賢い猫だろう」と言って頭や喉を撫でてくれるから、あたしはご機嫌で喉を鳴らし、体中を舐めまくって身ぎれいにしている。
出会ったとき、汚いだの縁起悪いだの言われた黒い毛並みは、今ではあたしのご自慢だ。
「射干玉の黒髪」という言葉があるが、お前の毛艶はまさにそれだね、と姫様は愛でてくれて、あたしの名前は「玉」となった。「射干玉」の「玉」だ。
さらに。
あたしの目の色は緑色なのだそうだ。
きれいな姫様はきれいなものが好きらしい。お前の目は翠玉のようだと褒めちぎり、ある日とうとうあたしの首輪には翡翠の玉がつけられた。それまでにも緑色の伊賀組紐を結んでもらっていたのだけれど、玉飾りまで付いたのだ。ごくごく小さくあたしの名前、「玉」と彫りものまで入れてあるという凝りよう。御女中たちは当然のこと、両親に二人の兄、下働きに至るまで姫様に逆らえる者などいないから、出入りの商人にけっこうな金額を支払ってこれを注文し、あたしの首に取り付けて姫様はすこぶるご満悦だ。
その姫様が。最近、ご機嫌が悪い。
悪いというか。気鬱なのかもしれない。月を眺めてはため息をつき、あたしを撫でくりまわす。
撫でられるのは好きだけれど、なんだか荒っぽくておざなりなのが気に入らなくて、そのうち黙って姫様と距離を置く。
すると「玉はつれないね」と言ってまた引き寄せられ、仕方なしにしばらく我慢してされるがままになるけれど、やっぱりぐりぐりと力任せで、またうんざりして飛び退る。「玉、おいで」と言われたけれど、今度は無視して尻尾で畳の縁をぱたぱた叩いて抗議してやった。
いったいどうしたの、姫様。
あたしは小首をかしげ、姫様と目を合わせて「にゃう」と小さく鳴いた。
「……玉。聞いてくれるか」
姫様はふう、とまた小さく息を吐いた。
月が見たいと戸を開け放っているから、もう夜も更けたろうに寝間は月明りに青白く照らされている。
白い寝衣を着た姫様は、気だるげに柱に背を預けて片膝を立てている。
手元には白い徳利と杯があって、月見酒と洒落こんでいるようだ。
姫様はそこらの侍よりも漢らしいのだ。
その姫様がこんなに沈んでいるなんて。
ちょっと同情したけれど、またぐりぐりされてはかなわないから、あたしは絹のお座布団の上で香箱になって続きを聞くことにした。
「許婚殿が来るらしい。……父上がそう仰った」
ぐい、と白い喉を反らせて、姫様は杯を空にした。
「一か月後だそうだ。顔合わせをする。形だけだ。そのとき、祝言の日も決めてしまうそうだ」
そうだった。姫様もお年頃だった。で、祝言の日取りまで決まってしまう、と。
一緒に連れてってもらわなくちゃ、と、あたしは夜風にひげをそよがせながら考えた。
「幼き頃より決められていた許婚殿だ。覚悟はできている。ただ――」
姫様はとうとう徳利に直接唇をつけてぐびりと音を立てて飲み下した。
姫様はうわばみなのだ。口の堅い御女中数名と、あたししか知らないけれど。
「ただ、もう少し。……あともう少し、自由でいたかったのだ、わたしは」
恋とやらも、してみたかったしな。
凛々しい、竹を割ったような性格の姫様だけれど。
ふふ、と恥ずかしそうに笑って付け加えた姫様の横顔は、絵草紙に描かれた古の美姫、そのものだった。
***
黒猫・玉が住処を得たのは鵺森藩主・佐川宣重の江戸屋敷である。
宣重は石高こそ三十万石とそこそこだが、所領は江戸に近く、何より三河以来の譜代大名であり、代々幕閣の重鎮として遇されていて、幕府における発言力は大身と呼ばれる外様の諸大名など足元にも及ばない。
公正、篤実な性格は当代の将軍・綱吉の覚えもめでたく、幕府内でのお役目もあることから宣重はほとんど江戸詰めであり、正室・お豊の方と三人の子と共にずっと江戸屋敷で暮らしている。参勤交代で所領と江戸との往復に苦労する諸大名からすれば羨ましい限りだが、将軍の信頼厚く本人も公平公正とあってはけちのつけようもなく、「ご先祖がよほどの徳を積んだのだろうさ」とやっかみを言うのが関の山である。
正室・お豊の方は鵺森藩江戸家老の娘で、宣重の幼馴染だ。
才気煥発、武芸までも嗜み、女子には惜しいと剣術指南役が苦笑するほど。十二、三までは宣重は豊を男だと思っていたらしい。家老の娘、完璧な猫かぶりであった美少女「豊」と、木刀を振り回し、木登りをし、共に学問の講義を受ける「豊」は双子の兄妹と思っていて、「豊を娶りたいが主家の権勢づくではなく気持ちを伝えるにはどうしたらよいか」と「豊」に相談した、というのは宣重の黒歴史であり、おしどり夫婦と呼ばれる佐川家の笑い話となっている。
宣重の子は三人。温厚な長男・宣秀、算術の天才と誉れ高い次男・重政、そして美弥。この美弥姫が黒猫・玉の主である
いかにも「太平の世」の武士らしいと言えばらしいが、宣秀も重政も剣術はそこそこという程度であるのに比べ、よちよち歩きの頃から練習についてきた美弥は見よう見まねで棒切れを振り回して兄と共に練習に励み、あっという間に兄たちを凌駕し、やがて出入りの剣術指南役をつかまえて本格的に教えを乞えば瞬く間に上達して、十六になった今年、師匠いわく「教え子の中で一、二を争う速さ」で免許皆伝となった。
そして今。
美弥の趣味は供も連れずに行く散歩である。
免許皆伝となったら江戸城下、ぶらぶら町歩きを一人で楽しむと勝手に誓いを立てていた美弥は有言実行の人である。
良識人の兄たちは心配してやいやいうるさいが、もともと剣術好きだった母は目を細めて「美弥は頼もしいこと」と言うし、その母に甘い父は当然美弥にも甘く、「輿入れまでは好きにさせてやれ」と言う始末。
だから美弥はこのところほとんど毎日のように一人で屋敷を抜け出していた。
正確には、一人と一匹、であったが。
黒猫・玉はその名の如く射干玉の美しい黒い毛並み、宝玉の目がご自慢の美猫であるが、その体躯はいつまでたっても子猫に毛が生えた程度。なぜか成長が止まってしまったため、それをいいことに美弥の懐や袂に潜り込んでは美弥と共に屋敷の外を満喫していたのだった。
***
美弥は人気者である。
町を歩けば人々は振り返り、ため息をつく。積極的な町娘からの付け文はひきもきらない。
目立たぬ色の袴に小袖。脇差を差して、見事な黒髪は後ろで高々と一つに結わえている。ふっくらとした桜貝を重ねたような唇、つるりとした卵肌の細おもて。人形のように整った目鼻立ち。
月代を剃らず前髪も切らず、いわゆる総髪と呼ばれるその姿は、美貌の小姓か御典医のお弟子か、はたまた少々風変わりな意匠を好む元服前の武家の令息か、と江戸のそこかしこで娘たちの心の臓を鷲掴みにしていた。
ならず者に言い寄られていた茶屋の娘を助けたり。
道に迷った老人の手を引いてやったり。
肩が触れたのぶつかっただのと因縁をつける不良侍を諫めたり。
本人が気負わず飄々としているので、ますますその評判は高くなる。
さらには時折、その胸元から愛らしい黒猫が顔を出しているものだから騒ぐなと言うほうが野暮というもの。
お強くて美しいと憧れる者。猫だけでも譲ってほしいだの、男色の相手にと不埒な目で見る者。
実際、陰間茶屋へのお誘いも一度や二度ならず、であったが、美弥はいずれも軽くいなして気にもとめない。さばけた性格であるし、女子の自分が男装をしているのだからさもありなんと腹が据わったものだ。黄色い声やら鼠鳴きやらを適当にあしらいながら江戸のあちこちを歩き回り、買い食いをし、茶屋で一休みし、「岡場所と吉原以外は踏破した」と誰に自慢するでもないがいっぱしの江戸通を自負するようになった頃の、ある日のこと。
――前を歩く男の挙動が美弥の目にとまった。
なんということはない、目立たぬ町人風に装った小男だが歩き方に隙がない。
日本橋界隈の目抜き通り。行き交う人で溢れかえっているが、用事のある者は早足、そぞろ歩きはそれなりの風情。侍か町人か僧侶か町娘か、それぞれの身分や目的で歩き方が異なっている。
(ふん、これは)
美弥は軽く目を瞠った。
小男はすい、とさらにその前を行く者との距離を詰めた。
大小を差してはいるがまるで警戒心もなく、たいへんおっとりとした歩き方で左右を楽しげに眺める着流し姿の侍に、町人風の男はとん、と軽く肩を合わせる程度にぶつかって、御武家様、申し訳ございません、と口の中で呟きながら数歩下がって人波に紛れるや、脱兎の如く走り出す。
(掏摸だ)
「おぬし! そやつを追え!」
言うが早いか、美弥は男を追った。
「おぬし? ――わたしのことか?」
掏られた侍は振り返って女のように小首をかしげるのみで埒が明かない。美弥は俊足を飛ばしてあっという間に小男に追いつくと、足払いをかけてそのまま腕を捩り上げた。まああの方よ! とか、若様、あっしが加勢を! という声を聞き流し、美弥は暴れる男の背中に軽く膝を当ててのしかかる。
男にしてみれば渾身の力だろうが、地面に這いつくばらされ、急所を押さえられていてはどうにもならない。
じたばたとしながら憎まれ口をたたく。
「くそ、いってえ、はなしやがれ!」
「貴様が掏ったものを返してもらおう」
「そんなもの、俺は知らね、ってええ!」
美弥はもう少しだけ捻る手の力を強めた。
大した力は入れていない。関節を極めているだけだ。
いたいいたい、と情けない声が上がる。
「番屋へ行く前に腕を折られたいか?」
「わ、わかったよ! 返すっからはなしてくれよ」
「はなしてもよいが逃げるなよ」
美弥は用心深く拘束を解いた。
小男は腕や手首をさすりながら、存外おとなしく巾着を投げ出す。
「これだけか?」
ぎろりと睨まれ、気弱げな掏摸は飛び上がる。
「ほんとだよ! お天道さんに誓ってこれ以上は」
「まあいい」
美弥は手を払いながら立ち上がった。
ぐるりと周りを見渡すと野次馬の山だ。
自分の巾着だろうに、目を丸くして見物しているさっきの若侍の姿も見える。
なんだ、あの男は。他人事のように。
美弥が思わず軽く舌打ちしていると、あの若さんだ、役者さんみてえだと囃す声が聞こえてきた。
さすがに、これはまずい。
この程度の掏摸、番屋に突き出したところで美弥にとっては面倒が増えるばかりだ。
男と名乗っているわけでなし、後ろ暗いことをするでもなく、特段派手にしているつもりさえないが、幕閣の重鎮、佐川の息女と知れたらことだ。
父上、兄上たちの面目にかかわる。
美弥は地べたに手をついたままうなだれる男を見下ろした。
美弥の脅しはかなり痛かったのだろう、すっかり震え上がっているらしく逃げる様子はないし、新手の掏摸にあると聞く、物騒な匕首を仕込んでいるわけでもなさそうだ。
しばしの無言に耐えかねたようにそろそろと掏摸が顔を上げると、厳しい面持ちで黙考する美弥と目が合い、またあわてて額を地面に擦り付ける。
ずいぶんと怯えているようだ。
掏摸といってもまだ素人か。掏摸の素人、というのもおかしな話だが。
美弥は内心苦笑しつつ、
「――お前の顔はようく覚えとく。二度目があればお前の利き腕、たたっ切ってやる」
はったりを利かせて言い放った。
ごきごきと音がなるほど力強く首を縦に振る掏摸を見下ろして、念を押す。
「よく聞こえるように返事をしろ」
「わか、わかりやした、おさむらいさま、もう二度と……」
「いけ」
「へ、へえ……」
ふらふらと立ち上がり、もう一度蜻蛉が切れそうなほど頭を下げると、踵を返してよろめきつつも逃げ去ってゆく。
「なんだ、逃がしちまうのか」
「若さん、お優しいこって」
「お顔もお心もおきれいだな」
「――皆、もうよい。見世物ではないぞ」
不平を言う者、美弥を揶揄する者。野次馬はてんでに騒いだが、江戸の町に掏摸は珍しいことではない。巾着は戻ったようだし、妙に威厳のあるこの若君が見逃したのだからまあそれでよいのだろう。
集まるのも早いが散るのも同様、いくらもせぬうちに人だかりは消え失せ、あたりはまたもとの平和な喧噪に包まれた。
「――おぬし」
巾着を返してやろうと美弥が向き直ると、さきほどの若侍が深々と頭を下げていた。
「かたじけない。礼を申す」
「……いや。それより、おぬし」
美弥はじれったそうに華奢な手を振った。
「不用心すぎるのではないか。あの程度の掏摸、気づかなくてどうする」
「面目ない」
顔を上げた若侍はおっとりと微笑んだ。
温和な目元が涼しげで、すっきりと整った顔立ちなのだが、にこにこと人のよさ丸出しで微笑むその姿は、陽だまりのお地蔵様のよう。
(武士とは思えぬ。腰の大小が惜しいわ)
美弥は一瞥して手厳しく決めつけた。
大名家の姫である上、武芸を極めた美弥は、当然ながら目利きである。この男の携える刀も、それなりのものであることは柄や鍔を見ればわかる。
(刀身だけ竹光ということもあるまい)
汚れのない白足袋。着流しはよく練られて鈍く光る藍色の絹地で、どこぞの旗本の跡取りか、と美弥が値踏みしていると。
「おい、……若、若‼」
焦った大声と共に人々の間から大柄な男が飛び出してきた。
勢いがよすぎてわずかに通り過ぎかけ、身を翻して「若」の肩を掴む。
「若! もう、どこへ行っちまったかと……」
「やあ、律。ずっとここにいたよ」
「嘘つけ、ちょっと目を離すと」
「それよりね、律。このお方が掏摸をつかまえて下さったのだ」
「掏摸を?」
「律からもよく礼を申し上げておくれ」
「それは……」
男はようやく美弥を振り返り、そして瞠目した。
男は背が高い。美弥は女性としては長身だが、それでも男の肩あたりまでしかない。
律と呼ばれた男は明らかに元服前のいでたちの美弥を頭の先から足の先までじろじろと眺めた。
何しろ、めったにない美貌である。男は賛嘆の色を隠そうともせず、
「これはまた」
と、まず一言、呟いた。
美弥は人々のこういう反応には慣れている。気にもとめず、
「おぬしが供の者か。江戸は掏摸にかっぱらい、夜ともなれば辻斬りもいる。せいぜいその〝若〟から離れぬことだ」
「ご親切に、いたみいる」
長身の男は年若い美弥の大真面目な説教を小馬鹿にする様子もなく、頭を下げて丁寧に言った。
「それがしは時任律と申す。こちらはそれがしのお仕えするお方だが、わけあって名を明かすわけには参らぬゆえ、ご容赦を願いたい。聞けば掏摸をつかまえ、巾着を取り戻して下されたとか。あらためて御礼申し上げる」
「行き掛かり上だ、気にするな」
美弥は簡単に応じると、律に頭を上げるよう促した。律は顔を上げるとまた遠慮なく美弥の白皙を見下ろし、感に堪えぬように小さく首を振った。
「これはまた。……男にしておくのが惜しい」
「律、江戸では衆道も盛んらしいよ」
「うむ。……俺は女子しか抱く気はなかったが宗旨替えも、って、若! 不届きであろうが」
「あはは」
のんきな主従だ、と美弥は呆れ半分、あとの半分はあらたな興味を持って二人を眺めやった。
なまっちろい若に従う律は精悍な印象の男だ。
少し日に焼けた浅黒い肌、鋭い眉、くっきりとした切れ長の目。みごとに整った目鼻立ちだが、あくまでも男性の美しさだ。堂々たる体躯、眼光、手練れらしい挙措がそれを物語る。
(強そうだな。わたしと互角、いやそれ以上、か)
賢い美弥は、自分に足りないのは実戦だとわかっていた。
この男――律は、道場で鍛えただけではない、いわば「本物の」手練れの匂いがする。
それに。
(美しいな。兄上たち以上に美しい男などそうはいないと思ったが)
剣の腕はいまひとつだが、美弥の兄たちはその男ぶりのよさで有名なのだ。
(強くて、美しくて。……このような男、女子が放ってはおくまい。聖人君子というわけでもなさそうであるし……)
「……そろそろよいか?」
「……え?」
苦笑交じりの声で我に返る。
いつのまにか、美弥は律の顔を見つめたまま物思いに耽っていたらしい。
「すまぬ」
美弥はわざとらしく二、三、咳払いをした。少し頬を染めているさまは、そこらの女など足元にも及ばない色香を漂わせている。困ったことに、本人はそれに気づいてはいないようだが、と二人の主従は期せずして同じことを考えていた。
「え、と、その……〝江戸では〟と言ったな。おぬしらは旅の者か、それともこちらへ来て間もないのか」
「いかにも」
「おい、若!」
のんきに首肯した主を𠮟責したが、もう遅い。
わずかな一言を聞き漏らさない美弥の鋭さに内心舌を巻きつつ、
「実は昨日江戸入りしたばかり。行きたいところがあるのだがわからず困っている」
と打ち明けた。
「さきほどそれがしが若から離れたのも」
「道を聞きに行ったのか」
「さよう」
「わたしの知っているところであれば案内するぞ」
心もち胸を張って美弥は言った。
江戸生まれの江戸育ち。大名家の姫君ではあるが、ここ半年かそこらは精力的に歩き回っているから、なまじ仕事で持ち場から離れられぬ町人より詳しいはず、と自負している。
どうする、とわずかに男二人は視線を絡ませてから、軽く頷き合った。
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