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わたし、頑張る。
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───ついに、来た。
彼女は拳を握りしめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
王都・クラナッハにおける、いわゆる「花街」。
その一角、とりわけ豪勢な一軒の娼家の前で、彼女、アメリア・フォン・ローレンツはゆうに五分以上、立ち尽くしている。
既に夕刻、少々早いとはいえだんだんとその街が本来の華やぎを見せ始める頃、極力「目立たぬよう」服装を抑えているとはいえ、彼女のような、いかにももの慣れぬ風情の女が娼館の前に踏ん張っているのは奇妙な光景ではある。
通りすがりの者たちから好奇の目を向けられつつ、それを十分に感じつつも、アメリアは次の一歩を踏み出すことができずにいた。
(お店に入って、自分を売り込んで。あとは……成り行き任せなのに)
生半可な決意でここまで来たのではないのに。
緊張で渇き気味の珊瑚色の唇を噛みしめて、アメリアは既にもう何度目だろう、ひとり頷く。
(ちゃんと、勉強したもの。……閨のあれこれ)
初めてなだけ。
大したことではないと思い込もうとして、けれどすぐに思い至る。初めて、は、大切にするのよ、と、お母さまには言っていらした。優しくて、最高の貴婦人で、けれど、こんな話もできるぐらいさばけていて、大好きなお母さまだった。
昨年、儚くなってしまったお母さま。
その母に、「恋をしなさい、アメリア」と、物心ついた頃から何度も言われたのだ。
恋は女を輝かせるから、と。
と同時に、「初めては、ほんとうに好きになったひとにね」と、何度も言われたのだ。
───エルム王国では、高位の者は婚姻の際の処女性が重んじられている。
あくまでも、建前だが。
実際のところは、恋愛事情はたいへん盛んであり、皮肉なことに「処女性」云々は有名無実化していたが、形式的には重要なものとされているのだ。
よって、初夜のあれこれには騒動が付きまとう。やれ鳩の血を使ったの指を噛んだの花婿を泥酔させて初夜の床に替え玉を潜り込ませただの。
ろくでもない話を耳にするたびに、アメリアは真剣に母の言葉を思い出して頷いたものだ。
なぜって、アメリアは子供のころから引く手あまた、だったから。
家柄良し。王族とも血縁関係のある侯爵家の一人娘。
容姿良し。母は「エルム王国の妖精」と謳われたほどの美貌。父は性格がアレなのでモテモテというほどではなかったが、それでも顔と家柄と頭が良いので母と出会うまでは女の噂が絶えなかったという。
その娘であるアメリアはやはりとんでもなく可愛らしかった。
皆、アメリアをちやほやした。大人も子供も誰も彼も。
そう。十八歳の誕生日までは。
あの忌々しい日。絶対に忘れないだろう。
国家公認魔導士を館へ呼び寄せ、盛大な誕生祝とともに魔力値を測ったら──
アメリアはその時を思い出してサンゴ色の唇をぐっとかみしめた。
(笑っちゃうわ。……魔力値だの処女性だの。……みんな、建前ばっかり。レッテルが欲しいのね)
──アメリアにはたくさんの友人がいる。
いずれも良家の子女ばかりであるが、皆さんそれはそれは発展家だった。
彼女らの母君たちはたいへん素行に問題、ならぬ自由恋愛主義者であり、艶聞はその子世代の耳にも嫌が応にも入ってくる。
よって、そのような母君の産物である子女方も、アメリアいわく「ヤリたい放題」だった。
昨日のお茶会。
幼馴染で同い年、「わたしたち、ずっといっしょね」と指きりげんまんしていた彼女、ウルリーケは、初回の見合い相手が運命のお相手だったとかで、さっさと先に嫁に行くことが決まっていた。
いや、嫁に行くのはいい。幼馴染の結婚はめでたい。「ずっといっしょね」なんて子供のたわごとだ。
けれど、アメリアがどうしても引っかかっているのは。
(ね、アメリー!わたしね、とうとう……!)
今も思い出す。運命のひとに会ったの!と大騒ぎの見合いより遡ること二年も前。
お気に入りの小説を貸してあげると言われて呼び出され、お気に入りの流行のお菓子を持ってウルリーケの屋敷へ行ったら、お茶を運ばせ人払いをして、ウルリーケの部屋へと連れ込まれ。
(痛かったわ!)
はあ?と真顔でアメリアは問い返した。何のことだか本気でさっぱりわからなかったのだ。
(どこが痛いの?)
大丈夫?と続けて聞こうとしたら、ばしんと背中をはたかれた。
非力なご令嬢のはずだが興奮しているらしく地味に痛い。
(いやだ、アメリー!それを言わせるの!?恥ずかしい!!)
(無理に言わなくてもいいわよ、恥ずかしい?なら)
ひとのよいアメリアは心からそう言ったのだが、もう一度ばしんと背中をはたかれた。
さっきほどではないが、叩かれるのは気分がよくない。ウルリーケはどうしてしまったのだろう。
(教えてあげるわよ、アメリーになら!)
結局、言いたくてたまらなかったようだ。
そういえば、女の「そんなこと言わせないで」は真に受けてはいけないとどこかで読んだことがある。
人間関係のハウツー本だったはずだ。
聞いてあげるのが友情だったわねと思い直して、教えてほしいわ、とアメリアは言った。
ウルリーケの頬が林檎のように赤い。照れているのか興奮しているのかどちらなのだろう、とアメリアは冷静に考えつつ、礼儀正しく幼馴染の次の言葉を待った。
(わたしね、最後までイタしてしまったの!)
(最後まで、って、……)
アメリアは息をのんだ。
これだけストレートに言われれば、当然アメリアにだってわかる。
痛かったのがどういうことなのかも。
彼女は拳を握りしめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
王都・クラナッハにおける、いわゆる「花街」。
その一角、とりわけ豪勢な一軒の娼家の前で、彼女、アメリア・フォン・ローレンツはゆうに五分以上、立ち尽くしている。
既に夕刻、少々早いとはいえだんだんとその街が本来の華やぎを見せ始める頃、極力「目立たぬよう」服装を抑えているとはいえ、彼女のような、いかにももの慣れぬ風情の女が娼館の前に踏ん張っているのは奇妙な光景ではある。
通りすがりの者たちから好奇の目を向けられつつ、それを十分に感じつつも、アメリアは次の一歩を踏み出すことができずにいた。
(お店に入って、自分を売り込んで。あとは……成り行き任せなのに)
生半可な決意でここまで来たのではないのに。
緊張で渇き気味の珊瑚色の唇を噛みしめて、アメリアは既にもう何度目だろう、ひとり頷く。
(ちゃんと、勉強したもの。……閨のあれこれ)
初めてなだけ。
大したことではないと思い込もうとして、けれどすぐに思い至る。初めて、は、大切にするのよ、と、お母さまには言っていらした。優しくて、最高の貴婦人で、けれど、こんな話もできるぐらいさばけていて、大好きなお母さまだった。
昨年、儚くなってしまったお母さま。
その母に、「恋をしなさい、アメリア」と、物心ついた頃から何度も言われたのだ。
恋は女を輝かせるから、と。
と同時に、「初めては、ほんとうに好きになったひとにね」と、何度も言われたのだ。
───エルム王国では、高位の者は婚姻の際の処女性が重んじられている。
あくまでも、建前だが。
実際のところは、恋愛事情はたいへん盛んであり、皮肉なことに「処女性」云々は有名無実化していたが、形式的には重要なものとされているのだ。
よって、初夜のあれこれには騒動が付きまとう。やれ鳩の血を使ったの指を噛んだの花婿を泥酔させて初夜の床に替え玉を潜り込ませただの。
ろくでもない話を耳にするたびに、アメリアは真剣に母の言葉を思い出して頷いたものだ。
なぜって、アメリアは子供のころから引く手あまた、だったから。
家柄良し。王族とも血縁関係のある侯爵家の一人娘。
容姿良し。母は「エルム王国の妖精」と謳われたほどの美貌。父は性格がアレなのでモテモテというほどではなかったが、それでも顔と家柄と頭が良いので母と出会うまでは女の噂が絶えなかったという。
その娘であるアメリアはやはりとんでもなく可愛らしかった。
皆、アメリアをちやほやした。大人も子供も誰も彼も。
そう。十八歳の誕生日までは。
あの忌々しい日。絶対に忘れないだろう。
国家公認魔導士を館へ呼び寄せ、盛大な誕生祝とともに魔力値を測ったら──
アメリアはその時を思い出してサンゴ色の唇をぐっとかみしめた。
(笑っちゃうわ。……魔力値だの処女性だの。……みんな、建前ばっかり。レッテルが欲しいのね)
──アメリアにはたくさんの友人がいる。
いずれも良家の子女ばかりであるが、皆さんそれはそれは発展家だった。
彼女らの母君たちはたいへん素行に問題、ならぬ自由恋愛主義者であり、艶聞はその子世代の耳にも嫌が応にも入ってくる。
よって、そのような母君の産物である子女方も、アメリアいわく「ヤリたい放題」だった。
昨日のお茶会。
幼馴染で同い年、「わたしたち、ずっといっしょね」と指きりげんまんしていた彼女、ウルリーケは、初回の見合い相手が運命のお相手だったとかで、さっさと先に嫁に行くことが決まっていた。
いや、嫁に行くのはいい。幼馴染の結婚はめでたい。「ずっといっしょね」なんて子供のたわごとだ。
けれど、アメリアがどうしても引っかかっているのは。
(ね、アメリー!わたしね、とうとう……!)
今も思い出す。運命のひとに会ったの!と大騒ぎの見合いより遡ること二年も前。
お気に入りの小説を貸してあげると言われて呼び出され、お気に入りの流行のお菓子を持ってウルリーケの屋敷へ行ったら、お茶を運ばせ人払いをして、ウルリーケの部屋へと連れ込まれ。
(痛かったわ!)
はあ?と真顔でアメリアは問い返した。何のことだか本気でさっぱりわからなかったのだ。
(どこが痛いの?)
大丈夫?と続けて聞こうとしたら、ばしんと背中をはたかれた。
非力なご令嬢のはずだが興奮しているらしく地味に痛い。
(いやだ、アメリー!それを言わせるの!?恥ずかしい!!)
(無理に言わなくてもいいわよ、恥ずかしい?なら)
ひとのよいアメリアは心からそう言ったのだが、もう一度ばしんと背中をはたかれた。
さっきほどではないが、叩かれるのは気分がよくない。ウルリーケはどうしてしまったのだろう。
(教えてあげるわよ、アメリーになら!)
結局、言いたくてたまらなかったようだ。
そういえば、女の「そんなこと言わせないで」は真に受けてはいけないとどこかで読んだことがある。
人間関係のハウツー本だったはずだ。
聞いてあげるのが友情だったわねと思い直して、教えてほしいわ、とアメリアは言った。
ウルリーケの頬が林檎のように赤い。照れているのか興奮しているのかどちらなのだろう、とアメリアは冷静に考えつつ、礼儀正しく幼馴染の次の言葉を待った。
(わたしね、最後までイタしてしまったの!)
(最後まで、って、……)
アメリアは息をのんだ。
これだけストレートに言われれば、当然アメリアにだってわかる。
痛かったのがどういうことなのかも。
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