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ある男の繰り言~後悔先に立たず~

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 また、一日が徒労に終わった。

 彼は小さくため息を吐いて、ごつごつとした石作りの壁にもたれかかった。

 知らず、空を見上げる。今日は新月だが、彼のいるそこは闇夜というには程遠い。建物の軒先に、街角ごとに、ぼうっとした淡い橙色の明かりが灯されていて、白い石畳、白い家並みをも同じ色に染め上げている。

 世界有数のリゾート地。昼夜問わずそこかしこにひとが溢れているが、とはいえここは作り物のリゾート地ではない。旧市街、と呼ばれる地域は迷路のような路地が複雑に入り組んでいて、昼なお暗く、夜ともなれば怪しげなひとびとが蠢き始める。騒がしいが健全な観光客は姿を消して、夜が更けるにつれ町はもうひとつの顔を露わにしてゆく。

 美しくも妖しい町並み。道を誤ることなく正しい方向に路地を抜ければ、町の至る所から海岸の遊歩道へ出ることができる。美しい海岸線は緩やかに弧を描き、昼間は抜けるような青空と同じ色の海がひとびとの心を浮き立たせ、夜は昏くとも隠微な光を帯びてさらにその魅力を増すこの街は、彼女のお気に入りだったはずだ。

 ここで、俺は、あいつを。

 結局、想いはそこへ行き着く。

 彼女を慕っていた民間人の少女を自分の失策で死なせたと、気も狂わんばかりに悔み、誰の慰めにも耳を貸さず半病人のようになった彼女は、あちこちふらふらした後、ようやくこの街に腰を落ち着けたらしい。

 ひとところに逗留する気になったのならとりあえず一安心と、彼が便利に使っている「情報屋」から報告を受けて安堵していたのもつかの間、三文誌のゴシップ欄に彼女の写真がちらほら載り始め、引き続き監視させている情報屋からもまた、同様の写真が届き始めたのだった。
 ──正確には、「有名スポーツ選手と彼女」の写真が。

 最初のうちは色男で有名なフェンシング選手、とやらが中心になっていたが、日を追うごとに被写体のメインは彼女になっていった。それもそうだろう。パパラッチどもはほとんど男だ。ネタになるからフェンシング選手を追いかけていたにせよ、次第に男としての目線が優先されていっても何らおかしくはない。

 スーパーモデルや女優にもめったにお目にかからない抜群の容姿。軍人として鍛え上げている割に民族的な特徴なのだろうか、華奢と言ってよい骨格。柳腰、ゆたかな胸。きっぱりとした美貌とは裏腹に、もの憂げな眼差し。まだまだ傷心から立ち直っていないのだろう、弱々しい控えめな笑み。
 その笑みも、少しずつ明るさを取り戻してゆくのが、毎日のように送られる画像から見て取れる。フェンシング選手はふざけた遊び人と思いきや、根気よく彼女を連れ出しては気分転換をさせようと躍起になっているらしい。 
 
 元気になってきているのならいい。しかし若造を近寄らせすぎではないのかと苛立ちを募らせていたある日。情報屋がもたらした画像と耳打ちが決定打となった。彼にも覚えがある。彼女は任務を離れればひどく無防備で危なっかしいのだが、まんまと男に腰を抱かれ、引き寄せられて頬やこめかみに口づけられている。毎日のように彼女の逗留するホテルへ日参する男は、ある夜、彼女を送ったあとホテルから出てこなかったと。次の日の昼まで。

 最後の報告を聞くなり彼は逆上して彼女の滞在するホテルへ行き、フロント係を半ば脅すようにしてロビーで待ち構えて。強引に彼女の部屋へ入って。

 ──どれだけ泣いても叫んでも誤解だと言う声にも耳を貸さず、彼女が意識を飛ばすまで手酷く犯し続けたのだ。

 初めて抱いてからずいぶん日がたっていた。自分が彼女の「最初の男」だったことに驚愕しつつも、嬉しくないはずはない。硬くなって震えていた彼女を思い出すたび彼女を抱きたくてしかたのない自らを自身の手で慰め、もしかすると彼女は行為が好きではないかもしれないのだから、ゆっくりと怖がらせないように慣れさせてゆけばいい。そう思っていたのに、あんな女たらしの若造に身を許したのか。想像だけではらわたが煮えくり返る。いい子に待っていた俺はただの阿呆か。

 嫉妬と怒りに我を忘れて気が済むまで嬲り、犯し尽くして、気を失った彼女の髪と、からだの世話だけをして夜明け前に部屋を後にしたのだった。あのまま彼女と共にいたら、抱き殺してしまうのではないか。それほどまでに身のうちの激情は収まるところを知らず、我ながら恐怖と、自己嫌悪に苛まれてのことだったのだが。

 ──彼女は行方をくらましてしまった。

 失踪直前まで共に過ごしていた彼は、最重要人物として拘束された。連日連夜取り調べを受けたが、彼にだって何も答えようがないのは当然のことであったから、俺のほうこそ彼女の居所を知りたい、こんな暇があったら彼女をとっとと探し出せと激高したことも一度や二度ではない。ホテルの表裏すべての出入り口、ロビー、廊下、彼女が逗留していた町の近郷近在すべての監視カメラ、港や空港の入出国記録、聞き込み。あらゆる手を尽くしても失踪後の彼女の痕跡は毛筋ほども見当たらない。滞在していたホテルの部屋は施錠され、私物はそのままに、本当に煙のごとく彼女は消え失せたのだ。

 結局、何ひとつとして証拠など挙がらなかったので、彼は無罪放免となった。

 彼女も彼も「その世界」では有名な軍人であり、時に諜報員であるという立場の特殊性から、欧州各国の当局によって情報統制が敷かれたためマスコミが嗅ぎつけて騒ぐことはなかったが、当然嫌疑が晴れたわけではなく、彼は周囲からの勧めもあってしばらく軍属を離れることになった。彼自身、到底仕事をする気になどなれなかったから、彼女を探す手がかりを自分で見つけようとここへやってきたのが二ヶ月前。

 何もわからない。何も出てこない。

 彼は黒褐色の髪と同じ色の睫毛を伏せたまま天を振り仰いだ。

 理屈ではあの部屋から消えることなど不可能だ。しかし彼は現実主義者であったから、非科学的な手が働いたことなど想像するはずはなく、「どうやって消えたか」ではなく、「どこへ消えてしまったのか」だけを念頭に、ひたすら探し回って独自の聞き込みを続けてきた。徒労に終わったが。この二ヶ月の間にわかったことと言えば、自分は誤解と思い込みによって暴挙に出たのであって、彼女は「若造」とはなんでもなかったということだ。そして、彼女の取り巻き達から、自分は一生つけ狙われることになったのだということも。

 彼が街に入って一週間と経たぬうちに、彼はたて続けに何人もの男の訪問を受けたのだった。

 (彼女をどこにやったんです?)

 金褐色の髪、水色の瞳。甘く整った顔だち。「フェンシング界の貴公子」と呼ばれ、その美貌からクチュールブランドのモデルまで務めたことのある「若造」は、敵愾心と疑念を隠そうともせずに言った。

 (僕が送ったあと、最後に彼女と会ったんでしょう?殺したんですか?あんなに……あんなに彼女はあなたを愛していたのに)

 その「彼女」と寝た男が何を言うかと彼が答えると、いきなり殴りかかられたのだ。
 目の前の男がオリンピックのメダリストであろうと、それは正当なスポーツマンシップにのっとったもの。超一流の軍人である彼の頬をかすめることすらできなかったが。

 何度誘っても懇願しても多少無理強いをしても、少なくとも自分には好きなひとがいるからと言って、愛されているかどうかいまいち自信はないのだとはにかんだ笑みを浮かべ、唇へのキスはもちろん頑として彼女はからだを許そうとはしなかった。気分が悪い休ませてほしいとウソを言って彼女の部屋に押しかけてから、真剣に告白をして迫ったのだが、丁重に、きっぱりと拒絶されてしまい、ヤケ酒を飲んで二日酔いとなって次の日の昼まで彼女の部屋で倒れていたのだと。

 (あなたが殺したんだ。そうに決まっている)

 男の口から経緯を聞かされ、いつしか彼は抵抗をやめた。胸倉をつかまれ、激しく揺さぶられたまま虚ろな目を空に向ける。

 (あなたならできるはずだ。証拠ひとつ残さずひと一人消すことなど。彼女は強い。自殺などするひとではないから。僕と初めて会ったときだって何かつらいことがあったのだろうけれど、彼女は自ら死を選ぶことなんて絶対に考えてはいなかった)

 あなたが死ねばいい、彼女を返せと男は喚き続け、彼はそれも悪くないと脳内で現実逃避をした。

 ……俺が死んで彼女が戻るなら。俺の死が彼女への償いになるならいくらでも死んでやるのに。

 無論、彼は自死などは選ばなかったし、だからというわけではなく、彼女の所在も相変わらずわからなかったのだが。

 悄然として立ち去った男と入れ替わるようにして、こんどは目つきの悪い、すさんだ様子の男たちが数名現れ、やはり彼女を返せ、生きてるならどこに監禁した、それとも殺したのかと詰め寄られたが、結局ははじめのフェンシング選手同様、彼らもまた項垂れて帰っていった。戦場で顔を合わせたら貴様を殺してやる、と物騒な捨て台詞を吐き捨てて。

 ……どこへ行った。どこでどうしてる、リヴェア。

 新月の夜。ねっとりとからだに纏わりつくような海風に吹かれながら、悔恨に塗れ、もう何千回、何万回吐いたかわからない深い深い溜息とともに、彼は冷たい石壁にからだを預けた。

 脱力してその場に座りこもうとしたその時。

 ──石畳を駆ける、急激に近づいてくる緊迫した足音と同時に、彼の視界に艶やかな黒髪が翻った。
 
 探し求めている女と同じ色の髪。

 瞠目した彼は、差し伸べられた細い手をほとんど無意識に掴んで引き寄せた。
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