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事件 1.

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 親衛隊長、アルフ・ド・リリーが昔なじみの酒場に再び顔を出したのは、前回の訪れから約一ヶ月経過するかしないか、という頃のことだった。
 
 すっかり堅物になったアルフだが、前回のようにあまりにご無沙汰が過ぎて、散々剣突くを喰らわされるのはさすがに避けたかったのと、そもそも何かしらの情報収集を兼ねて酒場へ顔を出すのなら、それなりの頻度で顔を繋いで、常連の端くれになっておく必要がある、と考えたからである。

 夜は日没から城詰となる予定の日中、「確か、茶店を出してるはずだしな」と「うみねこ亭」の、青と白に塗られた扉を開けてみると。

 「──なんだ、これは」

 茶店を出す、と張り切っていたあの言葉はなんぞの聞き違いだったかと、思わずアルフは眉間にしわをよせて呟いた。
 
 酒やあれこれの食材の納入、仕込みのため扉は開いてはいたものの、店内は薄暗く、ひっそりとしている。
 
 「茶店やってると思ったが」

 もっと先の話だったのかな、と独り言ちながら、それでも静かな店内を横切って、わずかに人の気配のする厨房へ爪先をむけると、いきなり視界に亜麻色の塊が飛び込んできた。

 「イルージャ!?……って、ああ」

 あんたなの、と、飛び出してきたアイーシャは急激に勢いを失った声で続けて、ばつが悪そうな風情で少し乱れた亜麻色の髪をなでつけている。

 「ご覧の通り、営業前よ。……まあ、一見さんじゃなし、何か飲みたきゃ一杯くらいは出すけどさ」
 「アイーシャ、なんかあったのか」

 アイーシャの様子はただ事ではないと瞬時に悟り、アルフは端的に尋ねた。
 彼は切り替えが早い。 
 あんたなの、とはご挨拶だなと、文句を言いかけたことなどたちどころに思考の外に追い出したらしい。
 さっさと断わりもなくそのへんの椅子をひきよせ、どっかと座り込むと、正面からアイーシャに問い質した。
 
 「茶店を開くって張り切ってだろう?何があった。さっき、イルージャ、って言ったな?どこにいる?」

 ──言おうか、どうしようか。
 一瞬、考え込むように色っぽい唇をかみしめたアイーシャだったが、話を聞くまで席を立つ気はないらしいアルフを見て、腹を決めたようだ。

 眉尻を下げ、ふっと一瞬だけ苦笑らしきものを浮かべてから、口を開いた。

 「……イルージャがね、いなくなったんだ」
 
 アイーシャの妹分のイルージャ。
 もちろんアイーシャ同様にアルフにとっては昔なじみの一人であるから、少なからず衝撃を受けたに違いないが、彼は紅玉の瞳をくるめかせて驚きを示したのみで、続きを促すように沈黙を保っている。
 そのせいで、というわけでもないのかもしれないが、アイーシャは続けた。
 
 「……もう十日以上になる。茶店、やるって言ったろう?泊りがけで茶葉の買い付けと講習会にでかけて、それで」
 「……」
 「戻っては、きたんだ。でも、そのあとから、なんだか。……なんか、おかしくなって。おかしくなってしまって」

 アイーシャは懸命に平静さを保とうとしているのか、唇を舐めながら切れ切れに言葉を紡ぐ。

 「おかしくなった?」

 アルフは低く尋ねた。
 
 「どんなふうに?」
 「なんて言ったらいいのか。……陽気になったり塞いだり。不安定な様子で」
 「……」
 「仕事は、いちおうしていたんだよ。でも、疲れる、疲れる、ってよく言うようになって。茶葉の勉強だの仕入れだのとは口にしているし、茶葉の業者とは商談してるらしいのに、そこから話が進まない。それであたし、ちょっと叱りつけちまって」

 後悔しているのか。
 アイーシャは口を噤み、こみあげるものを堪えようとするかのように何度も唾を飲み込んだ。
 アルフは感情を表に出さないまま、そんなアイーシャに冷静な紅玉の瞳を向けている。

 「……でも、そんなにひどく叱ったつもりはないんだよ!体調が悪いなら、休むなら休む。そうでないならしっかりおしよ、って。そしたら、あの子」
 「飛び出していったのか?」
 「ううん」

 アイーシャはぶんぶんと頭を振った。
 少し乱れたままの豊かな栗色の髪が、小さな風を起こして左右に飛び跳ねる。
 
 「そうね、って言ったんだ。こっちが拍子抜けするぐらい反論も何もなく、そうだよね、って。そして、ごめんアイーシャ、何とかする、って言って、その晩はいつもどおり仕事して、それから」

 いなくなっちまった、と、最後は絞り出すようにアイーシャは言った。
 
 「……あたし、きちんと話も聞かずに。あの子は何か悩んでいたのかもしれないのに。……」

 今にも泣きだしそうなのに、泣きたいだろうに、猫のように吊り上がった大きな目からけっして涙をあふれさせようとはしない。

 一流の酒場の女はね、恋人以外の男の前で泣いちゃいけないんだ。
 泣くのを武器にするのはつまんない女のすることさ。

 気の強いアイーシャは何かにつけそう口にしていたっけな、と震える声を耳にするうちに、アルフは思い出した。
 こんなにも動揺し、憔悴しながらも己の信条は必死に守り通すつもりらしい。

 遊び人だったころから、なぜか色っぽい気分にはならなかった相手とはいえ、いや、だからこそと言うべきか。悲痛なと言ってよい女の声も姿も、恋愛感情抜きに珍しくアルフの心を揺らした。
 酒場の女とはいえ、昔なじみだ。

 「……心当たりは、ないのか?」

 ありきたりではあるが、アルフはとりあえず問うてみた。

 「きっかけとか。男関係とか。どんなことでも」
 「ないよ。ってか、わからないんだ」

 当たり前のことを聞くなとは、アイーシャは言わなかった。
 うなだれたまま、張りのない声で答えた。

 「あの子、つきあってる男なんていなかったはずなんだ。なんっでもあたしに相談してたし。でも、あの子の意志でどっかへ行っちまったんだとしたら」
 「お前の知らない男関係があった可能性はあるな」

 遠慮のない間柄だけに、容赦なくアルフは言った。
 アイーシャは再び唇を噛んだだけで、反論をしようとはしない。

 「……まあ、男と決めつけるのもあれだが、美人で若いからな」
 「そうだよ、アルフ。あの子は可愛いし年頃だし……」
 「アイーシャ」

 紅玉の瞳がぎらりと光った。
 美人で年頃の女性の失踪。
 ──一番、あり得る可能性がもう一つあった。

 「誘拐、って線はないのか?」
 「ゆうかい」
 
 アイーシャは機械的に反芻し、がばりと身を起こすと、いきなりアルフの前に膝をつく。
 
 「おい、アイーシャ」
 「頼むよ、アルフ!……いや、隊長さん、隊長様!!」

 アイーシャは美貌をくしゃりと歪ませて、アルフの膝に縋りついた。

 「隊長様、お願い。あの子を助けて。……そうだ、きっと誘拐だよ。あの子は家出するような考えなしじゃない。なんとかする、って、あの子言っていたんだよ!これから家出しようって子が、何とかするなんて言わないだろう!?」
 
 そうとは言えないがな、とアルフは脳内で相槌を打った。

 「頼む、隊長様。あたしの大事な家族なんだ。妹なんだよ!誘拐されたんだ。連れ戻してやらなきゃ、お願い、お願いします……」

 本人は泣いているつもりはないのだろう、確かに頬に涙の痕はない。
 しかし、鼻も目も真っ赤にしてお願いしますとうわごとの様に繰り返すアイーシャは涙を流していないだけで泣きじゃくっているようにしか見えない。

 「──アイーシャ、とりあえず落ち着け」

 アルフは感情をそぎ落とした声で言って、膝に縋るアイーシャを引き離し、椅子に座らせた。
 
 「落ち着いてくれ、アイーシャ。話はわかった」

 長身を折り曲げ、座らせたアイーシャの両肩を宥めるようにゆっくりと叩きながら、アルフは言った。
 アイーシャは抵抗する素振りはなく、成すがままだったが、激情を恥じるように目を硬く閉じてうつむいている。

 「誘拐も家出も断定は禁物だ。しかし姿を消したまま十日以上、ってのは尋常じゃない。……気にかけてみる、とだけしか、今は言えんがな。──そうだ、警ら隊に届け出はしてるんだろうな?」
 「……昨日、したよ」
 「昨日だと」

 それは遅すぎないか、と思わず気色ばんで咎めようとして。
 ──アルフはすぐに溜息をつきつつ首を横に振った。

 盛り場の、客商売。
 流行の店の、看板娘の一人の失踪だ。
 万一、それこそ男関係の醜聞でもあれば店の名に関わる。
 数日待ってみたらひょっこり帰ってくるかもしれない。
 その間に聞き合せなんぞもしてみたものの、結局なんの手がかりもなく十日くらいはあっという間に過ぎたというわけか。

 世慣れたアルフはあっという間にそのあたりの事情を汲み取った。
 アイーシャも後悔しているのか。
 叱責される子供のように、身を縮こまらせている。

 「改めて聞くが、アイーシャ」

 アルフはわずかに語気を和らげた。
  
 「本当に、心当たりは何もないんだな?」
 「ないよ」
 「俺だって、もともとたいして彼女のことは知らないが。お前以外の身寄りはないんだろう?」
 「ない」

 アイーシャはのろのろと頭を上げて、閉じていた目を開けた。
 恐れ気もなく、アルフの鋭い紅玉の瞳を真っ直ぐに見返して、

 「あの子の家族はあたしと、あたしの夫だけだよ、アルフ。友人だって……いないんだ。あたしがあの子の友人で、姉で、家族なんだ」
 
 お願いします。
 ……あの子を、探して。

 肩を落としたまま、しかし多少力の戻った瞳でアルフを見つめ、最後にアイーシャは深々と頭を下げた。
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