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酒場のうわさ話。1.
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かすかに扉のきしむ音がして、夜風と共に男が入ってきた。
既に大いに賑わっている店内を一瞥すると、男は勝手知ったる風情で店の奥、一人客向けの席へ歩み寄る。
細身だが一目でそれとわかるよく鍛えられた体つき。長い黒髪、褐色の肌、鋭く整った横顔。酔客の連れらしい女たちが口を開けて見惚れ、あるいははっきりと欲を匂わせてその男を目で追っている。そんな女を小突いたり舌打ちしながら男を視界の隅に捉えると、酔っ払いどもも一様に呆けたような表情を見せた。
男は周囲の反応など歯牙にもかけずにすたすたと店内を横切ると、止まり木に腰を下ろし、
「久しぶりだな」
と言った。
カウンターの中、そのさらに奥の厨房に向けてあれこれと指示をしていたらしい女は、振り向きざま、大きな猫のような目を見開いた。華やかなばら色のリボンで結わえた波打つ栗色の髪がふぁさりと音を立てて翻る。
女はおよそ客を迎える態度としてはふさわしくない態度で向き直ると、腰に両手をあて、美麗な一人客の前に仁王立ちになった。
彼女の名はアイーシャ。アルバでも有名な酒場、「うみねこ亭」の女主人である。
「まったくだよ。……ってか、もう来ないと思った」
「まあな」
「ちょっと!そこはさ」
嫌味のつもりで言ったのに、男にあっさりと頷かれて女は眦を釣り上げる。
酒のつまみを入れた木の椀を、ダンと音を立てて男の目の前に置いた。
岩塩で味付けした巴旦杏が幾つかジャンプして、また元の位置に収まっている。
「そんなわけじゃねえよ、とか、言いようがあるだろ?あんた、もうちっと気の利いたこと言えた男だったのに!まあな、じゃないでしょうが」
「悪いな、アイーシャ」
ふ、と薄い唇の端をほんの少し持ち上げて、少しも悪いと思っていなさそうに男は言った。
巴旦杏を一つ取って口の中に放り込み、いい音を立ててかみ砕きながら、
「ふらふらするのやめたからさ、俺。ただ、それだけのこと」
「おエラくなったものね、隊長殿?」
ふんと鼻を鳴らしてアイーシャは大げさに首をすくめた。
「そんなわけじゃねえよ」
今度こそ、彼はアイーシャが言ったセリフをそのまま口にした。
差し出された赤葡萄酒の杯を受け取ってゆっくりと一口、飲み下ろして、紅い瞳を軽く瞠る。
「……この酒」
もう一度、舌の上で転がすようにしてこくんと嚥下した。
アイーシャはその様を見ながらゆたかな胸を張る。
清潔な白い開襟シャツに包まれたそれがたゆんと揺れた。
「わかったのかい?さすがだね」
「早いな」
「あたしのツテでね。たぶん、アルバでも、今コレが飲めるのはそうそう何軒もないだろうね」
「ご繁盛だな。俺ひとり来なかったところで痛くも痒くもないだろうな」
「はん、さっきの仕返し?隊長さん」
アイーシャは栗色の後れ毛を耳にかけると、カウンターの中で自分の杯にもその葡萄酒をなみなみと注ぎ、勢いよくごくごくとあおった。
杯の半分ほども一気に飲み干して、葡萄酒に濡れた唇をみずからの舌でぺろりと舐めた。
ぽってりした受け口の厚めの唇。顎近くに小さなホクロがある。ツンと上向き気味の鼻、猫のような、よく光る琥珀色の瞳。
色っぽいと評判のアイーシャの美貌だが、当人は気っぷのよいさばけた性格で、馴染みだったころの男に言わせれば「美人だがお前が相手だと男と飲んでるような気がする」と言わしめたほどだ。
「──ま、半月もすればアルバ中に出回るだろうけれどね。新酒ってのはそこらじゅうに出回ったころには飲みたくないね。早いうちがいいのさ」
「まあな」
頷きをひとつ返して、男は──アルフ・ド・リリーは、またひとつ巴旦杏を口にした。
店内を見回しながらかりかりと音を立てて巴旦杏をかみ砕くそのさまを、猫目でじいっとねめつけてから、アイーシャは静かに声をかけた。
「……ね、隊長さん」
「それ、やめてくれよ。名前がなくなったわけじゃない」
「いいのかい、呼んでも?」
どういう意味だ、と、目線だけで問うかのように、アルフは紅い瞳を光らせた。
恐れ気もなく平然とそれをうけとめて、アイーシャは肩を大げさに竦めて見せる。
「あんたが自分の名前を呼ばせたいのは、一人だけなんじゃないのかい?」
「──べつにいいさ、名前くらい。誰が呼んでも」
「強がりなさんなって」
アイーシャは色っぽい唇の端をキュッと釣り上げて笑った。
からかわれたのかと、男は思わず眉間にしわをよせる。
「有名な話だよ。御方様の親衛隊長。お美しいアルフ・ド・リリー様。派手な経歴がウソのように潔癖で堅物。御方様以外の女は視線すら寄せ付けない、ってね」
気軽な口調だが、アイーシャの琥珀色の瞳は決してふざけてはいなかった。
アルフは眉間のしわを解かないまま、くいくい、と杯の中身を飲み干す。
「今をときめく輝かしい親衛隊長様。どんなに数多のご令嬢、ご婦人がしなだれかかっても丁重に追っ払われて名を呼ぶことすら許されないと」
「情報通だな、アイーシャ。相変らず」
空になった杯に二杯目を注がせながら、アルフは言った。
カウンターに片肘をついて、額に落ちかかる黒髪をかき上げる。
ようやく、かつての「馴染みの店」であった感覚が戻ってきたのか、ほんのわずかあったよそよそしさというか、互いの出方を見極めるまでの緊張感がなくなってきたらしい。
「恋に恋してるご令嬢も火遊び志望のご婦人も願い下げだ。確かにそんな奴らには気軽に名前呼ばれたくねえな」
整った顔に皮肉気な笑みを浮かべて鼻を鳴らしている。
脳内には不快な記憶が幾つか再生されているんだろう、とアイーシャは想像した。
「ったく。アルフさまアルフさまと馴れ馴れしくしやがって。こっちは任務中だぞ。リアの側にいるってのに」
「リア?」
アルフは一瞬しまったという顔をしたが、馴染みの、かつ海千山千の酒場の女主人相手に取り繕っても仕方ないと思ったらしい。
「……御方様のことだ」
大人しく付け加えた。
既に大いに賑わっている店内を一瞥すると、男は勝手知ったる風情で店の奥、一人客向けの席へ歩み寄る。
細身だが一目でそれとわかるよく鍛えられた体つき。長い黒髪、褐色の肌、鋭く整った横顔。酔客の連れらしい女たちが口を開けて見惚れ、あるいははっきりと欲を匂わせてその男を目で追っている。そんな女を小突いたり舌打ちしながら男を視界の隅に捉えると、酔っ払いどもも一様に呆けたような表情を見せた。
男は周囲の反応など歯牙にもかけずにすたすたと店内を横切ると、止まり木に腰を下ろし、
「久しぶりだな」
と言った。
カウンターの中、そのさらに奥の厨房に向けてあれこれと指示をしていたらしい女は、振り向きざま、大きな猫のような目を見開いた。華やかなばら色のリボンで結わえた波打つ栗色の髪がふぁさりと音を立てて翻る。
女はおよそ客を迎える態度としてはふさわしくない態度で向き直ると、腰に両手をあて、美麗な一人客の前に仁王立ちになった。
彼女の名はアイーシャ。アルバでも有名な酒場、「うみねこ亭」の女主人である。
「まったくだよ。……ってか、もう来ないと思った」
「まあな」
「ちょっと!そこはさ」
嫌味のつもりで言ったのに、男にあっさりと頷かれて女は眦を釣り上げる。
酒のつまみを入れた木の椀を、ダンと音を立てて男の目の前に置いた。
岩塩で味付けした巴旦杏が幾つかジャンプして、また元の位置に収まっている。
「そんなわけじゃねえよ、とか、言いようがあるだろ?あんた、もうちっと気の利いたこと言えた男だったのに!まあな、じゃないでしょうが」
「悪いな、アイーシャ」
ふ、と薄い唇の端をほんの少し持ち上げて、少しも悪いと思っていなさそうに男は言った。
巴旦杏を一つ取って口の中に放り込み、いい音を立ててかみ砕きながら、
「ふらふらするのやめたからさ、俺。ただ、それだけのこと」
「おエラくなったものね、隊長殿?」
ふんと鼻を鳴らしてアイーシャは大げさに首をすくめた。
「そんなわけじゃねえよ」
今度こそ、彼はアイーシャが言ったセリフをそのまま口にした。
差し出された赤葡萄酒の杯を受け取ってゆっくりと一口、飲み下ろして、紅い瞳を軽く瞠る。
「……この酒」
もう一度、舌の上で転がすようにしてこくんと嚥下した。
アイーシャはその様を見ながらゆたかな胸を張る。
清潔な白い開襟シャツに包まれたそれがたゆんと揺れた。
「わかったのかい?さすがだね」
「早いな」
「あたしのツテでね。たぶん、アルバでも、今コレが飲めるのはそうそう何軒もないだろうね」
「ご繁盛だな。俺ひとり来なかったところで痛くも痒くもないだろうな」
「はん、さっきの仕返し?隊長さん」
アイーシャは栗色の後れ毛を耳にかけると、カウンターの中で自分の杯にもその葡萄酒をなみなみと注ぎ、勢いよくごくごくとあおった。
杯の半分ほども一気に飲み干して、葡萄酒に濡れた唇をみずからの舌でぺろりと舐めた。
ぽってりした受け口の厚めの唇。顎近くに小さなホクロがある。ツンと上向き気味の鼻、猫のような、よく光る琥珀色の瞳。
色っぽいと評判のアイーシャの美貌だが、当人は気っぷのよいさばけた性格で、馴染みだったころの男に言わせれば「美人だがお前が相手だと男と飲んでるような気がする」と言わしめたほどだ。
「──ま、半月もすればアルバ中に出回るだろうけれどね。新酒ってのはそこらじゅうに出回ったころには飲みたくないね。早いうちがいいのさ」
「まあな」
頷きをひとつ返して、男は──アルフ・ド・リリーは、またひとつ巴旦杏を口にした。
店内を見回しながらかりかりと音を立てて巴旦杏をかみ砕くそのさまを、猫目でじいっとねめつけてから、アイーシャは静かに声をかけた。
「……ね、隊長さん」
「それ、やめてくれよ。名前がなくなったわけじゃない」
「いいのかい、呼んでも?」
どういう意味だ、と、目線だけで問うかのように、アルフは紅い瞳を光らせた。
恐れ気もなく平然とそれをうけとめて、アイーシャは肩を大げさに竦めて見せる。
「あんたが自分の名前を呼ばせたいのは、一人だけなんじゃないのかい?」
「──べつにいいさ、名前くらい。誰が呼んでも」
「強がりなさんなって」
アイーシャは色っぽい唇の端をキュッと釣り上げて笑った。
からかわれたのかと、男は思わず眉間にしわをよせる。
「有名な話だよ。御方様の親衛隊長。お美しいアルフ・ド・リリー様。派手な経歴がウソのように潔癖で堅物。御方様以外の女は視線すら寄せ付けない、ってね」
気軽な口調だが、アイーシャの琥珀色の瞳は決してふざけてはいなかった。
アルフは眉間のしわを解かないまま、くいくい、と杯の中身を飲み干す。
「今をときめく輝かしい親衛隊長様。どんなに数多のご令嬢、ご婦人がしなだれかかっても丁重に追っ払われて名を呼ぶことすら許されないと」
「情報通だな、アイーシャ。相変らず」
空になった杯に二杯目を注がせながら、アルフは言った。
カウンターに片肘をついて、額に落ちかかる黒髪をかき上げる。
ようやく、かつての「馴染みの店」であった感覚が戻ってきたのか、ほんのわずかあったよそよそしさというか、互いの出方を見極めるまでの緊張感がなくなってきたらしい。
「恋に恋してるご令嬢も火遊び志望のご婦人も願い下げだ。確かにそんな奴らには気軽に名前呼ばれたくねえな」
整った顔に皮肉気な笑みを浮かべて鼻を鳴らしている。
脳内には不快な記憶が幾つか再生されているんだろう、とアイーシャは想像した。
「ったく。アルフさまアルフさまと馴れ馴れしくしやがって。こっちは任務中だぞ。リアの側にいるってのに」
「リア?」
アルフは一瞬しまったという顔をしたが、馴染みの、かつ海千山千の酒場の女主人相手に取り繕っても仕方ないと思ったらしい。
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