見返り坂 ~いなり横丁~

遠藤 まな

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~梅雨蛍~

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 日本の梅雨と言えばジメジメ、ムシムシといった言葉に表現されるように不快指数が非常に高い季節なのは毎年の事。
 人間にとっては憂鬱な季節ではあるが、植物にとっては成長に欠かせない潤いの季節でもある。日本人の主食である米が植えられ、この頃から蛙の合唱も耳にする事が多くなりやがて訪れる夏に思いをはせる時期でもあった。
「おすすめの豆アジの南蛮漬けです」
 そう言って女将が私の前に小鉢を置くと、シトシト雨が降り続ける外の様子を伺うように格子戸の方へ視線を向けた。
「よく降るわね…」
「梅雨ですから」
 身もふたもない私の言葉に女将は苦笑いを浮かべる。
「今年の初夏の手仕事も一段落したし、後は梅雨明けを待って塩漬けの梅を天日干しして梅干しにするぐらいかしらね…」
「今年は何を仕込んだんですか?」
 そんな私の質問に女将は、梅酒、梅シロップ、梅干し、梅醤油、赤紫蘇ジュース、ガリ、紅ショウガ、らっきょうの甘酢漬けと指折り数える。
「…相変わらずですね」
「長期間保存できるものも多いから、安心安全でおいしいものを食べたいなら、自分で作る事をお勧めしたいんだけどね」
「まあ、そうだとは思いますが、忙しい人も多いし、今の住宅事情じゃ保存瓶を置く場所に困るんじゃ?」
「…確かに難しいわね」
「うちのキッチンなんて、お湯を沸かすぐらいしかできないですし」
 日本の伝統的な手仕事に興味を持ち、やる気があっても物理的にどうしようもない問題もたくさんある。それは女将も解っているのか、特に反論はしなかったが、日本では最近梅干しの消費量が減少を続けていて、梅の生産農家が存亡の危機に陥っている事を心配する。
「梅の木の畑に限った事ではないけれど、田んぼや畑が荒廃すると元の状態に戻すまで長い年月が必要なのよね…。梅干しは酸っぱいししょっぱいからって食べない人が多いみたいだけど、変な高価なサプリを飲むぐらいなら、梅干しを一つ朝に食べる方がずっと体にいいのに…」
「ああ、聞いた事があります。梅干しはその日一日の難逃れってやつでしょ?」
「そう。塩分やミネラルが豊富な発酵食品だし、殺菌効果も高いから食あたり防止の為にも、昔のお弁当のご飯の上には必ず乗せたものだけど…」
「代表的なのはやっぱり日の丸弁当ですか? 日の丸弁当は食べた事はないけど、おにぎりに梅干しだけの奴はお袋が良く握ってくれていました」
 最近では高級おにぎりなんかも人気で確かに美味しいが、梅干しやおかかなどの昔ながらの素朴なおにぎりが無性に食べたくなるのだから不思議なものである。
「昔のお弁当箱ってアルミだったから、梅干しの酸で蓋に穴があいたりしていたわよね」
「ああ、そういえば、そんな事もありましたね。冬になると、朝、学校や幼稚園に行ったら、まずやるのはアルミのお弁当箱を保温器に入れる事。お昼になると保温器で温めた熱々のお弁当を食べた記憶があるなぁ」
 今の様なキャラ弁などはなく、おかずも和風の素朴なものが多かったが、熱々のお弁当は冬の楽しみだった記憶が蘇る。
「お弁当箱を開けたら、さつまいもが一本入っていた事あるわよ」
「それ…ショック大きくないですか?」
 当時は貧しかったし…といって女将は明るく笑う。
「無けりゃ無いでそれなりに楽しかったけどね」
「まあ、おもちゃなんかもあまり買って貰えなかったから、近所の用水路でタニシを取ったりして、それを餌に鮒釣りをしたりして遊んでましたね」
「私は沢でサワガニ釣りだったわねぇ」
 サワガニは水がキレイな場所でないと生息出来ないので、女将が育った環境は自然豊かだったのだろう。
「サワガニはいなかったけど、アメリカザリガニは川や池の近くの水たまりなんかに雨の後よくいましたよ」
 泥だらけになって捕まえて遊んだのも懐かしい思い出だった。
「今の子供たちって、ゲーム以外だと何で遊ぶのかしら?」
「外遊びする子供もあまり見なくなりましたよね――昔に比べて車が滅茶苦茶多くなったのと、ボール遊び禁止の看板が出ている公園のせいだとは思いますが」
 昔は車の数自体非常に少なかったので、昭和の子供たちは道路に蝋石やチョークで絵を描いたり、線を引いてドッチボールなどのコートなどにしたものではあるが…今ではもう見ることが出来ない光景なのだと思うと、少し寂しい気持ちになる。
 そんな懐かしい想いにふけっていると、格子戸が開いて手に植物を手にした布袋さんが入ってきた。
「…まだ、降ってます?」
「もうやんでるよ。風が無いから蒸し風呂みたいになっているけど」
 そう言いながら布袋さんは女将に手にしてた紫の花をつけた植物を差し出した。
「あら、ホタルブクロ」
 ホタルブクロはキキョウ科の植物で、釣鐘状の花をつけるこの季節の花である。
「それと…じゃん」
 布袋さんは得意げな顔でそう言ってビニール袋も女将に差し出す。
「蛍じゃない」
「ホタルブクロに入れて遊ぼうと思って…」
 ホタルブクロの名前の由来は、釣鐘状の花の中に蛍を入れて、行燈の様にしてその光を楽しんでいた事から付けられたからである。
「懐かしいなぁ」
 女将は嬉しそうにそう言うと、ホタルブクロの花の中に蛍を移し、店内の照明を落とした。
 照明を落としてしばらくは警戒してか蛍が光る事は無かったが、静かに様子を見ていると、ほのかな光を放ち始める。
 淡い光の点滅は見る者の心を和ませ、穏やかな時間が小料理屋に流れた。
 しばらく小さな瞬きに心奪われ無言になっていたが、女将が布袋さんに蛍はどこにいたのかと尋ねる。
「…ん? 横丁だよ。僕の秘密の場所だけどね」
 そう言ってニカっと笑う布袋さんの表情は少年のようである。
 蛍の幼虫は自然豊かな清流でないと育たないはずなので、いくら昭和の雰囲気が色濃く残るこの横丁と言っても、そんな場所があるとは想像がつかなかった。
「久しぶりに蛍狩りしたいな…連れて行ってよ」
 女将が布袋さんに珍しくおねだりをする。
「…え、お店どうするんですか?」
「見に行っている間だけ臨時休業。梅雨蛍なんて今日みたいな気候の時にしか見られないんだから。そのチャンスを逃すなんてもったいないわ」
「…そういう事でしたら」
 いつまでも少女の様なところがある女将の願いを断われないと思ったのか、布袋さんは笑いながら了承する。
 彼らのおまけで私もお供をする事となり、布袋さんの案内で蛍を観に出掛ける事になった。
「…みんなには内緒ですよ」
 そう言って布袋さんが連れて行ってくれたのは、横丁と言ってもかなり外れで、住居の数は少なく、うっそうとした木々が立ち並んでいるような場所だった。その中でもひときわ大きく古い木が生えている場所の裏に小川が流れていて、その川の周囲ではたくさんの小さな光が点滅を繰り返しながら揺らめいている。
 幻想的ともいえる蛍の乱舞を私たちはしばらくの間無言で見つめていた。
「キレイ…」
 蛍たちに遠慮するような小声で女将が感想を漏らす。
「…ここの川は古墳からの湧水が水源みたいで、昔から毎年蛍が見られるんですよ」
 ここは横丁育ちの布袋さんが子供の頃からよく遊んだ場所だったらしい。川の奥には木々が生い茂る小山の影が見えるのだが、古墳だとは思いもしなかった。
「古墳だから開発の手が入らなかったのね」
 女将も古墳の話は初耳だったようで、川の奥に見える小山の影を見上げる。
「いくら水が綺麗でも整備された川には蛍は住めないそうですね…」
「自然が生み出す生きた宝石…か」
 儚いけれどずっと続いてきた命のリレー。この命の瞬きが永久に続きますように…。
 祈る様な気持ちで、私達は梅雨蛍にそっと手を合わせた。

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