25 / 33
~河童 川に流れる~
しおりを挟む
桃の節句。
寒さも少しずつ和らぎ、お日様の暖かさの中に春の気配を感じる様になった頃である。
最近の都会では七段飾りのお雛様を飾る家は少なくなってきたが、バレンタインが終わった頃から街のショウウインドウなどで美しいひな人形が飾り付けられていた。
日本人形はリアルなものが多く、美しいけれど怖さを感じる者も少なくないからか、最近ではひな祭りの衣装をまとったアニメや動物キャラクターを見掛ける事も多く、昔ながらの七段飾りではなく、住宅スペースの兼ね合いだからか、内裏雛だけの簡易的なお雛様も近年ではよく売れているらしい。
女兄弟がいれば桃の節句にお雛様を飾ったり、行事食のちらし寿司や甘酒を飲む機会があるかもしれないが、男の一人っ子だったり男兄弟だけだと馴染みのない行事ではあった。
河童さんもその一人で、一人っ子だったせいか、ひな祭りがどんなお祭りなのか一般常識程度の知識しか持っていなかった。
――なんでこんな事になったんだろう?
小さなボートの上で河童さんはぼんやりと緩やかな流れの川面を見つめながら考えていた。
ボートに乗っている人間は河童さん一人で、ボートには推進力のある動力などついておらず、ただ川の流れに乗って、何処に辿り着くのかは神のみぞ知る状態だった。
――そもそもの事の始まりは取引先の画廊だった。
節分が終わり立春を迎えた頃、河童さんは画廊主に呼び出された。画廊に行くと河童さんの絵が好きだという和装の老人が待っていた。
「桃の節句にちなんだ絵ですか…」
老人から依頼されたのは桃の節句の絵。ひ孫へのプレゼントとして贈りたいのだという。
仕事の依頼は大歓迎ではあるが、得意としている風景画と違って、桃の節句の行事とは今まで縁が無かったので河童さんは返事を即答できずにいた。
「納品の期限は?」
「今年のひな祭りまでに間に合えば」
「う~ん」
絵を描く為の資料集めや文化的な勉強などをする時間、構図を決めたり下絵を描く事を考えたらとてもではないが、その納期では無理だと判断した河童さんは依頼を丁重に断る事にした。残念がる老人を残して河童さんは画廊を後にする。
画廊を出た河童さんの足は無意識にいなり横丁の方へ向いていた。
「桃の節句かぁ」
今まで桃の節句の絵を描こうと思った事が無かったので、依頼されても具体的なイメージすらわかない自分の不勉強さをアーチストの端くれとして恥ずかしいと感じる河童さんだった。
見返り坂を下り、いなり横丁に入る角のお社の前で河童さんは足を止めると、日が暮れ始めて西日に照らされた立派な桃の木を見上げた。
「桃栗三年、柿八年だっけ? この木の樹齢っていくつなんだろう?」
立春を迎えたとはいえ、まだ寒さが厳しい時期である。早咲きの梅が咲き始める頃なので、桃の花を楽しむことが出来るのはもっと暖かくなってからのようだった。
「桃は魔よけになるから、桃の節句に飾るんだっけ?」
日本に生まれ育っていても、伝統行事については知らない事ばかりだと思いながら河童さんは馴染みの小料理屋へ向かう。
麻の暖簾をくぐると、小料理屋の奥には先客がいた。
「今日は早いですね」
顔なじみの先客——天狗さんに河童さんが声をかけると、老紳士は「君もね」と笑顔で返事を返してきた。
「今日のおすすめは肉じゃがよ」
いつものように女将がおしぼりとお通しのほうれん草のお浸しを前に置いたので、河童さんはおすすめと熱燗を注文すると、桃の節句の行事で有名な所を知らないかと尋ねた。
「桃の節句?」
「僕、身内に女の子がいない環境で育ったんで、桃の節句とかお雛様ってよく分からないんですよね」
「何かあったの?」
女将と天狗さんが不思議そうにしているので、河童さんは事情を説明をして、後学の為にもいろいろと知りたいのだと思いを伝える。
「…なるほど。絵描きさんなら日本の伝統文化の勉強をしていても損ではないね」
天狗さんはそう言うと少し考え込んだ。
「今では桃の節句と言えば、桃の花を活けてひな壇を飾るぐらいかな? 行事食としては白酒か甘酒を飲んだり、ちらし寿司と蛤のお吸い物…」
「生命力を象徴する菱餅を忘れてるわ」と女将が天狗さんの話を補足する。
「ちらし寿司の入っている具材はおせち料理と同じで、縁起担ぎの意味合いがあるし、蛤なんかの二枚貝は違う貝の殻とは絶対に合う事が無いから、仲のいい夫婦の意味があるみたいね」
「雛あられは?」
スーパーやコンビニなどで見かけた気がした河童さんが訊ねると、雛あられは元々菱餅を砕いたものだったと教えてくれた。
「食べ物だけでもそんなにあるんですね」
河童さんが感心した様子で話を聞いていると、「絵にするならやっぱりお雛様かな」と天狗さんが笑う。
「お雛様って階段みたいなやつに赤い敷物を敷いて飾ってあるやつですよね? なんかいっぱい人形が並んでるけど…」
ひな祭りに縁が無かった男子が、ひな人形の見分けがつかなくても仕方がない話だった。
「基本は男雛と女雛ね。「うれしいひなまつり」の歌詞のせいで、男雛をお内裏様、女雛をお雛様って覚えちゃってる人多いけど、あれ間違いだから」
そう言って女将は笑う。
「え? 違うんですか?」
子供の頃、幼稚園などでよく歌った歌詞を思い出して河童さんは驚きの声を上げる。
「正確には男雛、女雛の一対でお内裏様。お雛様はひな人形一式の事を表すのよ」
それは天狗さんも初めて知ったのか、感心した様な顔になる。
「ひな人形は元々飾る為のものじゃなく、無病息災を祈って罪穢れを人形を身代わりにして水に流して清めるのが本来の形だから、呼び方が間違っていても目くじらを立てるような問題ではないけど」と言って、女将はクスクス笑う。
「そういう問題なんですか?」
戸惑いを隠せない河童さんの様子がおかしかったのか、天狗さんは「女将が言いたいのは時代が進むにつれ、行事自体のやり方や意味合いが変わってきているから、些細な事を気にするなって事だと思うよ」と言いながら笑いをかみ殺す。そんな二人の言葉に河童さんは容量が得ない様子で曖昧に頷いた。
「本来の桃の節句は、無病息災を祈って穢れを祓う為のものだから、流し雛の行事をやっているところに行くのもいいかも」
「流し雛?」
初めて聞く単語に河童さんが訊き返した。
「紙や木片、粘土で作ったお雛様をひな祭りに水に流して無病息災を祈る神事の事——伊弉諾と伊弉冉が国生みに失敗した蛭子を葦船に乗せて水に流した神話が流し雛のルーツという人もいるわ」
「全国に流し雛の神事をやっている所があるから行ってみるのも悪くないんじゃないかな?」
二人の話を聞いた河童さんは、理由はわからないが流し雛の単語が何故か気になるので、雛流しの行事を見に行こうと密かに心に決めるのだった。
「…初めて来たよな…ここ」
桃の節句の早朝、電車を乗り継ぎローカル線の駅に降り立った河童さんは駅周辺の風景を見回して、不思議な気分になっていた。初めて訪れる田舎町なのだが、まるで故郷に帰ってきたような懐かしさを覚えていたからである。
近郊地域でも流し雛の行事がある事を知った河童さんは、流し雛の行事が行われる日、始発に乗ってやってきた。駅の時刻表を見ると、通勤時間以外は一時間に電車が1本しかないような場所である。
駅前ロータリーと言っても人通りはほとんどなく、タクシーも居ないのでここからはバスで移動する事になる。事前に目的地までの経路は調べてあるし、全く無人という訳ではない。バスの出る時間まで半時間はあるので駅前の食堂兼喫茶店で時間を潰すことにした。
店の中はどこかいなり横丁と同じ昭和の雰囲気が漂っていて、新聞を読みながら仕事前のコーヒーを飲んでいる作業着姿の男性客もいれば、ひと仕事終えた後なのか、朝の定食を掻きこむ様に食べている若い農作業服の青年もいた。テーブルの隅に座った河童さんは店内に貼られた手書きのメニューを見て朝定食を注文する。
店内に置かれた古いテレビから流れる朝の情報番組を眺めていると、花柄のエプロンを身につけた小太りの女性が朝定食を運んできた。
「兄さん、見掛けない顔だけど、ご旅行で?」
「…あ、今日ある、流し雛を見に来たんです」
「取材か何か?」
「そんなものです」
桃の節句と言えば女の子の行事だし、河童さんの雰囲気やラフな服装からまっとうな勤め人には見えない…そこから導き出したのはマスコミ関係者か何かの取材ではないかと思ったらしかった。馬鹿正直に画家名乗っても有名ではないのは自分でもよく解っていたので、河童さんは食堂の女性の言葉を訂正する事はしなかった。
「あらまぁ、こんな田舎までご苦労さんな事で…」
興味津々といった感じで女性は河童さんを見る。
「いただきます」
食事が冷めないうちにと河童さんは定食を食べ始めた。定食は白ごはんに豆腐とわかめのお味噌汁、焼鮭にほうれん草のお浸し、そしてお新香という、ごく普通の日本の朝ごはんである。
河童さんが定食を半分食べたぐらいで、食堂の女性は黙っていられなくなったのか、何処から来たのかとか、滞在時間はどのくらいなのか、他に合流する人間はいるのかと河童さんを質問攻めを始めた。その質問を無視するのも気が引けたのか河童さんが適当に答えていると、女性が呆れたような声を上げた。
「取材予約してないとね?」
「…はい」
「あんた、そんなんじゃ、いい記事書けないわよ」
「…」
すっかり河童さんを記者だと思い込んでいるらしい女性はそう言うと、柱の傍に置いてあった古い電話帳を取り出した。
「宮司さんに連絡取ってあげるから、ちょっと待ってなさい」
一方的にそう宣言すると、女性は店内に置いてあるピンクの公衆電話の受話器を手に、ダイアルを回し始めた。
「うわぁ…ピンクのダイアル式公衆電話…まだ現役だし」
女性のお節介よりも、古い公衆電話がまだ現役である事に驚いていた河童さんに何やら話していた女性は受話器を置くと、「宮司さんに話付けてあるから、神社に言ったら富家の女将がさっき電話した者って言いなさいね」と言って笑った。
「…ありがとうございます」
よく分からないが女性はこの店…屋号は富家というらしいが、女将らしい。頼んだ訳ではなかったが、今から行く神社の宮司さんに話をしてくれたのはありがたかった。
時計を見るとバスが出る5分前になっていたので、河童さんはもう一度礼を言うと店を出た。
ロータリーのバス停には古い路線バスの車両が停まっている。行き先を確認して河童さんがバスに乗り込みシートに腰を下ろして出発時間を待っていると、富家の女将が息を切らしてバスに乗り込んできた。
「兄さん、忘れ物」
富家の女将はそう言うと、戸惑い顔の河童さんへ新聞紙に包まれた何かを押し付けた。
「え?」
「おにぎり。神社の周辺は飲食店なんてないから、お昼にこれを食べなさいね」
言いたいことを言うと、富家の女将はさっとバスを降りて行った。それを待っていた様にバスの扉が閉まる。動き出したバスの窓から外を見ると満面の笑顔で富家の女将がバスに向かって手を振っていた。
「ありがとう」
河童さんは深々と頭を下げると、握りたてのおにぎりの包み紙を大切そうにそっと撫でる。
――日本のおかんここにあり。
まだまだこの国も捨てたものではないと思う河童さんだった。
駅前からバスに揺られて10分。神社前の停留所で下車した河童さんは、入り口の傍にある手水で手や口を清めると、富家の女将に言われた通りに社務所で声をかけた。中から出てきたのは祭礼用の衣装を身につけた宮司だった。
宮司の髪は真っ白で深い皺が顔に刻まれていたが、背筋はシャンと伸び、どこか若々しい印象の不思議な人物である。
「ようこそお詣り」
素敵という言葉がぴったりくるような笑顔で宮司は河童さんを出迎えてくれた。
「お世話になります」
河童さんは頭を下げると宮司は流し雛の行事までまだ時間があるから奥で話でもと、社務所の中に招き入れた。
案内されるままソファに座った河童さんの前に宮司は熱いお茶と竹かごを置いた。竹かごの中には和紙の男雛と女雛が乗っている。
「これがうちの流し雛です」
「へぇ…これが」
雛飾りと違って随分質素ではあるが、流し雛には素朴な可愛さを感じた。
「参加者にこのお雛様へ息を吹きかけてもらって、穢れを移してそれを前にある川へ流すんです」
「川へ…」
「川が無い地域では池や海に流す所もあるようですが」
「水の浄化の力ですか?」
河童さんの言葉に宮司は頷いた。
「神道では自然そのものが神様であるという考えですから」
「なるほど…」
「うちの神社の御祀神は瀬織津姫といって、罪穢れを浄化するのを得意とする神様なんです」
「瀬織津姫…」
河童さんが初めて耳にする神様の名前だった。
「人間は知らず知らずの間に罪を重ねているので、それを神様に清めてもらうんです――お風呂で体の汚れを洗い落とすように、瀬織津姫は心の汚れを綺麗にしてくれます」
「へぇ」
寺社仏閣にお詣りすると清々しい気持ちになるのも、もしかしたら目に見えない神様や仏様の力のせいなのかもしれない。そんな事を考えていると、宮司が流し雛の会場の下見でもしますかと提案してくれたので、河童さんは素直に頷いた。
宮司の後について、本殿横の階段を下ると緩やかな流れの川のほとりに出た。川に張り出すように木製の足場が作られて、宮司の説明によるとここから竹かごを流すらしい。
「流したお雛様はどうなるんですか?」
河童さんの素朴な疑問に宮司は下流で回収して、乾燥させた後、お焚き上げをすると教えてくれた。
「そうですよね…そのままではゴミになりますし」
「一応、回収し損ねても自然に帰る素材なので、少量なら問題はありません」と宮司が笑う。
「回収し損ねる事あるんですか?」
「人手がないもので…」
苦笑するように言った宮司の言葉に手伝いを河童さんが申し出る。
「…お気持ちは嬉しいですが、取材で来られている方に手伝わせる訳には…」
「大丈夫です…お話をいろいろ聞かせて頂いたし、流し雛がどんなものなのかを知るのが目的でしたから」
笑顔の河童さんの言葉に、宮司さんは手を合わすと感謝の言葉を述べ、この場所から5分ほど川沿いに下ったところに小さなボートがあるので、それに乗って網で流れてきた竹かごを回収する段取りになっていると作業内容の説明をしてくれた。
「おっと…そろそろ行事の受付時間なので戻らないと」
時間を確認した宮司が少し慌てた様子で本殿の方を見上げる。
「宮司さんは行って下さい。僕はこの辺を散策してから、行事が始まる時間には下流の網の方に行ってますので」
河童さんはそう言うと、宮司に社務所へ戻る様に促し「では、後ほど」と言うと、下流に向かって河原を歩き始めた。
河童さんがここに来たのは流し雛の行事そのものではなく、流し雛がどんなものなのかを実際手に取って、質感などを観察したいという気持ちの方が強かったので、回収作業の方が数多くの流し雛に触れられそうという打算もあった。
対岸には常陽樹が生い茂る山があり、寒空ではあったが力強い生命力を山や川の風景から感じ取る。
「ここも初めてなのに故郷に帰ってきた様な気分になる…不思議な所だなぁ――スケッチしたいけど、また今度だな…」
時間を確認して河童さんはひとり呟くと、スケッチブックが入ったショルダーバッグを肩にかけなおすと回収用のボート目指した。
神社下から川の流れは緩いカーブで山側へ曲がり、行事用の足場から直接見えない場所に小さくて古いボートがあった。そこには一本のオールが備え付けられていて、どうやらボートの推進は人力のみのようだった。
川には既に網が川幅に張られていて、流し雛はその網で下流に流れないようにせき止められる様だった。
「…なるほど、これなら人手が無くても、後で回収作業は出来るな」
周囲を見回して、とりあえず作業の段取りを考える。社務所には宮司とその奥さん、アルバイトと思しき若い巫女さんが二人いただけなので、本当なら回収作業は行事が終わってから、せき止められた流し雛を回収するという段取りなのだろう。
お節介だが親切な富田屋の女将さんや丁寧に対応してくれた宮司へのお礼の気持ちもあるので、河童さんはできれば自分ひとりで回収作業が出来ればと思っていた。
宮司の説明だと、毎年流し雛の数は数十体らしいので一人で作業するとしても処理できない数ではなさそうである。
「ボートなんて何十年ぶりだろう?」
小さなボートにショルダーバックを置くと、軽くボートを押してみた。思ったよりボートは重くなく、一人でボートを河原から動かして川に浮かべる事もなんとかできそうだった。
河童さんは行事が始まる前にボートの操船に慣れておこうと、少し早いがボートを川へ浮かべて乗り込むとオールで陸地を押した。ボートは川に張られた網の下流側をすっと進む。少しオールで川の水をかいて操船の感覚を思い出してゆく。
オールを使って進んだり、方向転換を数分しているうちに、自分が思うようにボートを操ることが出来る自信がついてくる。
「…なんとかなりそうだな」
行事が始まる迄まだ時間が少しあるので、河童さんはボートをいったん岸に戻そうとオールをかくと、何かにオールの先が引っ掛かったのか、強い力がオールを握っている手にかかった瞬間、手汗でオールの持ち手が滑って離れた。
「…あ」
慌ててオールを掴みなおそうとした瞬間、流出防止のオールのストッパーがボートの船縁にあたって壊れ、ストッパーが無くなったオール川の中に落ち、茫然としている河童さんの目の前から流れ去っていく。
「…うそん」
掌を水の中に入れてかいてみるが、数ミリも進みたい方向にボートは動かない。網を伝って戻ろうと思ったが、ボートは網の下流に浮かべてしまっていたので、川に流されて手を伸ばしても網には届かず、それどころか少しずつその距離が広がっていった。
「…最悪だ」
網の上流にボートを浮かべなかった自分の失態に気が付いた河童さんは、最悪な事態に何の対処をする事も出来ず深いため息をもらす。助けを呼ぼうにも周囲に人の姿は見えず、スマホの電波も入らない。川の周囲にあるのは山の斜面とたまに車が走っている道だけだった。
「川の流れに身を任せ…るしかないよな」
河童さんはぼんやりと川面を見つめながらひとり呟く。
ボートが何処かに漂着するか、行事を終えた宮司が河童さんの姿がなく、ボートも消えている事に気が付いてくれるのを祈るばかりである。
流され始めてかなりの時間が経過したのか、河童さんは空腹を覚えた。
「…お昼…は過ぎてるな」
今朝、富家の女将が持たせてくれたおにぎりを思い出して、かばんから紙包を取り出すと、河童さんはおにぎりを食べ始めた。おにぎりの具は梅干しで、飲み物は持っていなかったが梅干しおかげで唾液が出るのは非常に助かった。
「家に帰れるかなぁ」
ゆっくりだが少しずつ下流に流されているのは確実ではある。岸に漂着する事なく海に出る気配もない。助けがくる気配も未だ無かったので不安そうに河童さんは呟く。
川の両端が山の斜面に挟まれた場所に来た時、不意に静寂を破る様に水中から何かが跳ねる大きな音がした。
「?」
魚か何かが跳ねたのかと周囲を見回していると、さっきより大きな音が再び響き、いきなりボートが進む速度が上がった。
「…?」
ボートが何かに引っ張られるような感覚を覚えて河童さんは川の中を覗き込むと、ボートの前の水中に黒い大きな影がいた。その影は高学年の小学生ぐらいの大きさで、そのフォルムは魚ではなく、どちらかと言えば人間に近かった。
「何だ?」
河童さんが状況を把握できずにいると、急にボートがガタンと揺れ川の中州に乗り上げた。河童さんはボートが中州に乗り上げると同時にボートを牽引していた影はボートからすっと離れていく、その影の正体を知ろうと目を凝らした河童さんはそれと目が正面から合う。
「河童⁈」
頭のてっぺんには大きな皿、背中には大きな甲羅を持つその生き物は、驚愕の表情を浮かべた河童さんを大きな目で一瞥すると、川の深いところに潜ってしまい、そのまま姿を消した。
「何が起きたんだ?」
ひたすら川を流されていく状況はとりあえず脱したものの、中州から対岸へは歩いて渡るのは無理だったので、河童さんは再びボートに腰を下ろすと助けを待つことにする。
河童がボートを中州へ付けてくれた理由は解らなかったが、陸地に立つことが出来たのはありがたかった。
日が傾き、風景が夕焼けで赤く染まった頃、捜索隊によってようやく河童さんは中州から解放された。
捜索隊の軽トラに乗せられ上流にある神社へ戻ると、心配そうな顔をした宮司が駆け寄ってきた。
「ご無事でしたか!」
「…おかげさまで」
河童さんは捜索隊を作ってくれた宮司に感謝の言葉を述べると、宮司は見付かって良かったと胸をなでおろした。
「あの川はたまに悪戯好きな河童が出るので、悪戯でもされたんじゃないかって心配していたんですよ」
「…出ました」
「え…」
河童さんの言葉を聞いて、宮司は驚いた表情になる。
「ただ悪戯をされたんじゃなく、助けてもらいました」
「河童が助けた?」
河童さんは体験した昼間の不思議な話をすると、宮司が腕組みをして考え込む。
「貴方がボートごと行方不明になったので、瀬織津姫様にお願いしたんですよ――あなたが無事見つかりますようにって…もしかしたら水の神様でもある瀬織津姫様が川住む河童を使ってあなたを保護したのかもしれませんね」
「…初めて見ました」
頭の皿と背中の甲羅、そしてギョロっとした大きな目は、今まで耳にしていた河童の特徴そのもので、河童さんは驚きを隠せなかった。
「あの河童は川に張ってある網を外したり、流し雛を大量に下流に流したり、ボートのオールを隠したりする悪戯を流し雛の行事の時はよくやるんですが…」
「…それ、先に言って下さい」
河童さんは苦笑しながら宮司に抗議すると、宮司はバツが悪そうに謝罪する。
河童さんは時間を確認すると宮司に帰宅する旨を伝え、「また来ます」と笑顔を見せた。
――次にこの村を訪れる時は、画材具ときゅうりを持って来よう…と河童さんは密かに心に決めて…。
寒さも少しずつ和らぎ、お日様の暖かさの中に春の気配を感じる様になった頃である。
最近の都会では七段飾りのお雛様を飾る家は少なくなってきたが、バレンタインが終わった頃から街のショウウインドウなどで美しいひな人形が飾り付けられていた。
日本人形はリアルなものが多く、美しいけれど怖さを感じる者も少なくないからか、最近ではひな祭りの衣装をまとったアニメや動物キャラクターを見掛ける事も多く、昔ながらの七段飾りではなく、住宅スペースの兼ね合いだからか、内裏雛だけの簡易的なお雛様も近年ではよく売れているらしい。
女兄弟がいれば桃の節句にお雛様を飾ったり、行事食のちらし寿司や甘酒を飲む機会があるかもしれないが、男の一人っ子だったり男兄弟だけだと馴染みのない行事ではあった。
河童さんもその一人で、一人っ子だったせいか、ひな祭りがどんなお祭りなのか一般常識程度の知識しか持っていなかった。
――なんでこんな事になったんだろう?
小さなボートの上で河童さんはぼんやりと緩やかな流れの川面を見つめながら考えていた。
ボートに乗っている人間は河童さん一人で、ボートには推進力のある動力などついておらず、ただ川の流れに乗って、何処に辿り着くのかは神のみぞ知る状態だった。
――そもそもの事の始まりは取引先の画廊だった。
節分が終わり立春を迎えた頃、河童さんは画廊主に呼び出された。画廊に行くと河童さんの絵が好きだという和装の老人が待っていた。
「桃の節句にちなんだ絵ですか…」
老人から依頼されたのは桃の節句の絵。ひ孫へのプレゼントとして贈りたいのだという。
仕事の依頼は大歓迎ではあるが、得意としている風景画と違って、桃の節句の行事とは今まで縁が無かったので河童さんは返事を即答できずにいた。
「納品の期限は?」
「今年のひな祭りまでに間に合えば」
「う~ん」
絵を描く為の資料集めや文化的な勉強などをする時間、構図を決めたり下絵を描く事を考えたらとてもではないが、その納期では無理だと判断した河童さんは依頼を丁重に断る事にした。残念がる老人を残して河童さんは画廊を後にする。
画廊を出た河童さんの足は無意識にいなり横丁の方へ向いていた。
「桃の節句かぁ」
今まで桃の節句の絵を描こうと思った事が無かったので、依頼されても具体的なイメージすらわかない自分の不勉強さをアーチストの端くれとして恥ずかしいと感じる河童さんだった。
見返り坂を下り、いなり横丁に入る角のお社の前で河童さんは足を止めると、日が暮れ始めて西日に照らされた立派な桃の木を見上げた。
「桃栗三年、柿八年だっけ? この木の樹齢っていくつなんだろう?」
立春を迎えたとはいえ、まだ寒さが厳しい時期である。早咲きの梅が咲き始める頃なので、桃の花を楽しむことが出来るのはもっと暖かくなってからのようだった。
「桃は魔よけになるから、桃の節句に飾るんだっけ?」
日本に生まれ育っていても、伝統行事については知らない事ばかりだと思いながら河童さんは馴染みの小料理屋へ向かう。
麻の暖簾をくぐると、小料理屋の奥には先客がいた。
「今日は早いですね」
顔なじみの先客——天狗さんに河童さんが声をかけると、老紳士は「君もね」と笑顔で返事を返してきた。
「今日のおすすめは肉じゃがよ」
いつものように女将がおしぼりとお通しのほうれん草のお浸しを前に置いたので、河童さんはおすすめと熱燗を注文すると、桃の節句の行事で有名な所を知らないかと尋ねた。
「桃の節句?」
「僕、身内に女の子がいない環境で育ったんで、桃の節句とかお雛様ってよく分からないんですよね」
「何かあったの?」
女将と天狗さんが不思議そうにしているので、河童さんは事情を説明をして、後学の為にもいろいろと知りたいのだと思いを伝える。
「…なるほど。絵描きさんなら日本の伝統文化の勉強をしていても損ではないね」
天狗さんはそう言うと少し考え込んだ。
「今では桃の節句と言えば、桃の花を活けてひな壇を飾るぐらいかな? 行事食としては白酒か甘酒を飲んだり、ちらし寿司と蛤のお吸い物…」
「生命力を象徴する菱餅を忘れてるわ」と女将が天狗さんの話を補足する。
「ちらし寿司の入っている具材はおせち料理と同じで、縁起担ぎの意味合いがあるし、蛤なんかの二枚貝は違う貝の殻とは絶対に合う事が無いから、仲のいい夫婦の意味があるみたいね」
「雛あられは?」
スーパーやコンビニなどで見かけた気がした河童さんが訊ねると、雛あられは元々菱餅を砕いたものだったと教えてくれた。
「食べ物だけでもそんなにあるんですね」
河童さんが感心した様子で話を聞いていると、「絵にするならやっぱりお雛様かな」と天狗さんが笑う。
「お雛様って階段みたいなやつに赤い敷物を敷いて飾ってあるやつですよね? なんかいっぱい人形が並んでるけど…」
ひな祭りに縁が無かった男子が、ひな人形の見分けがつかなくても仕方がない話だった。
「基本は男雛と女雛ね。「うれしいひなまつり」の歌詞のせいで、男雛をお内裏様、女雛をお雛様って覚えちゃってる人多いけど、あれ間違いだから」
そう言って女将は笑う。
「え? 違うんですか?」
子供の頃、幼稚園などでよく歌った歌詞を思い出して河童さんは驚きの声を上げる。
「正確には男雛、女雛の一対でお内裏様。お雛様はひな人形一式の事を表すのよ」
それは天狗さんも初めて知ったのか、感心した様な顔になる。
「ひな人形は元々飾る為のものじゃなく、無病息災を祈って罪穢れを人形を身代わりにして水に流して清めるのが本来の形だから、呼び方が間違っていても目くじらを立てるような問題ではないけど」と言って、女将はクスクス笑う。
「そういう問題なんですか?」
戸惑いを隠せない河童さんの様子がおかしかったのか、天狗さんは「女将が言いたいのは時代が進むにつれ、行事自体のやり方や意味合いが変わってきているから、些細な事を気にするなって事だと思うよ」と言いながら笑いをかみ殺す。そんな二人の言葉に河童さんは容量が得ない様子で曖昧に頷いた。
「本来の桃の節句は、無病息災を祈って穢れを祓う為のものだから、流し雛の行事をやっているところに行くのもいいかも」
「流し雛?」
初めて聞く単語に河童さんが訊き返した。
「紙や木片、粘土で作ったお雛様をひな祭りに水に流して無病息災を祈る神事の事——伊弉諾と伊弉冉が国生みに失敗した蛭子を葦船に乗せて水に流した神話が流し雛のルーツという人もいるわ」
「全国に流し雛の神事をやっている所があるから行ってみるのも悪くないんじゃないかな?」
二人の話を聞いた河童さんは、理由はわからないが流し雛の単語が何故か気になるので、雛流しの行事を見に行こうと密かに心に決めるのだった。
「…初めて来たよな…ここ」
桃の節句の早朝、電車を乗り継ぎローカル線の駅に降り立った河童さんは駅周辺の風景を見回して、不思議な気分になっていた。初めて訪れる田舎町なのだが、まるで故郷に帰ってきたような懐かしさを覚えていたからである。
近郊地域でも流し雛の行事がある事を知った河童さんは、流し雛の行事が行われる日、始発に乗ってやってきた。駅の時刻表を見ると、通勤時間以外は一時間に電車が1本しかないような場所である。
駅前ロータリーと言っても人通りはほとんどなく、タクシーも居ないのでここからはバスで移動する事になる。事前に目的地までの経路は調べてあるし、全く無人という訳ではない。バスの出る時間まで半時間はあるので駅前の食堂兼喫茶店で時間を潰すことにした。
店の中はどこかいなり横丁と同じ昭和の雰囲気が漂っていて、新聞を読みながら仕事前のコーヒーを飲んでいる作業着姿の男性客もいれば、ひと仕事終えた後なのか、朝の定食を掻きこむ様に食べている若い農作業服の青年もいた。テーブルの隅に座った河童さんは店内に貼られた手書きのメニューを見て朝定食を注文する。
店内に置かれた古いテレビから流れる朝の情報番組を眺めていると、花柄のエプロンを身につけた小太りの女性が朝定食を運んできた。
「兄さん、見掛けない顔だけど、ご旅行で?」
「…あ、今日ある、流し雛を見に来たんです」
「取材か何か?」
「そんなものです」
桃の節句と言えば女の子の行事だし、河童さんの雰囲気やラフな服装からまっとうな勤め人には見えない…そこから導き出したのはマスコミ関係者か何かの取材ではないかと思ったらしかった。馬鹿正直に画家名乗っても有名ではないのは自分でもよく解っていたので、河童さんは食堂の女性の言葉を訂正する事はしなかった。
「あらまぁ、こんな田舎までご苦労さんな事で…」
興味津々といった感じで女性は河童さんを見る。
「いただきます」
食事が冷めないうちにと河童さんは定食を食べ始めた。定食は白ごはんに豆腐とわかめのお味噌汁、焼鮭にほうれん草のお浸し、そしてお新香という、ごく普通の日本の朝ごはんである。
河童さんが定食を半分食べたぐらいで、食堂の女性は黙っていられなくなったのか、何処から来たのかとか、滞在時間はどのくらいなのか、他に合流する人間はいるのかと河童さんを質問攻めを始めた。その質問を無視するのも気が引けたのか河童さんが適当に答えていると、女性が呆れたような声を上げた。
「取材予約してないとね?」
「…はい」
「あんた、そんなんじゃ、いい記事書けないわよ」
「…」
すっかり河童さんを記者だと思い込んでいるらしい女性はそう言うと、柱の傍に置いてあった古い電話帳を取り出した。
「宮司さんに連絡取ってあげるから、ちょっと待ってなさい」
一方的にそう宣言すると、女性は店内に置いてあるピンクの公衆電話の受話器を手に、ダイアルを回し始めた。
「うわぁ…ピンクのダイアル式公衆電話…まだ現役だし」
女性のお節介よりも、古い公衆電話がまだ現役である事に驚いていた河童さんに何やら話していた女性は受話器を置くと、「宮司さんに話付けてあるから、神社に言ったら富家の女将がさっき電話した者って言いなさいね」と言って笑った。
「…ありがとうございます」
よく分からないが女性はこの店…屋号は富家というらしいが、女将らしい。頼んだ訳ではなかったが、今から行く神社の宮司さんに話をしてくれたのはありがたかった。
時計を見るとバスが出る5分前になっていたので、河童さんはもう一度礼を言うと店を出た。
ロータリーのバス停には古い路線バスの車両が停まっている。行き先を確認して河童さんがバスに乗り込みシートに腰を下ろして出発時間を待っていると、富家の女将が息を切らしてバスに乗り込んできた。
「兄さん、忘れ物」
富家の女将はそう言うと、戸惑い顔の河童さんへ新聞紙に包まれた何かを押し付けた。
「え?」
「おにぎり。神社の周辺は飲食店なんてないから、お昼にこれを食べなさいね」
言いたいことを言うと、富家の女将はさっとバスを降りて行った。それを待っていた様にバスの扉が閉まる。動き出したバスの窓から外を見ると満面の笑顔で富家の女将がバスに向かって手を振っていた。
「ありがとう」
河童さんは深々と頭を下げると、握りたてのおにぎりの包み紙を大切そうにそっと撫でる。
――日本のおかんここにあり。
まだまだこの国も捨てたものではないと思う河童さんだった。
駅前からバスに揺られて10分。神社前の停留所で下車した河童さんは、入り口の傍にある手水で手や口を清めると、富家の女将に言われた通りに社務所で声をかけた。中から出てきたのは祭礼用の衣装を身につけた宮司だった。
宮司の髪は真っ白で深い皺が顔に刻まれていたが、背筋はシャンと伸び、どこか若々しい印象の不思議な人物である。
「ようこそお詣り」
素敵という言葉がぴったりくるような笑顔で宮司は河童さんを出迎えてくれた。
「お世話になります」
河童さんは頭を下げると宮司は流し雛の行事までまだ時間があるから奥で話でもと、社務所の中に招き入れた。
案内されるままソファに座った河童さんの前に宮司は熱いお茶と竹かごを置いた。竹かごの中には和紙の男雛と女雛が乗っている。
「これがうちの流し雛です」
「へぇ…これが」
雛飾りと違って随分質素ではあるが、流し雛には素朴な可愛さを感じた。
「参加者にこのお雛様へ息を吹きかけてもらって、穢れを移してそれを前にある川へ流すんです」
「川へ…」
「川が無い地域では池や海に流す所もあるようですが」
「水の浄化の力ですか?」
河童さんの言葉に宮司は頷いた。
「神道では自然そのものが神様であるという考えですから」
「なるほど…」
「うちの神社の御祀神は瀬織津姫といって、罪穢れを浄化するのを得意とする神様なんです」
「瀬織津姫…」
河童さんが初めて耳にする神様の名前だった。
「人間は知らず知らずの間に罪を重ねているので、それを神様に清めてもらうんです――お風呂で体の汚れを洗い落とすように、瀬織津姫は心の汚れを綺麗にしてくれます」
「へぇ」
寺社仏閣にお詣りすると清々しい気持ちになるのも、もしかしたら目に見えない神様や仏様の力のせいなのかもしれない。そんな事を考えていると、宮司が流し雛の会場の下見でもしますかと提案してくれたので、河童さんは素直に頷いた。
宮司の後について、本殿横の階段を下ると緩やかな流れの川のほとりに出た。川に張り出すように木製の足場が作られて、宮司の説明によるとここから竹かごを流すらしい。
「流したお雛様はどうなるんですか?」
河童さんの素朴な疑問に宮司は下流で回収して、乾燥させた後、お焚き上げをすると教えてくれた。
「そうですよね…そのままではゴミになりますし」
「一応、回収し損ねても自然に帰る素材なので、少量なら問題はありません」と宮司が笑う。
「回収し損ねる事あるんですか?」
「人手がないもので…」
苦笑するように言った宮司の言葉に手伝いを河童さんが申し出る。
「…お気持ちは嬉しいですが、取材で来られている方に手伝わせる訳には…」
「大丈夫です…お話をいろいろ聞かせて頂いたし、流し雛がどんなものなのかを知るのが目的でしたから」
笑顔の河童さんの言葉に、宮司さんは手を合わすと感謝の言葉を述べ、この場所から5分ほど川沿いに下ったところに小さなボートがあるので、それに乗って網で流れてきた竹かごを回収する段取りになっていると作業内容の説明をしてくれた。
「おっと…そろそろ行事の受付時間なので戻らないと」
時間を確認した宮司が少し慌てた様子で本殿の方を見上げる。
「宮司さんは行って下さい。僕はこの辺を散策してから、行事が始まる時間には下流の網の方に行ってますので」
河童さんはそう言うと、宮司に社務所へ戻る様に促し「では、後ほど」と言うと、下流に向かって河原を歩き始めた。
河童さんがここに来たのは流し雛の行事そのものではなく、流し雛がどんなものなのかを実際手に取って、質感などを観察したいという気持ちの方が強かったので、回収作業の方が数多くの流し雛に触れられそうという打算もあった。
対岸には常陽樹が生い茂る山があり、寒空ではあったが力強い生命力を山や川の風景から感じ取る。
「ここも初めてなのに故郷に帰ってきた様な気分になる…不思議な所だなぁ――スケッチしたいけど、また今度だな…」
時間を確認して河童さんはひとり呟くと、スケッチブックが入ったショルダーバッグを肩にかけなおすと回収用のボート目指した。
神社下から川の流れは緩いカーブで山側へ曲がり、行事用の足場から直接見えない場所に小さくて古いボートがあった。そこには一本のオールが備え付けられていて、どうやらボートの推進は人力のみのようだった。
川には既に網が川幅に張られていて、流し雛はその網で下流に流れないようにせき止められる様だった。
「…なるほど、これなら人手が無くても、後で回収作業は出来るな」
周囲を見回して、とりあえず作業の段取りを考える。社務所には宮司とその奥さん、アルバイトと思しき若い巫女さんが二人いただけなので、本当なら回収作業は行事が終わってから、せき止められた流し雛を回収するという段取りなのだろう。
お節介だが親切な富田屋の女将さんや丁寧に対応してくれた宮司へのお礼の気持ちもあるので、河童さんはできれば自分ひとりで回収作業が出来ればと思っていた。
宮司の説明だと、毎年流し雛の数は数十体らしいので一人で作業するとしても処理できない数ではなさそうである。
「ボートなんて何十年ぶりだろう?」
小さなボートにショルダーバックを置くと、軽くボートを押してみた。思ったよりボートは重くなく、一人でボートを河原から動かして川に浮かべる事もなんとかできそうだった。
河童さんは行事が始まる前にボートの操船に慣れておこうと、少し早いがボートを川へ浮かべて乗り込むとオールで陸地を押した。ボートは川に張られた網の下流側をすっと進む。少しオールで川の水をかいて操船の感覚を思い出してゆく。
オールを使って進んだり、方向転換を数分しているうちに、自分が思うようにボートを操ることが出来る自信がついてくる。
「…なんとかなりそうだな」
行事が始まる迄まだ時間が少しあるので、河童さんはボートをいったん岸に戻そうとオールをかくと、何かにオールの先が引っ掛かったのか、強い力がオールを握っている手にかかった瞬間、手汗でオールの持ち手が滑って離れた。
「…あ」
慌ててオールを掴みなおそうとした瞬間、流出防止のオールのストッパーがボートの船縁にあたって壊れ、ストッパーが無くなったオール川の中に落ち、茫然としている河童さんの目の前から流れ去っていく。
「…うそん」
掌を水の中に入れてかいてみるが、数ミリも進みたい方向にボートは動かない。網を伝って戻ろうと思ったが、ボートは網の下流に浮かべてしまっていたので、川に流されて手を伸ばしても網には届かず、それどころか少しずつその距離が広がっていった。
「…最悪だ」
網の上流にボートを浮かべなかった自分の失態に気が付いた河童さんは、最悪な事態に何の対処をする事も出来ず深いため息をもらす。助けを呼ぼうにも周囲に人の姿は見えず、スマホの電波も入らない。川の周囲にあるのは山の斜面とたまに車が走っている道だけだった。
「川の流れに身を任せ…るしかないよな」
河童さんはぼんやりと川面を見つめながらひとり呟く。
ボートが何処かに漂着するか、行事を終えた宮司が河童さんの姿がなく、ボートも消えている事に気が付いてくれるのを祈るばかりである。
流され始めてかなりの時間が経過したのか、河童さんは空腹を覚えた。
「…お昼…は過ぎてるな」
今朝、富家の女将が持たせてくれたおにぎりを思い出して、かばんから紙包を取り出すと、河童さんはおにぎりを食べ始めた。おにぎりの具は梅干しで、飲み物は持っていなかったが梅干しおかげで唾液が出るのは非常に助かった。
「家に帰れるかなぁ」
ゆっくりだが少しずつ下流に流されているのは確実ではある。岸に漂着する事なく海に出る気配もない。助けがくる気配も未だ無かったので不安そうに河童さんは呟く。
川の両端が山の斜面に挟まれた場所に来た時、不意に静寂を破る様に水中から何かが跳ねる大きな音がした。
「?」
魚か何かが跳ねたのかと周囲を見回していると、さっきより大きな音が再び響き、いきなりボートが進む速度が上がった。
「…?」
ボートが何かに引っ張られるような感覚を覚えて河童さんは川の中を覗き込むと、ボートの前の水中に黒い大きな影がいた。その影は高学年の小学生ぐらいの大きさで、そのフォルムは魚ではなく、どちらかと言えば人間に近かった。
「何だ?」
河童さんが状況を把握できずにいると、急にボートがガタンと揺れ川の中州に乗り上げた。河童さんはボートが中州に乗り上げると同時にボートを牽引していた影はボートからすっと離れていく、その影の正体を知ろうと目を凝らした河童さんはそれと目が正面から合う。
「河童⁈」
頭のてっぺんには大きな皿、背中には大きな甲羅を持つその生き物は、驚愕の表情を浮かべた河童さんを大きな目で一瞥すると、川の深いところに潜ってしまい、そのまま姿を消した。
「何が起きたんだ?」
ひたすら川を流されていく状況はとりあえず脱したものの、中州から対岸へは歩いて渡るのは無理だったので、河童さんは再びボートに腰を下ろすと助けを待つことにする。
河童がボートを中州へ付けてくれた理由は解らなかったが、陸地に立つことが出来たのはありがたかった。
日が傾き、風景が夕焼けで赤く染まった頃、捜索隊によってようやく河童さんは中州から解放された。
捜索隊の軽トラに乗せられ上流にある神社へ戻ると、心配そうな顔をした宮司が駆け寄ってきた。
「ご無事でしたか!」
「…おかげさまで」
河童さんは捜索隊を作ってくれた宮司に感謝の言葉を述べると、宮司は見付かって良かったと胸をなでおろした。
「あの川はたまに悪戯好きな河童が出るので、悪戯でもされたんじゃないかって心配していたんですよ」
「…出ました」
「え…」
河童さんの言葉を聞いて、宮司は驚いた表情になる。
「ただ悪戯をされたんじゃなく、助けてもらいました」
「河童が助けた?」
河童さんは体験した昼間の不思議な話をすると、宮司が腕組みをして考え込む。
「貴方がボートごと行方不明になったので、瀬織津姫様にお願いしたんですよ――あなたが無事見つかりますようにって…もしかしたら水の神様でもある瀬織津姫様が川住む河童を使ってあなたを保護したのかもしれませんね」
「…初めて見ました」
頭の皿と背中の甲羅、そしてギョロっとした大きな目は、今まで耳にしていた河童の特徴そのもので、河童さんは驚きを隠せなかった。
「あの河童は川に張ってある網を外したり、流し雛を大量に下流に流したり、ボートのオールを隠したりする悪戯を流し雛の行事の時はよくやるんですが…」
「…それ、先に言って下さい」
河童さんは苦笑しながら宮司に抗議すると、宮司はバツが悪そうに謝罪する。
河童さんは時間を確認すると宮司に帰宅する旨を伝え、「また来ます」と笑顔を見せた。
――次にこの村を訪れる時は、画材具ときゅうりを持って来よう…と河童さんは密かに心に決めて…。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。
ヲトブソラ
ライト文芸
親に反対された哲学科へ入学した二年目の夏。
湖径<こみち>は、実家からの仕送りを止められた。
湖径に与えられた選択は、家を継いで畑を耕すか、家を継いでお米を植えるかの二択。
彼は第三の選択をし、その一歩目として激安家賃の長屋に引っ越すことを決める。
山椒魚町河童四丁目三番地にある長屋には、とてもとても個性的な住人だけが住んでいた。
幸せが訪れた日
Layla
恋愛
昭和初期、主人公南菊代は幼くして不運に落ち、祖母、姉、弟達と貧乏でも愛がある生活を送っていた。お金はなくても不幸ではない。そう思っていた菊代だが運命的な出会いにより菊代の人生はどんどん変わっていくのであった。
旅路ー元特攻隊員の願いと希望ー
ぽんた
歴史・時代
舞台は1940年代の日本。
軍人になる為に、学校に入学した
主人公の田中昴。
厳しい訓練、激しい戦闘、苦しい戦時中の暮らしの中で、色んな人々と出会い、別れ、彼は成長します。
そんな彼の人生を、年表を辿るように物語りにしました。
※この作品は、残酷な描写があります。
※直接的な表現は避けていますが、性的な表現があります。
※「小説家になろう」「ノベルデイズ」でも連載しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
アンティークショップ幽現屋
鷹槻れん
ミステリー
不思議な物ばかりを商うアンティークショップ幽現屋(ゆうげんや)を舞台にしたオムニバス形式の短編集。
幽現屋を訪れたお客さんと、幽現屋で縁(えにし)を結ばれたアンティークグッズとの、ちょっぴり不思議なアレコレを描いたシリーズです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる