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~鯉と甦りの水~
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相変わらず日中は日差しが強い日が続いていたが、日が暮れるとどこからか虫の音が聞こえてくるようになって、静かに季節が秋に向かって移ろっているのを知らせていた。
涼しくなってきたとはいえ、まだまだ夜になっても気温は高く、狭いワンルームに住んでいる河童さんは、湯上りに冷凍庫からポリエチレンの容器に入ったスティック状の氷菓を取り出し、くびれのある真ん中から半分に折って食べていた。冷たくて甘い氷がお風呂で温まった身体を冷やしてくれる。子供の頃から食べているこの氷菓は安くてさっぱりしているので夏の冷凍庫には必ず常備していた。
「…明日の忘れ物はないかな?」
シャクシャクと音をたてながら氷菓をかじりながら部屋を見回した。
一応画家である河童さんの部屋の棚や机には、水彩やアクリル絵の具や絵筆、色鉛筆などの画材具がきちんと整理整頓されて置かれていた。玄関の下駄箱の上には風呂敷に数枚のキャンパスが包まれ立てかけられていて、その横に荷物がまとめられたリックが置かれている。明日は完成した絵を画廊に納品に出掛ける予定が入っていた。
河童さんは無名に近い画家なので描いた作品が高額で売れる訳ではなかったが、明日訪れる画廊の主が河童さんの画風が好きらしく、少しだが取り扱いをしてくれている。河童さんの絵は手ごろな価格で植物や風景が多く飾りやすいからか、ぼちぼちではあるが買い手も付く事が多かった。
「売れるといいな…」
河童さんは空になった氷菓のポリ容器をゴミ箱に放り投げると、そっと祈りを込めるように呟いた。
「日本画風の鯉か…君にしては珍しいね」
見返り坂の途中にある画廊の主人は食い入るようにキャンパスの絵を眺めてから、口を開いた。
「…ダメですか?」
ちからこぶを作ってみせるキャラクターと『ぱわ~』のロゴが入ったTシャツを着た河童さんが、自信なさげに画廊主に問いかける。
「滝を昇る鯉は縁起がいいし、躍動感があって実にいい」という、画廊主の評価に河童さんは胸をなでおろした。
「縁起物の絵を好んで購入されるお客さんも多いからね」という画廊主の言葉に、鯉の絵には不思議な力ががあると言われている神社の湧水を使ったと打ち明けると、画廊主は「それはいい」と喜んだ。
「縁起のいい絵を好まれるお客さんは、そういう付加価値がある話を聞けば、非常にありがたがるから、いいセールスポイントになるよ」
「そういうものなんですか…」
「そういう方は信心深いからね」
付加価値なしで自分の実力だけで評価された方が嬉しいのは間違いないが、それだけで食べていくのは実際かなり難しいのも事実。思い付きで神社の湧水を使った鯉の絵は予想していたより画廊主が高値を付けてくれた事に、複雑な感情を抱かずにはいられない河童さんだった。
当面の生活費を確保した河童さんは画廊を後にすると見返り坂を下っていく。おいなり様の小さな社があるところで曲がり、通いなれた横丁に足を踏み入れた。
「あら…今日は早いのね」
少し驚いた様な表情を浮かべた小料理屋の女将は、暖簾をかけたばかりの店にやってきた河童さんに声を掛ける。
「仕事で近くに用事があったもので…」
そう言いながら席に着いた河童さんは女将からおしぼりを受け取って息をついた。
「いつもの画廊さん?」
「そうです」
「それはお疲れさまでした」と女将は微笑むと、お通しのナスの辛子味噌漬けを河童さんの前に置いた。
「今日のおすすめは、さんまのお刺身だけど…」
「じゃあ、冷酒とさんまの刺身下さい」
迷うことなく河童さんはそう言うと、目の前でさんまをさばき始めた女将を見ながら、高値で売れた絵の話を始めた。
「…へぇ。たしかに神社の湧水を使って描いた絵は縁起が良さそうね」
話を聞き終わった女将はそう言うと、角皿に盛り付けた刺身と醤油用の小皿を河童さんの前に並べる。刺身には薬味としてわさびと生姜が添えられたいたので、河童さんは生姜を醤油に溶き始めた。
「どちらの神社の湧水を使ったの?」という女将の質問に「駅前の見返り坂の入り口にある磐戸神社」と答える。
「…ああ、『甦りの水』ね。確かにあそこのお水は有名ね」
女将は神社の名前を聞いて納得をした。
「確か…飲むと若返るとか、病人に飲ませると元気になる『命の水』だとか…」
「そうらしいです。いつもポリタンクにお水を汲みに来ている方が順番待ちをしてますし」
そういう河童さんも絵を描く為の水を汲む為にポリタンクを持って並んだのだが、順番待ちをしている時に奇妙な話が耳に入ってきたのだという。
「甦りの『よみ』は元々は『黄泉』という漢字が使われていて、黄泉…つまりあの世から魂が返ってくるって意味なんだという話をしている人がいたんです。あの世から魂が戻って来て体に命が入るから病人が元気になるんだとか…」
そう言うと「理由はわからないんですが、それがずっと気になっちゃって…」と河童さんは困惑したような顔になった。
「黄泉から帰って来るから『よみがえり』…その話を聞いて、日本語は音は同じでも充てる漢字によって違う意味合いを持つ言語という事に初めて気が付いた次第で…」
『言霊』を知る人は多いが、河童さんが耳にした『音霊』の概念や『数霊』の存在になると一般的には知られていないので困惑するのも無理はなかった。
「日本にはよくない事が起こるのではないかとかの言葉は、言うと実際にそれが起きるからその言葉を口に出してはいけないってのが『言霊』よね? …当て字を使うってのは無くはないけど、昔、流行った『夜露死苦』は言葉の音を不良っぽいイメージが浮かぶ漢字を無理に当てたものだと思っていたけれど、それに意味があるとしたら、それを無意識に使いこなす日本人の感性って面白いわよね」
少し笑いを含んだ女将に河童さんが考え事をしている様子で頭をひねる。
「漢字ならその文字や単語自体に意味がありますが、ひらがなやカタカナになるとひとつひとつが発音の記号でしか見えないようだけど、同一音の漢字を当てはめる事によって無限の意味を含ませる事ができちゃうのって…僕は他の言語で聞いた事ないなぁ?」
「私は聞いたことがないわね…日本語って、ひらがな、カタカナ、漢字、英数字がミックスで使われている上に外来語やら造語の和製英語まであるし…漢字も同じ漢字でも、地名や使い方によって違う読み方をさせる事も多いし、敬語や謙遜語とか立場と相手によって使い分けるから、外国人が日本語を使いこなそうとすると訳がわからなくなるみたい」
女将さんはそう言うと「考えてみたら日本語って複雑怪奇よねぇ」と他人事の様に笑った。
そこに同じ日本人でも知らない方言まで加わるものだから、短期間で日本語を理解し使いこなす外国人がいるとすれば、言語理解に特化した天才といえるのかもしれない。
「黄泉返りって、なんかゾンビやキョンシーなんかの死人が動き回るイメージが浮かんじゃって頭から離れなくて困ってるんですよ」
そう言うと河童さんは肩を竦めた。
「ゾンビの場合は確か…元々はカリブ海あたりの地域でふぐを食べてその毒であたった人が土葬されたんだけど、実は仮死状態だったので目を覚ました人が土の中から出て来たのが、死人が蘇った…って話だったんだけど」
それが年月を重ねるにつれ脚色されて、いつのまにか屍が人を襲うという話にすり替わり、映画やゲームでさらなる脚色が加わって今では生きている人に危害を与えるモンスター扱いになってしまったという経緯があった。
「日本でも民間療法としてふぐ毒の毒抜きに砂や土に身体を埋める習慣があったから、昔は土葬だった日本でも同じように墓場から甦る人がいたのかもね」
「今は火葬だから、意識を取り戻したら火葬場の炉の中だったとか…怖っ」
女将の解説を聞いていた河童さんが、ムンクの叫びの様な仕草をして女将を笑わせる。
「キョンシーは道士が屍を操って使役するから、どちらかと言うとネクロマンサーに近いかも」
ネクロマンサーの語源は元々ギリシャ語なので、イザナギイザナミ神話と似たような神話が残るオルフェイス伝説との関連性もあるのかもしれない。
「キョンシーも元々は死後硬直で体が勝手に動いたのを見た人が死体なのに動いた! って話からだし、キョンシーは死んでいるのに体が腐らないのは、不老不死の薬だと信じていたミイラの粉末を飲んだりとか、錬丹術とかの薬草や水銀などの金属、アルコールなんかを調合したものを飲んだりしたせいで、生きているうちに身体に防腐剤まみれになっていた人間の死体だったからって笑い話もあるけど…現代も似たような状態よね」
「ああ、防腐剤なんかの食品添加物ですか」
「昭和の孤独死だと腐乱死体になるから異臭で近所の人が気が付くけど、最近は防腐剤入りの食品ばかり食べているおかげでミイラになるケースが多いから、早いうちに気が付いてもらえない事が多いらしいですね」
「最近は繁殖力が高い青かび類とかが全く生えない食品も増えたのに、そんな生物が生きられない様なものを食べ物として食べるってのがおかしい事に気が付かない人が多くてびっくりしちゃう」
日本では昔から食事をする時に「いただきます」と手を合わせてから食べる習慣があるが、あれは本来「(あなたの)命をいただき(私が生きる事が出来)ます」という感謝の言葉である。
西洋文明で成分が同じであれば人工的に合成されたものでも同じであるとして、石油などの成分から合成された薬やサプリメントをありがたがって多用しているが、そこに科学ではまだ解明されていない「命」の考えがすっぽりと抜け落ちている。
本来食べるという行為は、食物連鎖で微小な命がそれよりも大きなもの命の栄養になり…そして大きなものが死ぬと微細なものの栄養になるという命のリレーであり、自然界の循環のるルールであったはずである。人間もそのシステムの中の一員であったはずなのだが、いつのまにやら人間はすべての生き物の頂点である様に錯覚をして、人間本位の利便性最優先で他の生き物の命を軽視してしまった。
それが原因で、巧妙かつ微妙なバランスで保たれていた自然の循環システムが異常をきたしてきているのに、その異常の修正をさらに人間だけの都合で改善しようとして、事態の悪化に追い打ちをかけている状態なのである。
「人間に物質の組成成分やそれが動いている仕組みは分析して「殻」は作れても、殻に入れる『魂』は作り出すことは出来ない事にいつになったら気が付くのかしら…」
女将さんがぼやくように呟く。
科学技術が発展して、心臓や脳がどのような仕組みで動いているのかまでは解明できても、0から1へ…それを動かしているそのものの正体は未だに解明されていないのがその証拠だった。
「『土』から生命が生まれ育まれるのに、アスファルトやコンクリートで覆って土が息が出来ないようにしちゃっている。——本来は人間だって自然の循環システムの一員なんだから、死ねば土に還ってまた微生物の栄養とならなきゃいけないのに、衛生問題と埋葬スペースが問題として火葬しちゃってるから、骨と灰じゃ土に大した栄養分を返せてない。これじゃ大地は痩せる一方よ」
いわゆる田舎で育ち、小さい頃から自然と慣れ親しんできた女将にすれば、コンクリートジャングルは大地が苦しそうに見えて仕方が無いようだった。
「そもそもあの世が『黄泉』…黄金の泉って文字を書くのか知ってる?」
女将の質問に河童さんは首を横に振る。
「黄色は、世界の構成の属性を現した五行の概念では土を意味する色で、そこから湧き出すように命が生まれるので泉の文字があてがわれたの」
「もしかして『黄泉がえり』って、もしかして…我々逆の意味で使ってます?」
そこまで言って河童さんが奇妙な予感のようなものを感じた様子で真っ直ぐと女将を見て言葉を続けた。
「普通は死者が生き返るみたいな使い方をしていますが、本来は土に還る事は黄泉に帰る――死ぬことの意味だったとか…ああっ!」
「肉体を伴っていない『魂』だけの形が本来の状態で、肉体…物質界のこの世はあくまで一時的なものって事になっちゃうじゃないですか」
「色即是空、空即是色」
女将はそう呟くと微笑んだ。
「…どちらが正しい訳ではなく、両方の世界を行ったり来たりが正解って気もするけどね。メビウスの輪のように、どちらも表であり裏でもあるんじゃない?」
「行ったり来たり…」
そこまで話した河童さんはハッとした表情になり慌てた様子で立ち上がった。
「まずい…これは非常にまずい」
狼狽えたように河童さんは身支度を始める。
「どうしたの?」
「ちょっと甦りの水で描いた絵取り戻してきます。あの絵に変な魂入ったらろくでもない様な気がするんで」
叫ぶようにそう言うと、河童さんは小料理屋を飛び出していった。
あの世とこの世にを繋ぐ黄泉平坂が見返り坂だとしたら、その傍にある神社から湧き出す湧水が何らかの影響を受けている可能性が高い。目には見えないものを物質に宿らせる力がゼロではない以上、製作者としての責任感なのか河童さんはそれを無責任に扱いたくはなかったのだ。
河童さんは降り出した雨の横丁を駆け抜け、不穏な音をたてる雲の下、見返り坂の画廊まで急ぐ。
ポプラ並木の間から画廊が入った洋館風のテナントビルが見えた時の事だった。路面に落ちていた雨で濡れたポプラの葉を踏んだ河童さんは足を滑らせて派手に転倒した。それと同時にドオンという地響きがするような轟音と共に閃光が河童さんの目標である建物に炸裂する。
「…か…雷?」
転倒した河童さんが四つん這い状態で頭をあげると、稲妻のような光が画廊入るビルから空へ向かっていくのが見えた。慌てて河童さんは立ち上がり、治まる事が無い雷鳴の中画廊へいそぐ。
河童さんが画廊に飛び込むと、停電で真っ暗になった画廊内で画廊主が腰を抜かしたように尻餅をつているのが河童さんの目に飛び込んできた。
「大丈夫ですか⁈」
そう声を掛けながら駆け寄った河童さんを見て、画廊主は信じられないようなものを見た表情になる。
「どうして…ここに…?」
「急用ができまして」
口早に事情を説明しようとした河童さんに、画廊主は雷が光る窓を指示しながら言葉を絞り出した。
「…龍が…龍が…」
「え?」
河童さんが訊き返すと、画廊主が深呼吸を数度か繰り返して話始めた。
「私は見たんだ…さっきの雷が落ちた時、君が描いた絵から光の龍の様なものが飛び出していったのを…」
そう言って画廊主は壁に立てかけられた見覚えのあるキャンバスを指し示した。
「額装をしようとそこに置いていたんだが…」
「…消えてる」
キャンバスから泳いでいたはずの鯉の姿は消え、ただの滝の風景になっていた。それを確認した河童さんは力が抜けたのかそのままじゅうたんが敷かれた床へへたり込む。
――そうかぁ…上り鯉は龍になるっていうもんな…
心の中でそう呟くと、河童さんは安堵の表情を浮かべた。
涼しくなってきたとはいえ、まだまだ夜になっても気温は高く、狭いワンルームに住んでいる河童さんは、湯上りに冷凍庫からポリエチレンの容器に入ったスティック状の氷菓を取り出し、くびれのある真ん中から半分に折って食べていた。冷たくて甘い氷がお風呂で温まった身体を冷やしてくれる。子供の頃から食べているこの氷菓は安くてさっぱりしているので夏の冷凍庫には必ず常備していた。
「…明日の忘れ物はないかな?」
シャクシャクと音をたてながら氷菓をかじりながら部屋を見回した。
一応画家である河童さんの部屋の棚や机には、水彩やアクリル絵の具や絵筆、色鉛筆などの画材具がきちんと整理整頓されて置かれていた。玄関の下駄箱の上には風呂敷に数枚のキャンパスが包まれ立てかけられていて、その横に荷物がまとめられたリックが置かれている。明日は完成した絵を画廊に納品に出掛ける予定が入っていた。
河童さんは無名に近い画家なので描いた作品が高額で売れる訳ではなかったが、明日訪れる画廊の主が河童さんの画風が好きらしく、少しだが取り扱いをしてくれている。河童さんの絵は手ごろな価格で植物や風景が多く飾りやすいからか、ぼちぼちではあるが買い手も付く事が多かった。
「売れるといいな…」
河童さんは空になった氷菓のポリ容器をゴミ箱に放り投げると、そっと祈りを込めるように呟いた。
「日本画風の鯉か…君にしては珍しいね」
見返り坂の途中にある画廊の主人は食い入るようにキャンパスの絵を眺めてから、口を開いた。
「…ダメですか?」
ちからこぶを作ってみせるキャラクターと『ぱわ~』のロゴが入ったTシャツを着た河童さんが、自信なさげに画廊主に問いかける。
「滝を昇る鯉は縁起がいいし、躍動感があって実にいい」という、画廊主の評価に河童さんは胸をなでおろした。
「縁起物の絵を好んで購入されるお客さんも多いからね」という画廊主の言葉に、鯉の絵には不思議な力ががあると言われている神社の湧水を使ったと打ち明けると、画廊主は「それはいい」と喜んだ。
「縁起のいい絵を好まれるお客さんは、そういう付加価値がある話を聞けば、非常にありがたがるから、いいセールスポイントになるよ」
「そういうものなんですか…」
「そういう方は信心深いからね」
付加価値なしで自分の実力だけで評価された方が嬉しいのは間違いないが、それだけで食べていくのは実際かなり難しいのも事実。思い付きで神社の湧水を使った鯉の絵は予想していたより画廊主が高値を付けてくれた事に、複雑な感情を抱かずにはいられない河童さんだった。
当面の生活費を確保した河童さんは画廊を後にすると見返り坂を下っていく。おいなり様の小さな社があるところで曲がり、通いなれた横丁に足を踏み入れた。
「あら…今日は早いのね」
少し驚いた様な表情を浮かべた小料理屋の女将は、暖簾をかけたばかりの店にやってきた河童さんに声を掛ける。
「仕事で近くに用事があったもので…」
そう言いながら席に着いた河童さんは女将からおしぼりを受け取って息をついた。
「いつもの画廊さん?」
「そうです」
「それはお疲れさまでした」と女将は微笑むと、お通しのナスの辛子味噌漬けを河童さんの前に置いた。
「今日のおすすめは、さんまのお刺身だけど…」
「じゃあ、冷酒とさんまの刺身下さい」
迷うことなく河童さんはそう言うと、目の前でさんまをさばき始めた女将を見ながら、高値で売れた絵の話を始めた。
「…へぇ。たしかに神社の湧水を使って描いた絵は縁起が良さそうね」
話を聞き終わった女将はそう言うと、角皿に盛り付けた刺身と醤油用の小皿を河童さんの前に並べる。刺身には薬味としてわさびと生姜が添えられたいたので、河童さんは生姜を醤油に溶き始めた。
「どちらの神社の湧水を使ったの?」という女将の質問に「駅前の見返り坂の入り口にある磐戸神社」と答える。
「…ああ、『甦りの水』ね。確かにあそこのお水は有名ね」
女将は神社の名前を聞いて納得をした。
「確か…飲むと若返るとか、病人に飲ませると元気になる『命の水』だとか…」
「そうらしいです。いつもポリタンクにお水を汲みに来ている方が順番待ちをしてますし」
そういう河童さんも絵を描く為の水を汲む為にポリタンクを持って並んだのだが、順番待ちをしている時に奇妙な話が耳に入ってきたのだという。
「甦りの『よみ』は元々は『黄泉』という漢字が使われていて、黄泉…つまりあの世から魂が返ってくるって意味なんだという話をしている人がいたんです。あの世から魂が戻って来て体に命が入るから病人が元気になるんだとか…」
そう言うと「理由はわからないんですが、それがずっと気になっちゃって…」と河童さんは困惑したような顔になった。
「黄泉から帰って来るから『よみがえり』…その話を聞いて、日本語は音は同じでも充てる漢字によって違う意味合いを持つ言語という事に初めて気が付いた次第で…」
『言霊』を知る人は多いが、河童さんが耳にした『音霊』の概念や『数霊』の存在になると一般的には知られていないので困惑するのも無理はなかった。
「日本にはよくない事が起こるのではないかとかの言葉は、言うと実際にそれが起きるからその言葉を口に出してはいけないってのが『言霊』よね? …当て字を使うってのは無くはないけど、昔、流行った『夜露死苦』は言葉の音を不良っぽいイメージが浮かぶ漢字を無理に当てたものだと思っていたけれど、それに意味があるとしたら、それを無意識に使いこなす日本人の感性って面白いわよね」
少し笑いを含んだ女将に河童さんが考え事をしている様子で頭をひねる。
「漢字ならその文字や単語自体に意味がありますが、ひらがなやカタカナになるとひとつひとつが発音の記号でしか見えないようだけど、同一音の漢字を当てはめる事によって無限の意味を含ませる事ができちゃうのって…僕は他の言語で聞いた事ないなぁ?」
「私は聞いたことがないわね…日本語って、ひらがな、カタカナ、漢字、英数字がミックスで使われている上に外来語やら造語の和製英語まであるし…漢字も同じ漢字でも、地名や使い方によって違う読み方をさせる事も多いし、敬語や謙遜語とか立場と相手によって使い分けるから、外国人が日本語を使いこなそうとすると訳がわからなくなるみたい」
女将さんはそう言うと「考えてみたら日本語って複雑怪奇よねぇ」と他人事の様に笑った。
そこに同じ日本人でも知らない方言まで加わるものだから、短期間で日本語を理解し使いこなす外国人がいるとすれば、言語理解に特化した天才といえるのかもしれない。
「黄泉返りって、なんかゾンビやキョンシーなんかの死人が動き回るイメージが浮かんじゃって頭から離れなくて困ってるんですよ」
そう言うと河童さんは肩を竦めた。
「ゾンビの場合は確か…元々はカリブ海あたりの地域でふぐを食べてその毒であたった人が土葬されたんだけど、実は仮死状態だったので目を覚ました人が土の中から出て来たのが、死人が蘇った…って話だったんだけど」
それが年月を重ねるにつれ脚色されて、いつのまにか屍が人を襲うという話にすり替わり、映画やゲームでさらなる脚色が加わって今では生きている人に危害を与えるモンスター扱いになってしまったという経緯があった。
「日本でも民間療法としてふぐ毒の毒抜きに砂や土に身体を埋める習慣があったから、昔は土葬だった日本でも同じように墓場から甦る人がいたのかもね」
「今は火葬だから、意識を取り戻したら火葬場の炉の中だったとか…怖っ」
女将の解説を聞いていた河童さんが、ムンクの叫びの様な仕草をして女将を笑わせる。
「キョンシーは道士が屍を操って使役するから、どちらかと言うとネクロマンサーに近いかも」
ネクロマンサーの語源は元々ギリシャ語なので、イザナギイザナミ神話と似たような神話が残るオルフェイス伝説との関連性もあるのかもしれない。
「キョンシーも元々は死後硬直で体が勝手に動いたのを見た人が死体なのに動いた! って話からだし、キョンシーは死んでいるのに体が腐らないのは、不老不死の薬だと信じていたミイラの粉末を飲んだりとか、錬丹術とかの薬草や水銀などの金属、アルコールなんかを調合したものを飲んだりしたせいで、生きているうちに身体に防腐剤まみれになっていた人間の死体だったからって笑い話もあるけど…現代も似たような状態よね」
「ああ、防腐剤なんかの食品添加物ですか」
「昭和の孤独死だと腐乱死体になるから異臭で近所の人が気が付くけど、最近は防腐剤入りの食品ばかり食べているおかげでミイラになるケースが多いから、早いうちに気が付いてもらえない事が多いらしいですね」
「最近は繁殖力が高い青かび類とかが全く生えない食品も増えたのに、そんな生物が生きられない様なものを食べ物として食べるってのがおかしい事に気が付かない人が多くてびっくりしちゃう」
日本では昔から食事をする時に「いただきます」と手を合わせてから食べる習慣があるが、あれは本来「(あなたの)命をいただき(私が生きる事が出来)ます」という感謝の言葉である。
西洋文明で成分が同じであれば人工的に合成されたものでも同じであるとして、石油などの成分から合成された薬やサプリメントをありがたがって多用しているが、そこに科学ではまだ解明されていない「命」の考えがすっぽりと抜け落ちている。
本来食べるという行為は、食物連鎖で微小な命がそれよりも大きなもの命の栄養になり…そして大きなものが死ぬと微細なものの栄養になるという命のリレーであり、自然界の循環のるルールであったはずである。人間もそのシステムの中の一員であったはずなのだが、いつのまにやら人間はすべての生き物の頂点である様に錯覚をして、人間本位の利便性最優先で他の生き物の命を軽視してしまった。
それが原因で、巧妙かつ微妙なバランスで保たれていた自然の循環システムが異常をきたしてきているのに、その異常の修正をさらに人間だけの都合で改善しようとして、事態の悪化に追い打ちをかけている状態なのである。
「人間に物質の組成成分やそれが動いている仕組みは分析して「殻」は作れても、殻に入れる『魂』は作り出すことは出来ない事にいつになったら気が付くのかしら…」
女将さんがぼやくように呟く。
科学技術が発展して、心臓や脳がどのような仕組みで動いているのかまでは解明できても、0から1へ…それを動かしているそのものの正体は未だに解明されていないのがその証拠だった。
「『土』から生命が生まれ育まれるのに、アスファルトやコンクリートで覆って土が息が出来ないようにしちゃっている。——本来は人間だって自然の循環システムの一員なんだから、死ねば土に還ってまた微生物の栄養とならなきゃいけないのに、衛生問題と埋葬スペースが問題として火葬しちゃってるから、骨と灰じゃ土に大した栄養分を返せてない。これじゃ大地は痩せる一方よ」
いわゆる田舎で育ち、小さい頃から自然と慣れ親しんできた女将にすれば、コンクリートジャングルは大地が苦しそうに見えて仕方が無いようだった。
「そもそもあの世が『黄泉』…黄金の泉って文字を書くのか知ってる?」
女将の質問に河童さんは首を横に振る。
「黄色は、世界の構成の属性を現した五行の概念では土を意味する色で、そこから湧き出すように命が生まれるので泉の文字があてがわれたの」
「もしかして『黄泉がえり』って、もしかして…我々逆の意味で使ってます?」
そこまで言って河童さんが奇妙な予感のようなものを感じた様子で真っ直ぐと女将を見て言葉を続けた。
「普通は死者が生き返るみたいな使い方をしていますが、本来は土に還る事は黄泉に帰る――死ぬことの意味だったとか…ああっ!」
「肉体を伴っていない『魂』だけの形が本来の状態で、肉体…物質界のこの世はあくまで一時的なものって事になっちゃうじゃないですか」
「色即是空、空即是色」
女将はそう呟くと微笑んだ。
「…どちらが正しい訳ではなく、両方の世界を行ったり来たりが正解って気もするけどね。メビウスの輪のように、どちらも表であり裏でもあるんじゃない?」
「行ったり来たり…」
そこまで話した河童さんはハッとした表情になり慌てた様子で立ち上がった。
「まずい…これは非常にまずい」
狼狽えたように河童さんは身支度を始める。
「どうしたの?」
「ちょっと甦りの水で描いた絵取り戻してきます。あの絵に変な魂入ったらろくでもない様な気がするんで」
叫ぶようにそう言うと、河童さんは小料理屋を飛び出していった。
あの世とこの世にを繋ぐ黄泉平坂が見返り坂だとしたら、その傍にある神社から湧き出す湧水が何らかの影響を受けている可能性が高い。目には見えないものを物質に宿らせる力がゼロではない以上、製作者としての責任感なのか河童さんはそれを無責任に扱いたくはなかったのだ。
河童さんは降り出した雨の横丁を駆け抜け、不穏な音をたてる雲の下、見返り坂の画廊まで急ぐ。
ポプラ並木の間から画廊が入った洋館風のテナントビルが見えた時の事だった。路面に落ちていた雨で濡れたポプラの葉を踏んだ河童さんは足を滑らせて派手に転倒した。それと同時にドオンという地響きがするような轟音と共に閃光が河童さんの目標である建物に炸裂する。
「…か…雷?」
転倒した河童さんが四つん這い状態で頭をあげると、稲妻のような光が画廊入るビルから空へ向かっていくのが見えた。慌てて河童さんは立ち上がり、治まる事が無い雷鳴の中画廊へいそぐ。
河童さんが画廊に飛び込むと、停電で真っ暗になった画廊内で画廊主が腰を抜かしたように尻餅をつているのが河童さんの目に飛び込んできた。
「大丈夫ですか⁈」
そう声を掛けながら駆け寄った河童さんを見て、画廊主は信じられないようなものを見た表情になる。
「どうして…ここに…?」
「急用ができまして」
口早に事情を説明しようとした河童さんに、画廊主は雷が光る窓を指示しながら言葉を絞り出した。
「…龍が…龍が…」
「え?」
河童さんが訊き返すと、画廊主が深呼吸を数度か繰り返して話始めた。
「私は見たんだ…さっきの雷が落ちた時、君が描いた絵から光の龍の様なものが飛び出していったのを…」
そう言って画廊主は壁に立てかけられた見覚えのあるキャンバスを指し示した。
「額装をしようとそこに置いていたんだが…」
「…消えてる」
キャンバスから泳いでいたはずの鯉の姿は消え、ただの滝の風景になっていた。それを確認した河童さんは力が抜けたのかそのままじゅうたんが敷かれた床へへたり込む。
――そうかぁ…上り鯉は龍になるっていうもんな…
心の中でそう呟くと、河童さんは安堵の表情を浮かべた。
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今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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