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~銭湯と福の神~

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「…まだこんな施設があったんですね」
 青い布に大きな赤文字で『ゆ』と染め抜かれた暖簾をくぐると、小さな扉に番号木札の鍵が差し込まれた下足箱を見て思わず私は感嘆の声をあげた。
「ここは何も変わってないよ」
 笑いながら布袋さんが履いていた雪駄を下足箱に入れて木札の鍵を引き抜いた。それに倣うように私も靴を脱ぐと下足箱に靴をしまい扉を閉めて木札を引き抜く。
 私と布袋さんは『男』の文字が書かれている暖簾をくぐり、そっと木枠のガラスの引き戸を動かすとカラカラと音をたてた。入り口傍に番台があり、顔に深い皺が刻まれた梅干しの様な老婆が座っていた。布袋さんの話によるとこの老婆は布袋さんが小さなころからずっとここにいるらしい。
「おとなひとり…洗髪なしで」
 布袋さんは老婆にそう告げると入浴料を番台に置いた――余談ではあるが、スーパー銭湯が主流の現代では入浴料に基本料金が含まれているので、入浴の追加料金はかからないが、昭和70年代の頃は入浴の際に頭を洗う場合は、先に数十円支払わなければならなかった。
 布袋さんはスキンヘッドなので洗髪料を支払う必要はないが、私は洗髪するのでその旨を番台に伝え、入浴料を支払い脱衣所に進む。
 脱衣所の中には脱いだ服をしまう木製の扉付きのロッカーが並び、番号が刻印された小さな銀色の金属板の鍵が差し込まれていて、浴室の前に敷かれた茶色い植物性の細長い足ふきマットのにおいなのか、脱衣所のにおいはスーパー銭湯にはない銭湯独特の香りが充満していた。
「すげ~、椅子タイプのドライヤーとマッサージ器がある…」
 脱衣所の中を見回して私は感嘆の声をあげた。
 椅子タイプのドライヤーはマッサージチァーの様な椅子に頭全体を覆うプラスチックのカバーが付いていて、椅子についている料金箱の硬貨を入れると、温風が出てくるもので、マッサージ器は今の様な高級なリラックス仕様ではなく、椅子は固く、固いもみ玉の位置を椅子の横についている輪っかをぐるぐると回して決めるタイプだった。こちらも料金箱に硬貨を入れる事によって3分だけ動く仕組みになっている。どちらも銭湯には必ず置いてあるものだったが、家風呂の普及によって廃業する銭湯が相次ぎ、目にする機会がめっきり無くなっていた。
「…いなり横丁って、ほんと昭和70年前後の日本がそのまま残ってるんですねぇ」
「おうよ。デジタルにはない、アナログの暖かさがここにはある」
 横丁育ちの布袋さんは誇らしげに胸を張る――確かにあの時代ものはまだ少なく、貧しかったからかもしれないが、その分をみんなで知恵と工夫を出し合って心豊かな生活を送っていたような気がした。
 私と布袋さんは脱いだ服をロッカーに押し込むと抜いた鍵のゴムを手首に通して、腰にタオルを巻き浴室の方に向かった。
 銭湯の浴室に入ると温度が高めの大浴槽とその隣に若干低めの温度の小浴槽、独特のにおいを放つ褐色の薬湯、電気風呂、入り口のすぐ横には小さな水風呂という、銭湯の基本のラインナップはちゃんとそろっていた。
「当時、サウナってまだ珍しかったんですよね…あってもサウナって名前じゃなく熱風風呂とかでしたっけ?」
 深緑色の小さな風呂椅子に腰を下ろしながら私がそう言うと、「人間乾燥室って看板がかかっているのを見た事があるよ」と布袋さんはそう言ってゲラゲラと笑う。
 かけ湯をすれば先に湯船に浸かっても問題はなかったが、私も布袋さんも先に身体を洗い始めた。
「…お背中流します」
 そう声をかけて、私は泡立てたタオルで布袋さんの背中を洗い始ると、布袋さんが「こういうのも昔はよくあったんだけどな…」と感慨深げにつぶやく。
「まさに裸の付き合いでしたよね」
 親子や友人などの間で背中を流し合う光景も銭湯ではよく目にしたものである。
「銭湯は社交場だったもんな—-今のスーパー銭湯はどっちかって言うとレジャー施設だけど」
 家風呂普及したのも昭和70~80年代だったので、それまでは風呂に入るには銭湯に通って入るのが普通だった。隣近所がみな同じ銭湯に入りに来るので、当然話をする機会も増えるので、現代よりずっと濃密な人間関係が構築されていたのかもしれない。
「孤独死なんて言葉、当時は無かったですよね」
 銭湯に見慣れた顔が数日顔を見せなければ、みんなで心配したものである。
「当時はスーパーやコンビニなんて無かったから市場のお店でご近所さんを見掛けたか? みたいな話をしたしね」
 懐かしそうに布袋さんはそう言うと、ケロヨンと文字が印字された洗面器にお湯を入れるとザーっと体にかけた。
「人間関係がめんどくさいとかよく言いますが…人間一人じゃ生きられないんですがね」
 そう言いながら私もお湯を数回浴びて汚れやせっけんの泡を洗い流すと、大浴槽に移動してゆっくりと湯船の中に身を沈めた。
「…ヹ~」
 湯の温度はいい加減で、言葉にならない妙な声が勝手に口からもれる。そんな私の横に布袋さんも来て湯に浸かると同じような声を出した。
「やっぱり銭湯はいいですね」
「湯船が広いから手足を思いっきり伸ばして入れるしね」
 ゆったりとした様子で布袋さんは湯船の中で手足を伸ばす。その横で私は銭湯には必ずあるといっていい大きな壁画に視線が釘付けになった。
「――富士山じゃないんですね」
 銭湯の壁画と言えば、専門の銭湯絵師の手によって描かれた富士山のモチーフが定番だが、ここの銭湯の壁画は海原に浮かぶ大きな木造船—-船の帆には大きな『宝』が描かれている事から宝船と思われた。宝船の上には笑顔の個性豊かな面々の姿が描かれており、一目でそれが七福神と見て取れた。
「ここの銭湯の名前、七福湯だからだと思うよ」
「なるほど…そういう理由なら納得です」
 ここの銭湯の名前を知らなかったので、その言葉を聞いた私は納得して壁画の観察を続ける事にした。
 恵比須様、大黒天、布袋様、毘沙門天に弁財天…あれ?
「福禄寿と樹老人の姿が見当たらないんですが…」
 本来福の神の二人の老人がいるはずの場所に姿が見当たらず、困惑した私は布袋さんにそう言うと布袋さんはにやりと笑った後、自分の口の前に右手の人差し指をそっと立ててみせて、左手で静かに薬湯に浸かっている人影を指さした。
 私は布袋さんの指示した方へ首を巡らせ、そこで目が点になった。
 薬湯には二人の老人が気持ちよさそうに目をつむって浸かっており、一人の頭部は長く耳たぶが垂れ下がっていて、もう一人の老人は白く長いひげを生やしており、頭には鹿柄の手ぬぐいを頭巾の様に巻いていた。その特徴は福禄寿と樹老人以外の何物でもなかった。
「…ええと」
「し~」
 言葉に困った私の様子を楽しむように布袋さんは騒がないようにとジェスチャーで念押しした後、私に身を寄せてそっと囁いた。
「…たまにね、出ていらっしゃるんだ」
「!」
 驚きで目を丸くした私に布袋さんは言葉を続ける。
「見て見ぬ振りがここでの暗黙の了解」
 神様本人たちはバレていないと思っているらしいけど…と小さく笑った。
 凝視するわけにはいかないがついチラ見をしてしまう。そんな私に「あの方たちは気が済むまで入ってるから、それに付き合っていたらただの人間である我々はのぼせるよ」と忠告すると湯船から出てゆく。
 神様と混浴などめったとない経験ではあるが、のぼせるのも困るので後ろ髪を引かれる気持ちで私も風呂から上がった。
 浴室の中でいったん固く絞ったタオルで体の水滴を拭ってから脱衣所に出て、ロッカーからバスタオルを取り出して体を拭くと脱衣所の空気が冷たく感じられて心地よく感じる。
「牛乳派? ラムネ派?」
 脱衣所に置いてあるガラス扉の白い冷蔵庫の前で布袋さんが私に訊いてきた。
「ラムネ派です」
 私がそう答えると布袋さんは冷蔵庫の引き戸を開けて中からラムネ瓶を取り出すと、瓶についていた紙の封印を剥がして瓶の口に専用の押し器を当てた。その瞬間瓶の口を押えていたビー玉が瓶の中に転がり落ち、瓶から勢いよくソーダ水が溢れ出る。
「良く冷えてるよ」
 冷たいラムネ瓶をわたしに手渡した布袋さんは、冷蔵庫から牛乳瓶を取り出して紫の丸いビニールを剥がした後、厚紙の牛乳キャップを専用の道具で刺して外した。そして全裸で腰にタオルを巻いただけの布袋さん、は仁王立ちになると片手を腰に当て反対の手で牛乳瓶を持つと一気にそれを飲み干した。
「…風呂上がりの牛乳最高」
 昭和の定番、風呂上がりに牛乳を飲み干すスタイルを再現すると布袋さんは満足そうににっこりと微笑む。
 首からタオルを下げた私はまだ濡れている髪の毛を拭きながら、私も残っていたラムネを飲み干す。空になった瓶を振って中のビー玉のカラカラという音を楽しんでいると、番台に座って居た老婆が急に口を開いた。
「…おやまあ、今日は弁天様もおでましだねぇ」
 番台は入り口の男風呂と女風呂の間にあるので、番台からはどちらの風呂の状態も確認する事ができる。老婆の言葉をそのまま取るなら女風呂の方に弁天様が入っているという事になる。
 さすがに女風呂を覗くわけにはいかないので、私と布袋さんは男風呂の方の浴室を覗き込み壁画を確認すると、壁画の中で琵琶を持って微笑んでいた女神の姿は消え、代わりに福禄寿と樹老人の姿が壁柄に現れていた。
「…な?」
 薬湯の老人たちの姿が消えたことを確認した私に、布袋さんが同意を求めるように声を掛けたので、私はただ唸る事しかできなかった。
「――ここの湯は神様も入られるありがたい湯だから、あんたも健康に長生きできるよ」
 番台の老婆は私を見てそう言うと、深い顔の皺をさらに深くしてにっこりと笑う。
――本当の銭湯の主は七福神ではなく、この人かも…
 そんな事を思った私の目に番台の上に飾られた額縁の言葉が目に飛び込んでくる。

~身体の汚れを流しましょう。
 心の汚れも流しましょう。
 ゆっくり湯船に浸かれば身も心も温まる。
 ぽかぽか笑顔は福の神
 みんな仲良く福の神

――七福温泉
いなり横丁と共に昭和の時を刻み続けている場所
その銭湯は生きるのに疲れた者の身体と心を癒してくれる湯治場なのかもしれない

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