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~藤棚の風鈴~

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 長かった梅雨が明け、容赦なく夏本番を迎えたギラギラとした日差しが容赦なく降りそそいでいた。
 夕方になってもまだまだ明るく昼間の暑さが残る中、いなり横丁に足を踏み入れると打ち水をした後なのか、夕立の後の様なむわっとした水のにおいと表現するしかないような何とも言えない香りがした。
 夏を迎えたからか、横丁の通りに立ち並ぶ建物の前には縁台が設置され、そこに腰かけて将棋を楽しむ甚平姿の年配の男性の姿があちらこちらで目にする。その前を通ると蚊取り線香の香りと縁台の横に置かれた鉢植えの朝顔が夏を主張していた。
 そんな夏の風物詩を楽しみながら横丁の通りを歩いていると、横丁の住民の憩いの場所である小さな公園が現れる。その公園には藤棚があり、初夏になると藤の花が紫色の美しい華をつけていたが、今は数十個の風鈴が藤棚に吊るされていた。
 チリン…チリン…
 そよ風に吹かれ風鈴が涼やかな音色を響かせる。その音が暑さが和らいだ様な気分にさせてくれるのから不思議である。
 私は公園の前で足を止め、ハンカチで汗をぬぐいながら藤棚に目をやると、突然強い風に吹かれて吊るされた風鈴が一斉にざわめくような音をたて、すぐになにも無かったように静寂が訪れた。
「…?」
 藤棚の方から私の横を何かが走り抜けていったような気配を感じたが、気のせいかもしれないと私は首をふり、小料理屋へ歩き出した。

 「はい、海ブドウ」
 女将はそう言うと小鉢を私の前に置いた。私は待ってましたとばかりにそれを箸でつまんで食べると、弾力のある海藻の粒はプチプチとはじけ、海の香りが口いっぱいに広がる。
「海ブドウなんて久しぶりだなぁ」
 透明感のあるグリーンが美しい海藻の粒が光に照らされて輝く様子はまるで宝石のようだった。
「海藻の粒が連なってブドウの房の様に見えるからかしら?」
 女将は海ブドウの名前の由来が気になるらしい。
「房に例えるなら藤の花も似てますが、海の藤の花ってのも語呂が悪いですね」という私の言葉に女将は小さく笑った。
「藤と言えば…」
 来る時に見た公園の風鈴を思い出し、その事を話題に出した。
「ああ、もう夏ですもんね」
 女将話によると、横丁の公園の藤棚に風鈴を吊るすのは夏の恒例行事らしかった。
「かなり昔からやってたみたいよ」
「…へぇ。藤棚にあれだけたくさんの風鈴が吊るされていると、ある種、圧巻ですね」
「風鈴は普通、軒先に一つ吊るすものですもんね」
 最近では、風鈴の音がうるさいって苦情が来るってって話を聞いたという話をすると、女将は「情緒ってのがわからなくなったのかしら?」と困惑顔になる。
「みんな、何かに追われて、心に余裕がなくなっているのかもしれませんね」
 そういう私も、このいなり横丁に通うようになるまでは、ものは無くても心が豊かだった時代をすっかり忘れて、仕事と時間に追われる生活を続けていたのだが…。
「…ここは穏やかに時間が流れるから」と言って女将は微笑むと、棚から酒瓶を取り出した。
「今日は泡盛あるわよ…飲む?」
「いただきます」
 ゴーヤチャンプルーやジーマミ豆腐、テビチーなども用意してあり、今日の竜宮のお品書きはすっかり沖縄料理店だった。

「今日は飲んだなぁ」
 沖縄料理と泡盛を堪能し、〆にソーキそばを食べて小料理屋を出た時には夜もかなり更けていた。
 深夜だったのですっかり人気が無くなった静かな夜道を丸い傘付きの電球の街灯が照らしている。街灯はあまり明るくないものだったが、今夜はキレイな満月だったので、月明かりを頼りに私は歩き始めた。
 日が落ちて時間が経っていたせいか、快適とはいえないが日中よりはかなり暑さはマシに感じる。酔いもあるのか少々夢うつつ気分でいると、ささやくような風鈴の音色が聞こえ始めた。
 公園の藤棚が月の光に照らされ、風鈴が闇夜の中でキラキラと光っている様に見える。
 チリン…チリン…。
 弱い風が吹いているのか風鈴が小さな音をたてる。
 チリリン…。チリリン…。
 少しずつ風鈴の音が重なり、音の波の中で淡い紫色のワンピースを着た少女が藤棚の下で舞い始めた。
ふわりふわり…。
 幻想的な光景に心を奪われ、私は息をひそめてその少女の舞を見つめ続ける。しかし一瞬とも永遠とも思われる不思議な時間は突然終わりの時を迎えた。舞い踊っていた少女と私の目が合ったのだ。
「!」
 少女は驚きの表情を浮かべ、その次の瞬間、その姿はすっと霧の様に消え、それを見届けるように私の意識も唐突に闇に包まれそこで途切れた。

「…もし…大丈夫ですか?」
 身体をゆすられる感覚を覚えて、私は瞼をゆっくりと開く。
 ぼんやりとした視界に制帽を被った男性の顔が飛び込んできた。
「…?」
 見知らぬ人物の顔に驚いて目を開けた私に男性はほっとしたような表情を浮かべ、気分はどうかと訊いてきた。
「…頭…痛い」
 意識がはっきりするにつれ、頭痛を覚えた私は痛みを訴えながら身を起こした。
「怪我は無いようですが…頭でも打ちましたか?」
 心配そうにそう言う男性は警察官の制服を身に付けていて、周囲を見回すと横丁の公園の入り口にある門柱の傍だった。
「…たぶん二日酔いです」
 頭痛と喉の渇きを覚えながら記憶をたどって私はそう答えると、ゆっくりと立ち上がり、軽く体を動かして体の状態を確認する。痛いところなどない事を確認して警察官に話を聞くと、公園の入り口で私が眠っていたので声を掛けたらしい。
「真冬なら凍死していますよ」
 警察官はそう言いながら飲みすぎを注意したが、問題はないと判断したのか、私に帰宅するように言うと立ち去った。
 時計を確認すると朝の5時を少しまわったところで、朝陽が昇り始めていた。
「…夢?」
 意識を失う前の記憶を遡りながら朝陽に照らされた藤棚の方を見ると、何事もなかったように風鈴がそよ風に吹かれて小さな音をたてている。
 生まれてこのかた不思議な体験をした事なんて一度もなかったので、昨夜の出来事は酒が見せた幻覚か夢だったらしいと判断した私は、服に着いた砂を払い始めた。
「…え?」
 薄紫色の小さな花びらがひらひらと私の身体から落ちるのが視界に入る。驚いてその花びらを見ると、それは藤の花のようだった。驚いて再び藤棚の方を見た私の耳に風鈴の音が聞こえてくる。
 チリリン…。
 チリリン…。
――薄紫色のワンピースの少女は藤の精霊だったのかもしれない。
 ふとそんな考えが浮かぶ。
 それからというもの公園の前を通るたび藤棚の下に彼女の姿がないかと見るようになったが、あの不思議な夜以来、彼女の姿を目にすることは無かった。
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