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だんちゅう ~男子厨房に入るべし~

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◆プロローグ 『丹羽家の伝統』

 柔らかい春の日差しの元、誕生日を迎えた丹羽優志は庭に呼び出されていた。
 優志が庭に行くと満開の桜を見上げていた優志の父、優一朗はやってきた優志に気が付いておもむろに口を開いた。
「明日、優志の誕生日だな」
「はい」
「元服という言葉を優志は知っているか?」
 首を振る優志に優一朗は笑いながら頷いた。
「元服と言うのは、昔の成人を意味する言葉だよ。男子なら数え年12~16歳。優志も15歳になって数え年なら16歳。大人の仲間入りをすることになる」
 黙って聞いている優志に優一朗は言葉を続けた。
「我が家では、元服を迎えた男子は一人前の自立した男になる為、自分の食事は自分で作り、料理の腕を磨くのが慣わしだ」
「?」
 怪訝な顔になる優志に構わず、優一朗は言葉を続けた。
「と、いう訳だから、明日から優志は自分の飯は自分で作りなさい」
「!」
 驚いた優志はたまらず声を上げた。
「父さん、俺、料理なんて諸学校の家庭科の時間に少し習っただけだし…」
「大丈夫だ。父さんだって最初はそうだった」
 優一朗は意味ありげに笑みを浮かべる
「…それに」
「それに?」
「調理実習の時に豆腐の味噌汁を作ったんだけど、うちの班の奴が豆腐を切ったら手まで切っちゃって…」
 脳裏によみがえる血に染まった豆腐に優志が身を震わせていると、優一朗は笑った。
「料理をしていて手を切るなんてよくある事だよ。誰だって最初は初心者。失敗して上手くなっていくもんだ」
 でも…と言いかける優志を制して、優一朗はあやすように言葉を続ける。
「最初から自転車に転ばず乗れたかい? 最初は転んでばかりだったよな?」
「…」
「赤ちゃんも最初はハイハイしていて、少しずつ立ち上がれる様になって、転びながらヨチヨチ歩きになり、やがて転ばず歩けるようになるよな」
 反論できず黙っている優志に優一朗はダメ押しするように言った。
「元服した男子は自分の飯は自分で作れるようにならなければいけないのが我が家の決まりだ。嫌なら今日のうちに荷物をまとめて出ていきなさい」
「!!」
 不条理な丹羽家の伝統に言葉を失う優志を尻目に、優一朗は「手出しはしないが、解らないことは母さんに聞くのは構わないからね」と楽しそうに言い残し母屋に戻っていった。
「…なんてこった」
 優志は途方に暮れながら満開の桜の木を恨めしそうに見上げ、深いため息をついた。

 突然、自炊しなければいけなくなった優志はとりあえず母、香苗に相談する事にした。
 香苗はキッチンで鼻歌を歌いながら楽しそうにスポンジケーキに生クリームをデコレーションしている最中だった。
「あら、優ちゃんどうしたの?」
「明日から俺、自分の飯は自分で作れって親父に言われた…」
 それを聞いた香苗は生クリームが入った絞り袋をケーキ台の横に置き、優志を手招きする。
 優志が傍に来ると、キッチンに置いてある2台の大小の冷蔵庫を指し示した。
「小さい方の冷蔵庫は優ちゃん専用冷蔵庫ね。好きなように使っていいから」
「…え?」
「何を作るか決めたら、言ってね。最初のうちは必要なものは買って置くから」
 そう言った後、香苗は「食材のお勉強もしなきゃいけないから、作るのに慣れたらお買い物も自分でしてもらうけど」といいながらクスクス笑う。
 その言葉の真意がわからないいまま曖昧に優志は頷く。
「明日は何を作るの?」
 と、香苗に問われ、とりあえず優志は調理実習を思い出して、初心者向きで簡単そうな、ごはん、豆腐とわかめの味噌汁、たまご焼きの献立で始めることにする。
 それを聞いた香苗は頷いて、解らない事は聞いてねと言うと、ケーキつくりの作業を再開した。
 優志は自室に戻ると呼び出された為に中断していたゲームの続きを始め、夕食以外は寝るまでゲームで遊んで眠りについた。

 翌朝、起床して歯を磨き、朝食を食べる為にダイニングに行くと、両親は先に朝食を食べており、優志の席には朝食は用意されていなかった。
「あれ? 俺の朝ごはんは?」
「今日から自分の飯は自分で作る事になったはずだろ」
 涼しい顔の優一朗にそう言われ、優志は言葉を失う。
「必要な材料は優ちゃんの冷蔵庫に用意したるからね」という香苗の言葉に見送られ、空っ腹を抱えながら優志はキッチンに行き、自分の冷蔵庫を開けてみた。冷蔵庫の中には小さな米が入った袋、豆腐、味噌、わかめ、たまごが棚に置いてあって、調理台には炊飯器に鍋やフライパン、包丁や、まな板、料理に調味料など必要な物は使いやすいように用意されていた。
「米が冷蔵庫に入っていたって事は…ご飯…ない…」
 作るのはおかずだけだと思っていた優志は、炊飯器の中は空っぽなのを確認して絶望的な表情になるが、お腹が鳴るので仕方なしに優志は自分の朝食作りに取り掛かった。
「まずはごはん…」
 調理実習の記憶を頼りに優志は炊飯器の中の窯に米を流し込んだ。
「後はお水を入れてスイッチを押すだけだよな。なんだ簡単じゃん」
 そう言いながら適当に水を流し込み、炊飯器の蓋を閉めて炊飯スイッチを押し、次は味噌汁作りに取りかかった。
 調理実習の流血豆腐事件の記憶が頭から離れず、優志はまな板の上に豆腐を置いて切ることにした。
「この方が安全だし、きれいに切れるよな。俺って頭いいよな」
 優志は自画自賛しながら鍋に豆腐を入れようとした。
「うわ、豆腐壊れる」
 キレイな形に切ったはずの豆腐は壊れ、鍋に移し替えた時には見た目の悪いものになっていた。
「最初だし仕方ないよな」
 言い訳めいた事を呟きながら、優志は豆腐を入れた鍋にわかめの塊と水と味噌を適当に入れ、コンロに置いて火を点けた。
「次はたまご焼きだな」
「混ぜたたまごを焼いたらいいだけだから楽勝じゃん」
 優志は卵をボールに割入れて混ぜ、フライパンに卵液を流し込んで焼き始めた。
「後はご飯が炊けたら完成。全部自分でやるのは初めてだけど、やればできるもんだよな」
 そう言っていたのもつかの間、焦げ臭いにおいがキッチンに漂い始めた。驚いた優志は臭いの元を探すと、どうやらたまごを焼いているフライパンだという事に気が付いた。
 まだ卵液は全部固まっておらず、たまご焼き状態ではないが、どんどん焦げ臭さが強くなるので箸でたまごを突いてみる。
「げ、上は生なのに下が焦げてる」
 慌てて箸で卵液を混ぜ始めるが、フライパンの上では大小さまざまなそぼろ状態の茶色い物体が誕生。想像していたたまご焼きとは全く別物に困惑する優志だった。
「まあ、ごはんと味噌汁もあるしな」
 開き直るようにそう呟いて、炊飯器の炊きあがりアラームが鳴るのを待つ。
 ごはんが炊き上がり、食器に炊きたてのご飯、煮えたぎる鍋から味噌汁をよそい、失敗した理由が解らないたまご焼きになるはずだったものを器に移してダイニングの自分の席に運ぶと、優志の初料理を楽しみにしていたのか、両親が楽しそうな表情で待ち構えていた。
「ちょっと見た目は悪いけど、ちゃんと作れたよ」
 両親にそう言いながら優志は自分が作った料理を食べ始めたが、すぐに箸を止めた。
「まずっ…なんだこりゃ」
 母が作る料理の味とは似ても似つかない味に優志は驚いたようにつぶやく。
「どれどれ…ちょっと失礼」
 優一朗と香苗は興味深々といった様子で優志が作った朝食を一口ずつ食べて笑い出した。
「優ちゃん…お米洗わなかったでしょ。それにお水の量もはかってないわね」
 香苗の指摘に優志は驚く。
「何でわかるの?」
「ごはんのにおい…ぬか臭いわよ。普段食べているごはんってこんな香りかしら? うちのお米は無洗米じゃないからちゃんと洗わないとダメよ。それとご飯がかなり固いのはお水をちゃんと吸わせてないのと、お水自体かなり少なかったんだと思うわ」
 そう言われて優志は自分が炊いたご飯のにおいをかぎ、眉間に皺をよせる。そんな優志の様子を楽しそうに見ながら優一朗が「自分が作った味噌汁と母さんの味噌汁とどう違うと思う?」と聞いてきた。
「味は母さんのよりしょっぱいけど…水臭い?」
 母が作る味噌汁と自分の味噌汁との違いをうまく言い表せなくて困った表情になる優志。ただ言えるのは、全く味も香りも違うだけは間違いなかった。
「この味は味噌汁に出汁をいれてないだろ」
「あと豆腐も固くなってるし、味噌の香りも飛んでるからこれは強火で煮立てたな」
 優一朗の指摘も図星で優志は不思議そうな顔になった。
「一口食べただけなのに何でそこまでわかるの? って顔ね」
 そういうと香苗は「みんな同じ失敗をするからよ」と言ってほほ笑んだ。
 自分で作った朝食が不味すぎて空腹にも関わらず食べる気を失った優志に優一朗はいたずらっ子の様な表情で「食べ物は粗末にしちゃいけないぞ~」と言って席を立った。その言葉に香苗も頷き「粗末にすると、もったいないお化けが出るものね」と言って、不味くても体を壊すものではないから責任を持って食べなさいと告げる。
 優志は泣きたい気持ちになりながら、自分が作り出した産物を胃に流し込むしかなかった。

 宿題もない春休みだから大好きな漫画を読んだりゲームをして過ごそうと思っていた優志は、自炊をしなければならないという重大な事態に直面して、どうしたらいいのか悩んで親友に相談する事にした。
 優志からの連絡を受けて、親友の河端和也が丹羽家にやってきた。
 和也は中学生の割には大柄な体格で、キャッチャーを務めている野球少年。育ち盛りで運動部だからか食いしん坊で、丹羽家に遊びに来るとお菓子作りが趣味の香苗のおやつが食べられるので、それを楽しみによく遊びに来ていた。
「…そりゃ大変だな」
 事情を聞いた和也がそう言うと優志は深刻そうな表情で頷いた。
「正直、俺、料理をなめてた」
「と言うと?」
「母さんに、腹が減ったって言えば、少し待てば美味しいものを作って出してくれるし、毎日いろんなおかずが出てくるから、こんなに美味しく作るのが難しいと思わなかったんだ」
 それを聞いた和也は大きく頷く。
「お前んち、レトルトとかカップ麺、スナック菓子はほとんど食べないって言っていたもんな」
「よく分からないけど、体によくないからとか言ってた。みんなコンビニの上手いものを買って食べてるけど、うちはダメだから、買い食いしたのがバレたら怒られる」
 不条理な丹羽家のルールの不満を口にして優志は「たまにこっそり小遣いで買い食いしてるけど」と言いながら舌を出す。
 少し何かを考える様子だった和也は何かを思いついたように言った。
「お母さんにわからない事を聞くのはいいんだろ? だったら料理を作る時にそばに居てもらって、全部やり方を聞いたらいいんじゃね?」
「お前、頭いいな」
 和也のアイディアに優志は一気に明るい表情になる。
「持つべきものは親友だよな」
「自分で言うな」
 おどける和也にツッコミを入れながらも優志は問題解決の糸口のヒントを出してくれた親友に感謝していた。

 和也のアドバイス通りに香苗に料理をする時は傍にいてくれるように頼み、まずは朝食のリベンジをしようと、再び同じメニュー作りに挑戦する事にした優志は、米袋を手に香苗にごはんを炊きたいが、どうしたらいいかを尋ねた。
 それを聞いた香苗は、その方法で来たかといった表情になった後、説明を始める。
「まずお米の量を計る事からよ」
 そう言うと調理台の上の小さな計量カップを優志に手に取るように指示した。
「料理は理科の実験と同じだから、分量がとても大切よ。その計量カップはお米用で数字が書いてあるでしょ」
「この1とか2とか?」
「そう。1は1合。2は2合っていう、日本の量の単位よ。一升瓶のお酒とか聞くでしょ。あれも日本の量の単位。一升は1800ml。1合はその十分の1ぐらいと覚えると良いわ。機械式の米びつなら数字のボタンを押せば計量されて出てくるけど、うちはそれは使わないからはからないとダメよ」
「一人分ってどのくらいかわからないよ」
「そうね。優ちゃんお茶碗だと1合なら1杯半ぐらいかしら」
 香苗の説明でなんとなくイメージがつかめた優志は計量カップに米を1のメモリ分まで入れた。
「次は?」
「次はお米を洗わなきゃね」
 米を洗うと言ってもどうやって洗えばいいのか解らず優志は困った表情になる。そんな優志に香苗は「家庭科の授業ちゃんと聞いていなかったでしょ」と言いながら、優志にボウルに米を入れるように指示を出す。
「ボウルにお米を入れたら、流しに持って行ってお米の入っているボウルに水を入れて、手でさっとお米とお水が混ざるようにかき混ぜて」
 言われるまま優志はボウルに水を流し込んで米をかき混ぜた
「ゆっくりしているとぬか臭いお水をお米が吸っちゃうからなるすぐ捨ててね」
 香苗の言葉に慌てて水を捨てようとして、水と一緒に米が少しシンクに流れ出て優志は困った様子になる。
「ボウルをお米がこぼれないぐらいまで傾けて、静かにお水を捨てればいいの。完全に水を切る必要はないわ」
 恐る恐るボウルの水を捨て、次の工程を優志は問う。
「お米を洗うのを研ぐって言うんだけど、軽くお米を握るって、手首をひねって掌底でお米同士をすり合わせるといいわ」と言いながら、香苗はふきんをお米に見立てて米を研ぐような動作をする。それを見ながら真似しようとした優志に香苗が注意する。
「力を入れるとお米が砕けるから、壊れない程度の力加減が大事」
「そんな事言われてもわかんないよ」
 ぶつぶつ言いながら優志は米を研ぐ動作をすると香苗から次の指示が飛ぶ。
「3~4回研いだら水を入れて濁った水を捨てて、またお米を研ぐ」
「それを3回ぐらいしたら、お水が少し濁っているぐらいでお米研ぎ終了。研ぎすぎるとお米の栄養が無くなっちゃうから気をつけてね」
 言われるまま優志は米を研ぎ終え、次は? と尋ねる。
「研いだお米を炊飯器のお釜に入れてお水を入れる。今回は1合のお米だから、お釜の中に書いてある数字の1のメモリまでね」
「この数字はそういう意味だったんだ」
 なるほどという顔をなった優志に香苗は米と水の入った釜に手を縦に入れるように言った。
「?」
 優志は怪訝そうにしながら釜に手を入れる。
「お米の上に付くようにしたら中指のところにお水の高さはどの辺にある?」
「第一関節ぐらいのところ」
「そう。メモリが無い容器でお米を炊きたいときはそれが水の適量だから覚えておくといいわ」
 関心したように優志は頷き、炊飯器の炊飯ボタンを押そうとするのを香苗が慌てて制止する。
「まだ早いわ。30分はお米にお水を吸わさないとダメよ」
「そんなにかかるの? 急いでごはんが欲しい時困る」
 不満を口にする優志に香苗は頷きながら炊飯器の表示画面を見るように促す。
「そこにいろいろ書いてあるのわかる?」
「炊き込みごはん、玄米、おかゆ、おいそぎ?」
「そう、炊飯器の場合は炊きたい希望のモードに切り替えれば、希望にあった炊き方ができるのよ」
「へぇ…」
 ゲームの要領で炊飯器のモードの切り替えをして、納得する優志はおいそぎモードにカーソルを合わせた。
「おいそぎモードでも水を吸わせるのに30分かかるの?」
「早炊きやお急ぎモードがある炊飯器なら給水時間はいらないわ」という言葉を聞いて炊飯スイッチを押す優志に香苗は「せっかちね」と言って笑った。
「炊飯器の場合は蒸らす所までやってくれるけど、炊飯器以外でごはんを炊くときは蒸らさないとお米に芯が残るから気をつけてね」
「炊飯器以外でごはんを炊けるの?」
「キャンプの時によくお父さんが飯ごうで炊いてるでしょ」
「あの小さい蓋つきの鍋かぁ」
「そう。蓋つきなら普通の鍋や土鍋なんかでも炊けるわよ」
「炊飯器でないと無理だと思ってたけど、確かに山の中のキャンプでご飯食べた」
「ガスが無かった時代は竈で炊いていたけど、さすがに今は竈がある台所はほとんどないんじゃないかしら」
 香苗の言葉を聞きながら優志は時計を見て驚く。
「母さん、まだ味噌汁とたまご焼き作れてない。もたもたしてたら夕飯に間に合わない!」
「あらあら、もうこんな時間」
 優志の言葉に驚いて香苗も時計に視線を走らせる。
「いけない。私も夕飯の用意をしなくちゃ」
「え…もう教えてくれないの? 教えてくれなきゃ、今晩の俺の飯、ご飯だけ…」
 戸惑う優志に香苗はノートを差し出した。
「?」
「作り方ノート。とりあえずお味噌汁とたまご焼きの作り方を書いておいたから、これを見ながら作るといいわ。私もここでお料理するからノートに書いてある事が理解できなければ聞いてね」
 そう言うと香苗は掛けてあったエプロンを身に付け、ノートを受け取ったまま立ち尽くす優志を尻目に夕食の準備を始めた。

「…ええっと」
 放置される形になった優志は仕方なく渡されたノートを開き、書かれている内容を読んでみる。
「うちのお味噌汁(豆腐とわかめ)。材料…・水、かつおだし、味噌、とうふ、わかめ。なになに…鍋にお水を入れて火を付けて沸騰したらかつおだしを入れて、味噌を鍋に入れて溶いてから豆腐とわかめを入れて完成…」
 自分がやってみた手順とは違うなと思いながら、とりあえず書かれていると通りにしてみようと、味噌汁つくりを始めた優志だったが、すぐに手が止まった。
 ――小さじ1? 小さじって…どれ?
 調理台の上の様々な大きさの複数のスプーンに頭を悩ませ、小さめの形の違うスプーンを手の取り香苗に声を掛けた。
「小さじってこれでいいの?」
「数字が書いてあるスプーンね。5って書いてある奴よ」
そう言われてスプーンを見ると、確かに柄の部分に5mlと書いてある。
「大さじは15って書いてあるから覚えておきなさい」
「はーい」
 返事を返して優志は味噌汁つくりを始める。
 ノートに記載されている水の量をはかり、鍋に入れて火にかけ、出汁を入れ味噌も溶いたところで再び手が止まる。
「…母さん。豆腐は包丁で切るんだよね?」
「そうよ。掌に乗せて切るの」
「そんな事したら手が切れちゃうよ」
「包丁を引かなければ切れないわよ」
「?」
 疑問符を振りまく優志に香苗は自分の手で豆腐を切ってみせた。
「お豆腐を切るときはお豆腐に包丁を押し当てるだけで…切れたでしょ」
 確かに豆腐はキレイに切れているが手は切れていない。不思議そうな優志に刃物は引くと切れるようになっていると説明する。
「お豆腐は柔らかいから、お豆腐より固いものを当てれば簡単に切れたり壊れたりするから、見た目を気にしないならスプーンでもお箸でも構わないのだけど、料理は見た目も大切だと私は思うから包丁を使っているけどね」
 確かにカッターナイフや彫刻刀も強く押し当てたり引かなければ切れないなぁ…とぼんやり思いながら、調理実習での流血豆腐事件の原因がようやく理解できた優志だった。

 何とか味噌汁を作り終え、次にたまご焼きを作る為にノートを読む。
「我が家の普通のたまご焼き。材料は…たまご、しょうゆ、油…油?」
「母さ~ん。たまご焼きに油なんて入ってないのに、油って書いてあるよ?」
「油はくっつき防止のためにフライパンに引くのよ。くっつくと剥がすのが大変だし、剥がす時、柔らかい卵なんかだと壊れてぐちゃぐちゃになっちゃうからね」
 自分のたまご焼きの失敗の原因に思い当った優志はノートを読み進める。
「溶き卵にお醤油を少し入れて混ぜる。たまご焼き器を熱してから弱火にして、油をひき、溶き卵を3/1流し入れて半熟になったら寄せ、溶き卵をまた1/3入れ、先に焼いた半熟たまごの下に追加で入れた溶き卵の一部を流し込みながら焼くのを繰り返す…?」
 具体的なイメージが浮かばないまま、とりあえずノートに書いてある通りに優志はやってみる事にしたが、たまご焼き器がわからず、香苗に聞いて四角いたまご焼き専用の小さなフライパンの存在を知る。
 ノートに書かれている通りに作業を始めたが、すぐにまたノートに書かれている意味が解らず、手が止まった。
「弱火って何だ? 火の事だからたぶんコンロの火の事なんだろうけど…」
 今まで食べる専門で、数少ない料理経験の調理実習も班の女子がほとんどの調理作業をやっていたので、料理の用語の意味がよく分からない優志だった。
 コンロの火を数回つけたり消したりしてもわからず、再び香苗に尋ね、火力の調整の方法を知り、ようやく溶き卵を焼き始めてすぐに次の問題が発生した。
「母さ~ん。たまごを寄せたら変な形になる…」
 母が作った綺麗な形のたまご焼きに比べて、たまご焼き器の端に寄せようとすると、たまごが破れて形が崩れるので優志は困って声を上げると香苗は少し笑いながらそれでいいと言う。
「半熟状態だから、焼いているうちに形が整うから大丈夫。お箸だと慣れないと綺麗な形で返しにくいから、これを使うと良いわ」と言って、小さめのフライ返しを優志に手渡した。
 フライ返しを受け取ったものの、使い方がわからず首を傾げるのを見て「小さい頃から台所で料理をするところを見せておくべきだったわね」と言いながら香苗は苦笑いした。
 フライ返しの使い方を実演してみせようとして、優志が焼いている途中のたまご焼きがすっかり固まってしまっている事に気が付く。
「優ちゃん…たまご加熱しすぎよ。半熟たまごじゃなくなってる。たまごは余熱でも火が通って固まるから、わからない事は加熱する前にきいた方がいいと思うわ」
「…はい」
 そう返事したものの、「何がわからないのかがわからない」と思う優志だった。

◆Episode 1 『カレーは救世主』

 新学期が始まり、中学3年に進級したがクラス替えは無かったので、優志は仲の良いクラスメイト達と休憩時間を過ごしていた。
「俺、料理できるようになったんだぜ。学校の時は昼の弁当は母さんが作ってくれるけど、朝晩は自分で作っているんだ」
 春休みにあった出来事を報告しあっていた優志は自慢げに切り出した。
「すげぇじゃん」
「いろいろ大変だけどな」
 何も見ないで出来るのはごはんを炊くことぐらいで、今朝は生煮えのじゃがいもの味噌汁を作ってしまったのだが、その事について触れることはなく、いかに料理が大変なのかという話をはじめた。
「お前ら、ごはんを炊いた後、蒸らさないと米に芯が残るのを知ってるか?」
 炊飯器でしかごはんを自分で炊いた事がないが、香苗から聞いたのをそのままの事を口にする優志だった。
「カレーだってレトルトじゃなく、自分で作るんだぜ」
 香苗が書いたノートのレシピ通りに作っているだけなのは内緒である。
「カレーは一晩置いた奴の方がうまいよな」
 クラスメイトの真野拓真の言葉に他の友人達も頷く。
「作りたてもうまいけど、やっぱり翌日のカレーはコクがある」
「俺はどっちも好きだけどな」
 カレー談議で友人たちが盛り上がる。
「俺んちはレトルトカレーだから1回で食べきるけど、カレーを作ると大鍋いっぱい出来るから、いっぱいカレーが食えていいよな」
 親友、河端和也の言葉に拓真が反論する。
「朝昼晩、三食カレーは飽きるぞ」
「そうか? お腹いっぱい食えるから俺は大歓迎」
「僕はカレーが続くなら、最初は普通で、二食目はカツカレー、三食はチーズカレーリゾットって感じで工夫して欲しいね」
「拓真は贅沢だな」
「グルメと言ってほしいね」
 そんな会話の後、たまに丹羽家の夕食を食べる事がある和也が思い出したように言った。
「そう言えば優志のところのカレーってインドカレー屋さんみたいなやつだよな」
「金属の食器にいろんな種類のカレーと、草履みたいなでっかいパンが乗ってる奴」
「草履みたいなでっかいパンって、ナンの事?」
「そうそう、なんかそんな名前の奴」
「本場インドではナンではなく、チャパティっていう丸い茶色いパンを食べる事が多いらしいけどな」
 食にうるさい拓真がうんちくをたれると、優志が思い出したように頷く。
「それもカレーの時はたまに食べるよ。黄色いパラパラした長細いご飯の時もあるし」
「へぇ、優志の家は本格的だなぁ。インド料理店みたいだ」
「長細いパラパラのご飯って何だ? 俺、食った事ない。たまにコンビニで売っているカレー食うけど、そんなの見た事ない」
 そういう和也に拓真が「確かにそういうのはコンビニでは売ってないよな」と同意するのを聞きながら、優志はしみじみ丹羽家の食卓がかなり特殊のようだと感じていた。優志自身、コンビニにどんなものを売っているのか知らなかったりする。コンビニに立ち寄るのは友人達に連れられて立ち寄る程度で、両親がコンビニで買い物をしているのを見た事がなかった。
 ―― 一晩置いた大鍋一杯のカレーって何だ?
 先程の友人たちの話題がわからず、大鍋の一晩置いたカレーが気になって仕方がない優志は考え込んでいた。自分が作ったカレーは小鍋で作って一人で完食できる量だったし、香苗が大鍋でカレーを作っているのを見た事がない。
 ーー給食のカレーは大鍋で教室に運んでみんなで食べたけど、一晩置くって…
 友人達にどういうことなのかを今更きくのが恥ずかしい気がして尋ねられずにいた優志は、納得のいく結論を導き出す事が出ないまま休憩時間の終わりを付けるチャイムが鳴るのを聞いた。

「一晩置いた大鍋のカレー?」
 夕食の後、学校での出来事を話していた優志の言葉に優一朗が聞き返した。
「家でそんなの食べた事がないからわからなくて…」
「優志も食べた事あるぞ」
「いつ?」
「キャンプの時に朝、俺が作った前の晩のカレーの残りを食うことがあるじゃないか」
 優一朗にそう言われ、やっと優志はその味を思い出した。
「ああ、あれか」
「ダッチオーブンで作るから、大量にできるからな。あれはあれでうまいだろ」
「うん。母さんのカレーも好きだけど、父さんのカレーもまた違う美味しい」
「カレーと言っても、母さんが作るカレーはインド式で、俺が作るカレーは日本式だからな」
「どう違うの?」
「インド式はギーっていう精製されたバターにいろんなスパイスなんかを炒めてから、カットトマトなんかと他の具材を煮込んで作る食事の薬膳料理…いわば漢方薬の料理なんだ。日本式はこの間お前が作ったように、肉なんかを炒めた後、野菜なんかと水を入れて煮たスープにカレールーを入れたもの。カレールーは動物性の油脂…つまり脂の塊と小麦粉、塩や調味料をカレースパイスと混ぜ合わせたものだから、全然違う。一緒にしたらインド人が怒るぞ」
「何で怒るの?」
「インドはベジタリアンが多いからな」
 ベジタリアンの言葉の意味を知らず、優志は首を傾げる。
「ベジタリアンってのは、動物の肉を食わない人たちだよ。魚なんかと野菜、果物しか食べない人たちの事」
「へぇ。変わってるね。お肉美味しいのに」
「インドでは昔から肉食は身体に悪い影響を及ぼすものって言われて信じている人も多いからな。もっと極端になるとビーガンって呼ばれる野菜と果物しか食べない完全菜食主義者もいるんだ」
「変なの」
 ベジタリアンやビーガン等は、優志からすれば変な人たちに思えた。
「まあ、そう言うな。日本人だってベジタリアンの人種だったんだからな。日本のお寺なんかに伝わる精進料理なんかはビーガン食だし」
 不思議そうな顔になる優志に、優一朗は日本の食文化の歴史を話始めた。
「そもそも日本で多くの庶民が肉を口にするようになったのは、第二次世界大戦で敗戦してからなんだ。そもそも黒船がやってきて明治時代になるまでは、宗教や伝統文化的な問題で肉はけがれたものとして食べてはいけないものとされたいたんだ。肉を食べるのは猟師と珍味としてこっそり一部の人間に食べられていたぐらいだな」
「日本は海や山の幸が豊富に採れるから、わざわざ動物を殺して食べる必要がなかったんじゃないかと俺は思う」
と言い、「白人は肉食動物だが、日本人は草食動物なんだ」と付け足した。そんな父の言葉の真意を解り兼ねていると、優一朗は言葉を続けた。
「人種によって肌の色が違うのは見てすぐわかる事だが、実は人種によって腸の長さが違うのを知らない人は多い。白人は大昔から主に狩猟をして肉を食べて命をつないできた。そして日本人は大昔から代々海の幸山の幸を食べて命をつないできたんだ」
 黙ってきいている優志に「そうすると何が起きたと思う?」と問いかける。首を振る優志に「腸の長さがそれぞれの食べ物に合わせて効率よく吸収できる者が生き残る様になったんだ。草食動物みたいに野菜を多く食べる人種の腸は長く、肉食動物みたいに肉を多く食べる人種は腸が短い傾向がある」
「へぇ」
「どうして肉食だと腸が短くなるかと言うと、たんぱく質…特に動物性のたんぱく質は腐りやすく、腐ると大量の毒を出すんだ」
「毒?」
 解りやすいのは食中毒かな? と言いながら優一朗は少し優志が理解しやすい説明を考える。
「今は衛生状況も良くなったから食中毒の話はあまり聞かなくなったが、激しい食中毒を起こすと毒を身体から出そうとして、吐いたり、激しい腹痛を起こして下痢になる。そうする事によって何日も寝込んだり、脱水症状を起こして酷い場合、体力が無いと死ぬことだってあったんだよ」
「で、話を戻すが、腸が長いと毒素を便として出すのが遅くなるから、それが大腸がんの原因になったりするという研究者もいる。実際日本人の大腸がんが多くなったのは肉類を日常的に食べるようになってからというデータもあるからな」
「へぇ」
 半信半疑といった表情で頷く優志に優一朗は「肉食といえば飛脚の面白い話があったな」と何かを思い出したようだった。
「昔は公共交通網は今みたいに国中に張り巡らされていない時代は飛脚っていう郵便物なんかを持って日本全国を走って届ける職業の人たちがいたんだ。マラソン選手よりも短時間で距離を走る超人たちだったんだが、身体は白人たちに比べて小さかった。その飛脚たちに肉を沢山食べさせたら、身体が大きくなりもっと走るようになるだろうと、GHQは考えて飛脚たちに肉を食べさせ続けたんだ…そしたら何が起きたと思う?」
「お肉はパワーがつくから、もっと走るようになったんでしょ?」
 当然そうに優志がそう言うと優一朗は笑いながら首を振った。
「その逆だったんだ。全く走れなくなったんだよ」
「え?」
「一人だけではなく、すぐ疲れて走れなくなった上に、疲れが抜けにくくなった飛脚が続出したんだ」
「なんで?」
「日本人の体質に合わなかったんだろうな」
「でも、テレビや友達は疲れた時は焼肉やステーキを食べると元気になるってみんな言ってるよ?」
 異議を唱える優志に優一朗は「それなんだよな」と少し困ったように頷く。
「第二次世界大戦後、戦勝国のGHQは日本人に食の欧米化を推し進めたんだ。米ではなくパンなど小麦を主食に、肉を沢山食べる事を学校を使って日本人に教え込むように利用したのが学校給食。勿論戦争で日本の食糧事情が非常に悪かったので、子供たちの命をつなぐ為の目的もあったんだけどな。本当の目的は日本人の健康をの為ではなく、アメリカ産の小麦や肉をなくてはならないものにして、日本人に自国のものを恒久的に買わせて、自国の儲けにしようという政治的な思惑もあったんだーー日本人の人種的体質の違いはお構いなしで」
「教育って怖いんだぞ。もっともらしい理由をつければ、黒を白と信じこませる事も可能になるんだ」
「?」
「知らない事を誰かに教えてもらった時、それが正しいかどうかわからないよな? 何が正しいのか知らないのだから」
「優志が自分が最初に自分で作った料理も、ちゃんとした料理の味を知っているからで、知らなければそういうもんだと思ってそれがあたり前だと思うようになる」
 ようやく優一朗が言わんとしている事を優志は理解した。
「GHQはそれをよく知っているから、西洋の文化になじみがなかった日本の庶民に西洋文化が良いものだと信じこませる使ったのが格好教育やマスコミ、有名人なんだ」
 今迄馴染みがなく、よく分からない事柄も学校がマスコミが、有名人が正しいと口を揃えればそれが正しいと信じてしまうのが大衆心理なのだと優一朗はため息交じりに呟く。
「常識とされている事をうのみにせず、本当に正しいのか自分の頭で考える事も必要だよ」と言うと、中学生にする話ではなかったなといった自嘲めいた顔になり優一朗はその場を離れた。
 初めて耳にする話ばかりで完全に理解できた訳ではなかったが、何か大切なことを聞かされたような気がする優志だった。

「昨日の肉じゃがうまかった」
 学校での休憩時間に優一朗の話が話題になり、そこから肉の話題になって、和也が前日の夕食を連想したようだった。
「西はビーフ、東はポークって話はよく聞くな」と言う拓真に優志と和也は何の話? という顔になる。
「地方によって好んで食べる肉の種類が違うらしいよ。中部地方を境に東側の地方は豚肉を好むから肉じゃがとかには豚肉を入れるらしい。反対に西側は牛肉なんだって」
「さすが拓真よく知ってるな」
「んじゃカレーは?」
 カレーが大好物の和也がそう言うと、拓真は頭をひねる。
「ビーフカレーもあるし、ポークカレーも…チキンカレーもあるな。カツカレーはとんかつだけど、エビフライカレーや白身魚のフライとか…あれはシーフードカレーじゃないしなぁ」
「俺、ハンバーグカレー好きだぞ」
「ハンバーグだと合い挽きミンチだから豚と牛肉両方だな」
「カレー屋さんだと、ソーセージがいっぱいのってるやつもあるよな」
 食べ盛りの年頃だからか食べ物の話になり、妙に話が膨らむ。
「うちの母さんカレーに納豆をよくかけて食べてるけど、あれは許せない」
 納豆が苦手な拓真は嫌そうな顔になった。
「カレーに納豆かぁ。やった事ないけどうまいの?」
「納豆が好きな人間はうまいって言うけど、糸を引くカレーって俺は嫌だ」
 確かに…という感じで優志と和也は頷く。
「カレーを自分で作るって優志は言ってたけど、何カレー?」
「ビーフカレー…かな?」
 カレーの材料は香苗が用意したものだし、ノートに書かれたままの手順で作っていたので、肉が何だったかまでは意識していなかった優志は記憶を辿って曖昧に答える。
「肉は四角い奴? それともペラペラな奴?」
「四角い奴」
「へぇ、うちはぺらぺらな奴だよ。おふくろが四角い肉が嫌いなんだ」
 拓真がそう言うと、和也が「安いレトルトカレーだと肉が入っていないか、よく分からないミンチ肉が少し入っているだけ」と言い出した。
「やっぱ肉は欲しいよな」
 そう言って少年たちは頷き合っていた。

「またカレーを作るの?」
 放課後、今夜作る料理の材料を揃えてもらう為にメニューを伝えた優志に、香苗が訊ねてきた。
「和也たちと話していて、大鍋で作った一晩置いたカレーは美味しいって聞いたから、それが食べたくて…」
「大鍋ねぇ…」
 優志の言葉を聞いて香苗は少し考え込む。
「父さんがキャンプの時に作ってくれた奴を作りたい」
「それなら、優一朗さんに作り方を教えてもらったら?」
 香苗にそう言われ優志は仕事部屋にいる優一朗に頼みに行くと、優一朗は「カレーの世界は奥が深い」と言いながらもどこか嬉しそうに快諾した。
「まずは材料の買い出しから」と優一朗に言われ、優志は父とともに材料の買い出しに出掛ける事にした。
「何を買うかわかってるか?」
 近所のスーパーに到着して、優一朗に訊かれた優志は「ジャガイモ、にんじん、玉ねぎ、肉、カレーのルー」とすらすらと答える。
「問題ないな。じゃあ、かごに材料を選んで入れる事」
 優一朗の言葉に頷いて、優志はレジかごに材料の野菜や肉を適当に選んで放り込み、会計を済ませる。
「買い物は問題なさそうだな」
「母さんが買い物するのを見てるから余裕」と軽口を返す優志に優一朗は笑う。
「なら、これから買い物も自分で出来るな」
「簡単だから大丈夫」
 自信満々に答える優志に優一朗は意味ありげに口元に笑みを浮かべたが、その本当の意味をまだ理解していない優志であった。

 帰宅して優志は父からダッチオーブンと呼ばれる重くて大きい鍋を用意してもらい、カレーを作り始めた。
最初、香苗にカレーの作り方を以前書いてもらっていたノートを参考に作業をしていたが、ノートのレシピが一人用の為、ダッチオーブンでは仕込む量が少なすぎる事に気が付いて、優志は買ってきた材料を全部使うことにした。その様子を優一朗は黙って見守っているだけだった。
「肉をまず炒めるんだよね?」
 優一朗に手順を確認しながら優志は熱した鍋に肉を入れ炒め始める。肉に焼き目を付けた後野菜と水を加えた。
「ほう、ちゃんとローリエも入れてるじゃないか」
 感心したように優一朗が言うと、優志は得意そうな表情になる。そんな優志に「あく取りをやれよ」と父は声をかけた。
「あく取り?」
 聞きなれない言葉に優志は聞き返す。
「煮えてきたらスープに泡みたいなのが浮いてくるから、それをお玉なんかで丁寧にすくって捨てる事。あく取りしないと雑味が残ってスープの味が悪くなるんだ」
 それを聞いた優志は素直に黙々とあく取りを始めた。
 あく取りが終わり、鍋の具材もしっかり煮えて優志はカレーのルーを鍋に割入れ始めた。その様子を見ていた優一朗が板チョコとインスタントコーヒーを差し出した。
「チョコと…コーヒー?」
 受け取りながら不思議そうな表情になった優志に優一朗は「隠し味」と言って不器用なウインクをする。
「どっちも大匙1ぐらいだけな。入れすぎると逆にまずくなるからな」
 優一朗のアドバイスに素直にしたがう優志は、しばらく鍋の中身をかき混ぜた後味見をして満足げな表情になる。
「完璧」
 自画自賛する優志に「まあ、初心者としては上出来だな」と優一朗は言い、ダッチオーブンいっぱいのカレーに目をやると「作ったものは責任を持って、ちゃんと全部食べなきゃダメだぞ」と言うと仕事部屋に戻って行った。
「カレーにチョコとインスタントコーヒーを入れるのは意外だったけど、もうカレーは楽勝だな」
 そう呟いた優志は、その考えが甘かった事を後で嫌なほど思い知る事になるのをその時はまだ知る由もなかった。

「まだある…」
 カレーを作った3日目の朝、カレーが入っている鍋の中を覗き込んで優志はため息交じりに呟いていた。
 昨日は一晩寝かせて美味しくなったカレーに感動しておかわりまでして食べた優志だったが、さすがに3日カレーは味に飽きてきたのか、鍋の中に半分以上残ったカレーを恨めしそうに見つめる。
「食べるしかないよな」
 食べ物を粗末にしてはいけないと小さい頃から言い聞かされて育った優志としては、残ったカレーを捨てる事は出来ない。
「他の味のものが食べたい…」
 そう呟きながら優志は自分専用の冷蔵庫の中を覗き込む。
「…あ、納豆がある」
納豆カレーの話を思い出し、美味しいかどうかはわからないが、味変すればなんとか残りのカレーを食べられるかも…と優志は温め治したカレーに納豆をのせて食べる事にした。
「…納豆のにおい…なんか強くなってる」
 カレー熱で温まった納豆はその独特のにおいが強くなり、カレーの香りと混じって何とも言えない香りが存在感を主張している。
「…これは…」
 納豆とカレールーを混ぜ合わせて、妙なとろみがついた納豆カレーを恐る恐る優志は口に運び、少しホッとした表情になる。
「俺はこれ結構好きかも」
 カレールーと納豆を混ぜるせいか、糸を引くほどの粘りは無いがルーのとろみが増して納豆好きなら問題はなさそうだった。
 納豆カレーが思ったよりヒットだったせいか、優志は様々な食材を混ぜて残りのカレーを食べきる事にしたが、冷蔵庫で保存しているとはいえ、4日目を過ぎて温めなおしていたカレーから少し酸味がかった今までのカレーとは違う何とも言えない香りがキッチンに漂い始めた。
「納豆入れてないのに納豆カレーみたいなにおいがしているな…」
 怪訝そうな表情で優志が鍋の中を覗き込んでいると、香苗がダイニングから飛んできた。
「優ちゃん。それは食べちゃダメ!」
「?」
「カレー傷んじゃってるから、食べたらお腹を壊すわよ」
 香苗の警告に優志は「でも…もったいないお化けが…」とつぶやく。
「食べられるものを粗末にするのはいけないけど、腐っちゃったものは食べられないんだから、ごめんなさいすればいいの」
 呆れたようにそう言って、優志に傷んだカレーの処分の仕方を教え始める。
 まだかなり残ってしまったカレーを残念そうに見つめる優志に、香苗は「もったいないと思うなら、捨てなくていい様に作る量や保存方法を覚えなきゃね」と励ますように優しく言う。
 料理ってただ美味しく作るだけではなく、量や保存の事も考えておかなければいけないのだと理解して優志は小さく頷いた。

「失敗しない料理の適量?」
 書斎での入力作業の手を止め、モニター画面から視線を優志に移すと優一朗は聞き返した。
「父さんはどうやってちょうどいい料理の材料の量を覚えたの?」
「そうだな、俺の場合は3~4人前の分量で料理を覚えて、そこから食べる人数によって割り算をするな」
「?」
「料理本なんかのレシピだと、3~4人前の量で書いてあるから、単純計算なら作りたい人数が一人なら1/4の量で、二人なら1/2の量にすればいいだけさ。まあ、初心者のうちは、味付けは書いてある材料と同じ比率で作るのが一番無難だな」
「どうして?」
「料理は科学実験と同じだから、分量比率が変わると違う結果…味が変わってしまうことになるんだよ」
 優一朗が言っている事を何となく理解できるような気がして優志は小さく頷く。
「味見して何を足せば好きな味になるかが解れば一人前だな」
まだ香苗が書いてくれているノートのレシピ頼りっきりの優志は、自分は一人前には程遠いなと思う。
「鍋やカレーやシチュー、スープなんかは比較的適当な分量で済むけどな」
「そうなの?」
「カレーなんかは大雑把な材料でもそれなりのものはできるが、少量の料理になるとそうはいかなくなるーーこれも結局は比率の問題なんだが、10㎏の塩が必要で1g不足ならの味の違いは感じられないが、5gの塩が必要なのに、1g足りないと大きく味が変わるからな」
「だから量が少ないものを作るときは味付けを覚えるまではきちんとはかる必要があるんだ」
「実験かぁ」
「錬金術も台所から生まれたって話もあるぞ」
「錬金術?」
 たまに漫画で出てくるキーワードに興味を示す優志に優一朗は笑った。
「錬金術も魔女の薬も似たようなもので、科学的な合成で何か人間の身体に効果のあるものを作り出そうという発想は同じだよ」
 錬金術は化学合成で金を作り出そうとしたり、不老不死の薬を作り出そうとしていたんだからという優一朗に、魔女の薬は? と優志が訊ねた。
「魔女の薬は…ありゃ漢方薬の調合だな」
「漢方薬?」
「そう。薬効成分があるハーブやスパイスを調合してるんだから西洋も東洋も昔はやっている事は同じだよ」
「昔は?」
「西洋では中世に魔女狩りが長い間行われていたからな。今の世の中で魔女狩りがあったら母さんも魔女認定されるぞ」
 優一朗の言葉に、優志は驚いた表情になった。
「母さんはハーブやスパイスを調合して料理に使ったりするからなーーあと、俺たちの世代は子供の頃に受けたBCGっていう予防接種の痕もあるから、これも魔女認定される要素だな」
「予防接種の痕がなんで?」
「怪我の痕や痣なんかは悪魔と契約した印とされていて、これも魔女狩りの対象とされていたんだ」
「魔女狩りされたら火あぶりの刑だったよね?」
 不条理な中世の風習に優志は不愉快そうに言うと「現代の日本に生まれてよかったと俺はしみじみ思うね」と優一朗はしみじみと言った風に呟いた。

「確かに魔女の薬に見えるな」
 優一朗の話題が気になったのか、キッチンの棚を眺めて優志は妙に納得していた。
イモリの黒焼きこそないが、乾燥ハーブやスパイスの瓶が所狭しとキッチンの棚に並んでいる。香苗が料理やお菓子作りのために集めたらしいが、優志にはその用途が全く分からない。
「その辺のスパイスはスパイスカレーなんかに使うものよ」
 適当にスパイス瓶の蓋を開けてかおりを嗅いでいる優志に香苗が声をかけた。
「なんかこれ和菓子のにおいがする」
 スティック状の木の皮のにおいをかいで優志がそう言うと香苗は笑った。
「シナモンは日本ではニッキっていう名前で、確かに和菓子の風味付けに使ったりするわね」
「へぇ…日本でもスパイスを使うんだ」
ハーブも使うわよ、と言って香苗は冷蔵庫から数種類の緑の葉を取り出して優志に見せた。
「これは大葉、こっちは木の芽…山椒の葉、それからミント…日本ではハッカという名前で古くから使われているわね」
「ただの雑草に見えるけど…」
「雑草と言うより正確には薬草ね」
「薬草…」
 香苗の言葉に「魔女」という言葉が優志の頭に浮かぶ。
「効能はいろいろだけど、肉や魚の臭みを消したり、殺菌力が強いものは食中毒防止に使われる事が多いわ」
 そう言って香苗は数種類のスパイスの瓶を優志の前に並べる。
「カルダモン、グローブ、シナモン、クミン…これらをギーという無塩の精製されたバターでゆっくり炒めて、玉ねぎやカットトマトとカレースパイスなんかを加えて煮たものがスパイスカレーの元になるわよ」
「なんかカレーになるなんて信じられないな」
 スパイスと言っても優志にすればよく分からない植物の種である。
「薬効があるのはハーブやスパイスだけではないわよ」
 そう言って香苗は大根を優志に見せると、優志は不思議そうな顔になる。
「ただの大根に見えるけど…」
「大根はビタミンCが豊富だし、たんぱく質を分解する酵素が強いから消化の助けになるの。お刺身に大根のツマが添えられているのは飾りではなく、大根の辛み成分には殺菌効果があるのと、お刺身の消化を助ける為なんだから残しちゃいけないものなのよ」
「ただの飾りだと思ってた」
 小さい頃から食卓で目にする事が多い食材にそんな効果があるのを知らなった優志は、大根を手に取ってしげしげと眺める。
「根のモノ…地中で育つお野菜…いも類なんかは身体を温める効果があるし、逆に夏野菜と呼ばれるトマトやキュウリ、ナスなんかは身体を冷やす効果があるわ。自然ってよくできていて、暑い季節にには身体を冷やす効果がある野菜が収穫時期になるし、寒い季節には身体を温める効果がある野菜が収穫できるの」
「他にもそういうのあるの?」
 生姜やにんにく、わさびは殺菌作用が強く、臭み消しに使うことも多いと言うと、香苗は「食べ過ぎると薬効が強すぎてお腹を壊す」と付け加えて笑い、薬膳では、食べ物にはいろいろな効果があると信じられていて、育つ場所だけではなく、その色によっても効能が違うのだという。
「食べ物によって命が養われる。つまりね食べる事は生きる事なの」
「人間は全生物の中で唯一料理をする生き物よ」
 香苗の言葉に優志が頷く。
「料理は愛よ。大切な人の命を支える愛。自分自身の命を支える愛。愛の無い料理は私に言わせればただの餌」
 そう言って、香苗は少し過激だったかしら? と言いながら舌を出した。
「豊かな食生活は心を豊かにしてくれるわ。贅沢でなくていいの。大切なのは食べる人の幸せを願う愛情」
 どうやらそれが香苗の料理哲学であり、信念であるようだった。
「優ちゃんも料理を続けていけば、この世の中には美味しい毒、まがい物の食品がたくさんある事に気が付く事になると思うわ」
「…」
「私は優ちゃんに本物を教えてあげたいの。本物を知っていれば、何がおかしいのか気が付く事が出来るから」
 香苗は優しいけれど強くそう言ってほほ笑んだ。

「はい。これが今週の食費ね」
 数日後、空の弁当箱を出した優志に香苗がそう言って封筒を差し出した。中には千円札が5枚。封筒を受け取って不思議そうな顔になる優志に「これから自分の分の料理の材料の買い出しも自分でする事」と言った。
「わかった」
「とりあえずは、調味料は家のものを使っていいから、お野菜とかお肉なんかの食材は予算内で買う事」
「買い物はいいけど、食べたいものの料理に何を揃えたらいいのかがわからないものも多いんだけど…」
 そう言う優志に香苗はにっこりとほほ笑む。
「大丈夫。何が食べたいのか言ってくれたら、今まで通り料理のレシピはノートに書いてあげるから」
「わかった」
 ひと安心といった表情になって優志は頷いたが、今夜、自分が何を食べたいのか思い浮かばなくてすぐに困った顔になる。
「毎日の事だし、何を食べたいのかわかんなくなってきた」
「あら、主婦あるあるね」と言って香苗は笑う。
 毎日3食365日献立を考えて料理を作っているみんなはすごいなと思わずにはいられない優志だった。
「そういう時はスーパーのおすすめを見て作るものを決める手もあるわよ」
「スーパーのおすすめ?」
 何のことか理解できず優志は聞き返す。
「旬の食材で特売の食材がスーパーの目立つところに置いているから、その材料使った料理を考えるって方法よ。旬のものなんかはお値段も安いし、特売の食材を組み合わせれば食費を抑える事ができるの」
 そう言いながら香苗はスーパーのチラシを優志に見せた。
「今日はお野菜の特売日だから、いろんな料理に使うじゃがいもや玉ねぎ、にんじんは買って置いた方がいいわね」
 何が高くて何が安いのかまではまだ理解できず、優志はベテラン主婦のアドバイスに素直に耳を傾ける。
「まだ優ちゃんの冷蔵庫の中には大したものが入っていないから、他にはたまごも買っておいた方がいいわね」
「肉…魚…」
 料理の知識もレパートリーも少ない優志はチラシを見ながら頭を悩ませる。
「スーパーに行けば、料理のレシピカードが置いてあったりするわよ」
「レシピカード?」
「そう。いろんなお料理の写真と材料や作り方が載っているカードが無料で置いてあるから、おいしそうだな、食べたいなと思うもののカードをもらって、それを参考に材料を揃えたりする手もあるの」
 それを聞いた優志はそれならなんとかなりそうだと思い、何も決めずにスーパーに出掛ける事にする。
 丹羽家から徒歩10分ぐらいのスーパーに到着すると、優志はさっそく店内に置いてあるというレシピカードを探した。
「いっぱいあるなぁ」
 さまざまなおいしそうな料理の写真が載っているカードを見ながらどれにしようか悩む優志は、目に付いた青椒肉絲のレシピカードを手に取った。
「…ええと、牛肉にピーマン、たけのこ…」
 レシピカードを頼りに、書いてある食材をレジかごに入れてから、香苗がアドバイスしていたジャガイモや玉ねぎ、にんじん、たまごなども買う事にした。
 レジで会計を済ませ、食費の入った封筒の中身が一気に減ったので少し心配になる。
「これだけあればなんとかなる…かな?」
 まだどのぐらいの食材が必要なのかがいまいちわかっていない優志だったが、ずっしりと重い買い物バックを持ち上げると、その重みに安心感を覚え家路についた。

 食材を自分買うようになって3日後、ちょっとした問題に優志直面していた。レシピカード通りに食材と揃えようとすると、欲しい食材があるのに予算が足りないのだ。
「どうしよう…」
 買い物を断念して優志はいったん帰宅してすぐに香苗にアドバイスを求めた。
「今、何の食材が残っているの?」
 香苗にそう訊かれた優志は自分の冷蔵庫の中身を確認する。
「ジャガイモ、にんじん、たまねぎ、ピーマン、トマト、キャベツ、ナス、ズッキーニとかいう野菜とミンチ肉にたまご。米はまだある」
「それだけあれば十分じゃない」
「でも、このレシピカードに書いてある材料じゃないから…」
 そう言いかけた優志に香苗は「予算内で料理を作る事、今ある食材で料理を考える事も覚えないと」と言って笑った。
「この材料で何が作れるかわかんないよ」
「組み合わせの問題。ジャガイモ、玉ねぎ、ミンチ肉があるからコロッケが作れるし、ハンバーグも作れるわよ。トマトやナス、ズッキーニがあるから他の材料と組み合わせて夏野菜のカレーにもなるわ。キャベツとピーマン、にんじんなんかを炒めて野菜炒めにもなるわね」
「…言われてみれば」
「物事は柔軟に考えなきゃ。ある食材を使わず次から次へと新しい食材を買っていたらお金がいくらあっても足りないし、使いきれなかった食材も傷んで無駄にする事になるわよ」
 香苗の言葉に優志は黙って頷くしかなかった。
「食材によって日持ちが違うものがあるから、それも考えなきゃね」
「冷蔵庫に入れてたら大丈夫じゃないの?」
 優志の素朴な疑問に香苗は首を振った。
「お肉やお魚は傷みやすいから、買ったらすぐ調理するか、下処理して冷凍しなきゃ」
「お肉…このミンチ肉…ダメかな?」
 優志が冷蔵庫から使いさしのミンチ肉のパックを取り出して香苗に見せる。
「…ミンチ肉は特に傷みやすいのよ」と言いながら香苗はミンチ肉の色を見た後、ラップを外してにおいをかぐ。
「ギリギリ食べられる感じね。よく火を通して、スパイスをしっかり使えば大丈夫だと思うわ」
「スパイス…」
 スパイスの知識が全くない優志は、ミンチ肉とスパイスを使った料理で自分が何を作る事が出来るのか見当もつかなかった。
「優ちゃんが作れそうなのはハンバーグかカレーかしらね。トマトとナス、ズッキーニも早めに食べた方がいいから、サラダやラタトゥイユなんかを作るのもいいと思うけど」
「ハンバーグ…簡単?」
「ミンチ肉とみじん切りにした玉ねぎ、パン粉、たまご、スパイスと塩コショウを入れて、捏ねて焼くだけよ」
 簡単そうに香苗は言うが、ハンバーグだけでは寂しいので何品も作るとなると優志にすれば大仕事である。
「カレーにする…」
 最近カレーばかり食べている気がするが、カレーなら何品も作らずに済むので楽な方を選んだ。そんな優志に何も言わず香苗はスパイス棚からオールスパイスとナツメグが入った瓶を取り出して優志に差し出す。
「お肉の臭み消しに使う代表的なスパイスよ。お肉を炒める時に軽く振ればいいわ」
「…・ありがとう」
 決められた予算内で食材を無駄にする事なく、毎日料理を作る事が非常に大変だという事を理解し始めた優志であった。
「カレーって偉大だよな」
 カレーに使う野菜の準備をしながら優志はしみじみ思った。加熱して食べる食材なら何でも適当に切って入れれば美味しくなるし、カレーさえ作れば、ごはんでもパンでもいいし、茹でたスパゲッティなんかとでも合うので何品も料理を作る必要もなくて済むので料理初心者にとってありがたかった。
 ミンチ肉を炒めながら香苗に教えられた通りにオールスパイスとナツメグを振りかけ、優志はその少し甘いスパイシーな香りに驚く。
「なんかおいしそうなにおいになった」
 肉独特の生臭さが消え、肉とスパイスの混じったおいしそうな香りが鍋から漂い始める。
 野菜を加えて煮込んだ後、カレールーを投入してカレーが出来上がった頃、優一朗がキッチンに顔をのぞかせた。
「またカレーを作ってるのか? ほんとカレー好きだな。月の半分はカレーを食べてないか?」
 呆れ気味にそう言った優一朗に反論できず優志は困り顔になる。
「カレーばっかり食べてると黄レンジャーになるぞ」
「黄レンジャー?」
 優一朗が何のことを言っているのかわからず優志は聞き返すと、その会話を聞いていた香苗が吹き出した。
「優一朗さん。優ちゃんがそんな古いキャラクター知っている訳ないじゃない」
「おう、そうだったな」
とぼけるように優一朗はそう答えると、ダイニングに消えた。
「何のこと?」
 不思議そうにつぶやいた優志に香苗が笑いながら黄レンジャーが大昔の戦隊もののヒーローのキャラクターで、大好物がカレーでいつもカレーを食べていたという事を説明する。
「へぇ、そんなのが居たんだ。確かにカレーは黄色いけど、キャラクターのイメージカラーと関連付けるなんて安易だなぁ」
 素直な感想を述べる優志に「昔はわかりやすいお約束がたくさんあったのよ」と笑う香苗。
「戦隊ものなら赤は熱血タイプのリーダーだし、青はクールなサブリーダなんてのが多かったわね。ピンクは可愛らしい女の子は定番」
 言われてみれば、優志が好きな漫画などは今も同じような設定に思い当る。
「黄色はビタミンカラーだから、元気なイメージもあるわよ。根暗な人のイメージカラーが明るい黄色って事ないでしょ」
「確かに…」
「カレーの黄色はターメリック…日本だと、うこんって言う名前の植物で、肝臓に良いって言われてるわ。お酒をよく飲む大人の人はうこんが入ったお茶やドリンクを飲む人が多いわよ」
「へぇ。カレーってそんなのが入ってるんだ」
「インドでカレーは日本のお味噌みたいな感じの食べ物だから、日常的にいろんな料理に使われているわよ」
「いろんな料理って、例えば?」
 優志はカレーライスやスパイスカレーなどのとろみのあるスープタイプのカレーしか思い浮かばない。
「炒め物に使ったり、ピクルスを作るときに入れたりするわね」
「え~カレー味ばっかり? 飽きそうだけどなぁ」
「優ちゃんは小さい頃からお味噌汁食べてるけど飽きた?」
 香苗にそう訊かれた優志は首を振る。
「でしょ。炒め物にお味噌を使ってみそ炒めにしたり、味噌漬けの肉や魚料理もあるしラーメンだって味噌ラーメンがあったりするわよね?」
「たしかに」
 そう言われれば確かに日ごろ食べている料理に味噌を使っている料理は多い。
「日本は発酵食品の食文化の国だから、外国から来たお客様は日本の空港は味噌や醤油のにおいがするっておしゃる方が多いわよ」
「…へぇ。じゃあインドはカレーのにおいがするのかな?」
「カレーかどうかはわからないけれど、スパイスの香りがするのは間違いないでしょうね」
 キッチンにカレーの香りが立ち込めているせいか、おいしそうな香りの空港にいつか行ってみたいと思う優志だった。

◆Episode 2 『美味しい毒?』

 自炊をするようになって少しずつ料理レパートリーを増やしていた優志は、できるだけ調理時間を短くする事が出来ないかと考えていた。
「料理の時間が短くなれば、その分遊んだり漫画を読む時間が増えるもんな…」
 料理に時間を取られる分、みんなより遊ぶ時間が短くなるのが不満だった。そんなある日、本屋で優志は「時短料理」と銘打つ料理本を見つけた。
「へぇ、こんな本があるんだ」
 パラパラとページをめくると、電子レンジを使った料理の時間短縮方法が掲載されていた。
「電子レンジで下茹で時間短縮の裏技…なるほどその手があったか」
 電子レンジを下茹でに使う発想がなかったので、優志は素直に感動する。電子レンジを活用すれば料理を作るのが楽になりそうだと思い、本の値段を確認して黙って元の場所に戻す。
「高いから買えないけど、アイディアはいただき」
 小さく呟いて本屋を後にした優志は早速新しい調理方法を採用することにした。
「野菜も電子レンジで熱を通せばいいみたいだし、簡単で楽だよな」
 とりあえずポテトサラダを作る事にした優志はジャガイモの皮をむいて適当な大きさに切ると、耐熱ボウルに放り込んでラップをかけた。
「後は電子レンジでチンするだけ♪」
 鼻歌が聞こえてきそうな感じで優志がオート加熱のスタートボタンを押すと、電子レンジは低いモーター音を響かせながら過熱を開始する。
「早い早い」
 待つこと数分で加熱が終了したメロディがキッチンに流れると同時に、電子レンジの庫内からポンと何かがはぜる音がした。
「?」
 何だろうという感じで電子レンジの扉を開けると、耐熱ボウルにかけていたラップが破れ、蒸気が上がっていた。
「ラップが破れたか…熱は入ったみたいだからまあいいか」
 あまり気にする事はなく、火傷しないように気をつけながらジャガイモが入った耐熱ボウルを取り出した。
「? 乾燥してる?」
 熱は一応通っているようだったが、表面が乾燥してパサパサ状態になっているジャガイモを見て優志は首を傾げる。
「どうせ潰すし、気にしないでいいかな」
 ジャガイモが熱いうちにつぶさないといけないと教わっているので、さっそくマッシャーでジャガイモをつぶし始める。
 刻んだハムやミックスベジタブルを加え、マヨネーズを混ぜ始めた段階で手が止まった。
「いつもより滑らかさが無いよな…なんかボソボソしてるし」
 表面が乾燥したジャガイモが原因かどうかの確信が持てないまま、優志は次の料理に取り掛かった。
 本屋で立ち読みした本に載っていたレシピをの記憶を頼りに、浅い器にハムを敷きその上に卵を割入れもう一枚ハムを重ねると優志はそれを電子レンジに入れた。
「電子レンジでハムエッグとは考えたよな~」
 そう言いながらスタートボタンを押した優志だったが、数分後再び電子レンジの庫内から破裂音を耳にする事になった。
「何が起きたんだ?」
 電子レンジの扉を開けると、庫内全体にバラバラに飛び散ったたまごの断片に優志は戸惑った様子で立ち尽くす。
 しばらくどうしていいのかわからず茫然としていた優志は、我に返ってハムエッグになるはずだったものが入った器を取り出した。
「これは…ちょっと…」
 料理とは言えない状態になった原因の追求は後にして、とりあえずたまごの破片で汚れた電子レンジの庫内の掃除を始めたが、こびりついたたまごに想像以上に悪戦苦闘する事になった。
「本では綺麗でおいしそうなハムエッグになっていたのに…」
 嘘を書いている本が売られている訳ではないはずなので、失敗の原因が理解できず優志は頭を悩ませていた。
「そもそも何で爆発するんだ?」
 汚れたままでは香苗に叱られるので、とりあえず電子レンジの中を綺麗にした優志だったが、釈然としない気持ちになる。
 手抜きをしようとした事が両親にバレたら叱られる気がして相談できずにいた優志は、参考にした時短料理本に解決策が書いているかもしれないと考え、明日確認しようと心に決めるのだった。

「…あ、黄身にフォークや竹串などで数か所穴をあけないと爆発します…って書いてあった」
 たまご爆発事件の翌日、下校時に立ち寄った本屋で例の本を立ち読みしていた優志は注意事項の記載を見つけた。
「なんかよく分からないけど、そういうものだったんだ」
 電子レンジの発熱原理や、たまごが何故爆発したのかを訊けば優一朗が教えてくれそうだったが、そこまで知りたい訳ではない優志は、注意事項を見落としていただけなのがわかって自分なりに納得する。
「いろいろ電子レンジだけで料理があるよな」
 まだ電子レンジで時短料理を作りたいのか、優志は懲りずに本のページをめくり自分に作れそうなレシピを探す。
「ほうれん草とベーコンのバターコーン…これなら作れそうだな」
 レシピの項目に注意事項が無いのを確認して、作り方を頭に入れると、本をそっと棚に戻して帰路についた。
 帰宅して優志は記憶が薄れないうちにと、覚えたばかりの料理に取り掛かる。
 ほうれん草の束をよく洗ってざく切りにして、耐熱ボウルに他の材料を全て入れてラップをかけ、スタートボタンを押す。
「今日は大丈夫だよな…」
 そう言いながら心配そうに電子レンジの中の様子を見守っていた優志は、何事もなく加熱終了のアラームの音を聞いて胸をなでおろした。
 電子レンジから耐熱ボウルを取り出しラップを剥がそうとすると、手元でラップが爆ぜて優志は驚く。
「びっくりした~。なんなんだよ…」
 ラップをふんわりかけずに、しっかり容器にかけているのが破裂の原因である事を優志が知るのは後の事であった。
 破れたラップをボウルから引きはがし、中の食材の状態を確認して優志は首を傾げる。加熱済みのほうれん草の表面はしなびているが、ボウルの底にはほうれん草から出たと思われる水分が溶けたバターと混ざってべちゃべちゃな状態になっていた。コーンの方は問題ないが刻んだベーコンも乾燥している部分としっとりしている部分があって、本で見た料理とは何かが違っている。
「味は問題ないんだけど…なんか違うよなぁ」
 違いの原因がよく分からす優志は首を傾げる。不味くはないが、食感にムラがあり美味しい訳でもない。
「何が違うんだろう?」
 よくはわからなかったが、優志はとりあえず悩むのをやめて空腹を満たす事にするのだった。

「電子レンジって便利だよな」
 最近、電子レンジでの時短料理がマイブームになった優志は、学校で和也たちにそんな話をしていた。
「弁当とか温めるのに便利だし、コンビニで買った電子レンジで温めるタイプのラーメンなんかお店で食べるのとかわらないクオリティだしな」
 普段コンビニ食を食べる事が多い和也がそう言うと、拓真が「コンビニのレンジで温められるレトルトのシチューやカレーもうまいよな」と言い出した。
「そんなのもあるんだ」
 優志にはなじみのない話である。
「コンビニのプレミアムシリーズはハンバーグもうまいから、俺はビーフシチューも一緒に温めて一緒に食べるのが大好きなんだ」
「電子レンジで温めるだけなのに、本格的ですごくうまいよな」
 電子レンジで温めるだけという言葉に優志が反応する。
「そんなうまいの? 電子レンジで温めるだけで?」
「お店で食べるみたいな味でうまいよ」
 口を揃えて友人たちが絶賛するのを聞いて、優志はコンビニ食に興味を持つ。
「どこのコンビニにもある?」
「だいたい置いてあるよな」
「そうか…ありがとう」
 コンビニ食を買ったのがバレたら両親に怒られそうだが、電子レンジで温めるだけでお店の様な味だというコンビニ食がどんなものなのか気になって仕方がない優志だった。

 放課後、通学路にあるコンビニに立ち寄った優志は、冷蔵のお惣菜が並ぶ棚の前で様々な電子レンジで温めるだけの数々の商品に衝撃を受けていた。
「シチューにカレー、ハンバーグ、餃子にシュウマイ…唐揚げに肉団子…八宝菜や酢豚…味噌汁まであるんだ…」
 違う棚にはおにぎりや弁当、さまざまなパン類、パスタにラーメン、サラダ、煮物などを確認して、日々時間を削って自炊をしている事に疑問を抱く。
「買って帰って、温めるだけの方が簡単で早くてうまいなら、これで済ませたらいいのに、何でわざわざ時間をかけて料理してるんだ…俺?」
 家の方針に渋々したがっていた優志だったが、便利なものを知ってしまったせいか時間をかけて自炊する気持ちが一気に消える。
「盛り付けてこっそりパッケージを捨てればいいから、これからはこっちにしよう」
 週ごとに食費はもらっているので、コンビニ食は値段は高めではあるが食べる品数を少なくすれば、わざわざ作らなくてもなんとかなりそうだという考えになった優志は数点のレトルト 食品を購入して何食わぬ顔で帰宅した。
「それ、買ってきたやつでしょ」
 買ってきたレトルト食品を温めて盛り付けなおし、パッケージを証拠隠滅したはずだったのだが、すぐに香苗に見破られた優志は動揺する。
「…な、なんのこと?」
 とぼけてみたものの、いつも朗らかな香苗の目は明らかに怒っていた。
「見ればわかるわよ。お肉は成型肉だし、サラダはカット野菜を盛り付けたみたいだけど、明らかに工業製品の料理じゃない」
「工業製品の料理?」
 香苗が指摘している意味が理解できず優志は聞き返す。
「そう。成型肉ってのは精肉の際に出たくず肉を食品用の接着剤で固めて肉の塊にしたものよ」
「食品用の接着剤?」
「そう。昔は粘りがあるお米なんかを原料とする糊だったけれど、最近は化学合成されたものが多いのよ。科学的な分子構造は似ているけれど、人工的に合成された食べ物に生命力は無い」
 そう言ってから、香苗はため息をついて優志に説明を始めた。
「お野菜だから体に良いように思うけど、総菜として売られているカット野菜やサラダ類は傷まないように防腐剤なんかが入った水に浸けられているし、野菜に含まれる栄養分は水に溶ける性質のものが多いから、本来ある良い栄養分は流れ出て、形だけ野菜の防腐剤の塊なの」
「…え」
「レトルト食品は確かに便利でおいしく感じるけど、これも問題があってね、製造から店頭に並べて買った人の口に入るまで時間がかかっても傷まず、美味しく食べられるように様々な添加物が入っている事が多いの」
「食べ物が無駄にならないなら添加物が入っていてもいい事だと思うけど」
「甘いわね。すぐに体に異常が出る訳ではないけれど、発がん性があるものも多いのよ」
「それが本当なら騒ぎになってないとおかしいよ」
「海外ではかなり前から食品添加物の健康被害に関して研究も進んでいて問題視されているわ」
ただね…と香苗は悲しそうに言葉を付け加える。
「海外で使用が許可されている食品添加物は多くても数百種類に対して、日本では1200種類以上の食品添加物の使用が許可されているの」
「なんで?」
「正確な理由はわからないけれど、大企業がお金儲けの為に政治家を動かしている説やアメリカが自分の国では禁止になった食品添加物の廃棄処分品を日本に押し付けてる説なんかもあるわね。実際日本で売られている調味料のラベルにはなにも注意書きなんてないのに、海外では同じ商品のラベルには発がん性があるという報告がありますという警告文が付いているものも多いのよ」
「そんなのおかしいよ」
 素直な感想を述べる優志に香苗は頷いた。
「おかしいのよ。加工品のほとんどに長期的に見れば有害な添加物が飲食物に入っているし、お野菜やお肉、お魚だってかなり問題があるものが多いの」
「野菜や肉や魚? 加工品じゃないのに?」
 怪訝そうな優志に香苗は頷く。
「お野菜を育てる時に使う肥料や農薬も問題だし、植物の種の遺伝子操作をしたものの問題もあるわ」
「…」
「お肉は早く成長させて沢山お肉が採れるように成長促進剤やホルモン剤を家畜に接種させたり、狭い劣悪な環境でも病気になって死なないように抗生物質を大量に投与するケースもあるーー安いお肉なんかで売られているのはこのケースが多いわ」
「そんな…」
「輸入物の鮭なんかに多いみたいだけど、養殖のお魚にも成長促進剤を使ったり、色を良く見せたいから発色剤を使っている事も多い」
 香苗の話に優志は言葉を失う。
「うちが作れる料理はできるだけ家で作るのはその辺なのよ」
「肉や魚、野菜も悪いなら、気にしていたら何も食べられなくなるよ…」
 そう言いかけた優志の言葉に香苗は「選択と総量の問題よ」と答える。
「選択と総量?」
「そう。幸い無農薬や無添加にこだわってくれる生産者さんがいるし、一応、市販の加工品なんかには入っているものは記載しないといって事になっているから、買うときは必ずチェックして、口にする有害なものを0にはできなくても、減らす事はできるわ。添加物なんかは身体から排出されにくいから、数十年かけて蓄積して、その害が明らかになった時には手遅れって事がよくあるから、できるだけ口にしない事が大切なの。10年で毒を100蓄積するのと、毒を10000蓄積するのじゃ結果は大きく変わってくるのは理解できるわね?」
 何となく香苗が言っている言葉の意味がわかってきた優志は何故そんなことを知っているのか不思議で仕方がなかった。
「…ん? 言ってなかった? 私、今で言うリケジョだったから」
 といって香苗は笑う。
「リケジョ?」
「理系女子の事。大学では生物学系の勉強をしていたし、父さんは物理畑の人だったからね」
 ちゃんと両親が大学時代何を勉強していたのかを聞いた優志は妙に納得した。
「そっかぁ、二人とも数学得意なんだ…いいな」
 そう言う優志は理科の実験などは好きだが、数学は苦手科目である。
「繰り返し簡単な方程式や解き方のパターンを覚えればそんなに難しいものじゃないけれど…」
 方程式と聞いただけで嫌そうな表情になった優志に香苗は笑う。
「得意不得意はみんなあるから、苦手なら仕方がないから学校の勉強については強く注意はしないけれど、食べるモノに関しては健康や命にかかわる問題だから、そこは厳しくします」
 はっきり香苗に宣言されて、優志はお手軽な食事を諦めるしかなかった。
「何故、料理の時家にある調味料を使わせてるかわかる?」
「家にいっぱいあるからじゃないの?」
「違うわ。残念だけど市販の調味料も安全じゃなかったりするものがあるからよ」
「調味料も?」
 予想外の香苗の言葉に優志は驚く。
「まず人間が生きていくうえで絶対必要なお塩。お塩にもいろいろあって、海水を天日干ししたり釜でに詰めた天然成分のあら塩や結晶塩なんかもあるし、精製したり化学的に作った塩化ナトリウムなんかが一般的ね。化学的に処理されたお塩は安く作れるから販売価格も安いのよ」
「絶対必要なら、安い方がいいと思うけど…」
「ところがね、化学的に精製されたお塩には、マグネシウムなんかのミネラル分がほぼ含まれていないのよ」
「それの何が悪いの?」
「ミネラルは生物には必須の成分で、体内で合成されないから食べ物で補う必要があるの」
 初めて聞く事ばかりで優志はただ香苗の言葉に耳を傾けるしかなかった。
「昔はミネラルがたっぷり含まれているお塩をみんな使っていたのだけど、精製塩が安くて安定供給されるようになってそちらを良く使うようになったのね」
 ――その結果、必ず醤油や味噌などを作る時に塩が必要な基本調味料にも精製塩が使われるのが一般的になり、昔に比べて日本人が摂取するミネラルの総量が減ったと香苗は言う。
「ビタミンやミネラルは身体の潤滑油みたいなものだから、不足すれば当然体に不具合が出てくるわ。気日本食の基本調味料がミネラル不足なので、それを元に作られるタレや出汁の素もその影響を当然受ける事になるわ」
「日本食ではおなじみのお豆腐もそう。本物のお豆腐は、にがりっていう海水を濃縮してマグネシウムたっぷりの水溶液を大豆から採った豆乳と混ぜて化学変化を利用して凝固させて作るのだけど、今はの安いお豆腐は乳化剤が使われている豆乳を化学的に合成した凝固剤を使って無理やり固めた偽物だったりする事が多いの…・一事が万事こんな感じで、まがい物の食品が世の中に出回ってるのが実態よ」
「豆腐まで…」
 想像以上に日本の食事情は酷い事になっているらしい事に優志はショックを受ける。そんな優志に香苗は冷蔵庫から出汁ポン酢の瓶を取り出してラベルの見るように促す。
「…?」
「材料の項目に果糖ブドウ糖の表示があるでしょ?」 
 香苗の言葉に優志は頷く。
「果糖ブドウ糖はブドウ糖を化学的に処理して果糖の変化させたものなんだけど…」
 そう言いかけて香苗は、糖にも様々な種類と特性があるという知識を優志が持っていない事に気が付いて、中学生に理解できる説明を少し考える。
 厳密には違うのだけど…と前置きして、普通の岩サイズが普通のお砂糖で、ブドウ糖はそれよりも小さな石サイズ、果糖は砂ぐらいのサイズ。一番早く水に溶けるのは小さなサイズなのはわかるかしら? と尋ねた香苗に優志は頷く。
「つまり果糖は一番早く体に吸収されやすい形なのね。果糖ブドウ糖を添加すると食べ物が柔らかくなったり、他の成分の働きを良くする効果があるわ。果糖の性質上、身体に吸収されやすいから、脂肪に変化して体に蓄積されちゃうのは非常時のエネルギーとして貯金しているだけだから少しなら問題は無いのだけれど、それが大量に蓄える事になると話は別」
 肝臓に脂肪が蓄積されると肝脂肪となり、そこから肝硬変や肝がんの原因になるという。
「生物の時間で習ったかもしれないけれど、肝臓は化学工場の働きを持っていて、身体に入ってきた毒を無害なものに分解したり、食べ物などから吸収した栄養成分を原料に身体に必要な物質を合成するのが主な役割なのね。その大切な工場が脂まみれになってちゃんと動かなくなったらどうなると思う?」
「毒が分解できなくなる?」
「ご名答」
 にっこり微笑んで香苗は頷く。
「日本語には、とても大切な事柄を『肝心』って言葉があるわよね? 語源は『肝臓』と『腎臓』の事を意味しているのよ」
「肝臓と腎臓?」
「そう。肝臓はさっきも言った様に毒を分解したりする臓器。腎臓は肝臓で分解して不要になった物質とからだに必要な栄養をろ過して振り分ける大切な臓器。腎臓が壊れたら体の中は不要なものを排出できなくなってゴミ屋敷みたいになっちゃう」
 ゴミ屋敷という言葉に優志は顔をしかめる。
「本来の醤油の原料は大豆、小麦粉、塩とお水なんだけど、手軽に買えるお店に置いてあるものには果糖ブドウ糖やアミノ酸なんかの余計なものが入ってるし、お味噌なんかもそういうものが多いからね」
 余分なものはできるだけ摂取しない方がいいと思うから、うちで使っている調味料のほとんどは無添加のものなのよ。マヨネーズやドレッシングもうちで作ったものだし」
 正直そこまでこだわっていると思わなかった事に優志は驚いた。
「食べ物に関して気をつけないといけない事は山ほどあるのだけど、今話した話はほんの初歩的な物よ」
「初歩…」
 初めて知った事ばかりで、頭から今聞いた情報でさえ零れ落ちそうなのに、それが初歩といわれて、優志は戸惑う。そんな優志に香苗は笑った。
「いきなりすべてを覚えるなんて無理なんだから一つずつ覚えればいいのよ。ただしこれだけは覚えておいてーー食に関しては楽をしようとすれば毒の影が忍び寄って来るって事」
 まさにそれをしようとしていた優志は、すっかり冷めてしまったレトルト食材に目をやり「…これどうしよう」と困った表情になる。
「とりあえず買ってきたレトルト食材に関して、捨てるのはもったいないから食べていいけど、これからは気をつけてね」
 それを聞いて料理を温めなおし、優志はようやく食事にありつくことができたのであった。

◆episode 3 『料理は爆発だ?』

 自炊し始めた優志にとってハードルが高く感じてまだ挑戦していない料理がいくつかあった。それは炒飯などの中華と揚げ物類である。
 どちらも大好きな食べ物だったが、よくテレビなどで作るのが難しいと言っているのを聞いていたし、中華も揚げ物も多くの油を使うのでその扱い方がよくわからないというのが理由だった。
「また本屋で立ち読みするか、母さんに教えてもらうか…」
 本屋で度々立ち読みするのは気が引けたし、メモを取る訳にはいかないので情報をすべて覚えきれないというデメリットもある。一方、香苗に教われば、コツや注意事項も事細かに教えてもらえるのはいいのだが、格好を付けたいのに何も知らない事だらけの自分を香苗に見せるのがなんとなく嫌だと思う微妙なお年頃の優志であった。
「コロッケとかしばらく食べていないよなぁ。炒飯や餃子なんかも食いたいし…」
 そう思うと、食べたくて仕方がなくなってきた優志はとりあえず炒飯だけなら、記憶を辿ればなんとか自分ひとりでも作れそうな気がして、入っていたものを書き出す事にする。
「ごはん、たまご、ねぎ…あと何が入ってたっけ?」
 改めて思い出そうとするが、その時によって入っていた具材が違っていた気がした優志は、とりあえず細かく刻んだ具材がたくさん入っていたような気がして、使えそうな具材が何かないかと自分の冷蔵庫の中身を確認した。
「にんじん…たまねぎ、ピーマン、ハムは使えそうだな」
 使えそうな使いかけの食材を取り出し、とりあえず刻む事にする。
「材料を刻んでごはんと炒めたら出来そうだよな」
 料理の手順を考えて、とりあえず思いついた方法で作ってみる事にする。
 ――油をフライパンに引いて、優志は刻んだ食材とごはん、たまごを入れて炒め始めた。
「…あれ?」
 焦げ付き防止に油を入れたにもかかわらず、いくつものごはんの塊ができて、刻んだ食材と上手く混ざらない。一生懸命混ぜ合わせようとするがたまごは細かくそぼろ状態になるし、刻んだ食材は焦げはじめ、完全に炒飯を作るのに失敗してどうしようもなくなったのを優志は認めるしかなかった。
「お世辞にもうまいとは言えないな…」
 いつも食べていたパラパラ炒飯とは程遠いものを見つめ、とりあえず味見してみて優志は深くため息を吐く。
「足りないのは塩と胡椒だけじゃないな?」
 失敗した原因や味付けに何が足りないのかもわからず、優志はひとり頭を悩ませる。
「足りないのは旨味?」
 うまみと言っても和風のかつおや昆布の出汁ではない気がするし、洋風のコンソメでもない気がする。
「スパイスもちょっと違うよな」
 優志は失敗した炒飯になるはずだったものを食べながら、足りないものを考えるが答えは出ない。塩と胡椒で味付けしたものの、美味しくなかったので冷蔵庫から香苗特製のマヨネーズを出し、失敗炒飯にかけて味を誤魔化しなんとか完食した優志だった。

「うちの炒飯?」
 翌日、休み時間にいつもの友人たちに家の炒飯には何が入っているのかを優志は訊ねた。
「うちは冷凍食品の炒飯が多いよ」
 和也からは想像通りの返事が返ってきて、拓真からは「ハムやミックスベジタブル」という答えが返ってきた。
「炒飯にミックスベジタブル?」
 不思議そうな顔になる優志に拓真は頷く。
「焼きめしって適当なあまりものを刻んだのが入っているイメージがあるけど…」
 そう言った拓真に和也が「焼きめしと炒飯の違いって?」と言い始めた。
「そう言われてみれば…」
 入っている具材の違いだとか、家で作るのは焼きめしでお店や冷凍食品などが炒飯なのかもとか思いつく限りの事を口にするが、その場に明確な答えを知る者はいなかった。
 疑問が増える形になった優志は、自己解決は諦めて炒飯の作り方を香苗に教えてもらう事にする。
「…ん? 炒飯と焼きめしの違いは何かって?」
 優志に訊かれた香苗は調理工程の違いなのだと教えてくれる。
「炒飯を作るときはまずたまごを焼いてから他の具材やごはんを炒めるんだけど、焼きめしは書いて字のごとく、先にご飯を焼く…というか炒めてから具材を足して、最後にたまごを加えるの」
「それだけ?」
「そ、それだけの違い」
 そう言うと香苗は口元に笑みを浮かべて、「炒飯や焼きめしとピラフの違いは何だと思う?」と優志に質問してくる。思わぬ難題に優志は頭をひねった。
「ピラフはね、米と具材に調味料を加えて炊いたものの事を言うのよ」
「国とかで言葉が違うだけで全部一緒のモノの事だと思ってた」
 素直に関心した様子の優志はそう笑うと、丹羽家の炒飯の作り方を知りたいと香苗に伝える。
「炒飯ね…まずは初心者向きの簡単な方がいいかしら?」
「初心者向きとか、そうでないとかあるの?」
「炒飯ってごはんをパラパラに仕上げるのが難しいから、初心者でも簡単に作る裏ワザみたいな方法があるの」
 それを聞いた優志は昨日の塊になったごはんを思い出して、その提案を採用することにした。
「じゃあ、まず、材料から用意しましょうか」
 香苗はそう言うと、優志にごはんを冷えたごはんとたまご、その他の具材を刻むように指示をして、大きな鉄製の中華鍋の用意を棚から出してくる。
「炒飯を作る時に使う油は、中華のお店なんかだとラード…豚の脂が多いのだけど、うちではごま油を使うのよ」
 そう言って調理台にごま油を置いた香苗は、優志にボウルにたまごを割入れて溶き卵を作る様に指示をする。
「溶き卵ができたらそこに冷めたごはんを加えて、たまごご飯を作る要領でよく混ぜ合わせて」
「?」
 疑問符を飛ばしながらも優志は黙って指示に従った。
「刻み終わった具材は違う器に入れたわね…じゃあ中華鍋をコンロにかけて強火で熱して、多めのごま油を入れて中華鍋全体に馴染ませて」
「鍋から煙みたいなのが上がってきたよ」
「たまごご飯を流し入れ、バラバラになる様にこの鉄のお玉を使って炒めて」
 香苗の言葉にしたがって優志は大きな鉄製のお玉を受け取り、たまごご飯を炒めだした。
「おたまでごはんの塊を叩くようにしながら炒めると、塊が壊れてくれるから」
「本当だ…」
「はい、刻んだ具材入れて炒める。中華の炒め物は強火で素早く火を通すのが美味しく仕上げるコツ。もたもたしてると焦げるわよ」
 それを聞いた優志は慌てて具材を中華鍋に加える。
「刻んでいるから具材にはすぐに熱が通るから、次は中華調味料を少量のぬるま湯で溶いたスープを鍋肌へ流し入れて、全体に味をなじませるように炒めて」
 そう言って香苗は中華調味料のスープの入った器を優志に手渡す。それを片手で受け取った優志はすぐに中華鍋の中に入れて混ぜ合わせた。
「最後に塩コショウで味を調えて、余分な水分が飛んだら完成よ」
 馴染みのあるおいしそうな炒飯が中華鍋の中で出来上がっていた。
 器に出来上がったばかりの炒飯を盛り付けながら優志は、さまざまな疑問を香苗にぶつける。
「たまごごはんにしたのはどうして?」
「ごはん粒をたまごでコーティングすれば、ごはんの粒同士がくっつきにくくなるから、それをいためたらパラパラごはんを簡単に作る事ができるから」
「最後に入れたスープって何のスープ?」
 その質問に香苗は化学調味料無添加と書かれた中華調味料の缶を優志に見せた。
「中には半練り状態のペーストが入っていて、中華でよく使われる動物やシーフードなんかの旨味成分と生姜なんかの香味野菜のうまみが凝縮された調味料よ。こういうのが無いときは鶏がらスープの素っていうお出汁の調味料を入れても中華風の味に仕上げる事が出来るわ」
「このまま入れちゃダメなの?」
「構わないけど、全体にまんべんなく味が付きにくいから、ペースト状より少し柔らかくしてあげた方が味付けのムラが出来にくいわ」
 ベテラン主婦の説明に優志になるほどと思わずにはいられなかった。
「中華の炒め物の肝は火力。食材に素早く熱を通すと、炒飯なら表面はパラパラだけどごはん自体の水分は保つことができるし、野菜炒めなんかだと、お野菜なんかに熱は通っているけれど、しゃっきりした仕上がりになる…これをゆっくり加熱してお野菜に熱を入れるとお野菜から水分が流れ出てべちゃべちゃでお野菜はシナシナの食感が悪い野菜炒めになっちゃうわ」
 優志は学校給食に出てくる野菜炒めの状態を思い出していた。
「あれ炒め方の違いだったんだ…」
「給食室で作るのって大量だから、仕方がないわよ」
 香苗にそう言われ、そういうものなんだと納得するしかない。
「もう少し優ちゃんがお料理が上手になったら、溶き卵でごはんをコーティングせずに作る炒飯の作り方を教えるから、まずは今日教えた方法をマスターしましょうね」
「わかった…」
 久しぶりの美味しい炒飯にありつける事になった優志は笑顔で頷くのだった。

 炒飯をきっかけにして、ハードルが高いと避けていた料理もコツを知ればそんなに難しくない事を知った優志は、炒飯と並んで食べたかった揚げ物にも挑戦しようと思い始めていた。
 自分の想像で調理すると失敗料理を作り出す事にようやく気が付いた優志は、自分の小遣いで本屋で作りたい料理の手順が写真付きで載っている本を購入する事にした。
 大好きな漫画やゲームを購入する事が出来る数が減る事になるが、失敗して不味い料理を食べるよりマシだと思ったらしい。
「やっぱ写真付きの方が解りやすいよな…」
 本屋の料理本コーナーに並んでいる中で、参考になりそうな好みの本を数冊選んで購入した。
「コロッケ…エビフライ…とんかつ…唐揚げ…」
 食べたい揚げ物がたくさんあるので、料理本の一冊はいろんな揚げ物の作り方が載っているものを選んでいた優志はページをめくりながら何を作ろうか迷っていた。
「コロッケか…唐揚げか…」
 少し悩んだ後、買い物に行かなくても家にある材料で作れそうなコロッケに決め、レシピ本を見ながらコロッケつくりを始める。
 とりあえずコロッケのベースになるジャガイモの調理を始めた。
 まずジャガイモの皮をむき、適当な大きさに切ったら小鍋で茹で、その間に玉ねぎをみじん切りにしておく。
 キッチンに置いてある道具や調味料の場所も覚えたせいか、最初の頃に比べたら段取りよく調理作業が出来るようになっていた。
 茹であがったジャガイモを潰して粗熱を取り、刻んでおいた玉ねぎやミンチ肉を捏ねて小判型に成型すると、小麦粉、溶き卵、パン粉をまぶして並べる。
「順調順調」
 レシピ本を見ながらとは言え、スムーズに作業を進められたことに気を良くする優志だった。
「鍋に油を入れて加熱して、そこに揚げ物を入れたらいいんだな」
 レシピ本を確認しながら鍋に油を注ぎ入れ、コンロに火を入れた。
「後はコロッケを入れるだけ」
 そう言うと優志は油の入った鍋に成型した生のコロッケを次々と入れた。
「…あれ?」
 油の中に入った生コロッケは鍋底に沈み、テレビなどで見る揚げものを揚げている時に出る気泡が全くでない事に首を傾げた。改めてレシピ本を確認するが、レシピ本の写真のコロッケからは気泡が出ている。
 火力が弱いのかと強火にして様子を見ているとコロッケから次々と気泡が現れ始めた。ほっと胸をなで下ろしたのもつかの間、気泡が出る勢いが激しくなり、突然コロッケが爆発してバラバラになった。
 何が起きたのか解らず優志はパニックになる。
「うわわ…どうしよう」
 揚げ油の中で粉砕したコロッケの中身が浮き沈みしているのを見て、慌てて揚げ物用の網でそれらをすくいあげて器によける。
 器に山盛りになった揚げマッシュポテトを見つめながら、爆発の原因が解らず見落としている項目が無かったか慌てて確認するが、何が問題だったのか理解できない。
「どうしたの 優ちゃん?」
 鶴の恩返しではないが、作っているところを覗かないでと言われていた香苗は、立ち尽くす優志が気になったのかキッチンの入り口から顔をのぞかせて声を掛けた。
「…これ何?」
「…」
 答えない優志を気にする事なく、香苗はキッチンに入ってきて山盛りのコロッケの残骸を確認して苦笑いを浮かべる。
「これもしかしてコロッケ?」
「…」
「さてはコロッケを揚げてたら爆発したな」
「!」
 香苗の指摘が図星だったので、優志は驚いた表情になると、「揚げ物初心者あるあるよ」と言って香苗は笑った。
 調理台の上に置かれたレシピ本を目ざとく見つけると、手に取ってパラパラと内容を確認した香苗は「本当にこの通りに作った?」と優志に確認する。黙って頷いた優志に香苗は笑い出した。
「本に書いてある油の温度通りにしなかったでしょ?」
「…温度?」
 優志はそう言うとレシピ本を確認した。
「中温180℃前後で…って書いてある」
 油の温度が重要だと思っていなかった優志は、温度記載を読み飛ばしていた。
「コロッケの場合は油の温度や、コロッケの水分管理なんかも大切よ」
「…」
 優志は反論できず黙り込む。
「新しい事にチャレンジしようっていう志はえらいと思うわよ…」
 内心かなりへこんでいた優志に香苗は慰めるようにそう言うと、「これはもうコロッケとしては食べられないからポテトグラタンにでもしたら?」と、失敗したコロッケの救済策を提案した。
 見た目はぐちゃぐちゃだが食べられない事は無いので、優志は香苗の提案に素直に応じる。
「失敗の原因はいろいろあるんだけど…揚げ油はしっかり温度を上げてから推奨温度になってから食材を入れる事。
油の温度は食材を大量に入れると急激に下がっちゃうからーー鍋の大きさと油の量を考えて一度にたくさん上げようとするのも失敗の元。油の温度は出来るだけ同じに保つように心がけてね」
 揚げ物がそこまで気にかけないといけないものだと思っていなかった優志は困り顔のまま香苗のアドバイスを黙って聞いていた。
「それと具材の水分が多いと、熱した油の中で水分が急激に気化して膨張ーーまさに今回の失敗の状態だけどーーコロッケの中身を作る時は十分水分を飛ばして粗熱を取ってから成型しないと…衣の厚みも均一でないと薄いところは圧力に弱いからそこから破れる事もよくあるわ」
「…油に入れて熱を通せばいいだけだと思ってた…」
 優志の正直な言葉に香苗は「そりゃ食べるだけだったんだから知らなくて当然よね」と言って笑った。
「簡単に思える料理ほど、実は難しい…というか奥が深かったりするのよ」
「…だね」
 しみじみそう思わずにはいられない優志は大きく頷く。
「前にも言ったけど料理は科学。温度、湿度、分量の配分が違うだけで大きく結果が変わってくるわーーまあ、人によったら料理はセンスって言う人もいるけどね」
「センスかぁ…」
 優志は、母と違って自分には料理のセンスはないかもしれないと思ってしまう。そんな優志に香苗は「私も最初ひどい料理しかできなかったのよ」と言って舌を出した。
「母さんが?」
「それこそ、何がわからないのかがわからない…から初めたから、生煮え、真っ黒こげなんて日常茶飯事だったし、味付けもしょっぱいやら水臭いやら滅茶苦茶だったわ」
 何かを思い出したのか香苗は苦笑いしながら言葉を続ける。
「初めから何でもできる人間はいない。大切なのは失敗を経験した後、同じ失敗を繰り返さないようにどうするかだから」
 自分は同じような失敗をしている気がした優志にとって耳の痛い話である。
「この本には玉ねぎやひき肉もジャガイモと混ぜる前に炒めてから冷ましておくって書いてあったけど、やらなかったんじゃない?」
「…うっ」
 炒めなくても、刻んであるから揚げている時に熱が通るだろうと思って、炒める工程を省略したのは事実である。
「優ちゃんは昔からせっかちで、早とちりなところがあるからなぁ…」
 そう言って香苗は笑った。
 料理の工程は省いていいものと、省いてはいけないものがあるから、何故そういう事をするのか? っていう疑問を持って、その理由がわからなければ自己判断で省略するのは失敗の元だと思うという言葉に優志はうなだれる。
 そんな優志に香苗は揚げものをした後のかたずけをどうするつもりだったのか訊いた。
「かたずけ? 油を流して洗ったらいいだけじゃないの?」
 普通の料理の後かたずけと同じだと思っていた優志の言葉を聞いて香苗は驚いた。
「油はシンクに流しちゃダメ」
「何で?」
「油は水と混ざらないし、大量だと分解しないわ。水質汚染や土壌汚染につながるから、揚げ物に使った油は油こしで不従物を取り除いてオイルポットで保存するの。数回使いまわしをしてから、油の凝固剤や吸着剤に吸い取らせて、燃えるごみとして捨てるのが基本ルールだから、覚えてなきゃダメよ」
 油の処理方法を知らなかった優志は頷く。
「…コンロ周りを見て。油が飛び散ってるでしょ? 揚げ物をした後はすぐに掃除しないと油が酸化してベタベタになって掃除が大変になるから、それもちゃんとする事」
「揚げ物っていろいろめんどくさい…」
「めんどくさいわよ。スーパーのお総菜コーナーやコンビニの揚げ物コーナーが手軽で重宝されてる理由はまさにそれ」
「なるほどなぁ」
 総菜コーナーやコンビニのホットスナック類が人気なのは、料理をしなくてよいからという単純な理由だけではないらしい。
 揚げ物は好きだが、後かたずけの事まで考えたら確かに面倒な食べ物である。
「しかも失敗したら爆発するって…」
 電子レンジ調理でたまごが爆発したのを思い出して、優志は料理って意外に危険なのかもしれないと思うのだった。

◆episode 4 『スイーツの条件』

 いつもの教室のいつものメンツで休憩時間雑談をしていた優志達に話しかける女子がいた。優志のクラスメイトで幼馴染の日野真帆(ひの まほ)である。
「文化祭の出し物?」
 優志たちが通う学校では、体育祭や文化祭は毎年5月の終わりの週に行われるのが通例だった。
「学級会議ですぐに決まらないから、先にみんなが何をやりたいのか訊いてるの」
 クラス委員長ででもある真帆はそう言いながらメモをポケットから取り出す。
「出し物ねぇ…」
「今のところ、コーラス、劇、カフェをやりたいって意見が出てるけど…」
 それを聞いた優志たちは顔を見合わせる。
「カフェより、ファーストフードのお店とかの方がいいと思うな」
 和也がそう言うと「それはお前が食べたいだけだろ?」と、すかさず拓真からツッコミが入る。
「ファーストフード…いろいろあるけど、ハンバーガー屋さん? ピザ屋さん?」
 メモを取りながら真帆が聞くと、和也は考え込む。
「全部…とか」
「誰が作るのよ」
 笑いながら真帆がそう言った瞬間、和也と拓真は優志を指さした。
「何で俺?」
 びっくりして優志がそう言うと、優志は料理男子だからと言い出した。
「無理無理」
 慌てて否定する優志に真帆が興味深々といった表情になる。
「優くん、料理男子なんだ」
「…いろいろあって、家での自分の飯は作ってるけど、人に食べさせられるようなもんじゃないから」
「そうなの?」
小さい頃からよく香苗にお菓子の作り方を教えてもらっている真帆は「お菓子は作らないのか?」と優志に訊く。
「母さんはケーキやクッキーなんかはよく作ってるけど、俺は作った事ないよ」
「もったいない。おばさまからお菓子の作り方を習ってパティシエを目指したらいいのに」
という真帆に優志は首を振る。
 学校でまで料理をしたいと思わない優志は「学校でハンバーガーやピザは無理だろうと」否定的な意見を口にしたが、和也がすかさず業務スーパーで食材を買って来てオーブントースターで温めれば良いだけだと言い出す。
「…ほんと和也は食いしん坊だよな」
「育ち盛りですから」
 拓真の言葉に和也は澄ました顔で答える。そんな男子のやり取りを笑って聞いていた真帆は「練習の必要がないから、カフェが今のところ一番人気」と付け加えた。
「カフェって言っても飲み物だけじゃ寂しくない?」
「そこなのよ。他のクラスでも似たようなお店を出す所もあるから、違いをアピールしたいのよね」
「違い?」
「例年、文化祭の模擬店のカフェは買ってきたクッキーやビスケットなんかを出すのがパターンでしょ?」
 男子たちが頷くのを満足そうに見て、真帆は「オリジナルスイーツを出したらどうかなって思ってるの」と言う。
「オリジナルスイーツ?」
「それいいね」
「めんどくさそう」
 口々にそういう男子たちの意見を聴き流して「それは女子が作るから、男子はウエーター担当なら?」と真帆が提案する。
 めんどくさい事は女子に任せられそうだという事で、話を聞いていた周りの男子たちも賛同する流れになった。
「じゃあ、そういう事でみんなに話をするね」と言うと、真帆は優志たちから離れる。
「練習しなくていい出し物になりそうで良かったよな」
 カフェなら女子主導になりそうなのもあって、ほっとしたといった表情に和也が言う。それを聞いていた優志は嫌な予感を覚えずにはいられなかった。

 数日後、学級会議で文化祭の優志たちのクラスの出し物はーー真帆が事前に根回ししたのか、大きな反対意見もなくーーカフェに決まった。女子たちはお洒落なカフェにしたいと妙な盛り上がりとやる気をみせている。そんなある日、優志が帰宅するとキッチンから賑やかな声が聞こえてきた。
「優ちゃんお帰り」
 何事かとキッチンを覗いた優志に香苗が声を掛ける。
「…何事?」
 キッチンには香苗以外に複数のクラスメイトの女子たちがいて、何かを調理していたので優志は驚く。
「優ちゃんのクラスはカフェをするんですってね。今、それに出すオリジナルスイーツの試作品をいろいろ作っているのよ」
「何でうちで…」
 楽しそうに説明をする香苗の言葉を聞いて、優志はすぐに状況を飲み込んだ。
「犯人は真帆かよ…」
 優志に名指しされて、香苗の影にいた真帆が顔を出した。
「優君のおばさまには昔からお菓子作りを教えてもらってるし、ここの台所広いし、必要な道具が揃ってるんだもん」
「だからって…」
 言い訳する真帆に優志が何か言いかけたが、香苗が笑いながらそれを止める。
「いいじゃない。みんな楽しくやってるんだから…ね、真帆ちゃん」
「ね~」
 小さい頃から仲良しの真帆と香苗は楽しそうに言葉を合わせる。
「…お好きにして下さい」
 優志はそう言うと早々に退散するしかなかった。

 しばらくして、自室でゲームをして時間を潰していた優志はキッチンに呼ばれた。女子たちにキッチンを占領された為、いつものルーティンの夕食の支度が出来なかったせいか不機嫌そうな様子だったのだが、真帆はそんな事を気にすることなく小さな透明のカップに入ったスイーツと思われるものを差し出す。
「食べて、感想を聞かせて」
 有無を言わせない様子でそう言われた優志は渋々それを受け取ると、ピンク色のゼリーの様なものにカラフルな何かがいろいろ入っていた。
「いただきます…」
 優志は行儀よく手を合わせてそう言った後、スプーンでカップの中身をすくって口に運び、そのまま固まる。
「どう?」
「…何これ?」
「いちごゼリーよ」
「…それはわかってる。何でいちごゼリーにチョコミントやらバナナが入ってる?」
 優志の口の中で、個性豊かな風味がそれぞれに主張していて味が喧嘩している状態だった。
「可愛いでしょ?」
「そういう問題か?」
「彩も綺麗だし、いちごゼリーもチョコミントもバナナもおいしいから、欲張ってみました」
「欲張ってみましたじゃねぇ…」
 めまいを覚えつつ優志が呟く。
「ダメ?」
「却下」
 それを聞いた他の女子たちからも「え~可愛いのに」という声が上がる。
「母さんは何してた訳?」
 抗議めいた様子で優志は香苗を見る。
「私は作り方のアドバイスはするけど、何を作るかまでは繰り出ししないわよ。オリジナリティがあっていいじゃない」
 とぼけた様子で答える香苗に優志は深くため息をつくしかなかった。

「スイーツの試食。羨ましいなぁ」
 連日、オリジナルスイーツの試食に付き合わされていた優志は和也にそう言われ、疲れ切った様子で「交替してもらいたいね」とげんなりした様子で呟く。
 どうも真帆達…女子たちは見た目が可愛いかったり食べたときのインパクトに拘っているのか、味や食感は二の次のオリジナルスイーツの開発にいそしんでいた。
「昨日なんて、カレースパイスが入ったプリンを食わされたんだぞ」
「プリンにカレー…大胆だな」
 さすがの和也も言葉を失う。
「今日は何を食わされるんだか…」
 帰宅拒否したい気分である優志はそう言うと、教室の片隅でオリジナルスイーツのアイディアを楽しそうに話し合っている女子のグループを見て、暗い気持ちになった。
「文化祭に間に合うのかな?」
「…俺に訊くな」
「適当にOKを出したらいいんじゃね?」
「そんな無責任な事できるかよ」
「意外に話題になるかもよ」
 何処かお気楽な和也に対して、優志は性格なのか真面目な顔をして首を振る。
「俺のスイーツの固定観念に対して打倒しようと燃えてるとしか考えられないんだよな」
 毎日容赦なく優志に試作のスイーツを却下されているせいか、女子たちもどこか意地になってきているように思えた。
「スイーツの固定観念?」
「見た目もある程度重要ではあるけど、まずは甘くておいしい…のが第一条件なんだけどなぁ」
「それ以外にスイーツの要素に何かあるか?」
 自問にも似た優志の問いに和也は困った顔になり「とりあえず、腹を壊さないようにな…」と言う事しかできなかった。

「これならどう?」
 自信満々と言う感じで真帆が優志に差し出したのは、ミニサイズの見た目はかつ丼。ただ甘い香りするので、スイーツには間違いないようだった。
「今度はどんな味なのやら…」
 憂鬱そうにそれを受け取りながら呟いた優志は、添えられていたフォークでソースがかかった茶色い物体を刺して口に運んだ。
「…ん?」
 ソースはチョコレートソースがかかったカスタードで、茶色い物体はワッフルだったに気が付いた優志はそのまま食べ進める。器の底にはいちご味や抹茶味の角切りのカステラが埋まっていた。
「かつ丼をイメージした、カスター丼よ」
 珍しく優志が食べ進めたのを見て真帆が嬉しそうに説明する。
「…駄洒落かよ」
 そう言いながらも優志はカスター丼を完食すると、他の女子たちから歓声が上がった。
「…ま、悪くないんじゃない?」
「やったー」
 手を取り合って喜ぶ女子たちを見ながら「じゃ」と短く挨拶すると優志は自室に撤収する。
 文化祭にオリジナルスイーツが間に合った事より、連日のよく分からないスイーツの試食から解放された事の方が嬉しいと思う優志だった。

「何とか形にはなったな」
 文化祭当日、飾りつけ班によるカフェ風の装飾が施された教室を見回して拓真がそう言うと、「昨日はうちのキッチン、大騒ぎだったんだぜ」
 優志の家のキッチンで、カスター丼の材料のカスタードクリーム作りやカステラ作りで女子たちが大騒ぎしていたのを思いして優志は苦笑いを浮かべる。
「いいにおいだったんだろうな」
 和也がスイーツの甘い香りを想像してよだれを拭く動作をする。
「みんな頑張ったから、残らなかったらいんだけどな」
 そんな事を話していると、黒い布の塊を抱えた数名の女子が拓真を呼んで手招きする。
「衣装を作ったらしいから行ってくる」
 ウエイター班に任命されていた拓真はそう言うと、他のウエイター担当の男子と共に奥へ消えた。
「ウエイター班はイケメンばっかり選ばれたよな」
 ぼやくように言う和也に優志が笑う。
「女子たちで決めたみたいだけど、俺は選ばれなくて良かったな。始まったら他のクラスの出し物を回れるし」
「それもそうか。俺は昨日買い出し班の荷物持ちで働いたしな」
 事前に配られた文化祭のパンフレットで和也が出し物のチェックを始める。
「…お、たこ焼き屋がある」
「綿菓子屋も…金券買ってこなきゃ」
 直接の現金の受け渡しは禁止されている為、生徒会発行の金券を買って、それで模擬店で金券を使うシステムになっていた。
「講堂で特撮部がショーをやるみたいだ」
「特撮部のショーって、やっぱヒーローショー?」
「さあ?」
 そんなたわいもない話をしていると、黒いタキシード風の衣装を身につけた拓真が戻ってきた。
「ウエイターの衣装?」
「執事風らしい…」
 優志と和也が「メイド喫茶ならぬ執事カフェかよ」と笑う。
「おかえりなさいませお嬢様 旦那様って言わないといけないらしい」
 情けない様子でそういう拓真の言葉を聞いて笑いが爆笑に変わる。
「イケメンはつらいねぇ」
「…くそ~簡単だと思ったらこれかよ」
 衣装の裾をつまんで拓真がぶつぶつとぼやく。
「…ま、頑張ってオリジナルスイーツをお勧めしてくれ」
 そう言うと、拓真を残して薄情な優志と和也は金券を買いに教室を後にした。

 構内のスピーカーから開会を告げる放送が流れ、文化祭が始まった。
 外来の客の多くは保護者だが、学校近隣にも事前に文化祭開催の告知がされていた事もあってか一般の人たちの姿も見受けられた。
 それぞれが構内の出し物を見て回っている中、優志と和也たちも中学生活最後の文化祭を楽しんでいた。
それぞれ趣向を凝らした内容の出し物をある程度見て回っていたが、自分のクラスの状態が気になって様子を見に戻る事にした。
「お前ら何処に行ってたんだよ」
 教室に戻ってきた優志達を見つけた拓真が接客もそこそこに飛んでくる。
「どこって…他のクラスの出し物見てきた」
 正直に答えた和也に拓真は不満そうな顔になる。
「…で、カフェの方はどう?」
「まあまあかな? ドリンクがいくつか売り切れも出てきてるから、明日どうするか奥で相談してたとこ」
 執事姿のウエイターの接客が受けているのか、女性客ばかり目に付く席を見回して、優志は気になっていたカスター丼の売れ行きを訊ねた。
「いくつかは売れたけど…思ったほどは出ていないな」
「そっか」
 優志は真帆達ががっかりしているのではないかと思い、バックスペースを覗いてみると数人の女子たちが固まって何やら話し込んでいる。声を掛けようかどうしようかと思っていると、真帆が優志に気が付いて声を掛けてきた。
「ちょっと、売れないじゃない」
「俺に言われても…」
 八つ当たりに似た真帆の言葉に優志は困り顔になる。
「バカ売れすると思っていっぱい用意したのに…」
 目論見が外れて悔しそうにしている真帆に、優志はどのくらい用意したのかを訊ねる。
「50人前よ!」
「50…」
 想像以上の数に驚いて優志は絶句する。
「優君がいいって言うからこれに決めたんだから、責任取ってよね」
「何でそうなるんだよ」
 昔から困ったときは責任転嫁する癖がある真帆は相変わらずらしい。
「…用意したのは、ワッフルといちごと抹茶のカステラ…それとカスタードクリームだっけ?」
 カスター丼の構成を思い出しながら優志が訊く。
「それとチョコソース」
 真帆の言葉を聞いて優志は考え込む。
「カスタードクリーム…」
 クーラーボックスの中で保冷されている大量のカスタードクリームの袋を確認して、優志は何かを思いついたのか作業を始めた。
 器の中にカスタードを入れ、その上にナイフでハートの形に切ったワッフルを乗せ、2種類のカステラを人型に見立ててワッフルの上に並べた。仕上げにチョコソースでカスタードにLOVEの文字を書いたところで作業の手を止めた。
「こんなもんかな?」
 その様子を見ていた女子たちが目を丸くする。
「可愛い」
「え? 同じ材料だよね?」
 女子たちがざわついているのを尻目に、優志が再構築したスイーツをカフェの入り口に置くように真帆が指示を出す。
「じゃ…後はまかせた」
 八つ当たりも責任転嫁もまっぴらな優志はそそくさとその場を立ち去った。

 文化祭の2日目。優志のクラスのカフェは盛況になった。
 執事カフェがウケたのか、スイーツがウケたのかは定かではないが、数人の空席待ちが出来ていた。
「いらっしゃいませお嬢様」
 執事の格好を嫌がっていたウエーターの拓真たちも慣れてきたのか、面白がって歯が浮きそうなセリフを口にして女性客を喜ばせている。一応、クラスでもイケメンが選抜されていたせいか、写真撮影を求める客まで現れていた。
「ラブボート売り切れで~す」という声がバックヤードからすると、何処からともなく拍手がおきた。
 ラブボートは優志が再構築したスイーツに真帆達が付けた名前だったが、優志からしたら「恥ずかしい名前」としか思えない。
 ――これで八つ当たりは無くなったし、残飯処理をしなくて良さそうだ
 カフェの呼び込みを教室の前でしながら優志はほっとした気分になる。そこへカフェから出てきた優一朗が優志に声をかけた。
「盛況だな」
「おかげさまで…」
 学校で親に声を掛けられるのが気恥ずかしくて、優志はぶっきらぼうに答える。
「優ちゃん 頑張ってる?」
 優一朗の影から香苗が顔をのぞかせる。
「…まあ、ぼちぼち」
「ラブボート美味しかったわよ」
「そりゃどうも」
 そんな優志に香苗が「カスター丼が見事に変身したわね」と楽しそうに話しかける。
「真帆ちゃんから聞いたわよ。優ちゃんがカスター丼を変身させたんですって?」
「…まあね」
「やるじゃない」
 香苗に褒められて優志は照れくさそうに頬を掻く
「センスがいい証拠ね」
「センス?」
 不思議そうな顔になって優志が訊き返す。
「お料理の盛り付けはセンスも必要よ。味が良くても見た目が悪ければ印象が悪くなるもの」
「そんなものかなぁ」
 いまいちピンとこない優志だったが、同じ材料でも盛り付けが違っただけで売れ行きが変わったのは確かだった。
「カラーコーデネイトの勉強も盛り付けに役に立ったりするけど…」と言いかけた香苗を優一朗が遮る。
「母さん、見たいって言ってた講堂の出し物始まるぞ」
「あら、いけない。じゃあね」
 時計を確認して香苗はそう言うと、二人はバタバタと講堂に去っていく。
 ――センスねぇ
 よく分からないなと思いながら優志は首を振り、賑やかな文化祭の残りの時間を楽しむことにした。

◆episode 5 『ビバ発酵』

 お祭り騒ぎだった文化祭も終わり、日常生活が戻ってきたある日、優志は自分の冷蔵庫の中身を確認して困惑していた。
「…どう見てもこれはダメだよな」
 茶色く変色した何かが入っている袋をつまんで取り出した優志はため息をつく。
「ちょっと忘れていただけなんだけど…もやしってなんでこんなに早く傷むんだ?」
 変色した中身の正体はもやしで、冷蔵庫に入れたまま使うのを忘れていたのだった。
「ごめんなさい」
 もやしを袋ごとゴミ箱に捨てた優志は、食べ物を腐らせた事に罪悪感を感じながら手を合わせる。
「今夜はどうしようかな?」
 食材がひとつダメになったので、残っている食材で何が作れるのか考えながら優志は再び冷蔵庫に入っている食材の確認をする。
「なんか、奥からよく分からないものがいっぱい出てくるなぁ」
 芽が出たジャガイモや葉が伸びたにんじんはまだかわいい方で、真っ黒の干物状態になっている物体もいくつか発掘していた。
「いつ入れたのか? これが何だったのかもわからん」
 使いさしの食材をラップで包んで冷蔵庫に放り込んでいたせいか、冷蔵庫の奥に追いやられ、忘れ去られて正体不明の変貌を遂げているものがいくつもある。
「…野菜類は冷蔵庫に入れたら大丈夫と思っていたのになぁ」
 どう見ても食べられなさそうな食材はすべて廃棄する事にした優志は、いったん冷蔵庫の中身を全部出す事にして、食材の状態を確認する。
 しなびた葉物野菜に半分干からびた生姜、カビが生えているかぼちゃに形は保っているが粘液のようなものが付着しているキノコ…そのまま使っていいのかわからないものだらけなのを確認して、優志は自分の食材の管理能力の無さに呆れた。
「捨てるのはもったいないけど、料理に使うのもなぁ…」
 どうしたものかと頭を悩ませていると、優一朗がキッチンに入ってきた。
「――こりゃまた見事なもんだな」
 コーヒーを取りに来たらしい優一朗は、調理台に並べられた食材の状態の悪さを見て笑った。
「一人分しか作らないから、どうしても中途半端に使った食材が出るから仕方がないよ…」
 自分でわかってはいるが笑われたのが悔しかったからか、優志は拗ねた口調で言い返す。
「食材によって保存方法が違うの知ってるか?」
「…え?」
 使いさしの食材はとりあえずラップにくるんで冷蔵庫に入れておけば良いと思っていた優志は、思わず聞き返す。
「葉物野菜は新聞紙なんかの紙に包んでからビニール袋に入れて保存。キャベツや白菜は茎の断面につまようじを3か所くらい刺して成長を止めてから。生姜やもやしはタッパーに水に浸けておくと傷むのが遅くなる」
「えええ~」
 初めて聞く事ばかりで優志は驚きの声をあげた。
「ネギやニラは使いやすいサイズに切って冷凍すればいいし、ミニトマトはヘタを取って洗ってからタッパーに入れて保存とかな」
 何故そんな事を知っているのかという表情になった優志に優一朗はにやりと笑う。
「俺も昔、散々生ごみを製造したからな」
 みんな通る道だと言うが、もっと早くに教えてもらいたかったと思う優志だった。
 賞味期限と消費期限の違いは知っているかと訊かれて優志が首を横に振る。
「賞味期限は一応、美味しく食べられる味の保証期間だから、期限切れで若干味は落ちるかもしれないが食える…加工食品なんかは賞味期限が表示されている事が多いが、数カ月の余裕を考えて設定されているから、そう神経質にならなくても大丈夫。一方、消費期限は期限が切れると健康を害する可能性があるんでそれまでに消費してくださいという目安なんだ…生ものなんかは消費期限が記載されている事が多いな」
「なんか、ややこしいね」
「表示より、自分の感覚で確かめた方が正確だと俺は思うけどな」
 見た目やにおい、味で判断しろという事らしい。
「期限切れは全部捨ててた…」
 廃棄の判断基準にしていたので、まだ食べられるかなりの食材を捨てていた事を知り、優志は軽いショックを受けていた。
「野菜なんかの植物は多少傷んでいるものを食べても腹を下すぐらいだけどなーー危険なものは肉や魚、貝だから、それさえ気をつければ大丈夫」
「そんなものなの?」
 軽い感じで言う優一朗の言葉に優志は疑いの目を向ける。
「一般家庭に冷蔵庫が普及してまだ百年も経ってないんだからな」
「それまではどうやって保存してたの?」
「干物にしたり塩漬けにしたりーーあとは発酵させたりだな」
「発酵と腐るって同じじゃないの?」
 優志の素朴な疑問に優一朗は「同じ現象だよ」と答えて笑う。
「細菌によって食材が分解されたり化学変化を起こすのは同じなんだが――違いは食材に有用な菌などが繁殖した状態に変化したものが発酵――乳酸菌や酵母菌なんかだな。毒素や悪臭などを発生させる菌が繁殖したものが腐敗と定義されたいるんだ」
「体に良いか悪いかの違いだけ?」
「そういうこと」
 それを聞いた優志は「う~ん」と唸る。
「醤油や味噌は大豆を発酵させて作るものだし、酢、日本酒は米を蒸して発酵させたもの。漬物は乳酸菌発酵だし、納豆は納豆菌発酵。鰹節なんかはカビ菌を利用して発酵させたものなんだ――これらの発酵食品がなければ日本食は成り立たないのはわかるな?」
 頷きながら優志は「発酵食品があるのは日本だけ?」と尋ねる。
「――ヨーグルトやチーズは乳酸菌やカビ菌を利用して発酵させたものだし――世界中にある酒類は様々な酵母菌を使って発酵させてつくるんだが、酒の発酵を進めれば酢になるから、酒の数だけ酢の種類があると言ってもいい」
「酢ってお酒から出来るの知らなかった…」
「魚を発酵させて作った魚醤という調味料があるんだが、アジア圏なんかだとナンプラーやヌクマムという魚醤が存在する。人類にとって発酵食品は無くてはならないものなんだ」
「へぇ…」
 身近な食材や調味料が発酵食品なのを知って優志は感心する。
「人間は大昔から飢えと戦ってきた歴史があるから、空腹を満たす為、食材の状態が変化したものーー腐敗や発酵したものも口にして、食べると危険かどうかの結果を長い年月をかけて研究してきたものなんだと思う」
 それを聞きながら優志は「食べる事は生きる事」と言っていた香苗の言葉を思い出す。
「ご先祖様たちの食の研究結果の恩恵を俺たちは受けている事を忘れちゃいけないんじゃないかな」
 食文化やその歴史など考えたこともなかった優志は、優一朗の言葉にただ頷くしかなかった。

「強力粉って…なんだ?」
 日曜日の朝、キッチンで優志はパン作りの本片手に疑問符を飛ばしていた。
 きっかけはいつものメンツと好きなパンの話題になり、自炊生活を始めてから全くパンを口にすることが無かった優志はパンが食べたい衝動に駆られた。時間がある休日にパン作りに挑む事にしたのだが、知らない名前の材料が多くて材料を揃える段階で壁にぶつかったのである。
「…粉って名前だから、粉末なんだろうけど」
 そう言いながら小麦粉が入った袋の表示を確かめるが、そこに記載されていたのは薄力粉の文字。
「…薄い力…?」
 何が違うのかわからないが、とりあえず薄力粉は本に記載されているものとは違うらしい。
 優志はキッチンの食品ストッカーに他の粉末が無いかと探し始めると、粉末が入った複数の袋が出てきた。
「片栗粉…コーンスターチ…浮粉…米粉…重曹…粉糖…」
 一見するとすべて白い粉末である。表示されている名前が違うのでさらに棚を探すと全粒粉やライ麦、中力粉と書かれた袋と一緒に強力粉と書かれた袋が出てきた。
「強力粉…これでいいんだよな」
 表示を確認して優志は強力粉の袋を作業台に出す。
「あとは、薄力粉、砂糖、塩、水…ドライイースト…イースト…これは何?」
 再び知らない材料の名前が出てきて優志は首を傾げた。
 レシピの文面を読んでも全ての材料をボウルに入れてよく捏ねるとしか書いていない。とりあえず優志はドライイースト以外の材料を計ってボウルに入れ、捏ね始めた。
「…お、これでもいけるかも」
 粘土の要領でそのまま捏ねていると粉がまとまり、本の写真のパン生地のようになってきた。
「…まとまったら、乾燥しないようにラップをして暖かい場所に1時間ぐらい放置すればいいんだな」
 レシピに書かれている通りにして、タイマーをセットすると時間までその場を離れる事にした。
 一時間後、アラームの音でキッチンに戻ってきた優志はパン生地の入ったボウルの中を覗き込んで、再び首を傾げる。
「…本には2~3倍に膨らむって書いてあるのに…全然膨らんでないなぁ」
 理由がわからず優志はもう少し時間を置く事にした。
 それから1時間後にパン生地の様子を確認するが、全く状態に変化は見られなかった。
「…まあいいか」
 パンが食べたくて仕方がない優志は、パン生地が膨らむまで待てなくなり、オーブンの予熱を開始しながら生地をパンの形に成型し始めた。
「焼いたら何とかなるかも」
 鉄板に成型したパン生地を並べ、優志は楽観的観測を口に出す。
 余熱が出来たオーブンでパン生地を焼き始める。
 本には250℃10分と書いてあったので、その通りに焼いたのだが、出来上がったのはとてもパンとは言えない固くて焦げた小麦粉の塊であった。
「なんだこれ?」
 一口噛んでみるが、硬くて粉っぽいのですぐに吐き出した。
 このところ激マズ料理を作る事が無くなっていた優志は少しへこむ。
「…やっぱ、書いてある通りの材料を入れなかったのが悪かったのかなぁ」
 パン作りに必須のイーストと呼ばれる酵母を入れなかったのが致命的なミスであったし、重要な発酵の工程を完全に無視したのが原因なのだが、この時の優志はそれをまだ理解していなかった。

「パンの作り方を教えて」
 初めてのパン作りは失敗に終わった優志は、どうしてもパンが食べたかったのか、香苗に作り方を訊くことにした。
「あら、優ちゃん珍しい」
 最近の優志は料理の本を参考にして香苗に指導を頼む事が無くなっていたので、久しぶりに頼られた香苗は少し嬉しそうな表情をみせる。
「どんなパンがいいの?」
 香苗に訊かれた優志は少し考えた後、食パンと答えた。それを聞いた香苗は手際良く材料や道具を調理台の上へ用意した。
「材料は強力粉、薄力粉、砂糖、塩、生クリーム、無塩バターそしてイースト菌ね」
 ようやくイーストがどういうものなのかを知った優志は興味深々といった様子でざらざらした粉末が入った小皿を手に取る。
「それはインスタントのドライイースト。いわゆるパン酵母と呼ばれるっていう真菌よ。それが水と糖を結び付けてグルテンの中にガスを発生させて、生地をフワフワにしてくれる働きをしてくれるわ」
 自分の失敗の原因に思い当った優志は黙って頷く。
「パン作りにはイースト菌以外にも野菜や果物から培養した天然酵母もあるけれど、発酵力がイーストより弱いから初心者向きではないから…」
 優志は初心者なので扱いやすいイーストからということらしい。
「まずはパン生地を捏ねるところから…バターはまだ使わないからいったん冷蔵庫にしまっておいてね」
 香苗はそう言うと、優志に強力粉や薄力粉、イースト菌、塩と砂糖を混ぜ合わせて、生クリームを少しずつ加えながら捏ねるように指示する。
「捏ねてると生地に粘りが出てきたのがわかる?その粘りがグルテンという小麦に含まれる小麦タンパクが水分と結合したものよ」
 ざっくりとグルテンの性質などを説明した後、グルテンの有害性に関しての話題にも少し触れる。
「パンやパスタなどの麺類、麩なんかはすべてグルテンで出来ているのだけど、消化されにくい性質から食物アレルギーの原因物質と言われたり、腸に穴が開く…といった話もある事だけは頭の片隅に置いておいてね」
 食と健康に関してはかなり神経質なタイプの香苗であったが、グルテンに関しては中立的な意見らしかった。
「グルテンフリーの食生活を送りたいなら、米粉を使う手段もあるから」
 そう付け加えると、パンの作り方に話を戻す。
「パン酵母の働きを良くしてたくさんのガスを発生させるには暖かい環境が必要なのだけれど、生地の適温は35℃くらい…真夏じゃなければちょっと無理な温度よね」
「そこで…」と言いながら香苗は優志にオーブンレンジの機能ボタンをいくつか押すように指示する。
「…こんな低い温度設定が出来るんだ」
 指示されるまま機能ボタンを操作していた優志はオーブンの設定を二桁台の温度に設定できるのを知って驚いた。
「オーブンの庫内温度が40℃ならパン生地の中の温度は35℃ぐらいになるので、その環境で発酵させてみましょうね」
 発酵に必要なのは温度と湿度なので、パン生地の乾燥を防ぐためにボウルにラップをかけ、オーブンの中に入れるように優志に言った。
「発酵時間は40分くらい…生地が十分膨らんでいなかったら、さらに発酵時間を足せばいいから」
 香苗の言葉を聞きながら優志はレンジのスタートボタンを押す。
「後は待つだけ?」
「一次発酵はね」
「一次発酵という事は二次もあるんだ…」
 パンを作るにはかなり時間が必要だと悟った優志が呟くと、香苗が小さく笑った。
「パンってもっと簡単な食べ物かと思ってた…」
「お菓子なんかだとベーキングパウダー…重曹を使って生地を膨らませたりするのだけど、パンの場合は生地の粘りを保ったまま膨らまして柔らかく仕上げる必要があるから、酵母さんに頑張ってもらわなきゃ」
 発酵や熟成といったものは生き物の働きなのでどうしても時間が必要なのだという。
 一次発酵の後に生地に混ぜ込むバターを室温に戻したり、外しやすいように食パンの型にバターを塗ったりして時間をつぶしていた優志は、発酵時間の終了を知らせるアラームが鳴ると同時にボウルをオーブンから取り出し、思わず声を上げた。
「すげー、膨らんで大きくなってる」
「そこにバターを練り込んでね」
 香苗の指示通りに暖かいパン生地にむらなくバターが行きわたる様に念入りに捏ねていると、溜まっていたガスが抜けたのか生地は再び小さくなる。優志は心配そうに香苗を見る。
「余分なガスが抜けただけだから大丈夫」
 そう言うと生地を巻くようにまとめて型に入れるように促した。
「蓋にもバターを塗ったかしら?」
「…あ」
 香苗に言われて優志は型の蓋にバターを塗り忘れていた事に気が付く。
「蓋にもバターを塗っておかないと、パンが貼り付いて蓋が開かなくなるわよ」と言って香苗は笑った。
 慌てて優志は型の蓋にバターを塗り、生地を入れた型に蓋をする。
二次発酵は40℃で30分ぐらいという香苗の指示に従って、優志はオーブンレンジを操作して食パン型をオーブンの中に入れた。
「他のパンの場合なら、成型して生地の乾燥を防ぐ為に濡れたふきんを掛けてから二次発酵の工程に入ってね」
 食パンの場合、蓋があるのでそれが乾燥防止になるようである。
 二次発酵が終わった頃には、いったん小さくなった生地も型の中いっぱいに膨張しているのを確認して優志はほっとした表情になる。
「食パンの耳の固さはどうする?」
 香苗の話だと焼き時間によってパンの耳の固さを変えられるらしい。柔らかい方が食べやすいという理由で優志はそちらをリクエストした。
「それなら余熱170℃で30分ね」
「170…低くない?」
 普通のオーブン料理に比べて低い温度設定が気になって優志が訊く。
「バゲットなんかのハードパンは250℃で10分から15分で水分を飛ばしながら一気に焼き上げるんだけど、食パンの場合は柔らかく仕上げたいから、水分をある程度保ちながらじっくり熱を通すの」
 説明を聞いて優志はようやく納得する。
 しばらくするとオーブンからバターとミルクが混じったような甘い匂いが漂い始め、香苗は焼きあがったら蓋をしたままで型をひっくり返して冷ますようにと言った。
「逆さまに?」
「今回の食パンは生食パンだから、とても柔らかくて潰れやすいからーー逆さまにして余分な熱と水分を飛ばすと綺麗な形を保ったままになるのよ」
 香苗の話だと、柔らかくてフワフワなシフォンケーキも同じことをするらしい。
 食パンが焼きあがると、優志は指示通りに型を逆さまにした。
「普通のトーストも食べたいし、サンドイッチも…ホットサンドも捨てがたいなぁ」
 おいしそうな香りに刺激されてか食べ盛りの優志の腹が鳴る。そんな優志に香苗は「パン作りの基礎を覚えればピザなども自分で作れるようになる」と言ってウインクした。
「ピザも?」
 小麦粉を捏ねて発酵させる工程は同じだからという理由らしい。そう言われれば、世界中にパンと同じような食べ物は無数にある。小麦粉などを練って発酵させたものはパンの仲間だし、発酵させずに生地を伸ばして茹でればパスタなんかの仲間になるから、作り方を知っていれば料理のレパートリーが増えると知り、一気に優志のテンションが上がるのだった。

◆episode 6 『男子厨房に入るべし』

 自炊生活を初めて数カ月が過ぎ、料理の初心者だった優志もキッチンに立つ姿も板についてきていた。簡単なものなら何も見ずに作れるようになったのは彼自身成長した証でもある。
 冷蔵庫の中身を確認して献立を立てる事も出来るようになって、以前のように食費のやりくりで四苦八苦する事もない。そんな優志だったが未だに苦手とする食材――たまごである。
 栄養価が高くさまざまな料理に使う事が多いのだが、たまごはいつも優志を悩ませる食材だった。
 ゆで卵を作ろうとすれば殻にヒビが入り、白身がお湯に流失する事もよくある。たまごの殻を剥こうとすれば、殻と白身が一緒に剥がれ、見た目が悪いものとなった。たまご焼きを作ろうとすれば黄身と白身が混ざらず、所々白身の塊が出来てまだら模様になる。香苗が作ったたまご焼きの様にフワフワにならず、何度作っても固いスポンジのようなたまご焼きになってしまう理由もわからない。茶碗蒸しを作ればスが入るし、オムライスを作ろうとすれば薄焼きたまごが破れてしまう。温泉たまごに半熟たまご、固ゆでたまご、殻つきのままでも熱の加え方次第で状態が変わるのも悩ましいところである。
「簡単なものほど難しく奥が深い」という言葉通り、見た目が美しく美味しく調理をするのが難しい食材はたまご以外にはないのではないかと思わずにはいられなかった。
「たまご料理は好きなんだけどなぁ…」
 そうぼやく優志は今日もたまごと戦っていた。
 市販のマヨネーズを使わない丹羽家では、作り置きが無くなったら自分で作るしかない。
「全卵2個…酢が大匙1、塩、胡椒…」
 材料を確認しながらフードプロセッサーに投入した優志は蓋をしてスイッチを入れる。酢の力で乳化させたたまごに、少しずつ食用油を加えて攪拌を続けた。最初黄色かった溶き卵は油を加えていくうちにクリーム色に変わりマヨネーズの完成である。
 マヨネーズを自分で作るようになって一番驚いたのは油の量である。主成分だと思っていたたまごより、入れる油の量の方が多い。
「そういや、和也はマヨラーだったよな」
完成したマヨネーズを容器に移しながらふと親友の事を思い出す。マヨネーズをこよなく愛する和也はなんにでもマヨネーズをかけて食べるのが好きで、炊き立てのご飯にマヨネーズをかけたものは至福の食べ物らしい。
「胸やけしそうだよな」
 マヨネーズごはんを想像して優志は呟く。
 マヨネーズ作りが終わった優志は、次にゆで卵を刻み始めた。
「たまごサラダって…たまごだらけ」
 何がどれだけ入っているのか、ただ食べるだけではわからないのだと、さまざまなものを自分で作る様になって気が付く事も多い。
「…後は、ハンバーグを焼いたら完成っと」
 既にハンバーグの種は捏ねて冷蔵庫で冷やしてある。我ながら手際が良くなったものだと思いながら優志は一旦休憩する事にする。
 冷えた麦茶を飲んでいると優一朗が野菜を乗せた盆ざるを持ってキッチンに現れた。庭にある家庭菜園で収穫した野菜らしい。
「食べるか?」
 興味津々といった様子の優志に優一朗が訊く。
「無農薬有機栽培だから味が濃いぞ」
「スーパーで売っているものより濃い色だね」
「完熟してからだと傷むのが早いからスーパーなんかで売っている野菜は完熟前のものを収穫して、流通過程で追い熟させていることが多いからな」
 そう言いながら優一朗は熟して真っ赤なトマトを優志に差し出した。
「栄養価も完熟した方が高いんだ」
「へぇ…そうなんだ」
 優志は感心したように収穫したばかりのトマトをしげしげと見る。
「旬と言われる食べ物は美味しいだけじゃなく、季節に応じて人間が必要な栄養や性質を持っているから、出来るだけ旬のものを食べるようにした方がいい」
 夏野菜は身体を冷やす効果があるものが多く、冬野菜は身体を温めるものが多いらしい。春の野菜の苦みには、冬にため込んだ毒を排出する効果があり、秋の旬のものは冬に向けての身体を作り整えるのだと優一朗は言う。
「不思議だね」
「まさに自然の神秘。神様の采配かもな」
 優一朗はそう言うと野菜を洗い始める。そんな父を見ながら優志は優一朗に料理は好きかと尋ねた。
「料理は好きだよ…何かを作り出すって楽しいじゃないか」
 優一朗は悩むことなくそう答えて「それに美味しいものを食べれば幸せな気分になるしな」と付け加える。
「そりゃそうだけど…正直めんどくさくない?」
 素直な気持ちを口にした優志に優一朗は笑う。
「お前、自分自身が大好きじゃないだろ?」
「…?」
「大好きな人だったら喜ばしてあげたいって思うだろ? 自分自身が大好きだったら頑張っている自分を褒めて、喜ばしてやらないとな」
「それって変じゃない?」
 優志自身、他人に親切にする事は当たり前だと思っていたが、自分自身を褒めたり喜ばせるという発想がなかった。
「人を幸せにしたいって想いは悪い事ではないけれど、自分が犠牲になってもいいから…ってのは単なる自己満足なんだと俺は思うよ。誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなら俺は要らない」
「…」
「自分が幸せであるからこそ、人にも幸せのおすそ分けが出来るんだと思う。自分自身を助けられないのに、人様を救ったり助けたりなんかできるはずがないんだ」
 優一朗の言葉が優志に刺さる。複雑な表情になった優志に優一朗は「父さんも母さんも自分自身が大好きだぞ」とおどけたように言って笑った。
「自分自身が大好きだから、安心安全で美味しいものを自分に食べさせてあげたいと強く思うからこそ、愛する自分や家族の為に手間暇をかけてでも料理をするんだよ」
 優一朗の言葉を優志は完全に理解した訳ではないが、強い意志を感じ取る事は出来る。
「よく母さんが言うだろ『料理は愛だ』って」
 ようやく優志はその言葉の意味を理解したような気がした。
「愛にめんどくさいもなにも無いからな」
 そう言いながら優一朗はぬか床を出してきてかき混ぜ始める。
「――まあ、そう言っても和食は基本面倒だけどな」
 笑いながら余分な水分を拭きとった野菜をぬか床に漬けはじめた。
「父さん…言ってることがむちゃくちゃ」
 和食が面倒なのは優志も料理をするようになったのでよくわかるので、思わず笑ってしまう。
「和食は身体に優しいだけじゃなく、自然にも優しいんだ」
 優一朗が言う通り、油を使うことが少ないので洗い物をしても水をあまり汚さない。野菜や魚などから出た皮や骨なども、コンポストなどを利用すれば植物を育てる為のたい肥として使える。エコが叫ばれて久しい現代だが、日本の文化自体が自然と仲良く暮らす為の知恵なのかもしれない。
「今さら大昔の生活に戻ることは出来ないのだから、悪いところは改めて、自然と科学の共存が出来ればそれでいいと思うけどな」
 水道や電気がない生活は優志も考えられない。
「日本文化も全面的にいい事ばかりじゃないーー昔は『男子厨房に入るべからず』って言葉があったがそれについて、俺はどんどん男も料理するべきだと思う」
 優志に何故かと問われた優一朗の答えは明確だった。
「料理の大変さを知れば、料理と作ってくれた人に対して感謝が出来るようになるから」
「…まあ…それは」
 作ってもらえるのが当たり前だと思っていたら、確かに感謝など出来ないかもしれない。そういう優志も、自分で料理を作るようになる以前は、出てきた料理に対して好き嫌いを口にしていたので耳が痛い。
「それに料理が出来るようになっていても困る事はないしな」
 そう言うと優一朗は笑いながら「料理が出来る男はもてるぞ」と笑う。
 それに関して実感する事はなかったが、食材さえあれば食事に困ることはないという自信が今の優志にはあった。
「たかが料理、されど料理…知れば知るほど面白い世界だと思うよ」
 優一朗は「頑張れよ」と優志の肩をポンと叩きキッチンから出ていく。そんな父の後ろ姿を見送った優志は、自分もまた同じことを自分の子供に言うのだろうか? と考えていた。

「もう冷やし中華の季節?」
 出掛け先のショッピングモールの飲食店の店頭にあった冷やし中華の文字を見た優志は思わず足を止めた。定期試験が終わり進路指導が始まった初夏であったが、若干フライング気味のメニューである。
「冷やし中華と冷麺の違いって何だ?」
 一緒にいた和也が素朴な疑問を口にする。
「冷やし中華は中華そばを使った日本生まれの料理らしくて、冷やしラーメンって呼ぶ地域もあるらしい」
 博識な拓真が答える。
「冷麺は麺にそば粉が入っている朝鮮半島の料理で、麺がゴムみたいな弾力だったよ」
 優志は冷麺の麺を噛みきるのに苦労したのを思い出して苦笑いを浮かべた。
「ラーメンと言えばさ…」
 拓真が何かを思い出したように口を開く。
「ラーメンって日本食なの知ってた?」
 それを聞いた優志と和也は驚いた表情になる。
「中国料理じゃないの?」
「そう思われがちだけど、本物の中華料理にラーメンは無い」
 それを聞いた和也が町の中華店でラーメンをよく頼むと反論する。
「町の中華屋で置いてるのは志那そばとも呼ばれる中華そば。高級中華店にはラーメンは置いてない」
 それを聞いて和也は混乱する。
「刀削麺っていう練った小麦粉を刃物で削って茹でたものはあるけど、ちょっと違うし…」
「世界の料理の中でも出汁の旨味を重要視するのは、日本食とフランス料理だけってのは聞いたことがある」
 優志が以前香苗から聞いたことを思い出したらしい。
「言われてみれば、何時間もかけて丁寧に出汁を取る事自体すごく日本的だよな」
 一応和食の基本である出汁の取り方を教わった事がある優志は、手間暇をかける工程を思い出して呟く。
海外では日本食と言えば昔は寿司屋だったが、今はラーメン屋も大人気らしいと拓真が言うと、和也が「ラーメンってうまいもんな」と頷く。
「醤油に味噌、塩、鶏がらに豚骨、煮干しに野菜スープ…」
 ラーメンと一言で言ってもスープだけでも様々なバリエーションがあるし、今やカレーと並んでラーメンもまた日本の国民食と言えた。
「日本食の麺類と言ったらうどんや蕎麦、そうめん、きしめんぐらいだと思ってたけど…」
 沖縄の方では、沖縄そばという和食と東南アジア系の食文化が融合した麺類の食文化もあり、料理が歴史や地理的な事柄と密接な関係にある事を優志はまだ知らない。
「蕎麦は違うけど、他の麺類は小麦が原料だよな」
「東南アジアの方だと米が原料の麺類があるみたいだけど」
 優志と拓真がそんな話をしていると、和也が優志に麺類は料理しないのかと聞いてきた。
「普通に麺類の料理は作るよ…麺から作る訳ではないけど」と答えて優志は笑う。
 パンを作る為に小麦粉を捏ねる事を覚えたので麺類も作れそうではあるが、そこまでしようとはまだ思ってはいない。
「炭水化物に炭水化物とか最高だよな」
 食べ盛りの和也にとって炭水化物同士の組み合わせは最高の組み合わせらしかった。
「お好み焼きにごはんとか?」
 関西の方ではお好み焼きや焼きそば、うどんやラーメンなどとごはんを一緒に食べるのは珍しい事ではないらしいと聞いたことがある拓真が和也に訊くと、和也は大きく頷いた。
「食った気になるーー炭水化物と肉があれば俺は幸せ」
「それは言えてるよな」
 拓真が笑いながら言うのを聞いていた優志は、栄養バランスにうるさい健康オタクが聞いたら卒倒しそうだと思って苦笑いする。
「おいしいものがいっぱいあるこの国に生まれてよかった」
 その和也の意見には優志も異論はなかった。

「お帰り」
 梅雨が近いのかすっきりしない天気の中、優一朗と出掛けていた香苗を優志は玄関で出迎えた。
「ただいま…どうしたの?」
「何でもないよ」
 香苗の問いにそう答えると優志は優一朗に目線を送りキッチンへ姿を消した。
「変な子ねぇ」
 普段は優志が出迎える事など無いので怪訝そうな顔になった香苗だったが、優一朗に促されるまま家の中に入る。
 お茶でも飲もうとダイニングに入ると同時にクラッカーの音がはじけた。不意を突かれて驚いた香苗に「お誕生日おめでとう」という声が飛んだ。
「…え」
 香苗の後ろにいた優一朗が席に着くように香苗を促す。訳が分からないまま香苗は自分の席に着きテーブルに並べられた様々な料理を見てさらに驚いた。
「母さん、お誕生日おめでとう」
 あらためて優志にそう言われた香苗はようやく事態を理解する。
「ありがとう」
 香苗は嬉しそうな表情でそう答え、テーブルに並べられたケーキに寿司、肉料理やサラダなど和洋折衷の料理に目を丸くする。
「これ…優ちゃんが作ったの?」
「親父と二人で」と優志は笑顔で答える。
「いつの間に…」
 驚く香苗に優一朗が「俺が作ったのは野菜寿司だけ」と言って笑った。
 昨年は優一朗が庭でアウトドア料理で香苗の誕生日を祝ってくれたが、優志の料理でお祝いしてもらえるとは思わなかった香苗は驚きと喜びで言葉に詰まる。
「さあ、食べようよ」
 待ちくたびれた優志はそう言うと、自分も席についた。
 そうして香苗の誕生日を祝うささやかなパーティーが始まると、優一朗が優志に親指を立ててウインクする。
 香苗はデコレーションに悪戦苦闘した形跡があるケーキを口に運ぶと、「最高のお祝いをありがとう」と言ってほほ笑んだ。その言葉を聞いて優志はほっとした表情になる。
「…よかった」
 ちゃんとした料理を振舞うのが初めてだった優志は内心不安だったらしい。
「愛情たっぷりの料理ね」
 香苗にそう言われて優志は照れくさそうな顔になる。
「野菜寿司も美味しいわ」
 優一朗が作った寿司をいくつか食べて香苗がそう言うと、優一朗は満面の笑顔になる。
「俺が作った野菜を使ってるからな」
「アイディアも面白いし、美味しくてびっくりしちゃった」
 浅漬け等にした自慢の野菜を握った寿司は、いい意味で予想を裏切った美味しさだったので、香苗は素直な感想を口にする。
 最初は嫌々始めた料理だったが、今は自分が作った料理を美味しそうに食べてもらえるのが嬉しいと思っている事に気が付いて優志は少し驚いた。
「また作ってくれるかしら?」
 そんな香苗の言葉に優志は大きく頷く。
 ――美味しいものを作って喜んでもらいたい。そんな純粋な気持ちになっている自分に不思議な気持ちになっていた。
「俺もっと勉強して、美味しいものいっぱい作るから…」
 自然と出たその言葉に優志自身が驚く。その言葉を聞いた香苗は「楽しみにしてるわね」とほほ笑んだ。
 優志にとってこの日の経験がその後に大きく影響する事になるのだった。

◆エピローグ 『幸せの味』

「できたよ」
 バーベキューコンロを使って料理をしていた優志は、出来上がった料理を紙皿に取り分けながら大学のサークルのメンバーに声を掛けた。その声を聞いてテントの設営をしていたメンバーが作業を中断して集まってくる。
 スパイシーな香りがする肉料理の皿を受け取ったメンバー達が焼きたての料理を頬張り、思わず声を上げる。
「これ美味い」
「ビールが欲しくなるね」
「優志最高」
 賞賛を浴びた優志は嬉しそうな笑顔を見せた。
「ジャマイカのジャークチキンって料理だよ。ビールやごはんが進むだろ」
 ジャークチキンは塩とスパイスやハラペーニョなどで漬け込み、ドラム缶を利用したバーベキューコンロで焼いたもので、シンプルな味わいだが香ばしくてスパイシーな香りが食欲を刺激する料理だった。
「優志君、料理上手よね」
 サークルの女子が感心したように言うと、優志は「料理は中学の頃からやってるからね」と笑う。そんな優志にサークル仲間が「さすが、うちのサークルのシェフ」と茶々を入れる。
 料理を作る楽しさ、美味しく食べてもらう嬉しさを知った優志は、大学生になった今も料理を作り続けていた。今では家庭料理だけでなく、世界の料理にも興味を持ち、本場で食べたり習ったりしてそのレパートリーもかなりの数になっている。
「バーガーにしてもうまいんだぜ」 
 そう言いながら優志は、慣れた手つきで焼きたてのジャークチキンを野菜とチーズと共にバンズで挟んでハンバーガーを組み上げると、それもすぐになくなった。その様子を優志はにこにことしながら見ている。
 優志のサークルはアウトドアサークルで、キャンプを中心に様々な屋外イベントを企画してみんなでワイワイやるものだった。他の同じような大学のサークルと交流キャンプなどをやったり、かなり活発に活動をしている。アウトドア飯と言えば、カレーか豚汁、焼きそばやバーベキューなどが一般的なのに、ここのサークルではそれ以外のものも出るし、美味しいって評判を聞いた料理目当てに参加する者もいた。
「フルーツとナッツのケーキ焼けたよ」
 優志がダッチオーブンの蓋を取ると、その周辺に甘くて香ばしい香りが広がる。その香りに誘われてメンバーから歓声が上がる。
「すごい。キャンプでスイーツが食べられるなんて思わなかった」
 そんな参加者にサークルのメンバーがコーヒーを飲み物を振舞ってまわる。そのコーヒーは挽きたての豆を使ったもので、こだわりの淹れ方をした良い香りのものだった。
 優志のサークルはそれぞれに特技を持つメンバーがいて、それを惜しむことなく参加者に披露する為か内容的にはかなり充実している。料理以外では知らない事も多いのでサークルで学ぶ事も多いので、優志自身このサークルの活動が楽しくて仕方がなかった。
 昼食後、散策に出掛ける者、川釣りに出掛ける者、屋外スポーツに興じる者、それぞれやりたい事の班に分かれる。
 優志は昼食の後かたずけと夕食の準備の為にキャンプサイトに残っていた。使った道具や食器を洗っていると、「手伝います」と参加者の中の一人が優志に声を掛けてきた。
「ここは大丈夫だからみんなと遊んでおいでよ」と優志はそう言ったが、声を掛けてきた女子は無言で洗い残しの食器を洗い始めた。優志は一言礼を言うと、焦げ付いた網の汚れ落としを再開する。しばらく作業をしていると女子の方が口を開いた。
「…あの私、河野由香っていいます」
 自己紹介を聞いていると優志の大学の一年後輩らしかった。今回は友人に誘われての初参加だったらしい。
「友達と一緒でなくていいの?」
「…あ、釣りに行っちゃって…私、釣りはしないから…」
 そう答えると由香は今夜は何を作るのかと訊いてきた。
「…内緒」
 優志は少しいたずらっぽい表情を浮かべると、由香は抗議の声を上げる。
「教えてくれてもいいじゃないですか」
「お楽しみは多い方がいいでしょ」と優志は由香の反応を楽しむように笑った。
「作るの見てていいですか?」
「いいけど、見てても面白いものではないと思うけど…」
 そう答えると、優志は洗い終えた道具をふきんで拭き始める。
「丹羽さんはお付き合いしてる人いるんですか?」
 ストレートな質問に優志は苦笑いを浮かべる。
「…・いないよ。そういうのめんどくさいし」
「え~意外」
 料理男子のせいか優志に興味を持つ異性は多いが、優志自身、誰かと付き合いたいとかいう気持ちを持っていないから、知り合いや友達から発展する事はまだなかった。
「女子に興味ないんですか?」
「全然ない訳じゃないけど、興味を惹かれる人がいないからなぁ」
 優志はそう答えると、「河野さんの方は?」と訊き返した。
「なかなかご縁がなくって」と由香が答える。
それを聞いた優志は「うちのサークル、彼女募集中のいい奴いっぱいいるから、よかったら紹介するよ」と言って笑った。
 大学のサークル活動自体、貴重な出会いの場であり、新しいカップルが誕生する事も多い。由香を誘った友人も、彼氏が優志のサークルのメンバーのひとりで、由香にも彼氏が見つかる様にとこのイベントに誘ったらしかった。
 そんな話をしていると、散策や釣りに出ていたメンバーが戻ってきてキャンプの設営サイトが再び賑やかになる。釣り班のメンバーは成果があったらしく優志を呼んで何やら相談を始めた。
 その日の夜は、釣り班が釣ってきた川魚はアクアパッツァとして振舞われ、食事の後はゲーム大会をしたりして大いに盛り上がった。

 朝陽が山肌の切れ目から顔をのぞかせた頃、早々に設営したテントを撤収して次の目的地に出発するグループもあれば、のんびりお湯を沸かして目覚めのコーヒーを楽しむ者や朝食の用意をしたりとそれぞれの活動を始めていた。
 優志のサークルのサイトでは味噌汁の香りが漂い、その香りで目を覚ますものもいた。
 サイトの一角では、テーブルにはおにぎりが並べられ、大鍋には具沢山の味噌汁が作られていて、それを優志が集まってきた者に振舞っていた。
「おはようございます」
 おにぎりを受け取り、シェラカップに味噌汁を入れてもらいながら由香が優志に声をかけた。
「おはよう。よく眠れた?」
「…少しは」
 そう答えた由香は味噌汁の香りをかいで笑顔になる。
「いいにおい」
「日本の朝はやっぱりお味噌汁でしょ」
 優志はそう言うと笑う。
「料理を作っていて思うんだ…食べ物って身体だけじゃなく心の栄養にもなるんじゃないかって」
「心の栄養?」
「美味しいものを食べると、頑張ろうって気持ちになるでしょ?」
 優志の言葉に由香が頷く。
「一日の始まりに美味しい朝食を食べればその日一日頑張ろうって気にもなると思うんだ」
「理想はそうかもしれないけれど…」
 朝が苦手で朝食を抜くことも多い由香が反論しようとすると優志が「お味噌汁は食べる点滴って言われているんだから、身体の為にインスタントでもいいから飲んでみたら?」と提案する。
「インスタントですか…それなら出来るかも」
 それを聞いた優志はにっこり笑う。
「美味しいものは幸せの味。俺がこうして料理を作っているのは、みんなの幸せそうな顔が見たいからだからだからね」
 そう言うと優志は自嘲するように笑った。
「元気じゃなきゃ食事も美味しくないから、つい余計な口出しをしちゃうんだよな」
 不思議そうな表情の由香に「ごめんな」と優志が謝る。そんな優志に由香は慌てた。
「謝らないでください。丹羽さんの料理に対する想いはよく分かったんでーー」
 由香は困惑気味にそう言うと優志は恥ずかしそうに自分の頬を掻く。
「普段はこういう話ってあまりしないんだ…ただの健康オタクでお節介おじさんなのがバレるから」
 その言葉に由香が噴き出した。
「健康オタクのお節介おじさんって…面白い人ですね」
「…え?」
 予想外の由香の言葉に今度は優志が戸惑う。
「こういうサークルだし、丹羽さんってチャラい人だと思ってたんです…ごめんなさい」
 そう言って由香はぺこりと頭を下げた。キャンプに誘ってきた友人にほったらかしにされたので、由香は暇つぶしのつもりで優志に声を掛けたらしかった。それを聞いた優志は怒ることなく「暇つぶしになったのなら」と言って笑う。
「…あの、怒らないんですか?」
「何で怒るの?」
 怒られると思って身構えていた由香は優志の言葉を聞いて脱力する。
「俺に気があるのかな? とか考えませんでした?」
「全然」
 優志は考えることなく即答した。
「丹羽さんって…料理馬鹿とか言われません?」
「よく言われる」
 それを聞いた由香はたまらず爆笑する。
「俺、変な事言った?」
「いえ…いい人ですね」
 笑いのツボに入ったのか、肩を震わせながら由香が答える。そんな由香の様子を優志は楽しそうに見ていた。
 笑いの発作が収まった由香は息を整える為に深呼吸すると「今度、二人で遊びに行きませんか」と優志に言った。
「…え?」
「付き合うとかそんなんじゃないですけど、またお会いしたいなって思ったんで」
 少し恥ずかしそうに由香はそう言うとスマートフォンを取り出し、優志と連絡先を交換した。
「じゃあ、また連絡します」
 由香はそう言うと自分のテントへ戻っていった。
 予想外の展開に優志は由香の連絡先が入ったスマホを茫然と見つめる。
「これって…もしかして…」
 生まれて初めて自分の胸の高鳴りを感じながら、朝陽が眩しい空を見上げた。

 ――人の縁がどこにあるのかは神のみぞ知る。
 丁寧に手間暇を掛けるほど美味しくなる料理のように、コツコツと誠実に生きて居れば、やがて味わい深い人生となる。
 苦さも辛さも経験というスパイスを効かせて、幸せの味がする人生とするかどうかは調理人の腕次第。
 最後の盛り付けは運命の女神がとっておきの魔法をかけてくれる。

 美味しくなあれ
 美味しくなあれ

 それは幸せの呪文…。
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