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娘の走る先
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振り払うヘネの扇の端が当たったのか、手の甲に赤い筋が浮かび上がった。
ヘネはそれを一瞥し、そして、断固とした顔で王妃に向き直った。
「落ち着きなさい、ユーレイリア。何も心配いりません。そこで静かにお待ちなさい。——王妃陛下。先程も申し上げたとおり、もうユーレイリアは王太子殿下にエスコートされるほか、令嬢として道はなくなっております。いつものように王妃陛下から、王太子殿下に、お命じくださいませ」
王妃の顔から、怒りが抜け落ちた。
「……いつものように?」
「ええ! いつも母として、子のために最良を選び取り与えているご様子、同じ母として、感じ入っております。今回も、母としてのお言葉なら、お優しい王太子殿下がお断りになるはずがありませんわ」
ヘネが貴婦人らしい微笑みを浮かべ、敬意まで滲ませて言い放った瞬間、王妃の顔が悲痛に歪んだ。鋭利な剣が深々と刺さったような、そんな取り返しようのないほどの痛みの表情だった。
そんな表情を、王妃陛下にさせてしまって、母は、無事で済むのだろうか。私は。——父は?
それが、もう限界だった。
「大変、大変、申し訳なく、どうか、どうか、お許しを——」
ユーレイリアは、母のもとでは風にも堪えない深窓の令嬢のように育てられてきたが、領地にいる時は野原を走り、遠くの丘まで散策をし、馬を駆けさせて領地を見回ったりもしてきた。生粋の貴族の令嬢である母とは、体つきからして違う。
王妃の顔も、王太子の反応も見ないまま、ユーレイリアは母の細い腕と肩をがしりと掴み、部屋から引きずり出した。驚く警備兵たちにもひたすら辞去の言葉を繰り返しながら、驚きに声もない母を引っ張り、塔からできるかぎり人目につかない様に出て、城壁に取り付けられた扉から入れる物置の様なところを見繕って母を押し込めた。
かろうじて付いてきた母の侍女たちに、雇い主の命と雇用が惜しければ、決して母をここから出すなと脅しつけるように言いつけ。
そして、走った。
カンタスの元へ。
いつも困った時に、最後に頼る相手だ。
カンタスは、宴に出る身支度をし、これからユーレイリアを迎えに行こうとしていたところだったらしい。
「遅くなってすまなかったね、待ちきれなくて来たのか?」
たっぷりとしたお腹を見て、ユーレイリアは泣き出してしまった。
いつもいつも、最後の最後は父にどうにかしてもらってきた。だが、今回ばかりは。父まで、ひどい処分を受けたら、どうしたらいいのだろうか。
「どうした、少し座って、ゆっくり話をしてごらん」
王城に来ることでも、母と二人散々勝手をしたのに、こうして心配をしてくれる。どうしてこんな優しい父を、見下してなどいたのだろう。浮気をしていたって、決して家族をないがしろにしたりしなかったのに。
「お父様、私では、止められなかったの。ごめんなさい。いつも迷惑をかけて。でも、今回は、すごく、すごく、大変で。お、お母様が」
「ヘネが来ているのか?」
母は、知らないのだ。母から手紙来るたびに父がそわそわして、大概いつもそうなのに、宛先が私だけと知って決まってがっかりすることを。母の元から帰った私に、うんざりするほど母の様子を根掘り葉掘り聞くことを。今だって、あたりに母の姿を探して、そわそわしている。
いや、幼い頃は、何度も話してみた。けれど母は、信じないのだ。
「今、侍女たちに見張らせて、城壁の空き倉に閉じ込めているの。お父様、私たち、王妃陛下か王太子殿下から厳しい沙汰を受けるかもしれないわ」
「え、ええ? なんだね、何が。泣かなくていい。今からその……倉に行こう。大丈夫だから、まず話を聞こう」
結論から言って、カンタスは大激怒し、あまりの恥にたらりと鼻血まで出したが、最後には、奇妙に悟った顔で、私が全ての責任をとってお二人に謝罪しよう、と引き受けてくれた。
さすがにヘネも少し落ち着いて、青ざめた顔で黙り込んでいる。
「大丈夫かしら。お二人とも……初めから少し、深刻なご様子だったわ」
「そうか……王妃陛下も、王太子殿下も傷ついておられないといいのだが。だがお二人の関係がどんなものであっても、王族相手にそんな脅しをかけては、それだけで処罰の対象になってもおかしくはない。重ければ、ヘネは投獄、私は慰謝料を支払い、そして一族郎党、土地を追われてしまうかもしれない」
ヘネが項垂れた。貴族の夫人としてありえないことをしでかしたと、気がついたというところか。だが、この非常時ながら、ユーレイリアとしては別のことにも気がついて欲しい。それでもカンタスは、ヘネを離縁するとは言わないことに。
「警備の兵たちが特に動いている様子はないから、私たちを捕らえようとはしていないのだろう。時刻からすると、王妃陛下と王太子殿下はご予定通り会場に向かわれたと考えてよい。
ならば私たちは、会場では末席からご挨拶を申し上げて、誠意を示す。その後、正式に謝罪に伺う。……もし、会場入りを咎められてしまったら、その時は仕方ない。逃亡の意志がないことと、謝罪の意思だけは示し続けよう」
なんとかなるさ、とカンタスは丸いお腹を撫でた。
でも、背中はびっしょりと濡れていて、母がそれを拭いてあげていた。
それから、ユーレイリアたちは装身具を一つだけ残してすべて外し、華やかさを抑えた格好で、改めて会場へ向かったのだ。
ヘネはそれを一瞥し、そして、断固とした顔で王妃に向き直った。
「落ち着きなさい、ユーレイリア。何も心配いりません。そこで静かにお待ちなさい。——王妃陛下。先程も申し上げたとおり、もうユーレイリアは王太子殿下にエスコートされるほか、令嬢として道はなくなっております。いつものように王妃陛下から、王太子殿下に、お命じくださいませ」
王妃の顔から、怒りが抜け落ちた。
「……いつものように?」
「ええ! いつも母として、子のために最良を選び取り与えているご様子、同じ母として、感じ入っております。今回も、母としてのお言葉なら、お優しい王太子殿下がお断りになるはずがありませんわ」
ヘネが貴婦人らしい微笑みを浮かべ、敬意まで滲ませて言い放った瞬間、王妃の顔が悲痛に歪んだ。鋭利な剣が深々と刺さったような、そんな取り返しようのないほどの痛みの表情だった。
そんな表情を、王妃陛下にさせてしまって、母は、無事で済むのだろうか。私は。——父は?
それが、もう限界だった。
「大変、大変、申し訳なく、どうか、どうか、お許しを——」
ユーレイリアは、母のもとでは風にも堪えない深窓の令嬢のように育てられてきたが、領地にいる時は野原を走り、遠くの丘まで散策をし、馬を駆けさせて領地を見回ったりもしてきた。生粋の貴族の令嬢である母とは、体つきからして違う。
王妃の顔も、王太子の反応も見ないまま、ユーレイリアは母の細い腕と肩をがしりと掴み、部屋から引きずり出した。驚く警備兵たちにもひたすら辞去の言葉を繰り返しながら、驚きに声もない母を引っ張り、塔からできるかぎり人目につかない様に出て、城壁に取り付けられた扉から入れる物置の様なところを見繕って母を押し込めた。
かろうじて付いてきた母の侍女たちに、雇い主の命と雇用が惜しければ、決して母をここから出すなと脅しつけるように言いつけ。
そして、走った。
カンタスの元へ。
いつも困った時に、最後に頼る相手だ。
カンタスは、宴に出る身支度をし、これからユーレイリアを迎えに行こうとしていたところだったらしい。
「遅くなってすまなかったね、待ちきれなくて来たのか?」
たっぷりとしたお腹を見て、ユーレイリアは泣き出してしまった。
いつもいつも、最後の最後は父にどうにかしてもらってきた。だが、今回ばかりは。父まで、ひどい処分を受けたら、どうしたらいいのだろうか。
「どうした、少し座って、ゆっくり話をしてごらん」
王城に来ることでも、母と二人散々勝手をしたのに、こうして心配をしてくれる。どうしてこんな優しい父を、見下してなどいたのだろう。浮気をしていたって、決して家族をないがしろにしたりしなかったのに。
「お父様、私では、止められなかったの。ごめんなさい。いつも迷惑をかけて。でも、今回は、すごく、すごく、大変で。お、お母様が」
「ヘネが来ているのか?」
母は、知らないのだ。母から手紙来るたびに父がそわそわして、大概いつもそうなのに、宛先が私だけと知って決まってがっかりすることを。母の元から帰った私に、うんざりするほど母の様子を根掘り葉掘り聞くことを。今だって、あたりに母の姿を探して、そわそわしている。
いや、幼い頃は、何度も話してみた。けれど母は、信じないのだ。
「今、侍女たちに見張らせて、城壁の空き倉に閉じ込めているの。お父様、私たち、王妃陛下か王太子殿下から厳しい沙汰を受けるかもしれないわ」
「え、ええ? なんだね、何が。泣かなくていい。今からその……倉に行こう。大丈夫だから、まず話を聞こう」
結論から言って、カンタスは大激怒し、あまりの恥にたらりと鼻血まで出したが、最後には、奇妙に悟った顔で、私が全ての責任をとってお二人に謝罪しよう、と引き受けてくれた。
さすがにヘネも少し落ち着いて、青ざめた顔で黙り込んでいる。
「大丈夫かしら。お二人とも……初めから少し、深刻なご様子だったわ」
「そうか……王妃陛下も、王太子殿下も傷ついておられないといいのだが。だがお二人の関係がどんなものであっても、王族相手にそんな脅しをかけては、それだけで処罰の対象になってもおかしくはない。重ければ、ヘネは投獄、私は慰謝料を支払い、そして一族郎党、土地を追われてしまうかもしれない」
ヘネが項垂れた。貴族の夫人としてありえないことをしでかしたと、気がついたというところか。だが、この非常時ながら、ユーレイリアとしては別のことにも気がついて欲しい。それでもカンタスは、ヘネを離縁するとは言わないことに。
「警備の兵たちが特に動いている様子はないから、私たちを捕らえようとはしていないのだろう。時刻からすると、王妃陛下と王太子殿下はご予定通り会場に向かわれたと考えてよい。
ならば私たちは、会場では末席からご挨拶を申し上げて、誠意を示す。その後、正式に謝罪に伺う。……もし、会場入りを咎められてしまったら、その時は仕方ない。逃亡の意志がないことと、謝罪の意思だけは示し続けよう」
なんとかなるさ、とカンタスは丸いお腹を撫でた。
でも、背中はびっしょりと濡れていて、母がそれを拭いてあげていた。
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