契約結婚の終わりの花が咲きます、旦那様

日室千種・ちぐ

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九話 記憶

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「さて、ご夫君の記憶はここまでです。どうです、奥様。ご自分の記憶、取り戻せましたか?」

 そう問いかけてきた魔女の黒い目に突然焦点が合って、私は驚いた。

「あ、えと、オニキスさん」
「ええ、魔女オニキスです」

 このフード姿。
 胸から花が咲いていた私に、旦那様と添い遂げたいのなら治療をしますか、と淡々と問いかけてきた、魔女オニキスだ。
 覚えている。
 そして私は、今まで旦那様の記憶を見ていた、はずだ。
 驚いた時に意識が切り離されてしまって、ぼんやりした頭では、どんな記憶だったかすぐに思い出せない。ただ、恐れや強い戸惑い、そして自分がぽっかりと空虚になりそうな喪失感が、最後に私の中にも伝わったまま、残っている。

 旦那様は、大丈夫だろうか。こんな強い感情、胸を痛めてしまわないだろうか。お互い、いい歳だ。
 
 魔女がフードを揺らして頷いた。
 
「見たところ、無事に戻ってきているようですね。では、一度奥様の記憶を巻き戻しましょう」
「え?」

 本の頁を繰るほどに何気ない調子でそう言って、魔女が私に手をかざした。
 思わず目を瞑った私の脳裏で、捉えきれない数多の光景がくるくると回ってぐにゃぐにゃと融けた。
 やがて映し出されたのは、ラクサ咲く暗い道端に蹲る女性だった。

 あれは、私だ。
 旦那様と噂の女性らしき人を目の前にして何もできず、勇んで持ち歩いていた箒も取り落として立ち尽くし、旦那様に突き飛ばされ冷たい道に転がって、旦那様が女の名を呼びながら走り去るのを為すすべもなく見送った、情けなく無様で哀れだった私。

 気がついた時には、その時に引き戻されていた。




 旦那様が行ってしまった。
 あの女を探して。背を向けて。
 私を捨てて。

 呆然としていた私を、強い痛みが襲った。胸がとても痛くて、熱いのに冷たくて、息も苦しかった。
 さっきあの女が触ったあたりかと思ったが、痛むのはもっと中だ。胸の奥、背中や肩も痺れるほどに、引き絞られる。脂汗がどっと出た。
 死を予感させる痛みに、耐え難い恐怖が呼び起こされた。

 体を引きずるようにして、家に戻る。
 けれど、このまま中に入ると知られてしまう。旦那様に完全に捨てられた自分を、誰にも見られたくなかった。
 見られなければ、まだ、まだもしかして、希望があるかもしれない、と。涙を流しながら、愚かにもそんなことを思って。
 私は四つん這いで、庭のラクサの木の根元に辿り着いた。

 樹齢数百年まで生きるといわれるラクサの木。
 その木は本当に立派な大木で、結婚するまでは大好きだったのだ。夫婦の寝室から二人で花を眺められるなと、幸せな結婚生活を心待ちにした日々もあった。

 なのに。
 今となってはその美しい枝振りも、誘われるような優しい花も、何もかも、憎くてたまらない。

「う、ううう。どうして……。旦那様。どうしてぇ。こんなつらい気持ちを植え付けるなら、はじめに、捨てたままにして欲しかった」

 幹に縋りついて泣きながら、頭の隅の冷静な私が、自業自得だ、と断ずる。
 弱みに付け込んで手に入れようと足掻いた、愚かな自分が招いたことだと。
 胸が痛い。
 胸が、痛い……。

『レッテ、騎士を目指したこともある強いあなたが、何も確認しないうちに諦めるのですか?』

 レッテ、と自分を呼ぶのは、亡くなった祖母くらいだった。
 祖母が、語りかけてくれているのだろうか。

『何のために箒を構えて鍛錬したのです。真実を見定めなくては。傷つくのを恐れないで。絶望に、自ら飲まれないでください』

 突然耳に届いた静かな声を聴いていると、胸の痛みが少しだけ和らいだ気がした。
 素直に導かれるように、足を踏み出した。


 気がつけば、自室の窓辺にぼうっと座っていて。
 そこへ、旦那様が入ってきたのだ。
 室内の灯りに照らされた顔はひどく窶れていて、この後に及んでほんの一瞬、心配が胸をよぎる。
 けれど、それを瞬く間に蒸発させるほどの、煮え滾る怒りが、私を突き動かした。
 ついぞ、誰かに感じたことのない、純粋な怒りだった。

「おかえりなさいませ。リゼ様のところに行かれたので、契約結婚の妻なんかの元には、お戻りにならないと思っておりました」

 おさまっていた胸が、痛む。
 脂汗が出てくる。吐きそうだ。
 何かが、胸を突き破ろうとしている。
 飲み込まれる。吸い取られる。
 助けて。助けてほしい。

 けれど怒りが激しすぎて、心のままに縋ることができない。
 縋っていいのかも、わからなかった。
 いやいいはずはない。背を向けられたこと、捨てられたことを、無かったとこにはできない。
 助けを求めても、きっとまた拒絶される。
 その光景がありありと想像できて、ともすれば伸ばしそうになる手を、ぎゅっと握り合わせた。

「違う……違う……」

 私の葛藤を知らず、旦那様は幼子のように譫言を繰り返して、背を丸め頭を抱えて小さくなってしまった。
 呻く声も弱々しい。

 この人は。

 憎らしくて、私は顔中を顰めた。
 どうしてこの人は、私の痛みなど見もせずに、自分一人、閉じ籠ってしまうのだろう。
 一度目の求婚を断られたときも、そうだった。優しげな壁を作って、決して私を嫌ってはいないという顔をして、それでいて、何も話してはくれなかった。

 もっと私を内側に入れて欲しい。一人で苦しんで絶望しないで、私がいることを思い出して欲しい。旦那様には私がいて、一人ではないのだと、受け入れて欲しい。
 ——そうしたら、私の隣には旦那様がいて、私も一人ではなくなるのに。私の痛みにも、寂しさにも、気づいてくれるでしょう……?
 ねえ、こちらを見て。

 旦那様は、顔を上げない。
 私を見ないで、自分の悲しみだけを見ている。
 私だって悲しい。悲しくて、胸が痛くて。
 けれど。
 けれど、旦那様が悲しむのを見ていることができなくて。
 恐る恐る、近寄って。拒否されるのを恐れながら、そっと手を伸ばして。

 旦那様の背に、手を置いた。突き放すのではなく、縋るのでもなく、ただその身を案じて。

『よく、赦しました』

 声が聞こえた。
 胸の痛みが嘘のように消えた。
 旦那様が顔を上げて、私を見て、そして、滂沱の涙を流して、私を抱き締めた。
 がむしゃらに。
 私の痛みなど見ないまま。けれど痛みも怒りもすべて、私をまるごと、旦那様の体の中に入れてしまおうとするかのように。

 私は旦那様を支えようと手を伸ばしたはずだけど。
 そうなってはもはや、旦那様と私は互いにしがみついて、互いを奪い合って、そして与えあっていたのだった。痛みも怒りも悲しみも、そして温もりも。






「魔女の種が発芽したのは、正しくはあの時、植え付けられた直後でした。種の発芽は恐ろしい苦痛をもたらし、ほとんどの場合、母体の命を奪います。——だから、魔女は数が少ない。そう気軽に生まれないのですよ」

 オニキスさん、——いえ助けてもらったのだもの、オニキス様と呼ぼう——、オニキス様が説明してくれる声を聴く。
 世界は、先ほどと同じ、再び私とオニキス様だけとなっている。
 不思議な空間だった。
 現実の世界ではない。全てがラクサの花で埋まっているような、白のような、薄紅色のような、ぼんやりとした空間。

「苦痛の合間に、種はさらに不安、不信、疑惑、など人の負の感情を強める作用を及ぼします。母体を精神的に孤立させ、渦巻く憎悪や悲しみを取り込んで、一気に成長するためです。
 あの時、あなたは強い痛みの中で、自分の悲しみや寂しさよりも、ご夫君を思いやった。そのおかげで、負の感情の流入が途絶え、種は活動を止めました。赦すことで、あなたはあなた自身を救った。
 なかなか、できることではありません。さすが勇敢なる花嵐の騎士姫レッテですね」
「ふぐっ」

 最後に冗談混じりで言ってくれるのはいいけれど、本人も記憶の海に沈めていた黒歴史は、やめてください、オニキス様……。
 私は咳払いをして、確信を得たことを尋ねることにした。

「あの時、ラクサの木の下で聞こえた声。あれは、オニキス様だったのですね。魔女の御技なのでしょうか。……私の幼名や騎士を目指していたことなどをご存知ということは、もしかして、祖母とお知り合いなのですか」

「私は、あなたの庭のラクサと繋がっています。あのラクサが、私の命の原木なのです。だから、遠く離れていても、周囲のことが少しわかるのですよ。
 あなたの祖母君、レイチェルが子供の時に越してきたころから、時々様子を拝見していました。レッテと呼ばれていた小さなあなたのことも」

「…やっぱり。そのご縁で、今回も助けてくださっているのですね。ありがとうございます」

 オニキス様は不思議な表情で首を振る。

「魔女と言っても色々ですが、人にとっては魔女は魔女。魔女の後始末は魔女が。ですから、今回も魔女としての私の責任があってのことです。あの魔女があなたを巻き込んだこと、私から謝罪します」
「そんな、あの人とオニキス様は、違います。ですから、謝罪は必要ありません。私はオニキス様に感謝していますし……」

 もっと、言いたいことがあるはず。
 そう思ったが、言葉が形になる前に消えてしまうので、私は口を開けては閉めを繰り返した。
 オニキス様はそれを見てしばらく待っていてくれたが、やがて静かに自分の胸を指差した。

「活動を止めた種は、枯れるわけではありません。長い年月潜伏して、少しずつ、負の感情を吸っていきます。生きる限り必ず抱える些細な負の感情でも吸ってしまうので、どこかで、再び発芽を再開させる可能性がありました。
 ——ただ、それは、あなたの寿命が尽きるのとどちらが早いかという、不確定な未来だったので、私は忠告をしなかったのです」

「……その代わり、ラクサを通して様子を見てくださっていたのですね?」

 ふっと、オニキス様が微笑った。
 この不可思議な空間にふさわしい、ラクサの化身のような、透明な笑みだった。

「勇敢なレッテ、私はあなたが魔女になることを受け入れる可能性は、一つも考えていませんでしたよ。万が一希望されても、私が潰すつもりでした。
 この数十年間、私の目には、あなたは間違いなく幸福に見えていました」

 私は躊躇いなく、ひとつ深く頷いた。

「ですから魔女になることを阻止するのがあなたのためだと思いましたし、もうひとつは……魔女のため。魔女は、もう増えるべきではないし、本来は人に認知されてはならないのです。魔女と人、互いの安寧のために」

「あ……、でも今回は、かなりの人が知っているのではないですか?」
「そう、運悪く遠距離にいたので。あなたのもとに急ぐために、どうしてもあなたの息子さんの力を借りる必要がありました。ただ、あなたの息子さんにだけ私の存在を見せたとなると、この先息子さんが生きづらくなるかもしれないと思って、王家にもあえて知らせましたが。
 その辺は、考えていることがあります。王家と魔女のしがらみも、魔女の呪いのようなもの。どこかで向き合うべきことなのです」

 不穏な展開に、私は逡巡した。
 恩人を前にして、息子の身の安全を案じた。
 それを、オニキス様は咎めなかった。

「これ以上は聞かないで、今の話も夢として忘れてしまうのがいいでしょう。でも、ひとつだけ、覚えていて欲しいお願いがあります。あなたの力の及ぶ範囲のことです」
「はい、それならば、なんなりと」

 私はオニキス様の願いを、しかと引き受けたのだった。
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