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手の中に、月 3
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常に自分に我慢を強いているようだった生活にも少しずつ慣れたせいか、リウトと会うための作戦を練ることで気晴らしになったのか、このところ急激に感情の振れや食欲不振が和らいできている。食事量が安定し、よく眠るようになると、日中も気力に満ち、見える景色が広がってきていた。
アナ女医に言われていたとおり、あれほど世界に絶望していたのが、少し可笑しく思えるほどに。
曇りの晴れた目で見れば、リウトの薄月の目が、いかに優しくシャルフィを見ているかなんて、すぐにわかったのに。
与えられる優しさを返すように見つめていると、月がゆるゆると三日月になった。
ふわりと微かに届く、リウトのにおい。
「あ」
それで、思い出したことがある。
初めて会った時のリウトは、今とよく似た甘いにおいをさせていたな、と。唐突に。
シャルフィから見たら十分、大人。けれどその時のリウトはまだ線が細く、どことなく中性的だった。彼からふわりと感じたにおいは、甘い中に爽やかな青さがあって、少年から脱したばかりの若々しい姿によく合っていた。
「思い出したわ。リウトと初めて会ったとき、私は本を読みたくて夜更かしをした翌日で。明るい庭はちょっと眩しすぎて、つらかったの。だけど、リウトからとても優しいにおいがして、意識が逸れたのよね。こんなに素敵な人がいるんだな、ってびっくりして」
そうしてあのとき胸の奥にひっそりと、初めての花が咲いたことも思い出した。
リウトに守られるたび、リウトを知るたびに咲く恋の花は香りは放ち。幸せでほんのり甘く、時に苦い、そんな香りが積もり積もって湖となったのだと。
思い出した途端に、シャルフィの心の湖を囲うように、一斉に花が咲いた。
想いの香りが再び満ちる。
凍り付いていた湖の上、取り残された舟のように、寂しく遠い月を見上げていたシャルフィを、歌うように揺れる花が励ます。
恋のにおい、花の歌、あたたかな月の光、その白銀の梯子をたどって見下ろせば。
ぱしゃり、と水の音がして。
湖を掬うシャルフィの手の中に、月――。
しゃら、と鎖を鳴らしてシャルフィが差し出した両手に、リウトが手を乗せた。大きな分厚い手は、シャルフィの動きに沿って、手のひらを上にしてくれる。
シャルフィはそこに、そっと唇を寄せた。
「シャル、フィ?」
リウトがどこかずっと緊張しているのが、手の汗ではっきりとわかった。
湿った手のひらから、わずかにリウトのにおいもする。
若い頃にあった青さの減った、甘い、どこまでも甘いにおいだ。
この馨しいにおいをいつの間にか感じられなくなったのが、二人ずっとそばにいて、馴染んでいたからならば。
リウトのにおいが意識できるのは、きっと今だけ。
「せっかくわかるようになったのに、悪阻が落ち着いたらまた感じなくなるのしら。それは、ちょっと残念だわ。だって、とても好きなにおいなのよ。私にとって一番身近で、安心できて、大好きで、でも少しドキドキするにおいなの」
アナ女医に言われていたとおり、あれほど世界に絶望していたのが、少し可笑しく思えるほどに。
曇りの晴れた目で見れば、リウトの薄月の目が、いかに優しくシャルフィを見ているかなんて、すぐにわかったのに。
与えられる優しさを返すように見つめていると、月がゆるゆると三日月になった。
ふわりと微かに届く、リウトのにおい。
「あ」
それで、思い出したことがある。
初めて会った時のリウトは、今とよく似た甘いにおいをさせていたな、と。唐突に。
シャルフィから見たら十分、大人。けれどその時のリウトはまだ線が細く、どことなく中性的だった。彼からふわりと感じたにおいは、甘い中に爽やかな青さがあって、少年から脱したばかりの若々しい姿によく合っていた。
「思い出したわ。リウトと初めて会ったとき、私は本を読みたくて夜更かしをした翌日で。明るい庭はちょっと眩しすぎて、つらかったの。だけど、リウトからとても優しいにおいがして、意識が逸れたのよね。こんなに素敵な人がいるんだな、ってびっくりして」
そうしてあのとき胸の奥にひっそりと、初めての花が咲いたことも思い出した。
リウトに守られるたび、リウトを知るたびに咲く恋の花は香りは放ち。幸せでほんのり甘く、時に苦い、そんな香りが積もり積もって湖となったのだと。
思い出した途端に、シャルフィの心の湖を囲うように、一斉に花が咲いた。
想いの香りが再び満ちる。
凍り付いていた湖の上、取り残された舟のように、寂しく遠い月を見上げていたシャルフィを、歌うように揺れる花が励ます。
恋のにおい、花の歌、あたたかな月の光、その白銀の梯子をたどって見下ろせば。
ぱしゃり、と水の音がして。
湖を掬うシャルフィの手の中に、月――。
しゃら、と鎖を鳴らしてシャルフィが差し出した両手に、リウトが手を乗せた。大きな分厚い手は、シャルフィの動きに沿って、手のひらを上にしてくれる。
シャルフィはそこに、そっと唇を寄せた。
「シャル、フィ?」
リウトがどこかずっと緊張しているのが、手の汗ではっきりとわかった。
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若い頃にあった青さの減った、甘い、どこまでも甘いにおいだ。
この馨しいにおいをいつの間にか感じられなくなったのが、二人ずっとそばにいて、馴染んでいたからならば。
リウトのにおいが意識できるのは、きっと今だけ。
「せっかくわかるようになったのに、悪阻が落ち着いたらまた感じなくなるのしら。それは、ちょっと残念だわ。だって、とても好きなにおいなのよ。私にとって一番身近で、安心できて、大好きで、でも少しドキドキするにおいなの」
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