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手の中に、月 2

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 穏やかな言葉。君という呼びかけ。
 二人の距離は一気にあの夜まで戻ったようだった。

「ご、ごめ」
「シャルフィ、もう謝る必要はない」
「う、うん」
「こうなったら、きちんと時間を取る。ゆっくり話そう。焦らなくていい」

 するりと主導権をとってくれるのに以前の関係が戻ってきた気がして、どっと肩の力が抜けたシャルフィは、ソファに斜めにもたれかかった。
 二人の間のテーブルには、エネがあたたかな飲み物を用意してくれている。

「これは……? 紅茶は出さないはずだが」
「あ、これは、南方の赤茶よ。妊婦でも飲んで大丈夫だと、侯爵夫人がくださったの」
「侯爵閣下と侯爵夫人のことは、また後で教えて。……そんなお茶があるんだね。知らなかったよ」
「数年前に、南の国から大使が持ち帰った赤茶がとてもよいと、今は輸入量が増えているそうよ。貧血の予防にもなるんですって」

 リウトの薄雲に隠れた月の眼が、どこか遠くを見た。

「貧血か、それは大事だな。そうか」

 知っているのだ、とシャルフィはぼんやり思った。シャルフィはアナ医師に聞くまで、妊婦が貧血になりやすいなんて知らなかったのに。

 出産は女性の神秘であり自然に任せるべきと考えられてきたために、未だ産科の医師はとても少ない。理由の一つは、女性しか産科を名乗ることを認められないこと。医学が介入するようにはなっても、いまだ、出産は男子には秘されている。出産を扱う医学書の出版が公に認められないため、産科医の教科書は原則門外不出だという。
 当然、一般の女性が自分の体のこととして知るべき知識も得る機会もない。男性であれば、さらにその目からはすべてが隠されるだろう。
 アナ医師がリウトに妻とはいえ女性の妊娠の詳細を知らせているのは、例外中の例外であり、アナ医師の合理的な性格と、リウトの強い要求あってのことだ。

 しかしリウトの様子は、明らかにアナ医師から聞いただけではない、実感がこもっていた。妊婦を見守った経験があるかのように。
 そんなことをちらりと考える間に、寒くはないか、夜はよく眠れているか、立ちくらみはないか、などと次々に問いが来て、シャルフィはしばらくは答えることに専念することになった。

「……ええ、それに足が攣ることもないわ。ねえ、どうしてリウトはそんなに詳しいの?」
「詳しくはない」
「でも私よりは詳しいもの」

 ふと、リウトが視線を切った。聞かれたくないことなのだろうか。
 すぐに、悪阻は悪化していないかと質問が続いて、シャルフィには踏み込む余地がない。

「悪化はしていないけれど、食べ悪阻が本当に困るわ。今まで嫌いでどうしようもなかったあの苦い飾り野菜が無性に食べたくなるの。今だって嫌いなのに、どうしても口に入れたくなるから、混乱する。あと、好物だとも思っていなかった思いがけないものがダメになって。食べられなくなってから、好きだったんだなって気づくのよ」

「そうか」

 くすり、とリウトが笑った。
 雑談ばかりで肝心のことは何も話せていない。なのにシャルフィはそれだけで、気持ちに羽が生えたように軽くなってしまう。

「そうよ。例えば茹でた小さな穀物のクメなんだけど。私はお野菜にかかっている塩茹でのクメが好きだったのよ。好きとも気付かず、ずっと何も思わずに食べていたけれど。どうしても胸が悪くなるから抜いてもらうことにしたのだけど、お野菜が物足りないわ」

「悪阻もいつかはおさまる。また食べられるようになる」

「そうね、だけど……ねえ、リウト」

 改めて呼びかけたとき、かすかにリウトの体が不自然に揺れた。
 シャルフィは違和感に言葉を止めたが、リウトの表情は特に変わらなかったから、見間違いかもしれない。

「えっとあの、リウトの、においのこと。あれも悪阻のひとつだろうとアナ医師に教えてもらったの。食べ物と同じ、好きなにおいを急に受け付けなくなったり、なんとも思ってなかったにおいをするそうよ」

「そう、なのか」

「うん。でもね、私ずっと、リウトは無臭だと思っていたの」

「それは俺にはわからないな。君の嗅覚を知っているから、特に身綺麗にはしていたつもりだが」

 ふるふると、首を振る。

「アナ医師はね、相性がよい男女は、互いのにおいを意識しなくなることもあるっておっしゃってた」
「相性」

 リウトが思わずという風に呟いた。鋭い目が丸くなって、心底驚いている顔で。
 ふふ、とシャルフィの胸の底から、笑いの衝動がこみ上げる。
 しんとしていた心の湖が、泡が湧き上がるようなその揺れにとんとんと揺れた。この頃はずいぶんと薄い氷になっているようだ。まるで春が来たように。


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