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まるで信徒のように(リウト)1
しおりを挟むあの夜、どうなだめても泣き止まないシャルフィは、それどころか、リウトが近づくたびに苦しげに身を捩った。
リウトが一番理解していると自負していた女性は、理屈や感情ではなく、生理的に自分を拒絶している。
そう悟った時、リウトは衝動的に屋敷を飛び出していた。以来もう半月ほど帰っていない。
記憶はないが、着替えをして、最低限の荷物も持ち出し、侍従や執事たちにも必要な言付けはしてきたようだ。
領地に行くと告げて出てきたらしいが、リウトが滞在しているのは子爵家が都の端に有事のために所有していた小さな邸宅だ。家の書斎にいれば数歩の距離で手に取ることのできる数多の資料を、いちいち侍従らにこっそりと持ち出させては返却させ、という余分な手間をかけて、ここで、子爵家当主の業務をこなしている。
飾り気のない部屋の素っ気ない机に向かって黙々と仕事をし、合間に身体を痛めつけるように鍛錬をして、また仕事をする。ここでの日々はその繰り返しだ。
食事は決められた三度差し入れられるものだけ。他は断っている。むしろ、食事ですら無理矢理詰め込んでいるだけで味がしない。
茶もない、酒もない、もちろん、花もない。
その人間味のない部屋に、手紙が届けられた。
嫌になるほど束で送られてくる仕事の書面ではない。仕事のできる執事が、その手紙だけは盆に載せて運んできた。
「奥様からです」
聞き終わる頃には手紙の封を開けていた。
今まで顔を合わせない日がなかったため、シャルフィから受け取る初めての手紙だ。周囲のことすべてが吹き飛んだ。
だが、内容はあっさりしたものだった。
『お話があります。お帰りください』
もちろんだすぐに帰ろう、と思って、はたと止まる。
「この手紙はどこを経由したものだ? 領地宛に送られたものなら、少し時間をおかねば」
領地まで早馬で丸一日かかるから、返事が届くまで三日は見ているはずだ。リウトが即日いそいそと帰っては、おかしなことになる。リウトは、つい舌打ちをした。
「領地宛でしたが、気がついた者がこちらへ直接届くよう手配してくれたようですね」
「……明後日の朝、屋敷に顔を出す」
「顔を出す? 領地からだと長旅です。顔だけ出して、はいさようなら、はそれこそおかしいのではないでしょうか?」
「……屋敷に戻る」
執事の口調も視線も、だいぶ遠慮がない。仕事上、大変な不便を強いているのだから、こればかりはリウトに非がある。
領地から戻ったとなると、数日は滞在することになるだろう。
シャルフィに呼び出されたことに高揚してすぐにでも顔を見たい気持ちと、顔を見ればまた拒否されるかもという恐れがない交ぜになり、リウトは渋面になった。
滞在する間は、夜はどうなるだろうか。いや、まともに話すらできるかわからないのに、夜の心配かと暗く自分を嗤う。
明らかに、情緒が平常ではない。
便箋を元通りにしてそっと机の上に置くと、リウトは上着を脱いで隣の部屋へと向かった。家具のない、窓も鎧戸を閉めたままのがらんとした部屋で黙々と剣を振るうのが、疲れや雑念を追い払うのに効くのだ。
ひとしきり汗を流し、今考えても仕方のない不安を封じ込めると、すぐさま執務机にとって返して、猛然と書類を繰り始めた。
仕事は、屋敷にいた頃より多い。厳しく言いつけて、本来は夫人の担当である屋敷内の取り仕切りのあれこれも、一度リウトを通ることになっているからだ。
半年先の冬支度の点検項目をまとめた分厚い書類から、屋外の倉庫と地下の倉庫の一覧を抜き出し、在庫確認を三人で行うよう指示をする。買い付けのための指示書は、品目と個数、そして署名を書き入れるだけの手紙を必要枚数予め用意するように申しつけた。
年に一度、妻個人の財産状況を確認する書類も届いていた。慣れていなければ意味を読み取ることも難儀する小さな文字と数字たち。リウトは財産管理担当者に向けて指示を出す。表から読み取れること、判断してもらいたい点、選択肢ごとのメリットデメリットを手紙の形で書き記して添えるように、と。他人の説明だけでシャルフィが納得することはないだろうが、それを読んでから表を見れば、少しでも判断が容易だろう。
シャルフィの手を煩わせることは、省けるだけ、省きたい。
能力を信用しないわけではない。だが、昨年は冷えた倉庫での確認作業のせいで風邪を引いて寝込んだし、大量の指示書を書くだけ、小さな数字を眺めるだけでも眠る時間は削られて、身体は弱ることになる。
人並みの健康、というのは、調子のよいときだけの話に過ぎず、シャルフィは余人よりも頻繁に熱を出すし、治りも悪いのだ。
甘やかしすぎだとは思わない。自分が泥を被っているとも思わない。
下の者に任せられる仕事は任せて、それで潤滑に回せるように整えるまでのこと。五年ほどで体制を整えれば、その後はずっと楽になるはずだ。
その分、質のよい使用人を多く雇うことになるが、その投資は惜しくはない。自分や次の代の当主の時間が空けば、より広い視野に立った判断ができるようになると信じるからだ。
かといって、子爵家の仕事、領主の仕事は、効率化できることばかりではない。
リウトもまた、当主を引き継いだばかりの時期にはひそかに胃を痛めた。そのための勉強を重ねてきたし、前当主である義父も気を配ってくれたが、それでも責任の重さに眠れない夜が続いたこともあった。
だが結局どんな仕事でも、シャルフィのためとなれば、苦にならないのだ。
――初めて顔を合わせた時から、リウトはシャルフィの虜だ。
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