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エスゴットの月の薬2
しおりを挟む俯いたシャルフィの肩を、小さくも力強い手が温めた。
「その通り、妊娠初期は心が乱れやすい。小さなことを行き過ぎて悩んだり、この世の終わりだと思ったりは、案外と体内の撹乱に影響された一時だけの激情です。今の悩みのほとんどは今だけのことだと思って、おおらかな気持ちでいてください。傷つけたら傷が残りますから、今だけは忘れるのがいいでしょう」
ふとシャルフィは胸に手を当てて首をかしげた。
くさい、嫌いよ、と投げつけた酷い言葉が脳裏をよぎる。あんなこと、言いたいはずがない。あんなことを言われて、平気なはずがない。おそらく。
「今は生理的に無理でも、体調が変われば、好きなにおいに感じるかも?」
「あり得るでしょうね。それにご存じですか? 相性のいい男女は、お互いの体臭をよい匂いに感じることが多いそうですが。あまりに相性がよいと、互いに意識しなくなることもあるらしいですよ」
「それで、夫のにおいを感じていなかった、と……?」
女医はにっこり笑って、何ごとも良いように考えましょう、と締めくくった。
「今は、妊娠にお体が慣れるのを待ちましょう。それから、その後の出産に意識を向けてほしいですね。ああでも、今後は、薬を止めるときは医師にご相談くださいね」
はあ、と息を吐いたシャルフィの手から、エネがペンを抜き取った。
「診察だとて体力を使われたでしょう。今日はおしまいになさいませ」
もう少し、と言おうとすると、絶え間なく燻る不快感が濃厚になったので、シャルフィは諦めた。そもそも、やり過ぎてしまう自分を監視してほしいと、シャルフィ自身が望んだ声かけだ。
リウトへ妊娠が伝わらないように、家令と侍女長、そしてアナ医師には口止めをしている。けれどそれも一時凌ぎだということは、よくわかっていた。
子爵家の実際の当主はリウトで、今は不在とはいえ、王都の本拠地であるこの屋敷にも、彼の側近はたくさん残っている。いつまでも隠し通せるわけがない。
「……リウトは、たぶん私の妊娠を望んでいないのよね。そういえば、リウトだって何か男性用の避妊をすると言っていたわ。でも確実じゃないとも聞いたから。だから私は勝手に、ずっと期待していたの、二年の間」
エネが振り返ったが、余分なことは言わない。それが楽だった。
「私って、全然リウトのことわかってなかったのね。そんな夫婦で当たり前の子供の話ですらしたことなかったこと、今更だけど気がついたの。リウトは、私が妊娠したってわかったら、どうするつもりなのかしら。もしかして堕――」
「おやめください。考えてもわからないことですし、まさか旦那様がそのような」
シャルフィよりよほど、エネの方が傷ついた顔をしていた。
「そう、よね。考えてもわからない。話を聞かないと」
そうですね、とエネが柔らかに頷いたのは、話し合いが上手くいくことを想像しているからだろう。しかし、そうとは限らない。
「リウトがあくまで認めてくれないなら、私、選ばなきゃ」
何を選ぶのです、とエネが不安そうに問う。幼い頃から周囲の予想を超える行動をとるシャルフィを、よくよく知っているからだ。
けれどあれは、嘘ばかりつく大人に怒って、自分の道理を通そうとしていただけ。今でもシャルフィに後悔はない。
そしてその道理に理解を示してくれたリウトを、かつてシャルフィは大人の中でただ一人、信じていたのだけれど。
「それはもちろん、夫か、子かよ。アナ医師が言ってた。出産に関して男性ができることなど、オロオロと女の身を案じてそばにいることだけだって。だから女性がしっかり意志を持たなければいけないって。そうね。そのとおりよ」
絶えずお腹が不快だ。体はなんとなく熱っぽいし、疲れやすい。
アナ医師には、心穏やかにと言われたけれど。
けれどシャルフィは戦わねばならない。シャルフィが生きたいように生きるために。
急に、腹の底から激情が吹き出したようだった。
「女の身を案じてそばにいることすらしないなら。――もういいわ、リウトなんて」
リウトのことを考えたせいか、ふとあの甘い香りが鼻をかすめた気がした。
シャルフィは落ち着いて、深呼吸をする。一瞬沸き起こった強い吐き気が穏やかになっていくのを、意識して感じ取る。
大丈夫。今のは幻臭、ただの過去の香りだ。
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