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こんな茶番はもうたくさん
しおりを挟む七日後。下腹部の違和感をなんとはなく感じるが、出血はないままだ。
夫婦の寝室で、シャルフィはリウトの手を、ぎゅっと強く握ってみせた。リウトの眉は寄せられたまま、寝台の上で寄り添ってからも、シャルフィの体調をしつこく気にしていた。
「シャルフィ、念のため聞くけど、懐妊ではないのだよね?」
「違うわ。先生だってそんなことおっしゃらなかったもの」
「そう、だね。もちろんそのはずだ……。でもシャルフィ、無理そうだったら言って」
「ええ、リウト。早速だけど、ちょっと待って」
胸元のリボンを解こうというところで、シャルフィはリウトの手を止めた。ぴたり、と凍ったように動きを止めた夫の胸を押して促して、仰向けに寝転んでもらう。
いつもリウトのなすがままだったから、シャルフィからは初めて触れたかもしれない。
そして、自分は身を起こしてから、口と鼻をぐるりと覆う布の結び目を念入りに確かめた。
「シャルフィ、聞いていい? それは、どういう?」
不安げなリウトの顔など、初めて見た。銀の髪が枕の上で乱れているのも、珍しい。
シャルフィは目をパチパチとさせながら、あえて浅い呼吸を繰り返した。
「気にしないでじっとしていて。動いたらダメよ」
思ったよりも、切羽詰まった言い方になったかもしれない。仕方がない。布はしっかり鼻を覆っているけれど、心許ない。あまりゆっくりはできなそうだ。
とても引き締まって見えるのに実は太い腰を跨いだ時、リウトが音のない叫びをあげた気がしたが、シャルフィは自分の興味に集中していて、それどころではなかった。
座り心地はごりごりしていて良くはないが、一応何がそこにあるかはわかっているので、今は気にしないことにする。もし体重がかかって痛かったら、さすがのリウトでも止めるよう言うだろう。
リウトは今日も、湯上がりだ。シャルフィは、いくらか湿ったガウンをがばりと開けた。力が入っているのか、いつもより胸の盛り上がりが大きい気がする。指先を揃えた手で体の表面をなぞって、ぼこぼことした起伏を検分していると、滑らかな肌がしっとりと温まってきた。
どこだろう。浅い呼吸では、わからない。
覚悟を決めて、シャルフィは背中を丸め、まず夫の耳元に口元を寄せた。
違う。……首筋も、違う。うなじ、は少し?
一度体を起こして、はあはあと呼吸をする。
それから、おおきく広げたまま、寝台に張り付けられたようになっている太い腕に向かって伸び上がった。
腰をずりとずらした時にリウトが呻いたように思ったが、視線を向ければ何もなかったように目を閉じている。安心して、リウトの上に寝そべるようにして腕に顔を近づけた。リウトよりは小さな胸が潰れて、少し苦しい。
ここも違う。いや、強いて言えば二の腕の内側……?
首を傾げながら、少しずつ、いざりながら下がって、脇も臍も、ちょっと躊躇ってから、えいっと下着越しに股間にも鼻を近づけるが……違う。では太腿か膝か、とさらに下りかけて、シャルフィの細腰ほどありそうなリウトの太腿が汗でびっしょりなことに気がついた。
「こんなに汗……」
それなのに、やはりここでもない。どういうことだろう。
は、は、とずっと浅くしか吸えない息が苦しくて、肩が揺れる。自分の顔が赤くなっているのを感じる。
見上げた先で、リウトもまた、薄っすらと赤らんだ顔を持ち上げて、食い入るようにこちらを見ていた。
呆けた顔をしていた。お互いに。
気が緩んで。
その瞬間に、突き上げるように不快感が込み上げた。
「う、うう、やっぱり無理!」
「え、シャルフィ!?」
目を見張るリウトを置き去りに、シャルフィは掛布をかき集めて頭から被ると、すっかり第二の寝室となった部屋に駆け込んで鍵をかけた。
そのまま、寝台に潜り込む。
裸で、しかも掛布も取り上げてしまったのに、リウトは数分の差で、シャルフィのいる部屋まで追ってきた。
「シャルフィ? 一体どうして、いや貴女は悪くない。私が何か至らないのだな。もう少し時間を置いてみよう。それまでは何もしなくていいから、せめて一緒に休もう。夜中に貴女の体調が悪くなったりしたら心配だ」
扉の外で、使用人たちの耳も気にせず訴えている。
リウトは忠実なだけではなく、いつも誠実だ。
夫婦の間に誠実は必須である。誠実を欠く夫婦は、どれほど熱い恋愛を経ていようとも、長持ちしないという。だから、二人はこれから、とても良い夫婦になれるかもしれない。
なれるかも、しれなかった。
でも、きっともう遅い。
悲しくて、シャルフィは込み上げてきた黒く苦い塊を、恋の花のなれの果てを苦しさに負けて吐き出した。
「もう無理よ……だってそもそも」
声がこもる。シャルフィは鼻と口を覆う布を解こうとしたが、結び目が固すぎて断念し、そのままぐいぐいと首まで引き下げた。
「そもそも!」
大きなひと声を出せば、もう、堰はないも同然だった。腹立ちや苛立ちが、口からだけではなく、目から肌から髪から滲み出る。それはまるで自分の体臭が饐えて漂い出したかのようで、夫とはいえ標的にしてはいけないと思うのに、投げつけるのを止めることができない。
「私達が共に眠るのは、週にたった一夜。それも私が寝入るまでの時間だけ。ほとんどの夜、私は一人だわ」
大好きな夫を相手に、悍ましい感情しか沸き起こらない。
そんな自分が悲しくて、惨めで、憐れだった。
「だから別にあなたに見守ってもらわなくても問題ないのははっきりしてる。どうぞお部屋に戻って。私のことは……お気遣いなく」
今夜だけ付き添ったからといって何になるのか。かくも中途半端な提案を、リウト自身だって本当に必要だと思っているのかどうか。
流石に騎士であったためか、勝負どころの勘や洞察力に優れ、それでいて政治の駆け引きだって下手ではないと、父からリウトの評を聞いたことがある。そんなに如才ない男にしては、愚かで無意味な申し出ではないか。
いや、忠実な騎士、誠実な夫として、リウトはきっと決めているのだ。週に一晩だけは、幼い頃から守った姫に尽くすと。
それだけのこと。それだけのことでしか無い。
それを超えて求められることなど、あった試しがないのだから。
急に突きつけられた、夫との心の距離。思うように求められない切なさ、不安、寂しさ。すべての不快感が、鋭く神経を刺した。
自分でも信じられないほどのあっけなさで、シャルフィの理性は崩れていく。
「こんな茶番は、もうたくさん。しばらく顔を合わせたくないわ」
自分の心ごと、すべてを引き裂くように、厳しく通告した。
子爵家の当主はリウトでも、シャルフィこそが正統な系譜だからと、屋敷内ではいつもシャルフィこそが主のような扱いを受けていた。その主そのものの口調で、言い渡したはずが。
即座に、ガチャリと音を立てて扉が開いた。
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