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王都18
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ホールへと主君とともに入って、中央に主君の友人であるアンダート伯爵夫妻が無事でいるのを見て、セウスはほっと息をついた。彼らは一番に安全を確保され、今は少し離れて様子を見ているようだ。
兵たちに取り押さえられた若い男は、屋敷のお仕着せらしき服装を乱して、深く項垂れている。今夜の罠にまんまと誘き出され、想定通り臨時雇いで潜り込んだらしい。
「屋敷の周りに待機していたお仲間とも、すぐ会えますよ」
声をかけると、呆けた顔を上げた。唇だけが、細かく震えている。
「伯爵家邸内の事件ですが、特例として私たちが貴方を連行します。ご家族への連絡はしません。時間がかかれば、死んだものとされるかもしれませんが、まあ、あなたの協力次第です」
これは脅しではない。事実だ。むしろ、通常であれば即切り殺されてもおかしくはない。
だが男は、これに勝手に脅かされてしまったらしかった。突如体を絞られたような声を上げたかと思うと、猛然とリガチェに吠えかかった。
「どうにか、どうにかしてください。神官様、責任を取ってください!」
それを見て、兵たちがさり気なく抑える力を緩める。男は床に両手足を擦りながら這い、リガチェに飛びついた。
「ひっ、ま、待ちなさい。そう言われても……」
腰の引けたリガチェが、男の腕をもぎ離そうとするが、そうはさせまいと男は両腕で抱きしめるように膝を掴んだ。老いた神官が倒れ込んで意識を失うのは困る。兵の一人が、リガチェの背後をそっと支えた。
「あなたが、あなたがうちに来た小神殿の神官様たちの師で、皆さんはあなたの代理なんだと聞きましたよ。私たちに、いつも神官様たちは困った困ったと言っていた。どうにも『精霊の箱庭』が神の教えに沿っていないように思えるのに、人々がもてはやすのは何故か、どうしたらいいのか、わからないと。神の意志に反しているならば、このまま人々が何もしないのは、恐ろしいと。いつか来る未来に皆後悔して絶望すると、考えるだけで気が塞ぐ、と。
何度も聞いた。毎週、うちに学びにきている近所の子供たちも。何度も。
私たちは、神官様を尊敬すべき方々だと教わってきた。辛い修行を経て、神への道を歩む方々だと。私たちは、神官様の修行を支えて、ほんのわずか、その徳を分けていただくのだと。だから、神官様には便宜を図るように、と、幼い頃から言い聞かされてきた。
だから、思うじゃないですか! そんなに困っているのに、神官様たちが思い悩むばかりで何もできないのなら、代わりに何かできないかって。
箱庭は冒涜的だと皆怖れてた。存在してはいけないものだって。だから、壊してしまえばいいって、思いついて、神官様にだって、お話しした——」
「知りません!
箱庭のことは、すべてあなたの解釈でしょう。落ち着いて。思い出してみてください。
神官たちが、一度だって、はっきりと言いましたか? 箱庭が、神への冒涜だ、など。そんなこと」
「言ってましたよ! うちで大勢が聞いています」
リガチェは愕然として、へたり込んだままの若い神官を見た。視線を受けた神官は、青ざめ、唇と震わせながら、さっとその視線を避ける。
認めたも同然な態度だった。
「結論ありきのくせに、持って回ってこちらに考えさせるような質問ではなく、白黒はっきりしてほしい、って要求するのは、うちだけじゃないはずですよ。お貴族様じゃないんだ。何度かそういう質問をしていたら、はっきり言ってくれるようになりました」
「なん、なんという。それは、誤解を招くお話をしたようで、うちの小神殿の神官が申し訳ない。だが、彼は私の弟子というわけでは」
師弟関係を否定しちゃ、だめですよね。
憎々しげに言う男は、いまや燃えるような怒りを目に浮かべている。
「箱庭の前でニヤニヤしてる時から、おかしいと思ってた。あんた、弟子だけ切り捨てようとしてるんじゃないか?
でも、俺は見たし、聞いた。うちに来てたそこの神官様が、師のために拡大鏡を修理したいって、うちに工房の伝手がないかって聞いてきた。曇ってきてしまったけれど、貴重な一点ものだから、長く使えるようにして差し上げたい、と。結構金がかかるが、師弟になって十年の記念にするのだ、とね。
その、今持ってるやつだよ。同じだ。一度落として欠いてしまったと言ってた、縁の三角の小さな傷も!」
「ーーこの、考えの足りぬ魯鈍な愚図が!」
ついにリガチェが怒鳴りつけたのは、俯いたきり小さくなって動かない、自らの弟子だった。
「あれほど、言葉に気をつけよと教えたものを! うかつな! 民は民、どれほど交わろうと、兄弟ではない。気を許しすぎだ、馬鹿者! 本当の兄弟弟子たちをこそ、最後の最後にお前が守らんか!」
師の激昂に、弟子は蹲ったまま、か細い声で何事かを繰り返すばかり。リガチェは、罵倒を尽くしてしまうと、それ以上どうして良いかわからぬかのように、自分の口元を片手で鷲掴みにした。
男は、告発を終えてぶるぶると震えたまま、小動物のように様子を伺っている。
その輪からひとり離れた位置に、いまだに箱庭を抱えた神官がうっそりと立った。
「リガチェ神官。まさかあなたが、人心を惑わすそのようなことをおっしゃっていたとは」
悲しげな声。だが、リガチェを見る目に込められた呆れと嘲笑は隠しきれず、リガチェは顔を半分隠したまま、睨みつける。手から覗く肌は紅潮し、目まで赤い。
「お前……お前、なぜそのまま、箱庭を差し出さなかった。ほんの少し、あの男に叩かせれば、それで破壊されただろうに。さすれば、この男は目的を果たし、我々に疑問を抱くこともなく、己の信じるところを通しただろう。
我らはここに、箱庭を破壊しにきたわけではない。神官への疑念を払拭するため、そのためにここに来たのではないのか。お前も。
であれば、お前の行動は本末転倒ではないか」
ゆらゆらと、若い神官は首を振った。ゆらゆらと。
「本末転倒ではありませんよ。神官への疑念を避けるために箱庭を差出す? そんな恐ろしいこと。神殿にとっての最善の道は、こうしてあなたの危うい思想がはっきりと皆に知らしめられることですよ、リガチェ神官。おわかりでしょう?
私のせいではありません。あなたがしたことが、あなたへかえってきただけです。あなたの弟子の言動は、あなたの言動と同じなのです」
リガチェの顔から、水をかぶったように、血の気が引いた。
「お前、ネグルの弟子か? あいつは、また私をそうやって使うのか」
「ネグル神官? とんでもない、私はかの神官の教えを乞うほどの身ではありません」
「関係ない……? では、いったい」
力を失い座り込んだリガチェと、若い弟子は、拘束はせず、両脇を兵たちが抱えて立ち上がらせた。彼らは、神殿へと送られる手筈だ。
それを冷たく見ていた若い神官は、事情聴取に同意をしたが、箱庭を受け取ろうと使用人が近寄ると、困ったように細い眉を下げた。
「それが、さきほど立ち回った時に、金具が外れかけたらしいのです。少し持ち方を変えるとばらばらになりそうなのですが。どこか、別のお部屋に置くのであれば、このままそっとお持ちしますが」
「まあ、では申し訳ございませんが、あのワゴンまでお願いできますでしょうか」
あたりには、客たちの取り落としたワイングラスや装身具などが散乱している。ワゴンを近づけることができず、扉付近に待機させていたようだった。
もちろん、と応え、神官はそろそろと箱庭を運ぶ。
兵たちはそれをしっかりと見張ってはいたが、この神官が箱庭を守ったと聞いていたために、警戒はしつつも、手の届かない範囲まで行くのを止めようとはしなかった。
扉が近い。
今は全開になり、向こうの廊下は後片付けや後処理に奔走するものたちが、脇目もふらずに行き交っている。
「あ、すみません、いま小さな部品が落ちました」
「えっ、どこですか」
「後ろで音がしたような」
使用人が慌ててしゃがみ込んで床を眺める、それを見もせずに、箱庭を抱えたままに神官は廊下へと出ていこうとした。
「待て」
セウスがそう声をかけるより前に。
「ぼっしゅう~」
軽い声と気だるい態度ながら、いつの間にか廊下から近づいたゼアが、ひょいと箱庭を取り上げた。
驚く様子の神官を、空いた片手で簡単に拘束して床に押さえつける。その顔は、笑顔ではあるが、笑顔であるとは言いたくない凄まじさだ。
「箱庭を、勝手にどこに持っていくのかな? しかも部品がとれちゃった~だあ?? ミリアンネ様の箱庭に、そんな粗悪なものねえわ!」
ねえわ、と叫んだ途端、ゼアの手からバラバラと箱庭のガラス板がこぼれ落ち、床に当たって砕け、散らばった。
あっと声を上げたのは、誰だっただろうか。
ゼアは目と口を同じほどに開けて、声も出せずに固まっている。
その足元で、拘束されたままの神官が不気味に体を揺らして笑い出したので、セウスはゼアは放置して、そちらに注目した。
「今、今、一瞬ですが、光りませんでしたか? ほんのり、何か光った。いえ、私にしか見えなかったのかもしれませんが。確かに光った」
奇妙な興奮が収まらない様子を、リガチェ神官が苦々しい顔で見た。
「光も、何も、見えなかった。
お前は一体、なんのために……?」
「おや、リガチェ神官も我らも同じ神官ではないですか」
「箱庭を、本当は壊したかったのか?」
かき消えた蝋燭のように、神官の顔から表情が抜けた。
「私は何も。ワゴンは廊下にあるのかと思って、運んでいただけですよ」
誤魔化せるわけがないだろう。
セウスのツッコミよりもはやく、我にかえったらしいゼアが神官をひっくり返して馬乗りになり、襟首を掴んだ。
「通るわけがないだろうが、そんな誤魔化し! お前、何? 箱庭を破壊はさせずに守ったのに、急に持ち去ろうとして。でもその割に、壊れて喜んでるみたいの、何? なんなの?」
「破壊したかったわけではない。貴方が取り上げたら、壊れたというだけだ。形あるものは壊れる定めだ。そこで思いがけず神聖なものを見たので、少し声をあげただけのこと」
「壊れるさ~だ~め~~~??」
「あー、あー、落ち着きましょう、ゼア」
現場で一番混乱する騎士とか。みっともなさすぎる。
「貴方も落ち着いたら見分けがつくんじゃないですか? ——それは、複製です」
「……は?」
「複製です。アンダート伯爵家の箱庭を囮にお借りできるはずないでしょう」
「はああああああ?! 聞いてないんだけど!」
「そんなバカな。何かが光ったのを見たぞ」
案の定だが、ゼアだけでなく、神官も騒ぎ出した。リガチェとその弟子だけは、口を強く引き結び、険しい顔をして俯いていたが。
うんざりしながら、連行を指示する。指示したのだが、今度はゼアが呆然としていて動かない。
ちょっと今は、真剣にしっかりしてほしい。
煽られるようにジリジリとするには、理由がある。
だが、何かと言う前に、それまでじっと黙していたクラークが、声を発した。
「その神官の師とは何者だ」
ゼアに押さえつけられていた神官は、ふと言い淀み、関係があるでしょうか、と不遜にも質問で返した。
セウスの方が、ヒヤリとする。今日、このパーティ開始直前に領地からの手紙を受け取って以降、主君のまとう空気が揺れ動いている気がする。あまり、刺激して欲しくない。
「答えを渋るのであればいい。訪問客名簿によれば、リガチェと、同伴者、ノキとユエルクだったな。それで十分だ。必要なことは、首座に聞く」
「な、首座様? 誰方か知らんが、何を血迷ったことを。気軽にお会いできる方ではないですぞ」
はは、と乾いた笑いをこぼしたリガチェを、冷えた青い視線が眺めた。
常にないひりついた主君の気配が、びりびりと兵たちに伝わっているのだろう。ゼアの足元から神官を引き摺り出し、またリガチェを抱えていた兵たちは、その体を厳しく抱え上げ直立させた。
「う……」
「俺はクラーク・セーヴィル。お前たちが盗難、破壊を目論む箱庭の、作り手の夫たる者だ。
まさか、知らなかったのだろうか。敵対行為を働いている相手の顔すら。無知をそのままに、闇雲に攻撃をしていたと?
ここの主人、デイヴン・アンダート伯爵は、俺の友人であり、アリアルネ・サリンガーのご夫君の友人でもある。いわばお前たちの敵地だった訳だが、知るはずもないな。
それほど相手を見ることもなければ、自分たちがどれほど人を傷つけているのか、わかるはずがない。なんと狭く、貧しい世界で生きていることか」
「神のためです……」
「違うな、神のためにと陶酔するためだ。自分のためだ」
なんという暴言、神殿を敵に回すぞ、などと喚いて、若い神官が連行されていく。
リガチェも引き立てられながら、痛みに食いしばった歯をなんとか緩め、強ばる舌を懸命に動かして、なんとか言葉を紡ごうとした。
「作り手の…」
「お前から、彼女について聞くつもりはない。どうせ、彼女の顔はおろか、さんざんその口であらぬことを吹聴した箱庭の、実物を見たことすらないのだろう。ーーそのように、不実な言葉遊びしかしないその舌に、彼女の名すら乗せることは許さん」
クラークが手を振り、兵たちは迅速に動き始めた。
セウスは、恐々と主君を伺う。
一体、手紙に何が書かれていたのか。尋ねてもいいものかどうかも、判断がつかない。作戦中に、このように感情的になる主君を見るのは、セウスも初めてだ。
主君はこの捕物に全面的に協力してくれたご友人夫妻に謝意を伝えると、すぐさま身を翻した。神殿へと向かうのだろう。
当然、躊躇いもなく、後に付いていくのである。神官たちの連行も、襲撃犯の捕縛と尋問も、関係者へのいろいろな手続きも、仲間に任せて問題はない。彼らももう慣れたものだ。
視界の端で、俺が見間違うなんて……、と灰になったようなゼアを見た気がしたが、主君優先である。ためらいもなく、見なかったことにした。
兵たちに取り押さえられた若い男は、屋敷のお仕着せらしき服装を乱して、深く項垂れている。今夜の罠にまんまと誘き出され、想定通り臨時雇いで潜り込んだらしい。
「屋敷の周りに待機していたお仲間とも、すぐ会えますよ」
声をかけると、呆けた顔を上げた。唇だけが、細かく震えている。
「伯爵家邸内の事件ですが、特例として私たちが貴方を連行します。ご家族への連絡はしません。時間がかかれば、死んだものとされるかもしれませんが、まあ、あなたの協力次第です」
これは脅しではない。事実だ。むしろ、通常であれば即切り殺されてもおかしくはない。
だが男は、これに勝手に脅かされてしまったらしかった。突如体を絞られたような声を上げたかと思うと、猛然とリガチェに吠えかかった。
「どうにか、どうにかしてください。神官様、責任を取ってください!」
それを見て、兵たちがさり気なく抑える力を緩める。男は床に両手足を擦りながら這い、リガチェに飛びついた。
「ひっ、ま、待ちなさい。そう言われても……」
腰の引けたリガチェが、男の腕をもぎ離そうとするが、そうはさせまいと男は両腕で抱きしめるように膝を掴んだ。老いた神官が倒れ込んで意識を失うのは困る。兵の一人が、リガチェの背後をそっと支えた。
「あなたが、あなたがうちに来た小神殿の神官様たちの師で、皆さんはあなたの代理なんだと聞きましたよ。私たちに、いつも神官様たちは困った困ったと言っていた。どうにも『精霊の箱庭』が神の教えに沿っていないように思えるのに、人々がもてはやすのは何故か、どうしたらいいのか、わからないと。神の意志に反しているならば、このまま人々が何もしないのは、恐ろしいと。いつか来る未来に皆後悔して絶望すると、考えるだけで気が塞ぐ、と。
何度も聞いた。毎週、うちに学びにきている近所の子供たちも。何度も。
私たちは、神官様を尊敬すべき方々だと教わってきた。辛い修行を経て、神への道を歩む方々だと。私たちは、神官様の修行を支えて、ほんのわずか、その徳を分けていただくのだと。だから、神官様には便宜を図るように、と、幼い頃から言い聞かされてきた。
だから、思うじゃないですか! そんなに困っているのに、神官様たちが思い悩むばかりで何もできないのなら、代わりに何かできないかって。
箱庭は冒涜的だと皆怖れてた。存在してはいけないものだって。だから、壊してしまえばいいって、思いついて、神官様にだって、お話しした——」
「知りません!
箱庭のことは、すべてあなたの解釈でしょう。落ち着いて。思い出してみてください。
神官たちが、一度だって、はっきりと言いましたか? 箱庭が、神への冒涜だ、など。そんなこと」
「言ってましたよ! うちで大勢が聞いています」
リガチェは愕然として、へたり込んだままの若い神官を見た。視線を受けた神官は、青ざめ、唇と震わせながら、さっとその視線を避ける。
認めたも同然な態度だった。
「結論ありきのくせに、持って回ってこちらに考えさせるような質問ではなく、白黒はっきりしてほしい、って要求するのは、うちだけじゃないはずですよ。お貴族様じゃないんだ。何度かそういう質問をしていたら、はっきり言ってくれるようになりました」
「なん、なんという。それは、誤解を招くお話をしたようで、うちの小神殿の神官が申し訳ない。だが、彼は私の弟子というわけでは」
師弟関係を否定しちゃ、だめですよね。
憎々しげに言う男は、いまや燃えるような怒りを目に浮かべている。
「箱庭の前でニヤニヤしてる時から、おかしいと思ってた。あんた、弟子だけ切り捨てようとしてるんじゃないか?
でも、俺は見たし、聞いた。うちに来てたそこの神官様が、師のために拡大鏡を修理したいって、うちに工房の伝手がないかって聞いてきた。曇ってきてしまったけれど、貴重な一点ものだから、長く使えるようにして差し上げたい、と。結構金がかかるが、師弟になって十年の記念にするのだ、とね。
その、今持ってるやつだよ。同じだ。一度落として欠いてしまったと言ってた、縁の三角の小さな傷も!」
「ーーこの、考えの足りぬ魯鈍な愚図が!」
ついにリガチェが怒鳴りつけたのは、俯いたきり小さくなって動かない、自らの弟子だった。
「あれほど、言葉に気をつけよと教えたものを! うかつな! 民は民、どれほど交わろうと、兄弟ではない。気を許しすぎだ、馬鹿者! 本当の兄弟弟子たちをこそ、最後の最後にお前が守らんか!」
師の激昂に、弟子は蹲ったまま、か細い声で何事かを繰り返すばかり。リガチェは、罵倒を尽くしてしまうと、それ以上どうして良いかわからぬかのように、自分の口元を片手で鷲掴みにした。
男は、告発を終えてぶるぶると震えたまま、小動物のように様子を伺っている。
その輪からひとり離れた位置に、いまだに箱庭を抱えた神官がうっそりと立った。
「リガチェ神官。まさかあなたが、人心を惑わすそのようなことをおっしゃっていたとは」
悲しげな声。だが、リガチェを見る目に込められた呆れと嘲笑は隠しきれず、リガチェは顔を半分隠したまま、睨みつける。手から覗く肌は紅潮し、目まで赤い。
「お前……お前、なぜそのまま、箱庭を差し出さなかった。ほんの少し、あの男に叩かせれば、それで破壊されただろうに。さすれば、この男は目的を果たし、我々に疑問を抱くこともなく、己の信じるところを通しただろう。
我らはここに、箱庭を破壊しにきたわけではない。神官への疑念を払拭するため、そのためにここに来たのではないのか。お前も。
であれば、お前の行動は本末転倒ではないか」
ゆらゆらと、若い神官は首を振った。ゆらゆらと。
「本末転倒ではありませんよ。神官への疑念を避けるために箱庭を差出す? そんな恐ろしいこと。神殿にとっての最善の道は、こうしてあなたの危うい思想がはっきりと皆に知らしめられることですよ、リガチェ神官。おわかりでしょう?
私のせいではありません。あなたがしたことが、あなたへかえってきただけです。あなたの弟子の言動は、あなたの言動と同じなのです」
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「お前、ネグルの弟子か? あいつは、また私をそうやって使うのか」
「ネグル神官? とんでもない、私はかの神官の教えを乞うほどの身ではありません」
「関係ない……? では、いったい」
力を失い座り込んだリガチェと、若い弟子は、拘束はせず、両脇を兵たちが抱えて立ち上がらせた。彼らは、神殿へと送られる手筈だ。
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「あ、すみません、いま小さな部品が落ちました」
「えっ、どこですか」
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「待て」
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「ぼっしゅう~」
軽い声と気だるい態度ながら、いつの間にか廊下から近づいたゼアが、ひょいと箱庭を取り上げた。
驚く様子の神官を、空いた片手で簡単に拘束して床に押さえつける。その顔は、笑顔ではあるが、笑顔であるとは言いたくない凄まじさだ。
「箱庭を、勝手にどこに持っていくのかな? しかも部品がとれちゃった~だあ?? ミリアンネ様の箱庭に、そんな粗悪なものねえわ!」
ねえわ、と叫んだ途端、ゼアの手からバラバラと箱庭のガラス板がこぼれ落ち、床に当たって砕け、散らばった。
あっと声を上げたのは、誰だっただろうか。
ゼアは目と口を同じほどに開けて、声も出せずに固まっている。
その足元で、拘束されたままの神官が不気味に体を揺らして笑い出したので、セウスはゼアは放置して、そちらに注目した。
「今、今、一瞬ですが、光りませんでしたか? ほんのり、何か光った。いえ、私にしか見えなかったのかもしれませんが。確かに光った」
奇妙な興奮が収まらない様子を、リガチェ神官が苦々しい顔で見た。
「光も、何も、見えなかった。
お前は一体、なんのために……?」
「おや、リガチェ神官も我らも同じ神官ではないですか」
「箱庭を、本当は壊したかったのか?」
かき消えた蝋燭のように、神官の顔から表情が抜けた。
「私は何も。ワゴンは廊下にあるのかと思って、運んでいただけですよ」
誤魔化せるわけがないだろう。
セウスのツッコミよりもはやく、我にかえったらしいゼアが神官をひっくり返して馬乗りになり、襟首を掴んだ。
「通るわけがないだろうが、そんな誤魔化し! お前、何? 箱庭を破壊はさせずに守ったのに、急に持ち去ろうとして。でもその割に、壊れて喜んでるみたいの、何? なんなの?」
「破壊したかったわけではない。貴方が取り上げたら、壊れたというだけだ。形あるものは壊れる定めだ。そこで思いがけず神聖なものを見たので、少し声をあげただけのこと」
「壊れるさ~だ~め~~~??」
「あー、あー、落ち着きましょう、ゼア」
現場で一番混乱する騎士とか。みっともなさすぎる。
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「……は?」
「複製です。アンダート伯爵家の箱庭を囮にお借りできるはずないでしょう」
「はああああああ?! 聞いてないんだけど!」
「そんなバカな。何かが光ったのを見たぞ」
案の定だが、ゼアだけでなく、神官も騒ぎ出した。リガチェとその弟子だけは、口を強く引き結び、険しい顔をして俯いていたが。
うんざりしながら、連行を指示する。指示したのだが、今度はゼアが呆然としていて動かない。
ちょっと今は、真剣にしっかりしてほしい。
煽られるようにジリジリとするには、理由がある。
だが、何かと言う前に、それまでじっと黙していたクラークが、声を発した。
「その神官の師とは何者だ」
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セウスの方が、ヒヤリとする。今日、このパーティ開始直前に領地からの手紙を受け取って以降、主君のまとう空気が揺れ動いている気がする。あまり、刺激して欲しくない。
「答えを渋るのであればいい。訪問客名簿によれば、リガチェと、同伴者、ノキとユエルクだったな。それで十分だ。必要なことは、首座に聞く」
「な、首座様? 誰方か知らんが、何を血迷ったことを。気軽にお会いできる方ではないですぞ」
はは、と乾いた笑いをこぼしたリガチェを、冷えた青い視線が眺めた。
常にないひりついた主君の気配が、びりびりと兵たちに伝わっているのだろう。ゼアの足元から神官を引き摺り出し、またリガチェを抱えていた兵たちは、その体を厳しく抱え上げ直立させた。
「う……」
「俺はクラーク・セーヴィル。お前たちが盗難、破壊を目論む箱庭の、作り手の夫たる者だ。
まさか、知らなかったのだろうか。敵対行為を働いている相手の顔すら。無知をそのままに、闇雲に攻撃をしていたと?
ここの主人、デイヴン・アンダート伯爵は、俺の友人であり、アリアルネ・サリンガーのご夫君の友人でもある。いわばお前たちの敵地だった訳だが、知るはずもないな。
それほど相手を見ることもなければ、自分たちがどれほど人を傷つけているのか、わかるはずがない。なんと狭く、貧しい世界で生きていることか」
「神のためです……」
「違うな、神のためにと陶酔するためだ。自分のためだ」
なんという暴言、神殿を敵に回すぞ、などと喚いて、若い神官が連行されていく。
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「作り手の…」
「お前から、彼女について聞くつもりはない。どうせ、彼女の顔はおろか、さんざんその口であらぬことを吹聴した箱庭の、実物を見たことすらないのだろう。ーーそのように、不実な言葉遊びしかしないその舌に、彼女の名すら乗せることは許さん」
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セウスは、恐々と主君を伺う。
一体、手紙に何が書かれていたのか。尋ねてもいいものかどうかも、判断がつかない。作戦中に、このように感情的になる主君を見るのは、セウスも初めてだ。
主君はこの捕物に全面的に協力してくれたご友人夫妻に謝意を伝えると、すぐさま身を翻した。神殿へと向かうのだろう。
当然、躊躇いもなく、後に付いていくのである。神官たちの連行も、襲撃犯の捕縛と尋問も、関係者へのいろいろな手続きも、仲間に任せて問題はない。彼らももう慣れたものだ。
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再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
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