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王都17
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笑いさざめく貴婦人たち、快活に笑い合う紳士たち。その中央で座る若い夫婦に、客たちはにこやかに声をかけ、中にはダンスを披露して祝いを贈る。
漏れ聞こえる賑やかな響きに、自然と頬を緩ませながら、それでも客のいかなる行動を邪魔する事なく優雅に立ち働く給仕たち。
そんな華やかな大ホールから運び出される空いた皿やグラスを給仕から大量に受け取り、洗い場へと運びながら、ある女使用人は同僚に囁いた。
「ねえ、大丈夫なのかしら」
「何が?」
このパーティのために同時期に雇用された同僚には、何の心配事もないようだ。すらりとした細身の長身と、大きく変わらない表情で、素っ気なく対応された。
ちょっといいかもと思って声をかけたのに、と、女使用人はどこか、煽られた気がした。
「いやいや、だって、なんだか狙われてるんでしょ? ご主人様方がお持ちの、あのガラス詰めの細工物。なのにわざわざ、見せびらかすみたいな事なさって」
「おたく、『精霊の箱庭』を、間近で見たわけ?」
「はこにわ? 庭なの? あんなに小さいのに? ……いやだ、そんなの、側には寄れないんだもの。見えるわけないじゃない。忙しくて、そんな暇ないし」
「そう」
同僚は、ちらりと大ホールの方向を見て、また前を向いた。いかにも関心がなさそうだ。
「あまり、注目を集めてる風でもないし。気にしすぎ」
それだけ言うと、仕事に集中するように足を早めた。
女使用人はその背を追いながら、どこか後ろ髪を引かれるようにホールを見やり。それから使用人用の薄暗い廊下がやけによそよそしく感じられて、小走りになったのだった。
その夜、屋敷は女使用人と同様に、どこか浮き足立っていて、そしてどこか、緊張をはらんでいた。
アンダート伯爵夫人におめでたの兆しがあり、祝いの夜会が催されたのだ。親しく付き合う相手だけを厳選して招待したものの、祝い事には飛び入り参加もある程度認められるのが慣習である。普段は交流のない家からも、代わる代わる、祝いの言葉と品が届く。
当然、警備は厳しく、不審な手紙や客は排除されるのだが、それでも使いの者を労うために解放された庭には人が溢れ、給仕も使用人も目の回る忙しさだ。この日のために、一時雇いの使用人が多めに雇入れられ、主に裏方や庭を任されている。
庭には暖かな色の灯りが並び、少し冷たい空気を温めている。その灯りにぼんやりと照らされる一角で、祝辞を届け終えた使いの侍従たちが、特別に振舞われる祝い酒を手に、控えめな笑い声をあげていた。
けれど彼らの視線は、時にちらちらと、暗がりに、植え込みの向こうに、木々の向こうの塀の上へと向けられる。
何かが起こるような、何かが迫っているような、どれほど酒を飲んでも、酔い切れない空気があった。
「招待状にあったことは本当なのでしょうか。これまでアンダート伯爵が親しい方以外には見せることをしなかった箱庭を、この会場で披露されるというお話ですが」
「どうやら真らしいですよ。我々は会場には入れませんが、先ほど一足早く帰られた客人のお一人が、興奮して話していらっしゃったのを洩れ聞きました」
「このような時勢に、わざわざ箱庭を披露とは……」
「それは、むしろ今だからこそではないでしょうか? 伯は、今の幸せはあの箱庭のおかげと語らない日はないそうですからね。このたびのご懐妊も、その恩恵の一つとお考えなのでしょう」
「なるほど、とすれば、箱庭に関する不穏な雰囲気を払拭したいとお考えなのかもしれませんね」
「いやなに、さすがの警備ではないですか。これでは過激な奴らも手も足も出ないでしょう」
「箱庭を襲撃する賊ですな。貴族のお屋敷に押し入るなど、救いようのない愚か者ですな」
「噂を信じ込んだという話ですね」
「ああ、あの、精霊の箱庭は実は神の力を閉じ込めただのという、子供向けの御伽噺のような噂ですな」
「馬鹿にするものではない。いよいよサリンガー侯爵家も穏当な対応をやめて、厳しく取り締まっておられるとか。一晩で取り潰しになったという商家があるというのも、大袈裟ではなさそうですぞ」
「市街で作り手殿を侮辱したという、緑の使徒という者たちをお探しとか」
「ああ、御令嬢、いや、セーヴィル辺境伯夫人を魔女と呼ばわった連中と聞きましたぞ」
「辺境伯ご自身をも、無知蒙昧の田舎者と罵ったとか」
「それはまたなんと酷い言い様……」
ざわざわと一際大きく気が揺れて、酷いと言いながら堪えきれずに笑っていた侍従は、びくりと身を縮めて背後を伺った。
「ところで、サリンガー家とゆかりある貴族家が皆、神殿を拒絶していると聞きましたが……」
「おお、そんなことが?」
「それはもしや、噂の根が神殿にあり……と?」
しっ、と諫める声。そして、ひそやかな笑い声。
「さて、私どもにはわかりませんが。魔女、だなどと、神官が口にするとは思いませんがねえ。それこそ、神に仕える方々の、無知蒙昧さが露呈されてしまうではないですか」
「ちがいない」
からからと笑い声だけが、庭の葉擦れを飛び越えて耳についた。
細身の青年は、舌打ちをしそうになるのを抑え、お仕着せの前掛けを整えて庭のテーブルに近づき、グラスをいくつか盆に乗せた。
周囲を窺いつつ建物に近づき、解放された窓から賑やかな中をそっと伺うと、思ったよりも近くに、主賓の姿が見えた。そっと腰に結わえて留めていた生成りの前掛けを一枚外す。持ち場によって前掛けを色分けしてあるのだ。大ホール担当者用の、白地に青い縁取りのあるものをもう一枚、あらかじめ付けてある。
外した前掛けを階の影に丸めて放ると、なんでもない顔をして、ホールへ向かった。
階を上ったところで、立ち番の衛兵に視線を向けられたので、軽く会釈をしてさらりと視線を外した。さも、求めに応じて庭に飲み物を届けた帰りというように。
そしてそのまま、大ホールへと戻って見せた。
扉は解放されていたのに、大ホールへと入った途端にふわふわと暖かく、扉から入る風は爽やかだ。客達にとっては、さぞ心地よいことだろう。
主賓のアンダート伯爵夫妻が、妊娠初期の妻はソファに腰掛けたまま、来客とにこやかに語り合っている。客は体格の良い堂々たる男と、他の客とは見るからに異なる、深い青の足首まであるローブを身につけた神官三人だ。
穏やかな笑みを浮かべた初老の男性神官と、若い二人。
「この度は、おめでとうございます。ちょうど我が商会で、妊娠の時期に摂取するとよい、やさしい茶葉や果物、海藻などを交易し始めまして。まだ都では珍しいかと存じますので、ぜひお試しいただきたく、お祝いとして持参いたしました。特に黒い実ぶどうは、失われがちな血の力を補うそうで」
「ありがとう、セジーム殿。お心遣い誠にありがたい」
「とんでもございません。私の妻は、妊娠の時期に大変辛い様子で、その後体が弱りがちでした。少しでも、世の母君方のご健康に寄与できればと思っております。
ーーそうそう、ご紹介します。こちらは、リガチェ神官。我が娘が通う小神殿でお世話になっておりまして。いや、実はもっとずっとお偉い方のようですが。リガチェ神官もかつては妊娠期の夫人方の悩みに長く対応してこられたとかで、そのご縁で、こうしてご同道させていただいたのです」
男が厚みのある体を脇に退けると、ゆるりとした動作で神官が一歩、進み出た。白髪混じりの髪は短く揃えられ、少し丸い鼻に、目は皺に埋もれるほどに細められて、好々爺の気配である。
「はじめまして。リガチェと申す神官でございます。ご夫妻においては、新たな命を育まれているとのこと、おめでとうございます。
実は、体を悪くして長く西南小神殿の奥に篭っておりましたが、そんな私の耳にも入る、幸せをもたらすという箱庭を、大変めでたいお祝いの席で拝見できるまたとない機会とうかがいまして。ぜひ一度この目で拝見したいものと、面識もないのに図々しいとは承知しつつ、セジーム殿に連れてきていただいたのです。
何事も、己の目と耳で見聞し、感性を磨くこともまた、尊い修行のひとつですのでね。老いた身で、このように好奇心で浮き立つなど、お恥ずかしいことですが」
年月を重ね慈愛に満ち溢れた声が、照れ臭そうに言うのに、周囲は和やかな笑いに包まれたが、青年は別のことに気を取られた。
西南小神殿の奥に籠る老神官。では、この神官がそうなのだろうか。
移動する足は止めずに、静かに立っている若い二人の神官を伺う。間違いない。片方は見知らぬ顔だが、もう一人は、月に一、二度、屋敷に来ていた神官だ。母に付き合わされ、説法とも言えない世間話を聞かされたのを覚えている。師は老齢で、小神殿の奥にいるため、代理だと言っていた。
だが、なぜ彼らが今更、にこやかに箱庭を見にきているのだろう。まさか、神官とあろう者が、神への冒涜に気づかないというのだろうか。
ちょうどその時、神官の言葉を受けて、夫妻が使用人に箱庭を持ってこさせた。
女性の両腕に軽く抱え込める程度の、ガラス細工の容器だ。
あれが。
思わず食い入るように見つめ、はっと瞬きをする。何をそんなに見つめることがあろう。外側は、なんの変哲もない単なる細工物だ。悪徳の品を見つめると、自分も悪に染まる可能性もある。
落ち着いて周囲を確認する。ここはやはり、会場の出入り口から意外と近い。外の風が入りにくいために気がつかないのだろうか。無防備とも言えるほどだ。今、あの箱庭を奪って走れば、庭で思い切り石に叩きつけ、そのまま逃げ去れるのではないだろうか。
首に下げた笛を意識しつつ、何食わぬ顔で近くの客にグラスを渡した。
「ほお、それが。なるほど確かに、触れるのが恐ろしいほどの出来栄えですな。近くで拝見してもよろしいでしょうか?」
瀟洒な銀の円卓に置かれた箱庭を、老神官がそっと覗き込んでいる。
それほど近寄ってみるほどの、何が見えると言うのか。精霊でも、見えるというのだろうか。目の前で、信奉する神が、愚弄されているというのに!
込み上げる冷笑を抑えるのに苦労していると、周囲が少し手持ち無沙汰になるくらいの間、じっくりと目を凝らした後、歳ですな、とリガチェ神官が顔をあげ、懐から手のひらに収まるほどの拡大鏡を取り出した。もう一度拡大鏡越しに見ようというのだろうが、ふと、この拡大鏡を置いた場所すら忘れてしまうことがあるのです、と朗らかに伯爵夫妻に向き直って話し出し。
箱庭が彼らの輪から外れて、ぽつん、と放置された。
そう、見えた。
咄嗟に、笛を吹いた。鋭く長く一度。
そして驚愕に固まる周囲をよそに、盆を放り出し、箱庭にとりつこうとして。
目眩しのようにかき消えた箱庭に驚きながら、勢いを殺せずに円卓を薙ぎ倒していた。円卓が床のタイルを割り、けたたましい音がする。それをかき消すほどの悲鳴と叫びが沸き起こった。
どこだ!?
咄嗟に、リガチェ神官と伯爵夫妻を見る。だが、どちらも驚き、警戒はしているが、空手だ。そばにいた侍女は腰を抜かしたように座り込んでいる。どこにも、箱庭は見当たらない。
いや。他にも、近くに立つ人間がいなかったか。
首を巡らせれば、やはり、先ほどは影のように控えているだけだった若い神官が、無造作に両手で箱庭を鷲掴みに抱えていたのが見えた。見覚えのない神官の方だ。
「それを、どうする?」
目をぎらつかせて問えば、神官もまた、若い頬を青ざめさせて底光りのする目をしていた。
「お前こそ、これをどうするつもりだった?」
「破壊するのさ! 存在もしない精霊がいるだなどと、空言を撒き散らすなど、神への冒涜!」
神官であれば、同意するはず。
そう信じていたから、「知ったような口を聞く」と冷たくせせら笑われて、呆然とした。
「冒涜などと、神のご意志を知ったかのように語るのはよして、少し落ち着きなさい」
さらにはリガチェ神官までもが、諭すように話しかけてくる。屋敷に来ていた若い神官はといえば、床にへたり込んであまりのことに青い顔をして呆けている。
そんなバカな。小神殿の神官とは、ここまで馬鹿なのか。少し考えれば、わかるではないか。教典にない精霊という存在を、神がどう受け取られるかなど。
あまりに呆気に取られて動きを止めてしまったものの、すでに笛は鳴らしてしまった。仲間は陽動と、救出作戦を始めただろう。我先にと会場から立ち去ろうとする客たちもいて、今は場が混沌としている。
今しかない。やがて落ち着いてきたら、自分たちなどいとも簡単に取り押さえられてしまうだろう。
疑問に蓋をして、神官の細腕に掴みかかった。そうだ、奪えなくても良い。叩き落として、破壊すればよいのだ。
しかし意外に身のこなしの良い神官が、ひらりひらりと身を躱す。焦りが高じてきたところに、手を出しかねているようなリガチェ神官の呟きを耳が拾った。
「不甲斐ない。死ぬ気でやれ」
込められた刺々しい響きは、あの好々爺のものとは思えない。呟きは小さく、聞き間違いかと思うほど。横目でうかがっても、柔和な表情は変わらない。
だが何か、ひりつくような圧を感じる。何か、おかしい。
不安が高まり、焦りは募り、そのせいか、無様に二度三度と振り回されて、踊るかのようにくるくると回り、視界と膝がぐらぐらとした。
そこへ。
「全員動くな!」
大音声が響き、笛で呼んだはずの仲間ではなく、鎧を纏った巨漢たちが雪崩入ってきたのだ。
漏れ聞こえる賑やかな響きに、自然と頬を緩ませながら、それでも客のいかなる行動を邪魔する事なく優雅に立ち働く給仕たち。
そんな華やかな大ホールから運び出される空いた皿やグラスを給仕から大量に受け取り、洗い場へと運びながら、ある女使用人は同僚に囁いた。
「ねえ、大丈夫なのかしら」
「何が?」
このパーティのために同時期に雇用された同僚には、何の心配事もないようだ。すらりとした細身の長身と、大きく変わらない表情で、素っ気なく対応された。
ちょっといいかもと思って声をかけたのに、と、女使用人はどこか、煽られた気がした。
「いやいや、だって、なんだか狙われてるんでしょ? ご主人様方がお持ちの、あのガラス詰めの細工物。なのにわざわざ、見せびらかすみたいな事なさって」
「おたく、『精霊の箱庭』を、間近で見たわけ?」
「はこにわ? 庭なの? あんなに小さいのに? ……いやだ、そんなの、側には寄れないんだもの。見えるわけないじゃない。忙しくて、そんな暇ないし」
「そう」
同僚は、ちらりと大ホールの方向を見て、また前を向いた。いかにも関心がなさそうだ。
「あまり、注目を集めてる風でもないし。気にしすぎ」
それだけ言うと、仕事に集中するように足を早めた。
女使用人はその背を追いながら、どこか後ろ髪を引かれるようにホールを見やり。それから使用人用の薄暗い廊下がやけによそよそしく感じられて、小走りになったのだった。
その夜、屋敷は女使用人と同様に、どこか浮き足立っていて、そしてどこか、緊張をはらんでいた。
アンダート伯爵夫人におめでたの兆しがあり、祝いの夜会が催されたのだ。親しく付き合う相手だけを厳選して招待したものの、祝い事には飛び入り参加もある程度認められるのが慣習である。普段は交流のない家からも、代わる代わる、祝いの言葉と品が届く。
当然、警備は厳しく、不審な手紙や客は排除されるのだが、それでも使いの者を労うために解放された庭には人が溢れ、給仕も使用人も目の回る忙しさだ。この日のために、一時雇いの使用人が多めに雇入れられ、主に裏方や庭を任されている。
庭には暖かな色の灯りが並び、少し冷たい空気を温めている。その灯りにぼんやりと照らされる一角で、祝辞を届け終えた使いの侍従たちが、特別に振舞われる祝い酒を手に、控えめな笑い声をあげていた。
けれど彼らの視線は、時にちらちらと、暗がりに、植え込みの向こうに、木々の向こうの塀の上へと向けられる。
何かが起こるような、何かが迫っているような、どれほど酒を飲んでも、酔い切れない空気があった。
「招待状にあったことは本当なのでしょうか。これまでアンダート伯爵が親しい方以外には見せることをしなかった箱庭を、この会場で披露されるというお話ですが」
「どうやら真らしいですよ。我々は会場には入れませんが、先ほど一足早く帰られた客人のお一人が、興奮して話していらっしゃったのを洩れ聞きました」
「このような時勢に、わざわざ箱庭を披露とは……」
「それは、むしろ今だからこそではないでしょうか? 伯は、今の幸せはあの箱庭のおかげと語らない日はないそうですからね。このたびのご懐妊も、その恩恵の一つとお考えなのでしょう」
「なるほど、とすれば、箱庭に関する不穏な雰囲気を払拭したいとお考えなのかもしれませんね」
「いやなに、さすがの警備ではないですか。これでは過激な奴らも手も足も出ないでしょう」
「箱庭を襲撃する賊ですな。貴族のお屋敷に押し入るなど、救いようのない愚か者ですな」
「噂を信じ込んだという話ですね」
「ああ、あの、精霊の箱庭は実は神の力を閉じ込めただのという、子供向けの御伽噺のような噂ですな」
「馬鹿にするものではない。いよいよサリンガー侯爵家も穏当な対応をやめて、厳しく取り締まっておられるとか。一晩で取り潰しになったという商家があるというのも、大袈裟ではなさそうですぞ」
「市街で作り手殿を侮辱したという、緑の使徒という者たちをお探しとか」
「ああ、御令嬢、いや、セーヴィル辺境伯夫人を魔女と呼ばわった連中と聞きましたぞ」
「辺境伯ご自身をも、無知蒙昧の田舎者と罵ったとか」
「それはまたなんと酷い言い様……」
ざわざわと一際大きく気が揺れて、酷いと言いながら堪えきれずに笑っていた侍従は、びくりと身を縮めて背後を伺った。
「ところで、サリンガー家とゆかりある貴族家が皆、神殿を拒絶していると聞きましたが……」
「おお、そんなことが?」
「それはもしや、噂の根が神殿にあり……と?」
しっ、と諫める声。そして、ひそやかな笑い声。
「さて、私どもにはわかりませんが。魔女、だなどと、神官が口にするとは思いませんがねえ。それこそ、神に仕える方々の、無知蒙昧さが露呈されてしまうではないですか」
「ちがいない」
からからと笑い声だけが、庭の葉擦れを飛び越えて耳についた。
細身の青年は、舌打ちをしそうになるのを抑え、お仕着せの前掛けを整えて庭のテーブルに近づき、グラスをいくつか盆に乗せた。
周囲を窺いつつ建物に近づき、解放された窓から賑やかな中をそっと伺うと、思ったよりも近くに、主賓の姿が見えた。そっと腰に結わえて留めていた生成りの前掛けを一枚外す。持ち場によって前掛けを色分けしてあるのだ。大ホール担当者用の、白地に青い縁取りのあるものをもう一枚、あらかじめ付けてある。
外した前掛けを階の影に丸めて放ると、なんでもない顔をして、ホールへ向かった。
階を上ったところで、立ち番の衛兵に視線を向けられたので、軽く会釈をしてさらりと視線を外した。さも、求めに応じて庭に飲み物を届けた帰りというように。
そしてそのまま、大ホールへと戻って見せた。
扉は解放されていたのに、大ホールへと入った途端にふわふわと暖かく、扉から入る風は爽やかだ。客達にとっては、さぞ心地よいことだろう。
主賓のアンダート伯爵夫妻が、妊娠初期の妻はソファに腰掛けたまま、来客とにこやかに語り合っている。客は体格の良い堂々たる男と、他の客とは見るからに異なる、深い青の足首まであるローブを身につけた神官三人だ。
穏やかな笑みを浮かべた初老の男性神官と、若い二人。
「この度は、おめでとうございます。ちょうど我が商会で、妊娠の時期に摂取するとよい、やさしい茶葉や果物、海藻などを交易し始めまして。まだ都では珍しいかと存じますので、ぜひお試しいただきたく、お祝いとして持参いたしました。特に黒い実ぶどうは、失われがちな血の力を補うそうで」
「ありがとう、セジーム殿。お心遣い誠にありがたい」
「とんでもございません。私の妻は、妊娠の時期に大変辛い様子で、その後体が弱りがちでした。少しでも、世の母君方のご健康に寄与できればと思っております。
ーーそうそう、ご紹介します。こちらは、リガチェ神官。我が娘が通う小神殿でお世話になっておりまして。いや、実はもっとずっとお偉い方のようですが。リガチェ神官もかつては妊娠期の夫人方の悩みに長く対応してこられたとかで、そのご縁で、こうしてご同道させていただいたのです」
男が厚みのある体を脇に退けると、ゆるりとした動作で神官が一歩、進み出た。白髪混じりの髪は短く揃えられ、少し丸い鼻に、目は皺に埋もれるほどに細められて、好々爺の気配である。
「はじめまして。リガチェと申す神官でございます。ご夫妻においては、新たな命を育まれているとのこと、おめでとうございます。
実は、体を悪くして長く西南小神殿の奥に篭っておりましたが、そんな私の耳にも入る、幸せをもたらすという箱庭を、大変めでたいお祝いの席で拝見できるまたとない機会とうかがいまして。ぜひ一度この目で拝見したいものと、面識もないのに図々しいとは承知しつつ、セジーム殿に連れてきていただいたのです。
何事も、己の目と耳で見聞し、感性を磨くこともまた、尊い修行のひとつですのでね。老いた身で、このように好奇心で浮き立つなど、お恥ずかしいことですが」
年月を重ね慈愛に満ち溢れた声が、照れ臭そうに言うのに、周囲は和やかな笑いに包まれたが、青年は別のことに気を取られた。
西南小神殿の奥に籠る老神官。では、この神官がそうなのだろうか。
移動する足は止めずに、静かに立っている若い二人の神官を伺う。間違いない。片方は見知らぬ顔だが、もう一人は、月に一、二度、屋敷に来ていた神官だ。母に付き合わされ、説法とも言えない世間話を聞かされたのを覚えている。師は老齢で、小神殿の奥にいるため、代理だと言っていた。
だが、なぜ彼らが今更、にこやかに箱庭を見にきているのだろう。まさか、神官とあろう者が、神への冒涜に気づかないというのだろうか。
ちょうどその時、神官の言葉を受けて、夫妻が使用人に箱庭を持ってこさせた。
女性の両腕に軽く抱え込める程度の、ガラス細工の容器だ。
あれが。
思わず食い入るように見つめ、はっと瞬きをする。何をそんなに見つめることがあろう。外側は、なんの変哲もない単なる細工物だ。悪徳の品を見つめると、自分も悪に染まる可能性もある。
落ち着いて周囲を確認する。ここはやはり、会場の出入り口から意外と近い。外の風が入りにくいために気がつかないのだろうか。無防備とも言えるほどだ。今、あの箱庭を奪って走れば、庭で思い切り石に叩きつけ、そのまま逃げ去れるのではないだろうか。
首に下げた笛を意識しつつ、何食わぬ顔で近くの客にグラスを渡した。
「ほお、それが。なるほど確かに、触れるのが恐ろしいほどの出来栄えですな。近くで拝見してもよろしいでしょうか?」
瀟洒な銀の円卓に置かれた箱庭を、老神官がそっと覗き込んでいる。
それほど近寄ってみるほどの、何が見えると言うのか。精霊でも、見えるというのだろうか。目の前で、信奉する神が、愚弄されているというのに!
込み上げる冷笑を抑えるのに苦労していると、周囲が少し手持ち無沙汰になるくらいの間、じっくりと目を凝らした後、歳ですな、とリガチェ神官が顔をあげ、懐から手のひらに収まるほどの拡大鏡を取り出した。もう一度拡大鏡越しに見ようというのだろうが、ふと、この拡大鏡を置いた場所すら忘れてしまうことがあるのです、と朗らかに伯爵夫妻に向き直って話し出し。
箱庭が彼らの輪から外れて、ぽつん、と放置された。
そう、見えた。
咄嗟に、笛を吹いた。鋭く長く一度。
そして驚愕に固まる周囲をよそに、盆を放り出し、箱庭にとりつこうとして。
目眩しのようにかき消えた箱庭に驚きながら、勢いを殺せずに円卓を薙ぎ倒していた。円卓が床のタイルを割り、けたたましい音がする。それをかき消すほどの悲鳴と叫びが沸き起こった。
どこだ!?
咄嗟に、リガチェ神官と伯爵夫妻を見る。だが、どちらも驚き、警戒はしているが、空手だ。そばにいた侍女は腰を抜かしたように座り込んでいる。どこにも、箱庭は見当たらない。
いや。他にも、近くに立つ人間がいなかったか。
首を巡らせれば、やはり、先ほどは影のように控えているだけだった若い神官が、無造作に両手で箱庭を鷲掴みに抱えていたのが見えた。見覚えのない神官の方だ。
「それを、どうする?」
目をぎらつかせて問えば、神官もまた、若い頬を青ざめさせて底光りのする目をしていた。
「お前こそ、これをどうするつもりだった?」
「破壊するのさ! 存在もしない精霊がいるだなどと、空言を撒き散らすなど、神への冒涜!」
神官であれば、同意するはず。
そう信じていたから、「知ったような口を聞く」と冷たくせせら笑われて、呆然とした。
「冒涜などと、神のご意志を知ったかのように語るのはよして、少し落ち着きなさい」
さらにはリガチェ神官までもが、諭すように話しかけてくる。屋敷に来ていた若い神官はといえば、床にへたり込んであまりのことに青い顔をして呆けている。
そんなバカな。小神殿の神官とは、ここまで馬鹿なのか。少し考えれば、わかるではないか。教典にない精霊という存在を、神がどう受け取られるかなど。
あまりに呆気に取られて動きを止めてしまったものの、すでに笛は鳴らしてしまった。仲間は陽動と、救出作戦を始めただろう。我先にと会場から立ち去ろうとする客たちもいて、今は場が混沌としている。
今しかない。やがて落ち着いてきたら、自分たちなどいとも簡単に取り押さえられてしまうだろう。
疑問に蓋をして、神官の細腕に掴みかかった。そうだ、奪えなくても良い。叩き落として、破壊すればよいのだ。
しかし意外に身のこなしの良い神官が、ひらりひらりと身を躱す。焦りが高じてきたところに、手を出しかねているようなリガチェ神官の呟きを耳が拾った。
「不甲斐ない。死ぬ気でやれ」
込められた刺々しい響きは、あの好々爺のものとは思えない。呟きは小さく、聞き間違いかと思うほど。横目でうかがっても、柔和な表情は変わらない。
だが何か、ひりつくような圧を感じる。何か、おかしい。
不安が高まり、焦りは募り、そのせいか、無様に二度三度と振り回されて、踊るかのようにくるくると回り、視界と膝がぐらぐらとした。
そこへ。
「全員動くな!」
大音声が響き、笛で呼んだはずの仲間ではなく、鎧を纏った巨漢たちが雪崩入ってきたのだ。
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それはある日のこと、絶望の底にいたトゥラウム宛てに一通の手紙が届いた。
差出人はエリア。突然、別れを告げた恋人だった。
そこには、衝撃的な事実が書かれていて───
手紙を受け取った瞬間から、トゥラウムとエリアの終わってしまったはずの恋が再び動き始めた。
これは、一通の手紙から始まる物語。【再会】をテーマにした短編で、5話で完結です。
※以前、別PNで、小説家になろう様に投稿したものですが、今回、アルファポリス様用に加筆修正して投稿しています。
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