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王都15
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その小神殿は、規模は小さいながら木陰と花の多い緑地の隣にあり、人の暮らしに溶け込んでいるようだった。昼休憩から戻るらしい足早の者も、騒がしくじゃれ合い駆けていく子供たちも、荷を抱えて小走りの者も、誰もが一度はこちらに向けて小さく頭を下げて通り過ぎる。
入り口は通常の倍ほど広く切り取られ、昼間は常に開け放っているようだ。神殿の広間にしていは随分と明るく照らし出され、その一角に今は二人、神官が座して瞑想をしている。だがその反対側では別の神官が、背を丸めた老婆の体の不調について先ほどから耳を傾けているようだ。
表の賑わいが風と共に奥まで入り込み、神殿とは思えない雑多な音と気配が、
——煩わしい。
これから会う相手を思おうとなおさら胃が重く、リガチェは苛々と、握った細い指を親指で引っ掻いた。
「気にかかりますか? まもなく来られますよ」
壮年の小神殿長が、茶を勧めてくる。さきほどから一言も口を聞かずに隅に突っ立っている若い神官が入れたのだろう。だが今は、茶など飲みたくはなかった。
じっと、薄茶の水面で、こちらを無表情に見下ろす老いた男を見た。白黒まだらの短くした髪と、顎の少ない髭。なんとなく、丸い鼻の先が赤らんでいる気がするが、気のせいだと思おう。茶の色のせいで、わかるわけがないのだ。
昨夜緊急の呼び出しを受けた時には、すでにかなりの酒を飲んでいた。胸も腹も、むかつきが治らない。匂い消しの薬草を噛み締めたし、身を清め衣服は改めたので、気がつかれはしないだろうが。
「ありがとうございます。今回は申し訳ないことです。急にお部屋をお借りすることになるとは。寛大に受け入れてくださり、ありがとうございます」
内心をくるりと反転させたように、にこやかに礼を言う。だが心の中では、むしろ、私がここにあの方を導くことに礼を言え、と思っている。
「いえいえ、私どもも、まさかあの方をここにお迎えできる機会をいただけるとは思ってもおりませんでしたので。こちらこそ、感謝申し上げねばなりません。どうぞ、ごゆっくりなさってください」
お人好しが、思った通りの謝意を述べてきたので、リガチェは多少溜飲を下げた。
本当は、自分の小神殿に近い有力者の屋敷を借りれば済むことなのだ。これまでも、他の小神殿の神官相手にそうしていた。手入れの行き届いた良い部屋で、美味いものも食べられて、至れり尽くせり。それに、相手に優越感を抱くこともできる。
それが、急なことだったとはいえ、弟子たちが方々走り回ったのに、どこの家も門前払いだったようだ。大変恐縮していたというので、間が悪かったのだろう。この場合、間が悪いのはあの方だ。人脈も運も、全てにいい目が出て今の地位にいるようだが、そういうこともあるのだろう。
各家からは、後日謝罪と詫びの品などあるだろう。酒ももらえるならいいのだが、とリガチェは、唯一の楽しみとも言える喉を焼く味を思い出して、恍惚とした。
「しかしここまで来られるのは、大変だったでしょう。お体が弱っているようだと伺っていましたので。むしろ、神殿に向かう方が街馬車も多いので、楽でしょうに」
「お気遣いありがとうございます。身に降る年月もまた、修行ですからね。……それに、神殿には」
「おお、そうでしたね。これは、失言をいたしました。お許しください」
慌てたように取り繕っているが、確信犯ではないのだろうか。
リガチェは、もう決して神殿にあがることは許されていないのだ。それは、リガチェにとっては忌々しいことに、神殿内では有名な話であり、若い神官以外は誰もが知っている。当然、小神殿を預かるという地位にいるこの神官とて、十分知っているはずなのだ。
「いえ、とんでもない。私は、罰を受けました。もう二度と、神殿へ、首座様の御許には侍ることができません。けれど、ここだけのお話、私はその罰によって救われています。誰かのために身を差し出すという、最苦難の修行を、今も果たしている。そう考えているのです」
「それは……」
最苦難の修行とは、単に自分を犠牲にすることだけを指すわけではない。例えば愛する者のために犠牲となれば、そのこと自体に幸せを感じる己があるはずであり、それは苦難とは真逆であるというのだ。おかしな理屈よ、とリガチェは思う。犠牲になるなら、なんであれ、稀有なことではないか、と。自分がなる気はさらさらないが。
では最苦難の修行とは何かと言えば、自分の敵、憎き者のために自ら犠牲になることを言う。
つまり、リガチェは自分は誰かに陥れられたが、その誰かのために黙っているのだよ、と仄かしたのだ。
当然、相手は物言いたげな顔をしたが、深く突っ込ませる気はない。
「はは、お聞き流しくだされ。誰もが、一生、各々の修行の道半ばなのですから」
勝手にそう切り上げたところで、客の来訪が告げられた。
「おお、来られたようですね。ではリガチェ殿、私はご挨拶だけさせていただいて、ひっこみますので」
そう言って立ち上がるのに合わせて、椅子から立つ。少しふらつくので、立ちたくもないのだが、仕方がない。
やがて、扉が開いて、背の低い神官が入ってきた。
「「ネグル神官に、ご挨拶申し上げます」」
「よい日ですね。ありがとう」
小柄で細身ながら、棒が通ったように姿勢が良い。短く揃えた淡い色の髪に、色白の肌は、どこかしら幼いような印象を与えるが、リガチェより15ほど下の、まさに中年期のはずだ。
「ここはよい環境ですね、穏やかに地域に溶け込み、修行も自然と取り入れている様子」
「なんと、ネグル神官をお迎えできただけでも、身に余る光栄ですのに。ありがたいお言葉でございます」
二人がやり取りするのを、リガチェは白けた目で見ていた。
そもそもこの小神殿を借りたのは、有力者にことごとく断られた弟子が、よりによってネグルの弟子に相談し、勧められたというからだった。出かける間際の慌ただしい時だったので時間がなかったが、帰ったらただでは済ませないつもりだ。
だがとにかく、ネグルはこの小神殿をおそらくあらかじめ知っていて、こうして偶然を装って自分を慕う神官を取り込みたいだけなのだ。よくあるやり口ではないか。
小神殿長が立ち去って、二人きりになると、予想通り、ネグルは仮面を外すように笑顔を消した。
そのまま浅く椅子に腰をかけ、背を伸ばした状態で見つめてこられると、リガチェも、悲しいかな若い見習いの頃を思い出し、やや腹に力が入って、自然、背筋が伸びた。
ネグルは幼い頃から神殿にいたので、年齢は若くとも、神官としての立場は初めからずっと、リガチェの上なのだ。
「リガチェ神官、我々のすべきことは、おわかりだと思っていましたが」
もちろん、と答えるか、なんのことかと問い返すか。忙しく、計算高く思考を巡らせる。
リガチェとネグルは、神殿における修行とは別に、師から神についての薫陶を受けた。神は確かにこの世におわし、唯一で絶対なる存在であると。同時に、神殿の多くの神官からその思想を隠すことも教わって来た。師も兄弟子も年老いて生を終えるようになってくると、今や二人は、同志と言ってもよい。
……だからこそ、直接顔を合わせるのが実に数十年ぶりであっても、まるで昨日ぶりに会うかのような態度、なのだろうか。
「もちろん。我々のすべきことですから」
正解をはかりかねて、結局端的に返す。いや、少し皮肉げな返答になった。発言してからネグルの顔を伺ったが、いつも貼り付けた笑顔を崩すことのない相手だ。自分の慌てぶりこそ情けなくなったが。
ネグルは、薄めの眉を山なりの形にぴくりと動かした。
その様子は、少し苛立っているようで。この兄弟弟子の感情というものを感じたのは、若い頃を思い出しても初めてと言って良い。
「……教典に神ご本体の記述がないからと、精霊についての記載がないからと、それを語ることすらしないとは、教典主義者こそ凝り固まった偏見と我欲で教えを歪める不実の派閥でしょうに……」
「……」
「ですが、真っ向の対立を避け、我らが雌伏の時を過ごさねばならないのは、神が力を取り戻していないから」
神は実在し、いずれ力を取り戻し、再びこの世に降臨される。再臨を微々たるものながら助けるためにこそ、神官は修行をするのだ。神の実体を否定する神官であっても、修行は神の助けとなる。ゆえに今は、ただ弾圧を逃れ、密かに教えを受け継いでいく。
だが、降臨のその日には、真に神を信じる者だけが救われる。それが、我々が受け継いだ教え、いや、真理だ。
「神のため」
「はい、すべて、神のため」
ネグルの舌鋒の鋭さに、以前との違和感を感じながらも、リガチェは唱和した。唱和することで、二人は相手が自分を同じ信心を持つと、そう信じた。
同志として、そうあるべきだ、と。
「ですがあの、精霊というもの。あれはどう考えても、神の力に近いのです」
リガチェは、その点には沈黙を返すほかはない。精霊の箱庭と言われるもの、それを見たことがなかったからだ。
「一度だけ見た箱庭には、確かに力が宿っていました。精霊だなど、愚かな名をつける。あれは神です。ですが、神の力があんなにちっぽけなはずがない。あれは、神のちぎれた欠片でしょう」
これにもまた、リガチェは言葉を返せない。リガチェはいまだ、神の気配を感じたこともなかったからだ。けれど、常に冷静沈着なネグルがここまで確信を持つのであれば、それは神の気配を纏っていたのだろう。
「ならば、いかに我々が潜伏すべき時であっても、放置するにはいきません。神の力を人が扱うなど、あってはならないでしょう」
「……ええ、ですので、小神殿の外で市井の民に我らの教えを説いて、箱庭を不埒なものとしらしめることには、賛成しました。ですが、彼らを唆して箱庭を襲わせるなど、聞いてもおりませんが」
「なっ、ぐっ」
不意に射殺さんばかりに睨みつけられて、リガチェは喉が潰れそうな勢いで息を呑み、おかしな音が出た。咳き込んだ様子を、ネグルの冷たい薄茶の目が見下ろす。
「っげ、げほっ。な、なんのことです。襲う? まさか……」
「まさか、把握していないのですか? 唆しておいて?」
リガチェは、奇跡的に思い出した。そういえば、弟子の一人が言っていた。貴族家から箱庭を奪いに行くと嘯く者がいた、と。
「唆すなど。私たちは、話をしていただけです。精霊など神殿で聞いたことはないな、と。そのようなものを信じると、神はどう思われるだろうか、と。毎回、必ず、問いかけていただけです。
確かに一人、そのようなことを仄めかす者がいたようですが。確か、そう、『暴力は一時的に物事を解決したように見せかけるが、そうではない。神のため、常に考え、より良い道を探して、精進しなさい』と、そう答えるようにさせました」
ネグルはしばらく黙考し、やがて、なるほどと表情を緩めた。
「私たちには責任はなく、考え判断し暴力を振るうのは、その者本人ということですね。……貴方のそういう能力は、並外れていると、実感しました。
けれど、一人ではないはずです。少なくとも二人は、箱庭の破壊に成功しているはず。失敗した者はもっといるのではないでしょうか?」
「知りませんよ。いえ、知る必要があるのでしょうか?」
リガチェは、自分でもよくわからないが、腹が立って、こう嘯いた。
「どのような事件であれ、起こした者の責任です。むしろ知らずにいることこそ、唆しなどなかったという証明になるでしょう」
胸のあたりが太鼓を打つように暴れ続けている。
ようやく、自分がひどく怖かったのだと気がついた。先ほど、ネグルから凄まれて、自分でも驚くほどに恐怖を感じたのだ。それが腹立たしく、情けなく。それで一層堂々と、言い放ったのだ。
「そう、ですか」
ネグルはすっかり無表情に戻り、座り込んでいた。だがその目は、まだこちらをじっと見つめて、心の奥底を探っているようだ。
入り口は通常の倍ほど広く切り取られ、昼間は常に開け放っているようだ。神殿の広間にしていは随分と明るく照らし出され、その一角に今は二人、神官が座して瞑想をしている。だがその反対側では別の神官が、背を丸めた老婆の体の不調について先ほどから耳を傾けているようだ。
表の賑わいが風と共に奥まで入り込み、神殿とは思えない雑多な音と気配が、
——煩わしい。
これから会う相手を思おうとなおさら胃が重く、リガチェは苛々と、握った細い指を親指で引っ掻いた。
「気にかかりますか? まもなく来られますよ」
壮年の小神殿長が、茶を勧めてくる。さきほどから一言も口を聞かずに隅に突っ立っている若い神官が入れたのだろう。だが今は、茶など飲みたくはなかった。
じっと、薄茶の水面で、こちらを無表情に見下ろす老いた男を見た。白黒まだらの短くした髪と、顎の少ない髭。なんとなく、丸い鼻の先が赤らんでいる気がするが、気のせいだと思おう。茶の色のせいで、わかるわけがないのだ。
昨夜緊急の呼び出しを受けた時には、すでにかなりの酒を飲んでいた。胸も腹も、むかつきが治らない。匂い消しの薬草を噛み締めたし、身を清め衣服は改めたので、気がつかれはしないだろうが。
「ありがとうございます。今回は申し訳ないことです。急にお部屋をお借りすることになるとは。寛大に受け入れてくださり、ありがとうございます」
内心をくるりと反転させたように、にこやかに礼を言う。だが心の中では、むしろ、私がここにあの方を導くことに礼を言え、と思っている。
「いえいえ、私どもも、まさかあの方をここにお迎えできる機会をいただけるとは思ってもおりませんでしたので。こちらこそ、感謝申し上げねばなりません。どうぞ、ごゆっくりなさってください」
お人好しが、思った通りの謝意を述べてきたので、リガチェは多少溜飲を下げた。
本当は、自分の小神殿に近い有力者の屋敷を借りれば済むことなのだ。これまでも、他の小神殿の神官相手にそうしていた。手入れの行き届いた良い部屋で、美味いものも食べられて、至れり尽くせり。それに、相手に優越感を抱くこともできる。
それが、急なことだったとはいえ、弟子たちが方々走り回ったのに、どこの家も門前払いだったようだ。大変恐縮していたというので、間が悪かったのだろう。この場合、間が悪いのはあの方だ。人脈も運も、全てにいい目が出て今の地位にいるようだが、そういうこともあるのだろう。
各家からは、後日謝罪と詫びの品などあるだろう。酒ももらえるならいいのだが、とリガチェは、唯一の楽しみとも言える喉を焼く味を思い出して、恍惚とした。
「しかしここまで来られるのは、大変だったでしょう。お体が弱っているようだと伺っていましたので。むしろ、神殿に向かう方が街馬車も多いので、楽でしょうに」
「お気遣いありがとうございます。身に降る年月もまた、修行ですからね。……それに、神殿には」
「おお、そうでしたね。これは、失言をいたしました。お許しください」
慌てたように取り繕っているが、確信犯ではないのだろうか。
リガチェは、もう決して神殿にあがることは許されていないのだ。それは、リガチェにとっては忌々しいことに、神殿内では有名な話であり、若い神官以外は誰もが知っている。当然、小神殿を預かるという地位にいるこの神官とて、十分知っているはずなのだ。
「いえ、とんでもない。私は、罰を受けました。もう二度と、神殿へ、首座様の御許には侍ることができません。けれど、ここだけのお話、私はその罰によって救われています。誰かのために身を差し出すという、最苦難の修行を、今も果たしている。そう考えているのです」
「それは……」
最苦難の修行とは、単に自分を犠牲にすることだけを指すわけではない。例えば愛する者のために犠牲となれば、そのこと自体に幸せを感じる己があるはずであり、それは苦難とは真逆であるというのだ。おかしな理屈よ、とリガチェは思う。犠牲になるなら、なんであれ、稀有なことではないか、と。自分がなる気はさらさらないが。
では最苦難の修行とは何かと言えば、自分の敵、憎き者のために自ら犠牲になることを言う。
つまり、リガチェは自分は誰かに陥れられたが、その誰かのために黙っているのだよ、と仄かしたのだ。
当然、相手は物言いたげな顔をしたが、深く突っ込ませる気はない。
「はは、お聞き流しくだされ。誰もが、一生、各々の修行の道半ばなのですから」
勝手にそう切り上げたところで、客の来訪が告げられた。
「おお、来られたようですね。ではリガチェ殿、私はご挨拶だけさせていただいて、ひっこみますので」
そう言って立ち上がるのに合わせて、椅子から立つ。少しふらつくので、立ちたくもないのだが、仕方がない。
やがて、扉が開いて、背の低い神官が入ってきた。
「「ネグル神官に、ご挨拶申し上げます」」
「よい日ですね。ありがとう」
小柄で細身ながら、棒が通ったように姿勢が良い。短く揃えた淡い色の髪に、色白の肌は、どこかしら幼いような印象を与えるが、リガチェより15ほど下の、まさに中年期のはずだ。
「ここはよい環境ですね、穏やかに地域に溶け込み、修行も自然と取り入れている様子」
「なんと、ネグル神官をお迎えできただけでも、身に余る光栄ですのに。ありがたいお言葉でございます」
二人がやり取りするのを、リガチェは白けた目で見ていた。
そもそもこの小神殿を借りたのは、有力者にことごとく断られた弟子が、よりによってネグルの弟子に相談し、勧められたというからだった。出かける間際の慌ただしい時だったので時間がなかったが、帰ったらただでは済ませないつもりだ。
だがとにかく、ネグルはこの小神殿をおそらくあらかじめ知っていて、こうして偶然を装って自分を慕う神官を取り込みたいだけなのだ。よくあるやり口ではないか。
小神殿長が立ち去って、二人きりになると、予想通り、ネグルは仮面を外すように笑顔を消した。
そのまま浅く椅子に腰をかけ、背を伸ばした状態で見つめてこられると、リガチェも、悲しいかな若い見習いの頃を思い出し、やや腹に力が入って、自然、背筋が伸びた。
ネグルは幼い頃から神殿にいたので、年齢は若くとも、神官としての立場は初めからずっと、リガチェの上なのだ。
「リガチェ神官、我々のすべきことは、おわかりだと思っていましたが」
もちろん、と答えるか、なんのことかと問い返すか。忙しく、計算高く思考を巡らせる。
リガチェとネグルは、神殿における修行とは別に、師から神についての薫陶を受けた。神は確かにこの世におわし、唯一で絶対なる存在であると。同時に、神殿の多くの神官からその思想を隠すことも教わって来た。師も兄弟子も年老いて生を終えるようになってくると、今や二人は、同志と言ってもよい。
……だからこそ、直接顔を合わせるのが実に数十年ぶりであっても、まるで昨日ぶりに会うかのような態度、なのだろうか。
「もちろん。我々のすべきことですから」
正解をはかりかねて、結局端的に返す。いや、少し皮肉げな返答になった。発言してからネグルの顔を伺ったが、いつも貼り付けた笑顔を崩すことのない相手だ。自分の慌てぶりこそ情けなくなったが。
ネグルは、薄めの眉を山なりの形にぴくりと動かした。
その様子は、少し苛立っているようで。この兄弟弟子の感情というものを感じたのは、若い頃を思い出しても初めてと言って良い。
「……教典に神ご本体の記述がないからと、精霊についての記載がないからと、それを語ることすらしないとは、教典主義者こそ凝り固まった偏見と我欲で教えを歪める不実の派閥でしょうに……」
「……」
「ですが、真っ向の対立を避け、我らが雌伏の時を過ごさねばならないのは、神が力を取り戻していないから」
神は実在し、いずれ力を取り戻し、再びこの世に降臨される。再臨を微々たるものながら助けるためにこそ、神官は修行をするのだ。神の実体を否定する神官であっても、修行は神の助けとなる。ゆえに今は、ただ弾圧を逃れ、密かに教えを受け継いでいく。
だが、降臨のその日には、真に神を信じる者だけが救われる。それが、我々が受け継いだ教え、いや、真理だ。
「神のため」
「はい、すべて、神のため」
ネグルの舌鋒の鋭さに、以前との違和感を感じながらも、リガチェは唱和した。唱和することで、二人は相手が自分を同じ信心を持つと、そう信じた。
同志として、そうあるべきだ、と。
「ですがあの、精霊というもの。あれはどう考えても、神の力に近いのです」
リガチェは、その点には沈黙を返すほかはない。精霊の箱庭と言われるもの、それを見たことがなかったからだ。
「一度だけ見た箱庭には、確かに力が宿っていました。精霊だなど、愚かな名をつける。あれは神です。ですが、神の力があんなにちっぽけなはずがない。あれは、神のちぎれた欠片でしょう」
これにもまた、リガチェは言葉を返せない。リガチェはいまだ、神の気配を感じたこともなかったからだ。けれど、常に冷静沈着なネグルがここまで確信を持つのであれば、それは神の気配を纏っていたのだろう。
「ならば、いかに我々が潜伏すべき時であっても、放置するにはいきません。神の力を人が扱うなど、あってはならないでしょう」
「……ええ、ですので、小神殿の外で市井の民に我らの教えを説いて、箱庭を不埒なものとしらしめることには、賛成しました。ですが、彼らを唆して箱庭を襲わせるなど、聞いてもおりませんが」
「なっ、ぐっ」
不意に射殺さんばかりに睨みつけられて、リガチェは喉が潰れそうな勢いで息を呑み、おかしな音が出た。咳き込んだ様子を、ネグルの冷たい薄茶の目が見下ろす。
「っげ、げほっ。な、なんのことです。襲う? まさか……」
「まさか、把握していないのですか? 唆しておいて?」
リガチェは、奇跡的に思い出した。そういえば、弟子の一人が言っていた。貴族家から箱庭を奪いに行くと嘯く者がいた、と。
「唆すなど。私たちは、話をしていただけです。精霊など神殿で聞いたことはないな、と。そのようなものを信じると、神はどう思われるだろうか、と。毎回、必ず、問いかけていただけです。
確かに一人、そのようなことを仄めかす者がいたようですが。確か、そう、『暴力は一時的に物事を解決したように見せかけるが、そうではない。神のため、常に考え、より良い道を探して、精進しなさい』と、そう答えるようにさせました」
ネグルはしばらく黙考し、やがて、なるほどと表情を緩めた。
「私たちには責任はなく、考え判断し暴力を振るうのは、その者本人ということですね。……貴方のそういう能力は、並外れていると、実感しました。
けれど、一人ではないはずです。少なくとも二人は、箱庭の破壊に成功しているはず。失敗した者はもっといるのではないでしょうか?」
「知りませんよ。いえ、知る必要があるのでしょうか?」
リガチェは、自分でもよくわからないが、腹が立って、こう嘯いた。
「どのような事件であれ、起こした者の責任です。むしろ知らずにいることこそ、唆しなどなかったという証明になるでしょう」
胸のあたりが太鼓を打つように暴れ続けている。
ようやく、自分がひどく怖かったのだと気がついた。先ほど、ネグルから凄まれて、自分でも驚くほどに恐怖を感じたのだ。それが腹立たしく、情けなく。それで一層堂々と、言い放ったのだ。
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