上 下
36 / 59

王都1

しおりを挟む
 セーヴィル辺境伯の領地は南の大国と接し、三十年ほど前までは日常的な国境侵犯に対して国防をほぼ一手に担っていたのが、両国間に巨大な緩衝地帯を定めたことで、今はその荒れた地から流れてくる獰猛な獣の討伐に注力しつつ、大国との交易の拠点となり、戦で疲弊した領地を癒し、さらに豊かになりつつある土地である。
 緩衝地帯を定めることとなった経緯は部外秘とされ、一般の貴族以下国民にとって事情は定かではないが、単なる制度上の取り決めではなく、両国とも、その荒涼とした土地に頼りなく描かれた細い街道以外踏み込むことはなく、休戦は一度も脅かされたことはない。その土地は、呪われでもしたかのように、延々と魔物のような獣を生み出す土地だ。けれどセーヴィル辺境伯の領民は、その土地を祝福の地と呼ぶ。その話は、またいずれ。
 休戦協定を守る存在とも言える荒地の獣は皆、通常の生き物の倍ほどの体躯と膂力を持ち、性質は凶暴で狡猾、そして貪欲で執念深い。それらと戦う日々を送る辺境伯家の戦士たちは、王宮の兵士たちを差し置いて、国随一の強さを誇ると、王家も認めていた。

 その屈強の戦士たちが、王都の門が見えた途端に安堵の大きな息をつき、無事にここまでたどり着いたことを天に感謝した。
 辺境伯の若き当主、クラーク・セーヴィルに側で仕えるセウスも、心持ち気を緩めて主君を見た。汗と土埃でベトついた髪が額や首に纏わり付くのを、もうすぐ清められると思うと心が浮き立つ。だが、クラークの表情を見れば、その時間ももう少し先だと悟ってしまった。

「皆は屋敷で休め。俺はこのまま、王城だ」
「承知」

 主君がそう言えば、そうなのだ。ただし、そうなると別の意味で身を清める必要が出てくる。

「我々だけであれば、伝令門が使えるはずです。そちらで汗を流すことくらいはできるでしょう。その間に、着替えを手配します」
「ああ」

 以心伝心の主従の最低限の確認に、無礼寸前の不機嫌そうな声が横入りしてきた。

「もう夜遅いですよ、王太子殿下もお休みじゃないですかね」

 この苛酷極まりない道中を命じる伝令を持ってきた男だ。名前は確か、ゼアだかモアだか。
 クラークは返事をせずにただ馬を進ませる。仕方なく、セウスは親切に回答してやった。これでも、この男は主君の新妻の実家の騎士なのだ。

「王太子殿下から辺境伯への緊急の呼び出しだ。いついかなる時でも、馳せ参じた時にはお時間をとってもらえる」

 厳密に言えば、辺境伯としての案件ではないかもしれないが。日に夜を継いで駆けてきたクラークのこの急ぎ様を見れば、一晩休んでから王宮へ参られては、とは、セウスには言えない。

「はあ、まあ一晩早く会えたところで、とは思いますが。じゃあ、俺はサリンガー家に戻りますね」

 その呑気な発言に、セウスは呆れるばかりだ。

「それは勝手だが、貴殿、サリンガー侯爵にご報告しなくていいのか?」
「しますよ、そりゃ。まあ、今回はアリアルネお嬢さんに、ですが」
「……多分、サリンガー侯爵家の方々も王城に詰めておられる。我々のおよその到着時期は見込まれているはずゆえ」
「え、この夜中に? 本当ですか?」

 面倒そうに答えられて、セウスは馬鹿馬鹿しくなった。

「貴殿は、本当にきちんとした騎士か? 伝令の重要性も把握していないとは。侯爵家の騎士としては、ありえない適当さではないか?」
「ああ、そうですねえ、真面目な奴らからミリアンネお嬢さんの護衛に選ばれていったんで、俺は居残り組になったんでしょうね。正直やる気はなくしたし、遠出も面倒だったんですが、伝令に行けばミリアンネお嬢さんに会えると思って受けたのに、会えないし……。個人的には無駄足で、げっそりですねえ」

 こちらがげっそりだ、とセウスは相互理解を諦めた。勝手にしてくれ、と言い放つと、離れてしまったクラークに追いつくべく馬を煽った。





  王城は寝静まっていたが、伝令門では馬番と侍従たちが待ち構えており、クラークもセウスも1分の無駄なくざっと身支度を整えることができた。そのまま、伝令専用の通路を通って王宮に入り、人払いのされた廊下を通り、王太子殿下に拝謁できたのは、数分後。
 この手配がすべて一人の女性のためになされていると考えると、うちの主君はなんてお方をお嫁にもらったのだろうと、気が遠くなる思いだ。

「セーヴィル辺境伯様です」

 侍従が扉を開け、主君が部屋に入る。それを見送って廊下で待機するつもりだったが、お前も来いと言われ、内心気後れを感じながら、王太子殿下の待つ部屋へと足を踏み入れた。

「ご苦労、クラーク」
「いえ、妻のことなれば」

 室内で待ち構えていたのは、セウスが初めて顔を見る人間ばかりにもかかわらず、その素性はすぐに知れた。
 一人がけのソファに座る王太子殿下は、クラークより5歳ほど年嵩だが、王家特有の美貌はいまだ若々しい。その右手側の大きなソファには二人の貴婦人が腰掛けていたが、王太子に近い側が嫋やかな印象の王太子妃殿下、その隣に座る華やかな貴婦人が、おそらくはアリアルネ・サリンガー。そして、その向かい側のソファの壮年の男が、サリンガー侯爵であろう。
 クラークがミリアンネに求婚した際には、男親として涙を滲ませていたと、その時同行していた同僚が恐々噂していたが、でまかせに違いない。王宮で最も力を持つ貴族にふさわしい品位と風格を備えた、堂々たる様子だ。
 アリアルネ以外は皆、クラークより爵位は上だが、皆が立ち上がってクラークを出迎えた。特に王太子は自ら手を差し伸べながら歩み寄り遠路の旅を労ったのに、セウスは内心、驚くやら誇らしいやらだった。
 だがクラーク自身はそっけないほどに短く挨拶をすると、それで、と促した。

 四人は顔を見合わせると、サリンガー侯爵が、王太子夫妻に着席を促し、そしておもむろに、深く頭を下げた。

「クラーク殿、このたびのこと、申し訳ない。婚姻後とはいえ、貴殿の手をここまで煩わせることになろうとは。事態は数年前から始まっていた。これまで決して静観していたわけではないが、有効な対策も取れず打つ手全てが無駄となり状況が悪化することを許したまま、貴殿をも巻き込むこととなったことは、私の力不足だ」
「謝っていただく必要はありません、お義父上。ここまで切羽詰まった事態になった切っ掛けは、ミリアンネが我が領へ輿入れしたことだと聞いております。それを切に望んだのは私であり……さらには、何事も、悪事を為す本人に非があります」
「む、そう言っていただけると」

 サリンガー侯爵が、やや疲れたように座り込む。
 クラークは、冷たくも見える青い目を、もう一人、立ち尽くす女性に向けた。

「義姉上も、どうぞ」

 そっけな! セウスは心で突っ込みつつ、これがクラークの通常運転だとわかっていた。
 むしろ、「妻のことだから」労を厭わない、と言い切ったのを思い出す方が、尻が痒くなりそうで落ち着かない。
 王太子に向かい合う一人がけソファに座ったクラークの背後に立ちながら、ぶるぶると余計な思考を振り落とし、セウスはよいせと頭の中に紙とペンを用意した。同席したのであれば、可能な限り情報を把握したい。
 呼び出し状は見せてもらった。ミリアンネについての大まかな情報も、覚えている。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

夫を愛することはやめました。

杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

裏切られた令嬢は死を選んだ。そして……

希猫 ゆうみ
恋愛
スチュアート伯爵家の令嬢レーラは裏切られた。 幼馴染に婚約者を奪われたのだ。 レーラの17才の誕生日に、二人はキスをして、そして言った。 「一度きりの人生だから、本当に愛せる人と結婚するよ」 「ごめんねレーラ。ロバートを愛してるの」 誕生日に婚約破棄されたレーラは絶望し、生きる事を諦めてしまう。 けれど死にきれず、再び目覚めた時、新しい人生が幕を開けた。 レーラに許しを請い、縋る裏切り者たち。 心を鎖し生きて行かざるを得ないレーラの前に、一人の求婚者が現れる。 強く気高く冷酷に。 裏切り者たちが落ちぶれていく様を眺めながら、レーラは愛と幸せを手に入れていく。 ☆完結しました。ありがとうございました!☆ (ホットランキング8位ありがとうございます!(9/10、19:30現在)) (ホットランキング1位~9位~2位ありがとうございます!(9/6~9)) (ホットランキング1位!?ありがとうございます!!(9/5、13:20現在)) (ホットランキング9位ありがとうございます!(9/4、18:30現在))

彼女の幸福

豆狸
恋愛
私の首は体に繋がっています。今は、まだ。

【完結】お飾りではなかった王妃の実力

鏑木 うりこ
恋愛
 王妃アイリーンは国王エルファードに離婚を告げられる。 「お前のような醜い女はいらん!今すぐに出て行け!」  しかしアイリーンは追い出していい人物ではなかった。アイリーンが去った国と迎え入れた国の明暗。    完結致しました(2022/06/28完結表記) GWだから見切り発車した作品ですが、完結まで辿り着きました。 ★お礼★  たくさんのご感想、お気に入り登録、しおり等ありがとうございます! 中々、感想にお返事を書くことが出来なくてとても心苦しく思っています(;´Д`)全部読ませていただいており、とても嬉しいです!!内容に反映したりしなかったりあると思います。ありがとうございます~!

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします

希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。 国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。 隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。 「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」

処理中です...