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35 おちるひと 九
しおりを挟む急ぎの面会依頼を受け、執務を中断してやってきたマーズは、絶句した。
「なん、なんてこと。いったいあの子たちは、どうしてしまったの。主筋の家から、主君の妻の私財を窃盗、ですって——」
衣服の胸元をぐぐっと握りしめ、激昂のあまり息を途切らせて喘いだ。
それを第二騎士団の長は、心配げに見ながら、必要事項を並び立てていく。
「目的はわかりませんが、速やかに身柄と荷を確保する必要があります。ジェイ殿を、公式にアンガス領主補佐から罷免していただきたい。例えば文書を預けていただければ、騎士に周知させましょう。でなければ、彼らの逃亡を、みすみす見逃してしまう騎士も出るでしょう。——何せ彼は、若き領主の従兄弟で、辺境伯領でも屈指の将軍です」
「けれど、一度周知してしまえば、のちにその罰が重すぎたとなっても、取り消しはできないわ」
「そう、でしょうな」
マーズは戸惑って、若い嫁を見た。
ミリアンネも先ほど部屋に入ってから、心ここに在らず、どこか虚空を眺めるようで、顔色も悪い。それもそうであろう。あれほど喜んでいた工房が、こんなことになってしまって。さぞ傷心であろう。
痛ましさに、眉が下がった。
「私のせいね。アジーナから話を聞くから、と時間延ばしをして。あの子たちがそこまで堕ちているとは、思いもしなかった。任せて欲しいなんて言って、事態の解決どころか、悪化を招くなんて、ミリアンネが傷つけられるなんて、あってはならなかったのに」
「では、一刻も早く」
「でも、そうは簡単ではないでしょう。ないはずよ。待って。
……アジーナが感情で動くと見下げていたが、私も大概ね。身内のこととなると、頭が鈍る」
がつ、っとマーズは自ら頭を殴った。
「……クラークの署名のない公式文書でいくら罷免を告げようと、効果がどれほどあるものか。私は慣習として領主代理を続けてはいるけれど、身分としては領主の母でしかないのよ。クラーク自身が王都から戻らない今、下手をすれば領内の勢力が割れるでしょうね」
「ではどうすれば」
「非常用の狼煙をあげて、領を閉じましょう」
「それは、それこそ、騒動が大きくはなりませんか」
侃々諤々の議論の最中に。
部屋の扉が勢い良く開いて、
「ミリアンネ!」
と男の声が呼ばわった。
部屋の皆がはっと振り返り、ルークはミリアンネを背にかばう。
客が無作法にも家令の案内もなく——と思ったところで、皆の目が、点になった。
泥に汚れたドレスは、一部が大きく破け、惨憺たる有様だが、損なわれていない深い青の染めも仕立ても、見るからに一級品だった。赤茶けた汚れのこびりついた顔は、むしろ頬の輝くような白さと滑らかさを際立てている。
複雑に編み込んであっただろう髪はボサボサで、ピンやリボンが今にも落ちそうに揺れている。それでもその令嬢は飛び抜けて美しく、魅力と迫力に満ちていた。
その令嬢が、傍に抱えていた何かをそっと掲げ、低い声で、取り返したよ、と言った。
ルークの横をふわりとすり抜けて、ミリアンネが走り抜けた。そのまま、令嬢の胸のあたりに、どん、と頭から突っ込む。
それでも令嬢は揺らぎもせず。やさしくミリアンネの頭を撫でた。
「馬車は玄関先に乗り付けたから、確認してくれ。何人か、縛って御者台に乗せてあるが、のこりは南の街道を少し進んだ岩場の脇に転がしてある。あと、道中、二人は落としたかな……」
第二騎士団の長が、手を振って副官を確認と指揮に向かわせた。
ほかの皆は、いまだに令嬢に釘付けだ。けぶるように長く濃いまつげを伏せてミリアンネの様子を見ていた令嬢が、ふとその視線に気がついて、目を上げた。
「あ、あなた、もしかして」
レーヌが、その赤い輝きに気がついて、瞠目した。
「おっと、これは失礼。今日は紳士の装いをする間がなかった。……ま、でも小さなミリアンネには、こっちでよかったのかもしれないが」
令嬢が、がっと頭に手を差し込み、ぐちゃぐちゃになっていた髪をずるりと剥いた。
下に隠れていたのは、見事な赤髪。
「……え、え、昨日の、子爵、どの?」
さすがのルークも唖然としている。
「自己紹介と、詳しい話をしたいけど、先にミリアンネを頼んでいいかな? 気が抜けたのか、意識がないみたいだ」
背の高い、ぼろぼろの姿の令嬢の腕の中で、ミリアンネはくたりとしていた。
意識がないわけではない。けれど、音も話し声も、すべてが遠くて、曖昧だ。
ルークに抱きかかえて運んでもらった廊下の窓の隙間から、ふと風が吹いて、意識が浮かんだり。また沈んだり。
やがてそっと寝台に降ろされて、レーヌの細い指が髪を整えてくれて。
ふたたびふと目を開けた時には、部屋には誰もいなかった。
立て続けにいろんなことが起こりすぎたせいか。それとも、あの空っぽの工房を見たせいか。心の中が妙に凪いで、頭の中に声も思考もなく。ただ奇妙に、窓から見える空が気になって、そっと起き上がり、窓に寄った。
空は突き抜けるように青く、広く、遠い。
確かに、朧げになった記憶の空と、似ている、かもしれない。
四角い空を切り取る、灰色の石の窓枠に頬杖をついて、ミリアンネは、はあ、と重たい息をついた。
「貴女の素顔は、家族になれないと見られないのなら、すぐにでも結婚して、毎日側で見ていたいと、そう思った……か」
恥ずかしながら、申し込みプロポーズの時の言葉は、一字一句覚えている。自分の口に出すのははしたないように思ったこともあったが、誰が聞くわけでもない一人ぼっちの部屋の中で、すがるものが、もう他にはないのだ。
「嘘ばっかり」
クラークに結婚を申し込まれ、受諾して、一年。王都で正式な婚姻の申請を行い、王と王妃に認められたのち、ミリアンネは辺境の地へとやってきた。そのはずだ。ミリアンネの記憶違いでなければ。
熱が上がっているのか、ぞくぞくと背筋を寒気が伝わる。しかたなく、寝台へと戻った。咳も喉の痛みもなにもない。ただ、体が重たくて、煩わしくて、そのまま地に沈みそうだった。
広い部屋の中は質の良い麻の絨毯が敷き詰められ、石造りの部屋の硬質な雰囲気を和らげている。壁にはタベストリーがいくつもかかり、書棚と大きな鏡、衣装チェスト、どれもが一級品だ。部屋の中央には大きな寝台があり、希少な青の染め布が掛けられている。
よい部屋だ。居心地も悪くはない。
けれど、いまだにミリアンネは、この部屋の中で客人のままだ。
そっと、寝台の端に潜り込む。少し動けば汗ばむほどの気温なのに、柔らかな毛布を被ると少し力が抜けたのがわかった。やはり、体に無理がきているのだろう。
辺境にたどり着いて、ひと月。
すぐに新しい環境に馴染める性質でもない。もうすこし、長い目でやっていく他はないと思う。
思うけれども。
ひと月の間、肝心の夫にも会えず、状況の説明ももらえず、わけのわからないままに動き続けて、ミリアンネは疲れ果てていた。
けれど、こうして横になればいつも、自分の何がいけなかったのか、自問することをやめられないのだ。
「クラークさま」
ぽつりと呟いて、熱い瞼をそっと下ろした。
できれば今は、何も、考えたくも感じたくもない。そのはずなのに。
悪夢が足音を立てて、追いついてくる気がした。
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