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34 おちるひと 八
しおりを挟む呆然と立ち尽くしていたミリアンネは、ふらつきながらも、一度部屋から出て、扉を閉めた。そしてまた、間をおかずに開く。
見間違いでも、部屋違いでもない。
ミリアンネの工房は、今や空っぽだった。
訝しげに後ろから覗き込んだレーヌが、ひ、と息を飲んだのを、他人事のように聞いた。
(こんなに広い部屋だったんだ)
重厚な棚の一段一段に、丁寧にしまわれていたはずの、数多のテラリウムたちは、どこにもなく。
いくつもの木箱に無造作に仕分けられていた、材料たちも、ひとつもない。十何年のうちに、侯爵家のつてのおかげで、比喩ではなく世界中から集められた、貝殻や木の実、種や小石や砂、鳥の羽根に昆虫の翅、木材に香木、毛皮……。
棚の下に、とりこぼされた流木のカケラや、作業台の傍にボツボツとこぼれ、踏みしだかれて潰れた、あるいは乾いて縮んだ苔の残骸。
木の床には、先日はなかった、何人もが行き交っただろう、雑多な足跡が残されている。
目が、移ろう。
考えが、まとまらない。
他方の棚には、価値がないと思われたのか、色とりどりの顔料がきちんと整頓されたまま、残っていた。端切れ布も、糸も、植物を模して描いた美しい図鑑。重たすぎて断念したのか、大量の粘土、糊、針金、金属を曲げる器具、金槌、小さなものを挟むピンセット……。
ぼんやりとする。
目には色々なものが映っているのに、何も、わからない。
ただ、なにやら、とても怖かった。
大きな靴の足跡がたくさんあるのが、どうしても、目につく。
怖い。
「奥様、大変失礼します。お許しください。居室に戻りましょう。ゼファに貴女を託して、私は第二騎士団へ参ります」
ルークが何かを言ってきて、ふわりと体が浮いた。
そのまま、意識のどこかで、工房の扉が、バタン、と閉められた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
報告を聞いた第二騎士団の長は、慌てて屋敷内に残るアンガス私設騎士団の人間を、強制的にかき集め、問いただした。けれどすでにアメリもジェイも姿を消し、残った者たちはまだ入団して日の浅い男たちだけのようだ。
彼らは一様に、不満そうに、だがいささか不安そうに、首を振るばかり。
「くそっ、こいつら詰所の拘置所に入れておけ! ——貴様ら、犯罪者扱いをされたくなければ、大人しく武器を渡して言うことを聞け!!!」
さすがに、正規の騎士団たちに多勢に無勢で囲まれて、無闇に反抗するのは得策ではないとわかったのだろう。彼らはぼやいたりわめいたりはしながらも、指示に従った。
「しかし、どういうことだ。なぜ、アンガスの騎士達が、噂の元らしき男女を馬車で連行するんだ? 先んじて、捕縛したのか……?」
「その可能性は低いでしょう」
第二騎士団の長のつぶやきに答えたのは、知らせを受けて急いで来たらしい、ルークだった。
「アメリ殿は奥様への敵愾心を隠していなかった。彼女たちが噂の元と合流したというならば、それは捕縛ではなく、回収でしょう。彼らは繋がっていたと見るのが自然です。何らかの形で、きっと、噂を流しやすいように手助けしていたと思いますよ。
さらに、さきほど、奥様の私物が多数、盗まれているのがわかりました。扉も、窓も、室内は何も損壊された様子はない。ただ、足跡は複数残っていました。真新しい木の床に、はっきりとね。出入りは目立ったはずですが……」
「私物?……まさか、アンガスの者たちが盗んだというのか? しかし、昨夜は異常がないと報告を受けたが」
「昨夜は、ご家族の部屋のある区画から、確認を始めましたね。そして、火事騒ぎで一時中断し、その後、引き続きの確認をした。ただ、2回目の確認では、夜も遅かったため、ご家族の区画では寝室以外の各部屋は施錠確認のみだったと聞いています。そしてその頃には、馬も馬車も消えていた」
日常、多くの人間の出入りがある屋敷だ。使用人はほとんど顔見知りだといえ、忙しさの隙をついて、身を潜めたり、毒劇物を仕込んだりは十分可能である。そこで、そうした隠蔽物の確認を重点的に行ったため、一度確認を終えた部屋については厳重な施錠を行い、住人もまた、寝室と居室以外の部屋はなるべく使用しないように、と協力を求めていたのだ。
火事騒ぎのあと、施錠してあった未使用部屋については、再確認を省いた。広大な屋敷を限られた時間で確認するのに、必要な処置だったと、長は確信している。
「特に手抜かりがあったわけではないでしょう。ただ、鍵さえ閉めてあれば、室内が荒らされていても気づかない。そして、屋敷のマスターキーは、昨日まで、アジーナ殿も持っていた。アメリ殿にとって、手が届かないことはない」
「アメリ殿という証拠があるわけではないが。火事騒ぎの隙といっても短時間だ。そこまで大量の窃盗を短時間に働ける人数で、屋敷内の部屋の鍵まで使える相手、となれば、限られる。
——胸糞悪いが、それは想定外だ。それなりに場数を踏んで来たと思っていたが、まったくだな。俺らの対応はなんら意味がなかったようだ……」
「いえ、あるいは、警護が厳しいゆえに、幸い直接的な被害は免れた、のかもしれません」
ルークの厳しい顔つきは、慰めではなく、真実そう思っているのがよくわかった。
だが長は、鼻の頭にしわを寄せ、あえてその疑いを切り捨てた。
「やめとけ。内乱になれば、王家から責められるのはクラーク様だ。それ以外の落とし所に落とすのがいいだろうよ。いや、意地でも落とし込め。……とりあえず、クラーク様がお戻りになられたら、ジェイ殿を仕置してもらえばいい。そのときは、今回の不備の責任を、俺が負う」「それは要するに、盗まれたものについては、今はとりあえず、目をつぶれ、と。そういうことですか」
「腹が立つのはわかる。だが、奥方を気に入らない重臣の妻が出来心で嫌がらせをした。それを、叛逆の疑い有りとまで、大げさに取り沙汰すのは、クラーク様の首を締めるやも、と……」「嫌がらせ? 幼い兄弟のおもちゃの取り合いじゃあない。これは、窃盗ですよ。犯罪です」
怒りに任せた顔をしたのも一瞬だった。ルークは、ぐっと声を潜め、早口で囁いた。
「噂はアメリ殿が仕掛けたことではありません。その大元は、王都です。王都で自分勝手な主義主張を繰り返していた一派が、その手をここに伸ばして来た。その手先に、領主の従兄弟夫人がまんまと乗っかった。この話が、王都に漏れないなんて、楽天的なことは考えられません。放っておけば、後手後手にまわるでしょう。
それに。
盗まれたものは、『王侯貴族がどれほど欲しくても、請い願うことすら王太子によって禁じられた、幻の箱庭たち』だそうです」
レーヌの言葉を借りて告げてみたが、いまいち長の反応は鈍い。それもしかたあるまい、とルークは思う。精巧で美事ではあるが、ルークの目には、さして価値は見出せない。世の評価を知らねば、貴婦人のハンカチの刺繍のように、単なる淑女の嗜みか、としか思うまい。
「とある貴族は、奥様の箱庭一つの対価に、アンガスの町ほどの美しい小領地を差し出したそうですよ。それに、王太子と大公閣下とが取り合って言い合いをしたので、永久に非売品になった箱庭もあり、代わりに年に一度だけ、お二人が揃ったお茶会でのみ、鑑賞ができる約束になった、とか。
盗まれたが仕方ない、とたとえ奥様ご本人が諦められたとしても、多くの権力者がその行方を血眼で探すだろうと、そういう代物だそうです」
ここで益体もない身内の揉め事とみなして放置して、後々大ごとになってから、長ひとりが責任を負い切れるものかどうか。態とらしく腕を組み、首をかしげるルークの前で、長の顔色が悪くなった。
「……アメリ殿がどういうつもりだろうが、確かに奥方にとっては謂れのない被害だ。その点は、俺の認識は甘かった。だが、おい、アメリ殿は、そういうことを知っているのか。つまり、持ち出したものの、価値を」
「さて……噂を利用していたのですから、知ってはいたでしょうね。噂は悪意に満ちていますから、それで何を知れるものかと思いますが。それに奥様に関して、頑ななようでしたからね。もしかすると、正しい評価を耳にはしていても、正しく理解はしていないかもしれませんね」
「うおい! もしその、箱庭、が壊されでもしたら……」
「世の中にひとつしかないものばかりなので。宝の価値もわからぬ田舎の傲慢で無知な領主よ、武を誉れとしながら奥方もその崇高な作品も、獅子身中の虫に食われて守りもできぬ、と、幾世代も馬鹿にされるかもしれませんね」
ちなみに、とルークは、誰にも言っていなかったクラークからの知らせの一部を耳打ちした。
「王都で貴族所有の箱庭を破壊していた過激な集団は、箱庭の愛好貴族たちから非常に激しい怒りを買ったようで。正当な処罰の手がおよばない大貴族が彼らを匿っていたことがわかった時には、主だった貴族と大商人がその家との断絶を宣言し、その大貴族は取引先も商業権も、ほかのあらゆる影響力の全てを失い、一日のうちに没落したということですよ」
長はふらり、と卒倒しかけたが、上を向いた黒目を根性で元に戻して、踏ん張った。
「——アンガスの馬車を探せ!! アンガスと王都方面の馬車道、裏道、隈なくだ! 馬車の積荷には損害を与えるな。いいか、できる限り、積荷は無事に取り戻せ。抵抗すれば、アンガスの騎士たちは無力化せよ。ジェイ・アコット、アメリ・アコットも、抵抗すれば捕縛を許す!」
騎士達が散っていく。
しばし黙考した長は、さらに指令を追加した。
「アメリ・アコットの実家にも、二、三人出せ。リエン家だ。確か、スウェラだったな。アンガスと反対方面か……。各方面、馬車の所在の確認を最優先しろ。人数で劣る場合は深追いするな」
そのまま、ルークを招いて、詰所を出た。
「ジェイがどれほど関わっているのかわからんが、やつは顔が広い。一時的にでも、正式に将軍位と領主補佐の職を解かねば、惑う騎士達もいるだろう。——クラーク様がご不在であれば、大奥様にご判断いただくほかはない」
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