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29 おちるひと 五
しおりを挟む部屋に戻って石を磨いていれば、ミリアンネにとっては、時が経つのはあっという間だった。というより、目の前からさっと砥石が消えて、驚いて顔を上げれば、呆れ顔のレーヌに、お客様が来られる時間ですよ。準備しませんと、と諭されたのだった。
慌てて身なりを整え終わった時にちょうど知らせが来たので、やや慌ただしい心持ちで部屋を出た。
それでも、昔から知った人物に久しぶりに会うだけ、という思いがあって、ミリアンネはどこか呑気に構えていた、のだが。
グレオールに案内されて応接の間の扉をくぐり、ソファから立ち上がった人を見て、もしかしてこれは部屋を間違えたかと、慌てて外向けの表情を取り繕った。
けれど、そっとグレオールを伺っても、扉を開けたまま、慌てる様子もない。護衛に同行したルークが、部屋の中を改め、ミリアンネを促す。周りは誰も、この客がミリアンネの客だと、信じて疑っていないようだが。
客は上背のある紳士だった。若いが、姉よりは年上だろうか。
珍しい光沢のある赤い髪は後ろに撫で付けられ、秀麗な額と華やかな容貌が目を引く。華やかな、と感じるのは、金茶の目を縁取る睫毛もまた、赤い色をしているからかもしれない。
目立つ男性だ。
にもかかわらず、まったく記憶にない人物である。
社交界で広く浅く交友関係を広げる、といったこととは無縁だったミリアンネは、思わず腰がひけた。
女主人として、客に声をかけなければいけないのはわかっている。客から先に口を開くのは、マナー違反だ。グレオールも、ルークも、怪訝な顔をしているのが目の端に映る。
けれど、想定していた相手ではなかったことに、ミリアンネは頭が真っ白になっていた。
「もしや、トーリオ・マーゼル文書官?」
膠着を破ったのは、ミリアンネの後方から紳士を認めた、レーヌだった。
「文書官……?」
それはなんだったか。
確か、王宮の役職だ。
姉から教わったことがある。ルージェが、その文書官なのだ、と。
姉の同志、王宮のあらゆる情報を姉にもたらす、眼鏡の女性。いや、女性の装いをした男性だと、知ってはいる。その点について、誰からも言及があったことはないが。
「ルージェ、さん、ですか?」
髪の色も睫毛の色も、肌の質も、 顔立ちや顎の形も、体格すら。何もかもがまるで違うと感じるのに、そう尋ねた。
それに、紳士はにっこりと、なんでも許そうというほどに、笑ってみせた。
「久しぶりだな、ミリアンネ。訳あってしばらく王都を離れていたせいで、結婚の祝いを言えてなかったからな。それで不躾ながら、直接挨拶に来たわけだ」
「え、本当に、ルージェさん?」
「そうだ。何度も会っているだろう? 今は、隣国の子爵を名乗っているので、トーリオ・オールレアンと言う。——セーヴィル辺境伯夫人、突然の訪問を快く受け入れてくれて、感謝いたします。このたびは、ご結婚、おめでとうございます」
何度か会って会話を交わし、時には食事やお茶を共にし、とそれなりに交友のあった眼鏡の女性の姿が、目の前の紳士に重ならない。
戸惑うミリアンネに頓着せず、子爵は完璧な作法で礼を執り、ミリアンネの手に挨拶のキスを送った。
「あ、ありがとうございます。……オールレアン子爵」
「ルージェでいい。私の、通称のようなものだから」
「ルージェさん」
満足げに頷くと、ルージェはもう一度ミリアンネの手に口付け、優しく放した。
「……さて、そちらは、レーヌ・ダルカ子爵令嬢か。直接の面識はなかったが、互いに王宮で働いた身だ。存在は互いに知っている、というところだな」
「初めまして。……ええ、そのようですね」
レーヌは、冷たい態度をとった。
子爵の口元が、面白そうに歪む。なるほど、と呟きながら、右手を二、三度、閉じたり開いたりした。
ああ、その頭の中に入っている、レーヌについての情報を浚っているんだ、とぼんやりと思う。それは、いつも美しく完璧な貴婦人の装いをしていた、ルージェの癖だ。扇を手に、少し開いたり閉じたりして、考え事をする。
「警戒されているようだけど。私としてはダルカ子爵令嬢がアリアルネの妹の元にいることをこそ、警戒したいところだけれどね。あれほど、顔を合わせる度にばちばちやっていたのにね」
「余計なお世話です」
「そうかな? 私は、ミリアンネ嬢とは、アリアルネ・サリンガーを介して五年前に知り合った。そこそこ長い付き合いだ。今回の訪問も、アリアルネは承知のことだ。むしろ、焚きつけられた、というか」
なるほど、とここではレーヌが扇を開いた。
「アリアルネ様の、子飼いというわけですか」
「対等な立場だから、同志、というべきかな。弱みを握られて脅されたりなど、していないよ」
「私だって、してはおりません」
「おや、誰も君のことだとは言っていないけどね」
「そうでしょうね、その通りですから。でも貴方は、アリアルネ様の指示で今回訪問された、とおっしゃるわけですわね?」
まさか、と紳士らしく、ルージェは鷹揚に笑った。
「対等だから、指示は受けない。私がミリアンネに会いたいから、来た。それだけだよ。私はミリアンネとは、良き友、だからね」
バリバリバリ、と、雷が鳴ったような気がして、ミリアンネは窓の外を見たが、初夏の爽やかな青空だ。
なんだろうと訝しみながらも、どうやら知り合いらしい二人に、席を勧めた。
「レーヌ嬢は遠慮してくれていいけどね」
「え、そんな」
「ご一緒します。私はミリアンネ様と大変仲が良いものですから」
「う、うん、それは」
視線を逸らさないままの二人が向かい合った応接ソファの一番遠い端と端に座り、ミリアンネはレーヌの隣に、浅く腰かけた。
使用人が茶菓子と茶を用意し、グレオールと一緒に部屋を出るまで、奇妙な静けさが漂う。
けれど、勧めたお茶を飲んだルージュが、少しだけ口の横を緩ませたので、ミリアンネは大いにほっとした。
「お口に合いましたか?」
「うん、美味しいね。よい茶葉だ」
「ですよね。産地のご領主と、このセーヴィル家が縁あって長くお付き合いがあるそうなんです。特別な茶葉を、毎年譲っていただくそうですよ。でも、よければもう一種類、飲んでいただきたいわ。隣国からのお茶も少しながら流通があって、それが、少し風味が変わっていて、とても癖になるの」
「それは興味があるね。確か、ゼッテランの茶葉だね。2年前に記録を見たよ」
「さすがルージェさん。実際のお茶も、ぜひ試してみてね」
護衛のためにソファの背後に立っているルークは、表情は変えないが、後頭部を両側から締め付けられるようなじわじわした衝撃を受けていた。
ミリアンネの言葉から敬語が抜けているし、声が柔らかい。
兄と妹、といった雰囲気ではあるが、主人の新妻が、新居で初めて見せる打ち解けた笑顔の相手が、夫たる男ではないということに、ひんやりとしたものを感じてしまう。
ミリアンネはしっかりしている。芯が強く、我儘も言わず、クラークを待つと言う。大変好感を持てる。天職と思ってさえいた荒事の多い辺境の騎士団から離れるとしても、このまま、専属で護衛を担当してもよいとも思う。
けれど、人の心はうつろうものだ。
いつまで、ミリアンネは待てるのだろうか。
それを、主人は、どう思っているのだろうか。
(さすがにそろそろ、まずくないですか、クラーク様)
足の下から湧き上がるような焦燥を押し殺すべく、両足をぐっと柔らかなラグの上に踏ん張った。
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