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26 おちるひと 三

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「鍵は、グレオール殿から預かってました」

 ルークが扉を開け、さっと中を確認してから、レーヌとミリアンネを招き入れた。
 カーテンが締め切られていても昼間の明るさが伝わって、部屋はぼんやりと明るい。レーヌが中央のカーテンを開けるのも待てず、ミリアンネは怪しい場所を探り始めた。

「これは粘土。重たいわけね。こっちは、コルク。砂……材料ばかりね」

 ぶつぶつと言いながら、木箱を開けたり閉めたりする。
 今更ながら、着替えてもらった方がよかっただろうか、とレーヌが渋面を作った。いくら慣れているとはいえ、手指も、素手で気軽に触っていると、きっとささくれなどで痛めてしまう。
 けれどミリアンネは、そんなことはまるで気にならないようだった。ひらひらと、蝶か小鳥のように荷物の間を動き回って、やがて、あった、と歓声をあげた。

「砥石、ここにあったわ。油は、居室では使えないけれど、水なら少しくらい大丈夫かしら。ああ、針金も! あそこの棚のものをまとめてくれたのね。そうだったわ」

 完全にレーヌもルークも忘れている様子だが、あまりに楽しそうなので、忘れられている二人は、ミリアンネをしばらく放置することにした。

「ということは、もっと細い針金が、どこかに……。あ、あと、金切り用の鋏が……」

 あった!と顔を上げて、ミリアンネは開いた扉の影からこちらをのぞく青い目に気がついた。このところ会っていない、夫たる人の目と、よく似ている。けれど、位置はずいぶんと低かった。

「ロジエンヌ、さん?」

 目が合ったことで固まっていたロジエンヌは、声をかけられてさっと廊下へと姿を消した。けれど、もう一度、おずおずと顔を出してきた。

「おはようございます。どうなさいました?……あ、もしかして、差し上げた小さなぬいぐるみが、壊れてしまいましたか?」

 作業部屋にいるということに高揚しているミリアンネは、距離を取られていることにも頓着せず、にこにこと義妹に尋ねた。尋ねはしたものの、まともな返事が返ることまでは期待していなかったのだが。

「壊れてない、です。」
「……そうですか。とりあえず、中へどうぞ」
「いいの?」
「ええ、もちろん」

 ロジエンヌは、妖精の巣にでも招かれたかのように、おっかなびっくり、あちこちを見回しながら、そっと部屋に入ってきた。そして、ミリアンネの周りに散らかった道具類や木箱を見て、少し顔を顰めた。

「何か、臭いがするわ」
「油の匂いでしょうか。金気か、それとも、木かな」
「木じゃないわ。森の匂いではないもの」

 がたごとと、木箱を避けて棚まで行き、ミリアンネがガラス瓶を取り出した。ロジエンヌに、蓋を開けて示してみせる。

「これ、嗅いでみません?」

 言いながら、自分も少し香ってみせると、おずおずと鼻を近づける。その顔が、ぱっと明るくなった。

「なんだか、甘い!」
「そうでしょう。薔薇の木、と呼ばれる南方の木です」

 続けて、これは、これは、とガラス瓶の中の木切れを嗅いで行く。悲鳴をあげたものもあれば、どこかで嗅いだ匂いだと何度も確かめるものもあった。

「ねえ、木によって、匂いが違うんです。この辺りの森だと、主に椎や樫の木でしょうか?土の匂いも混ざるから、どんな匂いになるんでしょうね」
「もっと、ツンとした匂いもしたわ。あと、ものすごく甘い匂いも。領主の森は古い森で、川で囲まれているの。川の手前の森とは、匂いが違うのよ。手前の森は、若いし、人の手が入っているって習ったわ」
「川を越えるだけで、木の種類が違うことがあるんですね」
「そうよ。木の種類だけじゃないわ。住んでいる動物も違うし、人だって、普段は入れないのよ。風だって、違う風が吹くんだと、そう聞いたわ。あそこは、聖地なの」

 聖地。
 ぽんと出てきた言葉に、ミリアンネは戸惑った。
 その戸惑いに、ロジエンヌは敏感に気がついたらしかった。それは嵐のように、寄せたり引いたりと落ち着かない小舟のようだったロジエンヌの気持ちを、さっと押し離してしまったらしかった。

「——知らないんだ。辺境伯領では、常識よ。貴女なんて、そんなことも知らないのに、お兄様の奥様になるなんて。そんなの恥ずかしいことだわ。アメリやアジーナを、責める権利なんてない!」

 拳を握り、眦を上げて、言葉を叩きつけて。その上で、ロジエンヌはその場から駆け去ることもなく、じっとミリアンネの反応を待っている。どこか、寄る辺なく、自信なさげに。
 心のうちで盛大に文句を言いながら。叱られるばかりなことを予想して怖れていながら。母の視線を求めてじっと見つめていた時期が、ミリアンネにもあった。
 だからミリアンネは、微笑んで言ったのだ。

「……聖地なら、私も知っています」

 果たしてそれは、嘘ではない。

「! 知らないでしょう? だって、これはセーヴィル家の」
「そちらの聖地は、まだこれから知っていきます。でも、私も、実は聖地を持っています。……見てみます?」

 誤魔化そうとしている、そう一瞬は疑っただろう。けれど、ロジエンヌは、良くも悪くも素直だった。別の棚に「聖地」を取りに向かったミリアンネを追ってきて、及び腰ながら、覗き込んできた。
 そしてその目の前に差し出した、両手のひらを合わせたほどの透明な箱に、言葉を失ったようだった。
 その「聖地」は、とある泉の周りの景色をそのまま切り取ってきたかのような仕上がりになっている。揺れる水面、水底の小石、ざわめく草。かぶせ蓋は、おそらくロジエンヌが見たこともないほど薄く、透明度で、歪みもほとんどない。その希少なガラスに、淡い緑で幾重にも小さな葉が描かれ、中の景色に影の彩りを与えている。

「王都のある伯爵家のお屋敷にある、不思議な泉を模したものです。夜になると、歌が聞こえるという場所で、その家ではずっと、大事にしていた場所だったのだけど、ある時、水が涸れてしまって。それで、その場所を描いた絵を元に、テラリウムを作ってほしいという依頼をいただいたのです」
「つ、作ったの? これを、貴女が?」
「ええ、二つ作って、一つはその家に譲って、もうひとつが、これ。中で水が循環するから、ここに開いている小さな空気穴だけで、中の世界は生きています」

 ロジエンヌは、食い入るように見ながらも手を背後に回し、決して受け取ろうとはしなかったので、ミリアンネはそっと箱を手近な卓に置いた。目をまん丸にした少女が、釣られたように動いて、またじっと見入るのに、思わず笑みがこぼれてしまう。
 ミリアンネの目には、ガラスの箱庭で、眠りから覚めたようにふらふらと漂い始める、薄桃色の小さな姿が見えている。伯爵家へ譲った箱庭からは、いつしか泉から聞こえていた歌が聞こえ始めたと、高齢の当主から涙まじりに感謝された。時を同じくして、こちらの箱庭にも、小さな気配がし始めたから、もしかすると、繋がりがあるのかもしれない。
 ふわふわと漂う光が、やがて覚醒してきたかのように凝縮し、まんまるい小動物のような姿になった。伸びたり縮んだりするのと合わせて、色が薄くなったり濃くなったりする。楽しげで、何よりだと思う。惜しむらくは、この姿を、ミリアンネ以外は認識できないことだが。

「なんだか、光ってるみたいだわ」

 やや寂しさを感じているところに、ロジエンヌが呟いたので、つい、にじり寄ってしまった。
「光って見えますか?」
「そ、そんなにはっきりとは。でもなんだか、急に中が明るくなってきたような気がしたのよ」
 それだけよ! と語気荒く言い重ねるロジエンヌの両肩を、がっしりと握った。

「え、え、なに」
「素質がありそうですね、ロジエンヌさん。そう、この中には、小さな光が……精霊の欠片みたいなものが住んでるんです。だから私は、この箱庭を『聖地』だと申し上げたんです。彼らにとっては、侵されざるべき場所。
 今まで眠っていた、その欠片が、ここで楽しそうにしているので。——ロジエンヌ様」
「ち、近いわ」
「それを明るさとして捉えられたなら、きっと貴女は、欠片たちを視ているんです」
「ちかいわー!」

 きゃあきゃあと叫んで、ミリアンネの手を逃れて、離れていく。

「そんな、そんな嘘の話で、売り込んでるの!? 詐欺で捕まるわ!」
「まさか!」

 にこにこと笑う義姉を、ロジエンヌは半眼で見た。

「中に住むものの話をするのは、家族だけに、ですよ。まだ、マーズ様にはお話しする機会はないままですけど」
「……」
「家族以外でお話ししたのは、クラーク様と、レーヌ様くらいです。
 私の作る箱庭に精霊の名がつくのは、テラリウムの持ち主が、それぞれで何かしら、欠片を感じ取ったり、不思議を体験したから。私が主張したわけではないですよ」
「……」
「実は私も、テラリウムを作り始めた時は欠片に気づきもしなかったですし。気がついても最初の頃は、ぼんやりとしか認識できませんでしたし。……ロジエンヌさん?」

 黙り込んでしまった少女を覗き込む。青い目と目が合った。それが、逸らされないし、睨まれないので、おや、と思った。

「……ここでも作るの? 貴女、お兄様のご夫人になるんでしょう? そんなことしてていいの? い、いい大人なくせに!」

 アメリに、ぬいぐるみと一緒に寝ることを窘められていたのを、思い出した。


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