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25 おちるひと 二

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 レーヌが前に出ようとしたのを、咄嗟にミリアンネが抑えた。もうレーヌにかばわれるべき立場ではないのだ。
 けれど代わりに、部屋の前を守っていたルークがアメリとの間に立ち、あからさまに警戒を示すことを、あえて許した。

「まあ、そのように皆で毛を逆立てなくとも。私はただ、乗馬でもご一緒に、と思っただけですわ」
「私と、乗馬、ですか」
「ええ、あそこまでなさったのですもの。さぞ、上達なさったでしょう?」

 彼女は、どうしたいのだろうか。
 そう、ミリアンネは不思議に思った。
 嫌味と蔑みをぶつけて、ミリアンネが怒り出すのを待っているのだろうか、と思う。
 けれどアメリは、昨日まで一度たりと見せなかった、おもねるような不本意なような、奇妙に歪んだ笑みを口元に貼り付けていた。怒らせるだけなら、不要なものだ。
 連れ出して危害を加えるつもりなのだろうか。けれど今は警戒されている。それはわかっているはずだ。どうしてミリアンネが同行する可能性があると思うのか。
 もしも本心から歩み寄り、仲良くしたいと考えているのだとしたら。笑みはともかく、物言いが酷すぎる。アコットの街で言葉巧みに屋敷へ誘導していた時には、もっと底知れぬ何かを感じたのに。

「アコット夫人、奥様は、乗馬には出られません」
「私は、ミリアンネ様をお誘いしています。貴方には問うていない。……乗馬に気が乗らないのであれば、では、騎士団の鍛錬でも見学にご一緒しませんか?」
「騎士団とは、アコット将軍の配下の者たちですか? それこそ、まさか。アコット夫人、奥様自身のご判断以前に、周囲の我々がそれを許すと思うなら、貴女はどうかしている」

 どうかしている。
 確かに、そうだ。
 反省をしている様子はない。和解を求めるでもない。
 ただ聞き分けのない子供のように、ミリアンネを動かそうとしているだけ。
 昨日、すべてが明るみに出て逃れようもない中で、最後の最後まで顎を上げ背筋を伸ばして立ち去ったのと、同じ人物とは思えない。
 少し肩をすぼめ、背を丸めて、廊下を塞ぐように突っ立ち、膿んだ熱を持った目でミリアンネを捉えて離さない。
 どうか、している。
 ぞくり、と背が震えた。

「アメリ」

 その時、ミリアンネの後方からかかった声が、アメリの視線を剥がしてくれた。
 ジェイが厳しい顔で、大股に歩み寄ってきていた。先導しているのはゼファで、この事態にいち早く呼びに行ってくれたようだ。
 思わず、ミリアンネはかすかに息を詰めた。
 目の前で、アメリがひどく途方にくれた顔をした。その瞬間に、あぶくのような、雛の腹の羽毛のような、やわく頼りない小さな気配が、ふわりと漂ったからだ。

「何をしているんだ」

 硬い声。ジェイがアメリに向けたものだとは、一瞬、わからないほどだった。
 気づけば、あぶくは幻だったかのごとく、一切消え失せていた。
 代わりに、いつのまにか芯が入ったように背筋の伸びたアメリが、一度目を閉じ、それから、いつものように口元だけで微笑んだ。

「まあ、あなた。ミリアンネ様と街の中か外れの丘まで、馬でご一緒できないか、お誘いしているだけです」

 ゼファがミリアンネの背後に付いたのを気にもかけず、ルークの脇もさっと通り過ぎて、ジェイは一直線に妻の元へ近づいた。

「今は、無理だろう」
「そのようですわね。騎士団の見学も、無理だそうで」
「騎士団? うちのか。そんなことを、申し出たのか」

 ジェイが否定的な言葉を口にするたびに、アメリの笑みは深くなっていく。
 けれどそれが、決して良いものではないことは、さすがのジェイにも、わかっているようだった。

「アメリ、何を焦っている。アジーナ殿のことは、マーズ様にお任せするほかはない。何かの行き違いだとわかれば、問題ないのだ。今だって、アジーナ殿は地下とはいえ、きちんとした居室に入っているという。沙汰が出るまでは大人しくしていることが、アジーナ殿のためだろう」
「母のため?」

 ふっと、アメリが冷たく笑った。皮肉にも、その笑いの方が、よほど本物だった。

「私は、母のことなど、考えてなどいませんわ」
「……アメリ?」
「私が考えているのは、この領地、主家のこと。それだけです。ジェイ様、貴方は違うとおっしゃるのですか?」

 反論を許さないようでいて、期待もしていないような、素っ気ない声だった。
 ジェイの顔が、みるみるうちに赤くなり、革手袋をした手が、ぎしぎしと音がなる程に握り締められた。その怒気は、ミリアンネを護衛を最優先するはずのルークが、一瞬、ジェイを抑えられるように力を溜めた、それほどだった。そうしなければ、目の前でジェイが妻を殴り倒すことになると。

「ほら、そんなにお怒りになるということは、貴方だって、同じということでしょう? 私たちは、セーヴィル家のために最も良いことをするべきなのです」

 アメリは、露ほどの怯えもなくそう言い放ち、するりと身を躱すと歩き去った。
 すれ違いながらもミリアンネにも一瞥もなく、ジェイを振り返ることなどなく、ただ前を向いて。
 その背は全てを撥ね付け、そしてまた、自分をも固く鎧っているようで。

「妻が……すまん」

 絞り出すようにジェイが言うのに、頷きだけ返す。それ以上、ミリアンネには対応できない。アメリが今後、どう動くのか、その場にいる誰にも予想がつかないと思ったからだった。
 謝罪はしたものの、それ以上の会話を打ち切るように、ジェイも立ち去り。
 ミリアンネはようやく、自室に入ることができた。



 一歩入るや、それまで淑やかに歩いていたミリアンネは、ふらふらとおぼつかない足取りで奥まで進み、無言でチェストを漁り始めた。

「ミリアンネ様? 何かお探しですか?」

 レーヌに声をかけられて、勢い良く振り返る。その目がこちらを見ているようで見ていないように感じられて、レーヌは伸ばしかけた手を戸惑いがちに下ろした。
 刺激してはいけない気がしたのだ。

「レーヌ様、私、作業部屋に行くのはダメかしら?」
「え、今、ですか?」
「今日は、というか今日も、ルージェ様が来られるまで、特にやるべきことはないもの。なのにこんな、気持ちの重たくなることがあって、今、手が、私の手が、動きたいの。部屋に座ってできることでいいの。そう、針金! 針金を、取ってきたい! それだけでいいから」
「はりがね?」
「この際、石でもいいわ」
「いし」
「磨くわ。庭で石を拾って、磨く」
「ちょ、ちょっと、待ってください」
「ああでも、砥石がいるわ! やっぱり少しだけ、少しでいいの。十を数える間だけ……」
「ミリアンネ!」

 レーヌが、がしりとミリアンネの両肩を掴んだ。もはや、ためらいも、遠慮もなかった。

「落ち着きなさい。道具も材料も逃げはしないし、まだ朝だから時間はある。私たちにわかるように、話をして」
「……はい」
「よろしい」

 パニックになった、子猫のようだ。そうレーヌが思う横で、華麗な猛獣使いのようだ、とゼファがレーヌに感心していたのを、ルークだけが、一歩離れて見ていた。

「あー、今は私たちが二人いますから、そちらの部屋から、必要なものを取ってくるのは、構いませんよ」
「ルーク、ほんとう?」
「ええ、きっちり、お守りします。非常時以外でご不便はかけないように、との厳命ですから。まだ、大丈夫でしょう。……ああでも、レーヌ様も付き添いをお願いします。奥様が部屋からなかなか出なくなった場合、止めてくれる方が必要ですので」
「……」

 信用したら裏切られた、というような奇妙な表情をしたが、ミリアンネは作業部屋に行けるとなって、やおら元気を取り戻した。頬に赤味までさして、にこにこと笑み崩れている。

「奥様、こどもみたいですねー」

 ゼファはほのぼのと言いながら、三人を見送った。


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