21 / 59
22 たつひと 六
しおりを挟むすっかり紅茶を飲み干してしまったマーズが、次はうつくしい紋様の描かれた銀の酒杯を傾け始めた。
「アメリが、貴女を拒否する理由、ね。本気で、剣を扱い軍を率いて戦うことができる女しか認めない、というのかしら。そこまで、頑なな印象は持っていなかったのだけどね。
といって別に、クラークを慕っていた、というわけでもないと思うのよ。そこまで関わりは多くなかったようだわ。むしろ、ジェイとは年齢の逆転した姉弟のようだったのが、そのまま、夫婦になっても変わらないみたいね。
アメリの影響を受けてはいるけれど、ロジエンヌは、お兄ちゃん大好きな子だし、お嫁さんにとられちゃう、っていう寂しさの裏返しだと思うの。良くも悪くも、あの子はそこまで悪いことは考えられない子よ。
ジェイもいつもあの通りだけど、少しは我が身を省みて、広い視野を持つべきことに気づいてくれると期待するしかないわね。ただ、あの子自身は陰湿な性質じゃないから、わかりやすくて、本当の意味で脅威にはならないないでしょう。
当家の使用人たちも、アジーナの指示が解ければ、きちんと支えてくれるはず。——それでも上手くいかない部分は、今後は女主人として、ミリアンネと新しい侍女頭に管理していってもらうことになるわね」
ひどく面白そうに、ミリアンネに向けて杯を掲げてみせたマーズは、常よりも明るく若々しく、まるで屈託のない娘のような顔をしていた。そうしていると、普段身につけている重厚な灰色と緑の衣装が、とたんに似合わなくなった。
ふふふ、と笑った、と思えば、少し夢見るように目を細めて、杯に口付けた。
「びっくりしたのよ。貴女が屋敷に到着早々にあんなに苦しそうに熱を出したから。何はともあれ、まずはこの土地と気候に慣れて、体力をつけて、心穏やかにクラークを待っててもらおうと、そう思ったのよ」
「その節は、ご心配をおかけしました。でも、本当に、たまにしか、寝込むことなどないのですよ」
「そう、聞いたけれど」
何かをかき抱くように腕を体の前で交差させて、マーズは眉を顰めた。
「貴女、あまりに小さいし」
「……お義母様が、背が高くていらっしゃるんです」
ミリアンネの精一杯の反論にも首を振り。小さくて細くて、壊れてしまいそうに思ったのよ、と言葉を重ねてきた。
「侯爵家でも、部屋に籠りがちで寝食を忘れてしまうこともよくあると、使者の執事の方、ウェイといったかしら、彼が言っていたから。クラークが戻って正式に披露目をするまでは、と思って、貴女の工房も、案内をしばらく我慢してもらおうと……」
「おっ、おかあさま!?」
ガタリ、とミリアンネは立ち上がった。まるで椅子の下から短槍で突かれたかのように、跳ね上がった形になった。
きょとりとしたマーズが、不思議そうな目を向けてくる。
「こう、ぼう? 工房とおっしゃいました?」
なんのことか、いやそんなこと、決まっている。十中八九、テラリウムの工房のことだ。ことだが。あるのか、あるの? どこにあるのか、いったい、どこに!
思わず、手が、両手が上に向いて、握ったり開いたりしてしまう。
目の周りが熱く、重たくなって、キーン、と耳鳴りがしそうだった。
「私の、テラリウム、どこかにあるんですか?」
驚いた顔をしたマーズが、マーズしか、見えない。
答えが待ちきれなくて、食卓に手をついて乗り出した。
マーズが、体を引いた。
「屋敷のどこかに、あるんですか?」
「ミ、ミリアンネさん」
泣かないで。
マーズが顔を歪めて、そんなことを言う。
泣いているつもりはない。むしろ至極冷静だ。テラリウムがきちんとあって、工房とやらがどこかにあるなら、泣いている場合ではない。今すぐ、今すぐに。
「わかったわ、わかった。今から! 今すぐに行きましょう。案内するわ」
すっかり赤みの失せた顔でマーズがミリアンネの席まで回り込んできて、腕を取ってきた。白いハンカチを顔に当てられる。何度も。
それでようやく、瞬きを思い出して、瞼を閉じた。
ぼとぼとと、温かな何かが、驚くほどたくさん溢れでた。
それを、マーズがゆっくりと拭ってくれる。
「……本当に、私は勘違いしていたわね。貴女のことも、貴女に必要なもののことも」
ごめんなさいね。
そう言って、手を引いてくれるのに、ミリアンネは未だにぼんやりとしたまま、従った。
案内されたのは、家族の部屋が存在する、三階、マーズやロジエンヌの部屋がある翼とは反対側に進み、最奥の扉の手前。グレオールが鍵を開けてくれて、ミリアンネの鼻に、嗅ぎ慣れた資材の匂いがそっと潜り込んできた。
グレオールが燭台に灯りを入れた。
広い部屋だ。両端まで、光が届かない。そのあちこちに木箱が重なり、壁面は全て作り付けの真新しい棚が打ち付けられている。
中心には、大きな作業台。けれど、きっと特注だろう。彫り物が側面と脚に隙間なく施され、美しく艶出しをされている。
ああ、いや、もっといろいろとありそうだ。見慣れた道具たち、細々とした材料、木ノ実や端材や美しい硝子の容器。そのほかに、見たことのない小箪笥や筆などがあちらこちらに置いてある、気がする。
「大きなものや屋外での作業が必要なものは、地階に置いてあるそうよ。使ってみてから、使い勝手の良いように変えてもらう予定と聞いているわ。温室も、専用のものができているわ。あと……」
マーズが説明してくれているのに申し訳ないのだが、ミリアンネはもう、言葉の意味まで認識できない。
今やすっかり涙は渇いたが、かわって鼻息が荒くなってきたのを自分で止められない。どくどくと血が駆け巡り、頭が冴え渡ってくる。
ああ、今、今、生きていてよかったーー。
「ミリアンネ様」
突如としてかけられた至極落ち着いた声が、ミリアンネの首根っこを捕らえた。
「今からは、ダメです。燭台の灯りでは、作業の効率も落ちます。明日、明るくなってからになさいませ」
「レ、レーヌ」
食堂からは下がったものの、おそらく近くで話を聞いていたのだろう。今日までは侍女、と宣言した彼女は、きっちりとミリアンネに付き従って、この部屋まで一緒に来ていたらしい。まるで覚えていないが。
「あの、でも、あの、箱を数えてみるだけ」
「ダメです」
「でも、ほら、早く開けたほうがいいものもあるし」
「植物など生きたものは、温室や庭の準備が整ってから、侯爵家から送り出されると聞いていますけれど」
「レーヌ、私、私、いま、嬉しすぎて」
嬉しさも程度が過ぎると苦しい。ひどい顔になったミリアンネに、レーヌが珍しく、苦笑した。
「はい、そうですね。大変ようございました。ーーけれど私、姉君アリアルネ様に厳しくお願いされたことがありまして」
「姉様」
「はい、奥様がテラリウムのことを考えておかしくなったら」
「なったら」
「剥がして風呂に放り込め、と」
「はがして」
「風呂に」
「ほうりこめ」
さあ、どうぞ。
いつの間にか、レーヌの後ろには三人の侍女がいて。
ミリアンネは再び滂沱の涙を流しながら、連行された。
マーズとグレオールは、それを唖然と見送り。そして顔を見合わせて、燭台の火を消し、扉を閉めて鍵をかけた。
「さてさて気の毒だけれど、この部屋に入り浸らせてあげるわけには、いかないのよね」
そう言うマーズの口元は、にやりと笑っている。
「大奥様、楽しそうでいらっしゃいますね」
「ええ、素敵な嫁が来て、楽しいわ。ーーさて、アジーナと話をする気力も湧いて来たわ。行きましょうか、グレオール。立ち会ってちょうだい」
「はい、仰せのままに。……クラーク様を待たず、よろしいのですか?」
「いつ帰るかわからない、不良息子で不良夫よ。いいのよ」
マーズは、すっと背筋を伸ばして、廊下を歩き出した。
「いいのよ。きっと、私の最後の仕事よ」
0
お気に入りに追加
84
あなたにおすすめの小説
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
夫を愛することはやめました。
杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
裏切られた令嬢は死を選んだ。そして……
希猫 ゆうみ
恋愛
スチュアート伯爵家の令嬢レーラは裏切られた。
幼馴染に婚約者を奪われたのだ。
レーラの17才の誕生日に、二人はキスをして、そして言った。
「一度きりの人生だから、本当に愛せる人と結婚するよ」
「ごめんねレーラ。ロバートを愛してるの」
誕生日に婚約破棄されたレーラは絶望し、生きる事を諦めてしまう。
けれど死にきれず、再び目覚めた時、新しい人生が幕を開けた。
レーラに許しを請い、縋る裏切り者たち。
心を鎖し生きて行かざるを得ないレーラの前に、一人の求婚者が現れる。
強く気高く冷酷に。
裏切り者たちが落ちぶれていく様を眺めながら、レーラは愛と幸せを手に入れていく。
☆完結しました。ありがとうございました!☆
(ホットランキング8位ありがとうございます!(9/10、19:30現在))
(ホットランキング1位~9位~2位ありがとうございます!(9/6~9))
(ホットランキング1位!?ありがとうございます!!(9/5、13:20現在))
(ホットランキング9位ありがとうございます!(9/4、18:30現在))
そんなにその方が気になるなら、どうぞずっと一緒にいて下さい。私は二度とあなたとは関わりませんので……。
しげむろ ゆうき
恋愛
男爵令嬢と仲良くする婚約者に、何度注意しても聞いてくれない
そして、ある日、婚約者のある言葉を聞き、私はつい言ってしまうのだった
全五話
※ホラー無し
【完結】もう辛い片想いは卒業して結婚相手を探そうと思います
ユユ
恋愛
大家族で大富豪の伯爵家に産まれた令嬢には
好きな人がいた。
彼からすれば誰にでも向ける微笑みだったが
令嬢はそれで恋に落ちてしまった。
だけど彼は私を利用するだけで
振り向いてはくれない。
ある日、薬の過剰摂取をして
彼から離れようとした令嬢の話。
* 完結保証付き
* 3万文字未満
* 暇つぶしにご利用下さい
夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします
希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。
国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。
隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。
「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる