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12 まどうひと 四
しおりを挟むおそらくは、それで気が抜けたのだ。
翌日、ミリアンネは珍しくも高熱に苦しんだ、らしい。
一日中、寝台で起き上がることもできず、湯が沸きそうに熱い体と真っ赤な顔で、うつらうつらとして、医師が来ても起きる気配はなく、昏こんと眠っていた、とは、その翌朝にレーヌに言われたことだ。
「突然で、悪い病にかかられたのかと思いました」
かなり安堵した顔で言われたので、相当な熱だったのだろう。
けれど、すでに体はすっきりと軽く、頭も冴えわたるように感じていたミリアンネには、さっぱり実感が湧かなかった。
「うーん、お腹が空いたわ」
「そうでしょうね、お水を少しずつしか、口にされていませんから。いま、すぐに柔らかいものをお持ちします」
食べ始めると、確かに久しぶりに何かをお腹に入れた感じがした。
空腹が落ち着き、衣類を改めたころ、回復を伝え聞いたのだろう、マーズが部屋を訪れた。
「ミリアンネさん……まあ、ほんとうに、顔色はよくなったわ。よかった。旅路の疲れが出たのかしらね。うちについて、安心したのかしら。こちらの空気が合わない、とかでなければいいのだけど。王都と比べると、かなり乾燥しているそうだから」
スタスタと近づいてきて、ミリアンネの頬を挟み、右から左から、よくよく眺めてから、マーズはほっとした顔をした。よほど、心配をかけたようだった。
「食事はとれたのかしら? そう、よかったわ。食事は基本だから。では、今日は、大事をとって、部屋で過ごしてちょうだいね。私からのお願いです。あとで、テレサたちにも出立の挨拶にこさせるから」
義姉夫婦に、わざわざ部屋に来てもらうなんて、とミリアンネは焦ったが、決定事項だとして、マーズは譲らない。
しかたなし、部屋で実家への手紙など書き綴ったりして時間を潰していると、やがてテレサが訪れた。
「まあ、本当に、顔色が良くなって。昨日は、真っ赤な顔をして、そのまま煮えちゃうかと思ったわ。よかった!」
「ご心配をおかけしました。久しぶりの熱で、実は私は昨日のことはよく覚えていなくて」
「まあ……!」
「でも、今日はまったく、不調を感じません。体が軽いくらいです」
そう? とテレサはしばらくミリアンネをじっと見つめていたが。
ふっと息をつくと、マーズとまるで同じように、ミリアンネの頬を挟んで顔を寄せた。
クラークとよく似た色合いの、冴え冴えした顔が、正面から覗き込んで来て、ミリアンネはどきどきしてしまう。
実の姉だったら。ミリアンネのそんな動揺を読み取って、からかってくるのかもしれない。
けれどテレサは、生真面目な顔つきで、優しく言い聞かせて来た。
「まったく違う環境だから、戸惑うこともたくさんあると思うわ。お母様は、実はこの地の代々の重臣の娘で、お父様とは兄妹ほどに近い幼馴染として育ったので、他家に嫁いだという感覚はなかったと思うの。まあ、私も、領地内で育った相手と結婚したから、困ったことはなかったんだけど。
でも、王都とこことでは、いろいろと違うわ。クラークは女性のことに聡くはないし、急ぎの用か何か知らないけれど、貴方を放って仕事だし。お母様は情が深いし、あなたのことを気に入ったようだけど、そんな事情であなたの困惑や苦労に、気づきにくいかもしれない。——そんなときは、ぜひ、連絡を頂戴。私はこの家を出た人間だから。多少の弱音も吐いていい相手だと思って」
「お義姉さま」
「約束よ」
「はい、ありがとうございます」
心からの、お礼だった。
「じゃあ。貴方が慣れるまで滞在したいのだけど、初めての出産が近いからって、過保護にされていてね。夫は、この部屋に連れてくると、クラークに悪いかな、と思って連れてこなかったの。またあなたが元気な時に、二人で来るわね。うちにも、落ち着いたら遊びにきてね」
にこやかにそう言って、義姉は帰っていった。
その日は、一日、部屋から出なかった。
次の日は、屋敷の家族のフロアを案内してもらった。ロジエンヌも、戻って来たらしい。廊下で遠目に見かけたが、普段の食事はマーズが忙しいために個々の都合の良い時間と場所で食べるらしい。食堂で一緒になることはなかった。
次の日は、屋敷内を案内してもらった。
その次の日は、近くの庭を少し。
その翌日は、乾いた風が強いと言われて、部屋の中だ。
そしてミリアンネは、限界に近い。
「つらいわ」
ソファに突っ伏して、長いため息をついた。
このところの常態なので、レーヌは反応してくれない。なかなか、よい性格である。
「こんなに、一日一日が長いなんて」
呻きながら、ハッと気が付けば、抱え込んでいたクッションの縁についている房を、細く美しく複雑に、編み込んでしまっていた。房の糸は艶のある臙脂なので、これは貴婦人の髪にも見える……などと考えてしまう。
いやソファの木枠部分を指で撫でれば、丁寧にヤスリをかけた小さな椅子に、木目を残しながら何度も塗料を重ねて塗り、艶出しの仕上げニスをかけることを想像するし、書卓に置いてある美麗なガラスペンを見れば、ガラス棒の先を炙って、摘んで伸ばして、小さな小さなグラスにすることを考える。姿の見えて来たグラスを、元のガラス棒からふつりと切り離す、その瞬間がたまらない。
手が、そわそわする。
もう、なんでもいい。小さなものを、捏ねたりつまんだり伸ばしたり切ったり縫ったり貼ったり塗ったり削ったりしたい。したいのだ。
「そんなにですか?」
レーヌに呆れて声をかけられて、つい口に出して愚痴っていたことに、やっと気がついた。
「そうね……。こんなに長く、触れられない日が続くのは、初めてだわ。つらいの……」
「誤解を招きそうな表現は、常に気をつけたほうがよいかと。あと、そもそも、ミリアンネ様のお時間の過ごし方については、旦那様とはお話できているのですか?」
「テラリウムについて? ——ええ、そこは、続けて作っても良いと、おっしゃってくれていたわ」
そも、ミリアンネとクラークも、テラリウムが繋いだ縁ではあるが、それとこれとは別、という夫もいるだろう。貴族の夫人が、なにかしら手に職を持つ、というのは、一般に外聞の悪いことである。
けれど、クラークは、テラリウムを作ることに、一貫して寛容だった。
「そうですよね。嫁入りの馬車のうち、三台がその材料などでしたものね。では、大奥様に、その荷の在り処を確認されてはいかがです? 少なくとも、ウェイ殿が荷の搬入を確認してから出られているのですから、この屋敷には届いているのでしょう」
「そう、なん、だけれどね……」
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