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第3章
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第3章 【氷山辰也】
人付き合いの上手な母親だった。それは今も変わらない。
祖母が亡くなったのは俺が生まれるより前のことで、祖母が経営していたスナックを24歳の若さで継いだのが俺の母親だ。以後、サラリーマンやら背伸びをした大学生やらの心の拠り所として店を守っている。愚痴を聞いたり、一緒に飲んで歌ったりするのが仕事だ、料理の腕よりもコミュニケーション能力が1番に問われる。
母親はそれが上手だった。常連客を手放さなかったし、新規に訪れた客の心を引き離さなかった。
仕事一筋だった母親が結婚したのは31歳の時だった。相手、つまり俺の親父は当時27歳の少し気弱な人だった。店の常連だった上司に付き合わされて来ただけだが、そんな親父に母親は惚れたらしい。
詳しい理由は聞いていないが、スナックのママである母親が客である親父に猛アピールをしたとか。案の定というか、親父を店に連れてきた上司は怒り狂い、親父相手に会社内でパワハラを繰り返したらしい。
理不尽で筋違いな暴力を浴びた親父は精神的に病んでしまい、ついには鬱病を患って会社を辞めてしまう。訳もわからず路頭に放り出された親父に、救いの手が差し伸べられる。
俺の母親だった。
ごめんなさい。私のせいだね。私があなたの人生を狂わせてしまったね。本当にごめんなさい。
でも安心して。あなたの人生を狂わせはしない。きっと幸せな人生にしてみせるから。
だから、私についてきてくれませんか。
絶望の渦中にいた親父にとっては、こんな言葉が激しく胸を打ち振るわせたのだろう。鬱病から立ち直った親父は新しい職に就き、間もなくふたりは結婚した。
そうして母親は32歳で俺、氷山辰也を産んだ。
その後も母親は店を閉めなかった。とにかく愛想の良い笑顔で接客して、店に訪れる人々を癒しては送り出していった。そんな母親の姿を幼い頃から見てきて学んだことがある。
社会で生きていく上で人との付き合いは必要不可欠。では、人付き合いを上手くやっていく手段は何なのか。
答えは見つけていた。笑うことだ。とにかく笑う。いつ、いかなる時も笑う。相手が怒っていても笑う。泣いている時も笑う。
もちろん、全ての場面で同じように笑ってはダメだ。笑い方を変えるのだ。一緒に楽しもうと笑ったり、相手を励まそうと笑ったり、同情しようと笑ったり、悲しみを吹き飛ばすようにあえて笑ったり。
母親から学んだ術だったけれど、それで上手く過ごせるのだと信じていた。たとえ自分の気持ちが沈んでいてもとにかく笑っていれば、相手も笑顔になる。上手く付き合える。
そう思っていた。母親がそうだったからだ。
けれど、子ども社会においては違った。子どもは大人と違って思考も行動もほとんどに本能が働く。作り物の表情は、子どもたちの深層的な部分で見抜かれた。
決して嫌われたわけじゃない。俺の表情が作り物だと『見抜いた』という自覚がないのだ、表面上では仲良くやっていた。
そう。表面上は、だ。
俺は勉強もスポーツも生まれつきそつなくこなし、5歳から始めたテニスに至っては小学1年生から全国大会に出られるほどの『才能』を生まれ持った。
そんな俺を、周囲の子どもは気味悪がったのか。尊敬よりも畏怖にも似た感情を抱かれていたのには気付いていた。
友達のいない幼少生活だった。寂しいというよりも、おかしいという気持ちの方が強かった。どうして上手くいかないのだろうと、不可解で仕方なかった。正直、腹が立った。
母親と同じように振る舞っているのに。客から愛されてやまない母親の真似をしているのに。
どうして友達ができないのか。どうして誰とも解り合えないのか。釈然としない日々が続いた。それでも笑うことはやめなかった。やめたら自分という存在が崩壊していきそうだったからだ。
しかし、俺はずっと抱いていた疑問を解消させる人物と出会う。
細原木実。小学2年生で初めて同じクラスになる。彼女が1年生の頃から暴力少女として名を馳せているのは知っていた。だからだろう、木実に話しかける子どもはひとりもいなかった。
俺を除いて、だ。
金持ちだろうと貧乏人だろうと、美形だろうと不細工だろうと、どんな客でも分け隔て無く笑顔で接する母親の背中を見て育った俺は、たとえ見境なく暴力を振るう女子が相手でも距離を置こうとは微塵も思わなかった。
だから話しかけたのだが、彼女が放った第一声は俺の記憶に深く根付くことになる。
「なんで楽しくもないのに笑ってるの?」
なにも言い返せなかった。
「辰也くんっていつも笑ってるよね。ねえなんで?」
俺の生き様を前提から否定された気分だった。
それなのに、なぜか気分が良かった。
「ははっ」
俺は笑った。意図して作った偽物から、本心から湧いたものに姿を変えた。
「あ、今は楽しそう。どうかしたの?」
「いんや。お前って変な奴なのな」
「えっ、なによいきなり!」
「お前の言う通りだよ。俺はいつも笑ってるけど、いつも笑ってないんだ」
「……んー?」
不思議そうに首を傾げた。
「楽しくないのにいつも笑ってるの?」
「そうだよ」
「なんで?」
「みんな馬鹿だから」
「え?」
「みんな馬鹿だから。俺が笑っていれば、とりあえずはみんなも笑う。班行動もこれでうまくいく」
「でも、それって友達じゃなくない?」
「友達じゃないよ?」
「ええっ」
少女漫画のヒロインみたいに大きな瞳を見開く。
「そ、それでいいの?」
「なにが?」
「友達じゃなくていいの?」
「いいよ、別に」
「そうなの?」
「うん。だってむかつくもん」
「むかつく?」
「そう、むかつく。俺はこんなにも明るく話しかけてるのに、誰もおれと仲良くしようとしないんだぜ?」
この時の俺はどうかしていた。初対面の女子を相手に、黒い本音を黒く話した。
今までの俺なら絶対にしない言動だ。けれど、彼女には、俺はこんな自分をさらけ出すことができた。
木実はしばらく言葉を失っていた。次の瞬間には軽蔑の眼差しを向けられるかと思った。
けれど彼女は、やがて腹の底から笑い声を上げた。
「おもしろい!」
本当に、変な奴だった。
「いつも笑っててよくわかんない男子だなあって思ってたけど、ほんとはそんなこと思ってたんだねっ。すごいっ。おもしろい!」
「そんなにおもしろいか?」
「おもしろいよっ。なんだよー、人に変な奴って言っておきながら、自分だって変な奴じゃん、もう!」
えいえい、と人差し指で頬をつついてきた。鬱陶しくて振り払ったのだが、俺は笑っていた。木実も笑っていた。
「こういうのなんて言うんだっけ……あっ、『腹黒い』だ。辰也くんは腹黒いんだ!」
「『腹黒い』ってなに?」
「いい人ぶってるけど、心の中では悪いこと考えてる人のことだよ!」
「なるほど。そうか、おれは『腹黒い』なのか」
言われてみれば、ストンと腑に落ちた。
「あれ? でもさ、お前には『腹黒い』じゃないじゃん?」
「そうだねー。でも、わたしは今の辰也くんが好きだな! おもしろくてっ!」
「そ、そうなの?」
「うんっ!」
ずっと作り笑顔だけで過ごしてきたのに、そうじゃない自分を木実は『おもしろい』と言った。好きだと言ってくれた。逆に今までの俺を『腹黒い』と言った。
この瞬間、俺は生まれ変わったと思った。
いや違う。俺はようやく、本当の自分を見つけたのだと思う。
今までは母親の模造品だった。上手く世の中を渡り歩いて来られたけど、それは自分であって自分じゃないから、釈然としない日々が続いていたのだ。
そんな俺を真っ向から覆して、本当の俺を見つけ出してくれた人物。
細原木実。出会って数秒で俺を否定し、『腹黒い』俺をおもしろいと評する変な、もとい稀有な少女は、俺にとって欠かせない存在となる。
少なくとも彼女は俺にとって、初めての友達となった。
俺に友達ができないもうひとつの理由に『才能』がある。ではなぜ、木実とは友達になれたのか。その疑問は、彼女も『才能』の持ち主だということを知って得心した。
才能を生まれ持ったがために本当の意味で他の子どもと馴染めず、ずっと友達がいなかったのに、木実とは出会って数分で友達となれた。
才能を生まれ持った子どもは、同じく才能を生まれ持った子どもとしか友達になれないんだ。そんな考えを抱くのは必然だった。
同学年にとんでもない才能を持ったふたりがいるのは知っていた。廊下などで見かけたこともある。
矢式灯火と弓月星夜。1年生の頃に学年中、いや学校中で噂になった。
噂となった要素は3つ。
ひとつは才能の実力。ふたりともそれぞれの競技で、同年齢では国内に敵がいないこと。
ふたつ目はふたりの関係。保育園のときに結婚を約束し、他人が入り込む隙が全くないこと。
最後はふたつ目と関連するが、他人にまるで興味を示さないこと。まるでふたりだけの世界に住んでいるかのように、他の子どもと一切関わろうとしなかった。灯火はいつもきりっと精悍な表情をしていたし、弓月は陸上の才能と同じくらいグレードの高い容姿を生まれ持っていた。愛想さえ良ければラブレターの嵐が降りかかっていただろう。
木実と出会ってから、急にふたりのことが気になった。親近感に類似した感情が芽生えた。本当の意味で友達になりたいと思った。なれると思った。
3年生に進級し、そのチャンスが訪れる。俺は弓月と、木実は灯火と同じクラスになったのだ。
木実と相談し、まずは同じクラスの奴から友達になることにした。自分で言うのもおこがましいだろうが、俺たちもそれなりに学年間で名が知れている。灯火と弓月が俺たちに同類意識を抱いてくれれば、きっと友達になれるはずだ。
大丈夫。『才能』を生まれ持った俺と木実なら仲良くできる。
「誰?」
思い上がりだった。
灯火と弓月にとっては、俺や木実も『凡人』のひとりに過ぎなかったのだ。
正直、ショックだった。木実以外に友達はいなかったけれど、知名度や周囲の好感度は高いという自負があった。母親から学び取った方法で積み上げていけていたと思っていた。
俺の人生を根底から否定された気分だった。悲しかった。悔しかった。
こうして出鼻をくじかれたわけだけれど、弓月に声はかけ続けた。全部無視された。徹底的な無視だった。
諦めるわけにはいかなかった。でも、ここまで無視を徹底されると少しだけ弱気になる。
相変わらず木実以外の友達もできない。作ろうとも思っていなかったけれど。
5月終盤、体力テストの日がやってくる。50メートル走の計測時、弓月の走りに魅入ってしまった。『目を奪われる』という表現を初めて体感した。
ただでさえ綺麗な少女が、ものすごく綺麗なフォームで、凄まじいスピードで走るのだ。男子でクラス1だった俺は意気揚々としていたのが恥ずかしくなった。
やっぱり弓月は凄い。彼女の『才能』は別格だと感じた。その実力を目の当たりにし、改めて友達になりたいと強く思った。
いや、ならなければならない。俺も弓月も凡人とは仲良くなれない。このままでは孤立したままだ。
俺は木実に協力してもらい、多少強引でもどうにかきっかけを作ることにした。彼女は底抜けに明るく、また無邪気で、人の懐に容易に入ってしまう。さらに言えばなぜか俺に好意を持っている。これを利用しない手はなかった。
腹黒いだろうか。腹黒いだろうな。全然構わない。
結果は成功。
相変わらず無視され続けたけれど、俺と木実を友達と認めさせたことに大きな意味があった。1から2に、2からⅳへと集まった才能は、必ず良い方向に作用する。
木実が相棒とするなら、灯火と弓月は仲間という位置付けになるのか。いずれも才能を持ったがための喜びや苦しみを分かち合える。
他人あっての自分だ、俺の人生はここからようやく始まったと言ってもいい。
それからは充実した小学校生活だったと思う。凡人との関係を維持しつつ、木実たちとは頻繁に会って親睦を深めていった。
特に5年生では4人とも同じクラスになったから毎日が楽しい日々だった。ことある毎に話していたし、野外教育活動での木実の騒動も今となっては良い思い出だ。4人揃って全国大会で優勝したのは我ながら凄いと思う。
録年生では再びクラスが散りばめられてしまったが、もはやその程度のことで俺たちの関係が薄まるなんて絶対になかった。時間をかけて着実に友情を塗り固めてきたのだ。
俺たちは才能によって繋がっている。この才能が枯れでもしない限り、俺たちの絆に亀裂が生じることはない。
でも、時々ふと思う。俺たちはなぜ才能を生まれ持ったのだろう。
そんな疑問の答えはもちろん見つからぬまま、俺たちは中学校へと進学した。
2011年4月。東北で大震災と津波が襲い、ロンドンオリンピックを1年後に控えた年だった。
3つの小学校から成る中学校は8つのクラスがあり、4人が揃って同じクラスになる可能性はまず無いだろう。しかし、運は俺に味方する。
「よっ。同じクラスなんて幸先良いな!」
中学生活初日。真新しい学生服に身を包み、教室の自分の席で頬杖をついてぼーっとしている灯火の肩を叩いた。
「よう」
振り向いた灯火は声と表情に張りがなかった。
「どうした? なにか考えてるみたいだったけど」
「うん。いきなり氷山と同じクラスで運が良いなあって思ってさ」
「おっ? なんだよ、妙に素直じゃねえか! おいおい、照れるだろ!」
「こんなところで運を使ってしまって、2年生、3年と上がっても星夜と同じクラスになれなかったら、俺はお前を恨むかもしれない」
「ほんと素直だな! 超素直だな! お前がなんか微妙に元気なかった謎が解けたわっ!」
まあ今に始まった言動ではないが。灯火の弓月に対する恋心たるやレーザー光線並みに一直線である。
「お前は細原と一緒じゃなくて残念じゃないのか?」
「別に」
即答する。
「もう中学生なんだし、そろそろ付き合おうとか思わないの?」
「あいつが俺を好きなだけだろ? 両想いじゃないんだし、そりゃダメだろ。木実は相棒ってだけで、別に恋愛感情があるわけじゃない」
本心だった。
「ふーん? まあいいや」
明らかに信じていない様子だったが、灯火はこの話題を打ち切った。
「どころでさ、どうしたら星夜と同じクラスになれるのかな。お前は知らない?」
「そんなの、俺が知るわけねえじゃん」
「お前、腹黒いじゃん。なんかこういう知恵って思い浮かばないの?」
「またまた灯火くんってばご冗談を。俺ほどピュアな男がどこにいるんだよ」
「確かにピュアだな。自分に正直っていうか、自分のことが好きで好きで仕方ないって感じだ」
「まあな! 成績優秀、スポーツ万能、そしてテニスは全国トップクラス! こんないい男、なかなかいないだろ!」
「腹黒いじゃん」
「むしろそれが一番の魅力だろっ!」
「細原にとってはな。細原はそんなお前が大好きだから、お前も自分を好きだって胸を張って言えるんじゃないのか」
「……はっはは!」
さすがというかなんというか、これだから灯火は油断できない。俺自身も自覚がないことを、全てお見通しのようにずばっと言ってくる。
「お前は細原にすげえ恩があるだろ。少しは恩返しするといいよ」
「してるよ。あいつが俺を好きでいるのを許してるじゃん」
「へえ。氷山を好きでいられるだけで幸せってこと?」
「そういうこと」
「ははは!」
今度は灯火が声を上げて笑った。
「あながち間違ってないかもな。俺も星夜が好きだけど、こうして普通に好きでいられるのがすげえ幸せだもん」
いきなりなんだろう。報われない恋愛映画でも観たのだろうか。
少し考えていると、少し前に仕入れた情報をふと思い出した。
「ところでさ、このクラスに転校生が来るらしいよ。さっき誰かが話してた」
「へえ。まあ新年度だからな」
「それがさ、来るのは外国人らしいぜ」
「あっそう。まあいいんじゃない?」
「興味なさそうだな」
「うん、ないよ」
「灯火には星夜ちゃんがいるから?」
「もちろん」
このとき、灯火は本当に転校生に興味を示していなかった。小学生の頃と変わらず、ただただ弓月に心を寄せている。
しかし、この転校生との出会いは、俺たちの人生を大きく揺るがすものとなる。灯火とのろけ話にも似た会話を交わしている間、その波は着実に近づいてきていた。
入学式が終わり、中学生になって初めてのホームルームの時間。本当に転校生がやって来た。担任教師に促され、黒板の前で自己紹介を始める。
「はじめまして。ヴィエラ・コモン・カルナックです。ブラジル人です。12歳です。ミドルネームはカルナです。よろしくお願いしますです」
女子生徒を中心に教室全体がどよめいた。ヴィエラと名乗った同年齢のブラジル人は、誰の目から見てもイケメンだったからだ。
中学1年生にして180センチ近くある上背。職人がひとつひとつパーツを丁寧に並べたような端麗な顔立ちは、南米特有の黒い肌に、ぱっちりとした瞳、整然と並ぶ真っ白な歯が際立っていて、いったいどこのハリウッド俳優なのかと問いたくなる。
心中穏やかではなかった。焦りを感じた。正直、嫉妬した。
俺だって顔立ちは整っている。身長も170センチ強と高い方だ。勉強もスポーツも得意。性格だって社交的だという自負はある。
男としての自信はあった。
1週間で粉砕した。
ヴィエラは逸材だった。人気という単語は奴のために生まれた言葉なのだと感じた。
まず、国柄なのか、非常に陽気な性格だった。場の雰囲気が暗くても、奴さえ来ればあっという間に明るくなる。人懐っこく、誰に対しても壁を作らないため、生徒のみならず教師からも気に入られていた。
奴の両親は共にブラジル人だが、父親の親友が日本人だったらしい。幼少の頃からその人と頻繁に話しており、まだ拙いものの、相手に意味が通じる程度には日本語が話せる。むしろその拙さに愛嬌があって生徒達の母性本能を刺激した。
加えて、奴は学習能力も身体能力も俺の上を行っていた。とにかく頭の回転にキレがあり、生徒が話す日本語や教科書の文を直感で理解してしまう。運動神経も抜群で、体育の授業のみならず日常生活の随所で散見できた。
マスコットという表現が最も的を射ているかもしれない。イケメンだが陽気な性格には嫌味が全くなく、一緒に居て単純に楽しい気分になれる。
そのポジションは俺が座る予定だった。もはや完全にヴィエラの支配下に置かれた。俺の存在が脅かされたと思った。
昼休み。俺たちが4人でいる時も話題になった。
「あんた、中学に入って影薄くなったね」
弓月の言葉も笑えなかった。ヴィエラはたった1週間で学年に馴染んでしまった。生徒たちの心を鷲づかみにした。
「ヴィエラくん、うちのクラスでもすっごい評判だよ。ぶっちゃけ、辰也くんの『た』の字も出て来ないもん」
「平気でそういうこと言えちゃう木実は素敵だぜっ」
「えっへへー。まあね!」
「氷山もこのまま潔くフェードアウトしたら素敵よ?」
「そんなクールな星夜ちゃんの方がよっぽど素敵だ!」
「あ、あ、辰也くんっ、大丈夫だよ! 辰也くんがみんなから忘れられても、あたしはずっと辰也くんを好きなままだからねっ」
「くううっ、お前の優しさは胸に沁みるぜ!」
「傷に沁みるぜ、の間違いでしょ?」
「おっとお。絶妙なキラーパスをありがとうな、星夜ちゃん!」
とそこで、灯火が俺の肩に手を置いてきた。
「氷山」
「なに?」
「泣くなよ」
「真顔で言ってくれる灯火の心遣いに涙が出そうだ!」
ヴィエラに対し、多少の劣等感を抱いていた。毎日クラスメイトに囲まれている奴はすごく眩しくて、近づくことはおろか、直視すらできなかった。
とは言っても、ヴィエラと話す用事があったわけでもない。だから避けていたわけではない。こちらから歩み寄らなかっただけだ。
ただ、俺にとってはそれが大問題なのだ。分け隔てなく、誰にでも等しく笑顔で接するのが俺の信条だ。このスタンスは木実たちと知り合ってからも変わらない。
ヴィエラがひとりでいる時間は少ない。しかし、ないはずがない。探せばいくらでも見つけられる。
休み時間、ヴィエラはひとりで廊下に出た。俺はその機会を逃さなかった。行き先はわかっている。トイレだ。
ヴィエラと数秒の間を置いて男子トイレに入る。奴が使用している隣の小便器の前に立った。
「あ、辰也さん。こんにちは」
先に話しかけて来たのはヴィエラだった。俺はズボンのファスナーを下ろしながら振り向く。もちろん、笑顔は忘れない。
「おっすー。日本の便器には慣れたか?」
「大丈夫です。ブラジルと変わらないです」
そりゃそうだろう。便器なんて元の形は世界共通だ。
「便器に慣れたを聞かれた、初めてです」
真っ白な歯を見せて好意的な笑みを浮かべるヴィエラは、なにやら照れくさそうだった。
「辰也さんと話した、初めてです。嬉しいです。よろしくお願いしますです」
「こちらこそ、よろしくな!」
互いに用を足しながら初対面のあいさつを交わしている俺たちを、第三者が見たら果たしてどんな光景に見えるだろうか。
ともあれ、この短い会話だけでヴィエラが好かれる要素はいくつか見つけられる。
イケメンであることと、日本語がまだ少し拙いことはもう述べた。笑顔も眩しい。これらの他に、ヴィエラには嫌味がない。俺たち日本人に敬意を払い、話す言葉も非常に謙虚で丁寧だ。
「こりゃモテるわ」
「はい? なにか言いましたですか?」
「いんや、何も」
ズボンのチャックを上げ、手を洗う。用も足したところで、俺は本題をヴィエラにぶつけた。
「ところでさ、ヴィエラってば超人気じゃん。気分はいい?」
ストレートに尋ねると、ヴィエラは驚き、やがて満面の笑みを浮かべた。
「はい! みなさん、とても優しいです! 私、嬉しいです!」
「およ?」
皮肉を言ったつもりが、別の意味で捉えたようだった。
「私、初めての日本。不安でした。でも、みんな優しいです!」
「そか。ヴィエラはイケメンだからな。そりゃ、みんな優しくするよ」
「イケメン?」
「かっこいい奴のことだよ」
「かっこいい? ……はい、ありがとうございます!」
「お? ヴィエラ、自分でもかっこいいって思ってる?」
「ブラジルでも言われた、あります。日本でも言われた、嬉しいです!」
「ほっほう」
謙遜せず、素直に礼を言うあたりが清々しくて、かつ謙虚だ。
「でも、辰也さん、もっとかっこいいです!」
「わかってるじゃねえか!」
「背が高い、顔きれい、モデルみたいです!」
「ほっほほー」
相手を持ち上げるのも忘れない。
「ヴィエラって、もしかしてすげえ奴?」
「どういう意味ですか?」
「ん? すげえってのはすごいって意味だぜ」
「違うです。それはわかるです。なにが、すごいです?」
「だから、ヴィエラがだよ」
とそこで、チャイムが鳴った。ヴィエラはまだ首を傾げていたが、とりあえずは教室に戻ることにした。
「あ、辰也さん!」
トイレを出ようとしたところで、ヴィエラに呼び止められる。
「なんか用?」
「私、カルナ、言って欲しいです!」
「そか、わかった。気が向いたらカルナって呼ぶよ」
「はいっ!」
すごく嬉しそうな満面の笑みを見ていると、なんだか俺まで嬉しい気持ちになった。
たかが数分の会話だったけれど、ヴィエラが人気者たる所以を垣間見た時間だった。
優しくて、明るい。正直、表面上は『凡人』を相手にする俺と大して変わらない。決定的に違うのは、ヴィエラは本心を言葉にしていることだ。奴の優しさや謙虚な態度は本物で、似ていても俺とは180度異なる。はっきり言って、嫉妬やら劣等感やらを抱くことすらおこがましい。もはや尊敬の念すら抱きかけていた。
4月25日。中学生になって初めての体力テストの日。1年生の男子に限っては大方の予想通り、ヴィエラの独壇場だった。ほとんどの種目で彼が1位の座を奪っていった。
特に100メートル走では度肝を抜かれた。なんと11.9秒のタイムを叩き出し、学年トップどころか校内トップに躍り出たのだ。このタイムは全国レベルの大会に出場できるほどである。
しかし、ヴィエラは自分のタイム以上に驚いていたものがある。弓月のタイムだ。彼女の記録は12.4秒で、女子のこのタイムは全国大会の決勝に残れるレベルだ。1年生に限れば頭ひとつ飛び抜けている。そんな記録を、学校の体力テストなんかで出してしまうから脱帽もひとしおだ。
俺の12.6秒も決して悪くはないのに、まるで見向きもされなかった。
「すごいです! 星夜さん、すごいです!」
ヴィエラはもっともな感想を興奮冷めやらぬ様子でずっと繰り返していた。それが弓月に負けた俺への当てつけのように思えてなんだか腹が立った。もちろん、ヴィエラはそんな奴ではないが。
反復横跳びだけは断トツの学年トップだったのが唯一の救いだった。中学生になってソフトテニスから硬式テニスに転向したのだが、必要な能力は変わらない。反復横跳びだけは絶対に譲れなかった。
体力テストの後も、ヴィエラは文武ともに能力の高さを見せつけてくれた。体育の授業ではハードル走とバレーボールを行ったが、いずれもヴィエラは際立っていた。トラック競技でも球技でも、部活動に所属すれば間違いなくエース級の活躍をするだろう。
ちなみにヴィエラはサッカー部に入っている。さすがはブラジル出身ということか、恵まれた体格もあって早くも絶対的エースを張っているらしい。
勉学の方も抜かりがない。六月に行われた中間テストではベスト20に食い込んでいた。日本語を満足に読み書きできないのにテストの問題が解けてしまうなんて、いったい彼の頭の中はどういう構造になっているのだろう。
まさに非の打ち所がない人物だった。成績だけでなく、容姿も人間性も認められている。本当に、とんでもない転校生がやってきたものだと思った。
でも俺は、いや俺たちは、きっと彼とは友達にはなれない。
ヴィエラ・コモン・カルナック。
一緒に過ごしたのはまだ春だけだが、幅広い面で高い能力を披露した。けれど、それらの中で『才能』を見られることはなかった。
100あるうちの99がからっきしでも、ひとつさえ突出していれば、その人は『才能』の持ち主となる。ヴィエラは短所というものがなく、代わりに、全国のトップクラスまでずば抜けているものがない。
つまりは、ヴィエラも所詮は『凡人』なのだ。超一流の凡人という表現が最適だろうか。
総合的に惨敗している俺が言っても負け惜しみにしかならないけれど、俺と灯火たちは『才能』で繋がっている。
いくらスーパースターのように何でもこなせても、『才能』を持ち合わせないヴィエラはやはり、友達にはなり得ないのだ。
ところが、実はひとつだけヴィエラには弱点があった。
水泳だ。7月に入り、体育の授業で水泳が始まった。水着でプールに入った。体育教師の指示で泳いだ。
見てはいけないものを見てしまった。
ヴィエラは想像を絶するほどのカナヅチだった。泳ぎはもちろん、彼は水に浮くことすらできなかったのだ。普通、息を肺に貯めて水面に体を寝かせば人間は浮くようになっている。それすらヴィエラにはできない。
どうやら全身を覆った鎧のような筋肉が重りになっているようだった。加えて、ブラジルの公立小学校では水泳の授業がなく、海に遊びに行くときくらいしか泳ぐ機会がないらしい。日本人もカナヅチはたくさんいるが、小学校での6年間の経験はやはり大きい。泳ぎはできなくても水に浮くくらいは誰でもできる。
ヴィエラだけがまったく泳げなかった。泳ごうとしても犬かきのように手足をひたすらかき回すくらいしかできない。
だからだろう。彼が灯火に惚れ込むのは必然だった。
灯火の泳ぎは何度見ても目を奪われる。中学からは、小学校にはなかった1500メートル自由形の種目が加わる。灯火はその種目を最も得意としていた。大きくゆったり泳ぐフォームは本当に優雅で、しかし人間離れしたスピードはどうにも非現実的だ。フォームもスピードも年々進化している。
差し障りのない言い方をすると、普段の灯火は特に目立つ要素はない。小学校時代は目つきが鋭く精悍な表情をしていたが、中学生になってから少し和らいできている。それは弓月も同様だ。
そんな灯火しか知らないヴィエラにとって、水中における灯火の姿にはとてつもない衝撃を受けたのだろう。体力テストの日、初めて弓月の足の速さを知った時以上に興奮していた。
「灯火さん!」
授業後、教室で灯火と話しながら着替えていたら、獲物に飛びつく野獣のような勢いで詰め寄ってきた。
「私、感動しました!」
「俺はヴィエラが泳げないことに感動したよ。お前にも人間らしいところがあるのな」
「俺はこんな時までクールな灯火に感動したぜ!」
ヴィエラに気にしている様子はない。周りの男子生徒の注目を一身に集めながら、思いがけない言葉を口にした。
「私を灯火さんの弟子にして欲しいです!」
灯火の答えは早かった。
「嫌だよ、面倒くさい」
「さっすが灯火、何のためらいもなく無下にするところが素敵だぜっ!」
「そこを、お願いしたいです!」
ヴィエラは諦めずに食い下がってきた。
「私、スポーツ好きです。でも、泳げない、嫌です。泳ぎたい、好きになりたいです!」
「その気持ちは良いと思うよ。でも俺は嫌だ」
「どうしてですか!」
「面倒くさいからって言ったじゃん」
「くううっ、今の凛々しい灯火を星夜ちゃんに見せてやりたいぜ!」
ヴィエラは着替えもせずにひたすら頼み込んでいた。頑として拒否していた灯火も揺れる気配はなく、結局、休み時間が終わるまでこのやりとりは終わらなかった。
チャイムが鳴って女子生徒が教室に入ってきて、水着姿のままのヴィエラを見ていくつもの桃色の悲鳴が上がった。ちょっとした騒動になってヴィエラは初めて職員室に呼び出されたのだが、彼は折れることなく灯火に懇願を繰り返した。
いい加減に嫌気が差したのか、夏休み直前になってついに灯火は折れた。とは言っても灯火が直接泳ぎを指導するのではなく、ヴィエラに一枚のチラシを渡した。
それは灯火が通っているスイミングスクールの短期教室の案内だった。灯火にとって、この短期教室が原点だという話は本人から聞いたことがある。
というかこれ、面倒だからスイミングのコーチに丸投げしただけじゃないのか、とは口に出さなかった。
直接的な弟子入りは叶わなかったものの、ヴィエラは灯火と同じスイミングに通うのは間接的に弟子入りできるのだと喜んでいた。まあ、あながち間違いではないと思うが。
これが2011年7月20日のことだ。数日前にFIFA女子ワールドカップで日本代表が優勝を収めたばかりの日。
このヴィエラの弟子入りが、俺たちの人生を大きく狂わすことになる。
夏休み。スポーツ競技において、中学生からは小学校時代のように学年別という枠組みは取り除かれる。1年生から3年生まで、純粋に強い者こそが表彰台に立つことができる。
国中がなでしこフィーバーに湧く中、俺たちは変わらずに全国大会に出場していた。硬式テニスに転向して初めての大舞台は、上級生を相手に善戦しつつも準決勝で敗退した。木実も3年生をふたり撃破するも、準々決勝で敗退。やはり年齢差による体格差は明らかだった。中学生と言えば第二次成長期だ。ここでの2歳差は特に大きい。
しかし、タイムで競う灯火と弓月は1年生ながら決勝に残る好成績を残した。弓月は100メートル走と200メートル走、灯火は1500メートル自由形に出場し、ふたりとも表彰台は逃したものの、1年生で他に決勝進出者はおらず、改めてふたりのずば抜けた実力を思い知った。
大会終了後は小学校時代以上に厳しい合宿が待ち受けていたが、俺たちはどうにか時間を縫って1日だけ4人揃って遊ぶことができた。
地元の縁日に4人で赴き、祭特有の高揚感に包まれながら楽しく過ごした。灯火と弓月は両者とも表彰台を逃したことを反省し合い、来年こそは雪辱を果たすと意気込んでいた。
帰りがけには定番の花火で1日を締めた。練習漬けの毎日に溺れる俺たちにとって、1日だけでも息抜きの時間をとれたのは大きかった。
9月になり、2学期が始まった。その矢先に、信じられない真実が蟻地獄のように俺たちを飲み込もうとしていた。
それは2学期最初の体育の授業。水泳の授業に向けて男子生徒が教室で着替えている間、妙にヴィエラがそわそわしていた。俺たちは意図して無視していたのだが、授業が始まって目を剥いた。
ヴィエラが泳いでいる。それも異常なスピードで、だ。
並んで泳いでないからわからないが、まだ灯火の方が速い。けれど、夏休み前のヴィエラとは完全に別人だ。肉体の改造手術を受けたと言われても信じてしまいそうだった。
灯火とは泳ぎのタイプが違う。大きなフォームでゆったりと優雅に泳ぐ灯火がイルカだとしたら、ヴィエラは手足を細かく素早く、しかし力強く水をかいて泳ぐペンギンのようなイメージだ。中学1年にして180センチ超の長身と鎧のような筋肉を持っている彼ならではの泳ぎだった。泳げなかった最大の要因が、今では最大の原動力になっている。
男子生徒から驚嘆の声が上がる。女子生徒からは黄色い歓声が上がる。
「あいつ……!」
プールサイドから見つめていた灯火は震えていた。
血の流れが止まってしまうんじゃないかというくらい両方の拳を強く握っている。
金縛りにあったかのように全身がこわばっている。
口端がうっすらと吊り上がっている。
笑っている。
「すげえ。矢式くん、武者震いしてる」
そんな声が耳に入る。
馬鹿な奴らだ、と心の中で吐き捨てる。
武者震い? 違う。灯火とは弓月の次に付き合いが長い俺だからこそわかる。
戦慄しているのだ。
焦燥と恐怖が灯火を覆っている。
灯火はまだ2歳児の頃、スイミングスクールの短期教室に参加したのをきっかけに『才能』を開花させた。そこから厳しい練習を積み重ね、順調に才能を育て、今では全国トップレベルの選手に成長した。
そんな自分と重ね合わせているのだろうか。
ヴィエラはついこの間まで完全にカナヅチだった。それなのに、わずかな期間で圧巻の泳ぎを身につけてきた。
12歳という成長著しい年齢。類い希な学習能力。恵まれた体格。悔しさをバネにする根性。尊敬する灯火を目指す向上心。
ヴィエラを劇的に変化させた要素はいくつもある。でもこれらはあくまで要素であって、全てを一斉に噛み合わせるには必要な物がある。
もはや疑いの余地はなかった。
灯火が戦慄を覚えるのも無理はない。何でもこなすスーパースターの心臓には、微塵も想定していなかった財宝が隠れていた。
ヴィエラ・コモン・カルナック。
彼もまた、水泳の『才能』の持ち主だった。
1番苦手なものが、実はその人の『才能』だという話はわりと聞く。
運動が苦手な子どもがいた。その子は幼少期から運動音痴の自覚があって、屋内で本を読むのが好きだった。しかし小学校に上がると、その子の担任はとても厳しい人になった。
彼は3段のとび箱すら跳べなかった。担任はできるまで帰さないと言って、子どもは泣きながら練習を繰り返した。その成果はあって、子どもは見事に課題をクリアした。
それから子どもは変わった。とび箱が大の得意になって、貧弱だった運動神経はみるみる鍛えられ、ついには体操選手としてオリンピックの日本代表にも選ばれたという。
灯火の話によると、ヴィエラは灯火を育て上げた白田コーチという人から指導を受けたらしい。ひと目見てヴィエラの才能を見抜き、わずかな期間であそこまで鍛え上げたとか。灯火には全く知らされていなかったらしく、まさに尻毛を抜かれた次第だ。
9月中旬、ヴィエラは準備を経て灯火の通うスイミングスクールに入会し、選手コースで灯火と一緒に練習を始めた。中学の部活動も、サッカー部から水泳部に転部している。
灯火はどんな気持ちなのだろうか。偽物だと思って差し出した宝の地図が、実は本当に財宝の位置が記されていたわけだ。
それに、ヴィエラのスピードはまだまだ伸びるだろう。明らかに付け焼き刃のようなフォームを洗練し、体格を競泳に合わせたらぐっと速くなる。
そして灯火にとって最も気持ちを複雑にさせるのは、ヴィエラを指導したのが自らの恩師ということだ。灯火の才能が日々磨かれているのは、もちろん本人の努力が1番だが、コーチの存在も非常に大きい。選手とコーチはセットと言っても過言ではない。コーチあっての選手と言える。
人生の8割近くを白田コーチと過ごしてきた灯火にとって、日本に来たばかりで、かつカナヅチだったヴィエラを脅威の存在にさせたのは、はっきり言って気分が悪いだろう。これが品位の乏しい奴ならコーチを裏切り者と罵るかもしれない。灯火は違うが。
けれど、ヴィエラはきっと、そう遠くない未来に灯火に追いつく。それは灯火もわかっている。ヴィエラもその自信はあるだろう。
競い合うのは良いことだ。互いに切磋琢磨して己を高め合うのはスポーツ界の常套手段だ。
ただ、どうしても憂慮してしまう。
自信あっての『才能』であり、『才能』あっての俺たちだ。
灯火が心身ともに貧弱な奴じゃないことはわかっている。
でも、俺も弓月も木実も、にわかに黒い燻りを胸に抱いていた。
ほんの少しではあるが、灯火に変化が生じ始めたからだ。
何が、と聞かれてもうまく答えられない。
なんとなく……灯火という眩しい光に、わずかに陰りができたような。
姿の見えない燻りが、しかし確かに、俺たちを蝕み始めていた。
どんどん時間は流れていく。
2年生の夏の全国大会。
今年は4人とも優勝を狙おうと意気込んでいた。
しかし、俺と木実は共に決勝で敗れ、準優勝に甘んじた。ふたりとも3年生に敗れたわけだが、込み上げてくる悔しさで息が詰まりそうだった。木実はしゃくり上げて泣いていた。
対して、さすがと言うべきか、灯火と弓月は優勝してみせた。
灯火は1500メートル自由形、弓月は100メートル走と200メートル走の二冠だ。
世間が騒いだ。2年生で、それも、特に2冠を達成した弓月は陸上界のホープとして大きな注目を浴びた。
そして、表彰台を逃したものの、もうひとり注目度の高い選手がいた。
ヴィエラだ。400メートル自由形に出場し、4位入賞を果たしている。水泳を始めてまだ1
年で、浅黒い肌のイケメンブラジル人だ、そりゃ目立つ。
学校に取材が来るようになった。全国大会の表彰台に乗った4人+ヴィエラがいる学校は格好の的だった。
さらに1年が流れ、3年生の夏。
ヴィエラはすっかり水泳選手の体格になっていた。筋骨隆々だった2年前と比べ、全体的に引き締まった。灯火と同じ、長距離選手の身体だ。
7月の水泳の授業で見た彼の泳ぎは2年前と様変わりしていた。これもまた灯火と同じ、大きくゆったりとしたフォームだった。しかし灯火のような優雅さは見られず、むしろ豪快なイメージだった。長身のヴィエラには最適なフォームだと言えた。
スピードはもう、灯火とどちらが速いかわからなかった。それくらい拮抗していた。
8月。迎えた中学最後の全国大会。
4人とも着実に成長を遂げていた。それぞれの種目で同世代の選手に負ける気がしなかった。それだけの自信を裏付ける努力をしてきた。
今年こそは4人全員の優勝を至上命題に掲げて臨んだ。
俺は決勝をストレート勝ちで制し優勝した。
木実はほぼ全戦で1本勝ちと圧倒的な強さで優勝した。
弓月は100メートル走と200メートル走で連覇し、100メートル走に至っては中学生女子の歴代記録に肉薄する11.70を記録した。
灯火は得意の1500メートル自由形に出場した。
準優勝だった。
ヴィエラ・コモン・カルナック。
それが優勝者の名だった。
3年間の中学校生活に終止符が打たれ、俺たち4人とヴィエラは揃って地元の公立高校の体育科にスポーツ特待生として入学した。
2014年4月。
じりじりと迫り来る現実が、俺たちの永遠を浸食し始めていた。
人付き合いの上手な母親だった。それは今も変わらない。
祖母が亡くなったのは俺が生まれるより前のことで、祖母が経営していたスナックを24歳の若さで継いだのが俺の母親だ。以後、サラリーマンやら背伸びをした大学生やらの心の拠り所として店を守っている。愚痴を聞いたり、一緒に飲んで歌ったりするのが仕事だ、料理の腕よりもコミュニケーション能力が1番に問われる。
母親はそれが上手だった。常連客を手放さなかったし、新規に訪れた客の心を引き離さなかった。
仕事一筋だった母親が結婚したのは31歳の時だった。相手、つまり俺の親父は当時27歳の少し気弱な人だった。店の常連だった上司に付き合わされて来ただけだが、そんな親父に母親は惚れたらしい。
詳しい理由は聞いていないが、スナックのママである母親が客である親父に猛アピールをしたとか。案の定というか、親父を店に連れてきた上司は怒り狂い、親父相手に会社内でパワハラを繰り返したらしい。
理不尽で筋違いな暴力を浴びた親父は精神的に病んでしまい、ついには鬱病を患って会社を辞めてしまう。訳もわからず路頭に放り出された親父に、救いの手が差し伸べられる。
俺の母親だった。
ごめんなさい。私のせいだね。私があなたの人生を狂わせてしまったね。本当にごめんなさい。
でも安心して。あなたの人生を狂わせはしない。きっと幸せな人生にしてみせるから。
だから、私についてきてくれませんか。
絶望の渦中にいた親父にとっては、こんな言葉が激しく胸を打ち振るわせたのだろう。鬱病から立ち直った親父は新しい職に就き、間もなくふたりは結婚した。
そうして母親は32歳で俺、氷山辰也を産んだ。
その後も母親は店を閉めなかった。とにかく愛想の良い笑顔で接客して、店に訪れる人々を癒しては送り出していった。そんな母親の姿を幼い頃から見てきて学んだことがある。
社会で生きていく上で人との付き合いは必要不可欠。では、人付き合いを上手くやっていく手段は何なのか。
答えは見つけていた。笑うことだ。とにかく笑う。いつ、いかなる時も笑う。相手が怒っていても笑う。泣いている時も笑う。
もちろん、全ての場面で同じように笑ってはダメだ。笑い方を変えるのだ。一緒に楽しもうと笑ったり、相手を励まそうと笑ったり、同情しようと笑ったり、悲しみを吹き飛ばすようにあえて笑ったり。
母親から学んだ術だったけれど、それで上手く過ごせるのだと信じていた。たとえ自分の気持ちが沈んでいてもとにかく笑っていれば、相手も笑顔になる。上手く付き合える。
そう思っていた。母親がそうだったからだ。
けれど、子ども社会においては違った。子どもは大人と違って思考も行動もほとんどに本能が働く。作り物の表情は、子どもたちの深層的な部分で見抜かれた。
決して嫌われたわけじゃない。俺の表情が作り物だと『見抜いた』という自覚がないのだ、表面上では仲良くやっていた。
そう。表面上は、だ。
俺は勉強もスポーツも生まれつきそつなくこなし、5歳から始めたテニスに至っては小学1年生から全国大会に出られるほどの『才能』を生まれ持った。
そんな俺を、周囲の子どもは気味悪がったのか。尊敬よりも畏怖にも似た感情を抱かれていたのには気付いていた。
友達のいない幼少生活だった。寂しいというよりも、おかしいという気持ちの方が強かった。どうして上手くいかないのだろうと、不可解で仕方なかった。正直、腹が立った。
母親と同じように振る舞っているのに。客から愛されてやまない母親の真似をしているのに。
どうして友達ができないのか。どうして誰とも解り合えないのか。釈然としない日々が続いた。それでも笑うことはやめなかった。やめたら自分という存在が崩壊していきそうだったからだ。
しかし、俺はずっと抱いていた疑問を解消させる人物と出会う。
細原木実。小学2年生で初めて同じクラスになる。彼女が1年生の頃から暴力少女として名を馳せているのは知っていた。だからだろう、木実に話しかける子どもはひとりもいなかった。
俺を除いて、だ。
金持ちだろうと貧乏人だろうと、美形だろうと不細工だろうと、どんな客でも分け隔て無く笑顔で接する母親の背中を見て育った俺は、たとえ見境なく暴力を振るう女子が相手でも距離を置こうとは微塵も思わなかった。
だから話しかけたのだが、彼女が放った第一声は俺の記憶に深く根付くことになる。
「なんで楽しくもないのに笑ってるの?」
なにも言い返せなかった。
「辰也くんっていつも笑ってるよね。ねえなんで?」
俺の生き様を前提から否定された気分だった。
それなのに、なぜか気分が良かった。
「ははっ」
俺は笑った。意図して作った偽物から、本心から湧いたものに姿を変えた。
「あ、今は楽しそう。どうかしたの?」
「いんや。お前って変な奴なのな」
「えっ、なによいきなり!」
「お前の言う通りだよ。俺はいつも笑ってるけど、いつも笑ってないんだ」
「……んー?」
不思議そうに首を傾げた。
「楽しくないのにいつも笑ってるの?」
「そうだよ」
「なんで?」
「みんな馬鹿だから」
「え?」
「みんな馬鹿だから。俺が笑っていれば、とりあえずはみんなも笑う。班行動もこれでうまくいく」
「でも、それって友達じゃなくない?」
「友達じゃないよ?」
「ええっ」
少女漫画のヒロインみたいに大きな瞳を見開く。
「そ、それでいいの?」
「なにが?」
「友達じゃなくていいの?」
「いいよ、別に」
「そうなの?」
「うん。だってむかつくもん」
「むかつく?」
「そう、むかつく。俺はこんなにも明るく話しかけてるのに、誰もおれと仲良くしようとしないんだぜ?」
この時の俺はどうかしていた。初対面の女子を相手に、黒い本音を黒く話した。
今までの俺なら絶対にしない言動だ。けれど、彼女には、俺はこんな自分をさらけ出すことができた。
木実はしばらく言葉を失っていた。次の瞬間には軽蔑の眼差しを向けられるかと思った。
けれど彼女は、やがて腹の底から笑い声を上げた。
「おもしろい!」
本当に、変な奴だった。
「いつも笑っててよくわかんない男子だなあって思ってたけど、ほんとはそんなこと思ってたんだねっ。すごいっ。おもしろい!」
「そんなにおもしろいか?」
「おもしろいよっ。なんだよー、人に変な奴って言っておきながら、自分だって変な奴じゃん、もう!」
えいえい、と人差し指で頬をつついてきた。鬱陶しくて振り払ったのだが、俺は笑っていた。木実も笑っていた。
「こういうのなんて言うんだっけ……あっ、『腹黒い』だ。辰也くんは腹黒いんだ!」
「『腹黒い』ってなに?」
「いい人ぶってるけど、心の中では悪いこと考えてる人のことだよ!」
「なるほど。そうか、おれは『腹黒い』なのか」
言われてみれば、ストンと腑に落ちた。
「あれ? でもさ、お前には『腹黒い』じゃないじゃん?」
「そうだねー。でも、わたしは今の辰也くんが好きだな! おもしろくてっ!」
「そ、そうなの?」
「うんっ!」
ずっと作り笑顔だけで過ごしてきたのに、そうじゃない自分を木実は『おもしろい』と言った。好きだと言ってくれた。逆に今までの俺を『腹黒い』と言った。
この瞬間、俺は生まれ変わったと思った。
いや違う。俺はようやく、本当の自分を見つけたのだと思う。
今までは母親の模造品だった。上手く世の中を渡り歩いて来られたけど、それは自分であって自分じゃないから、釈然としない日々が続いていたのだ。
そんな俺を真っ向から覆して、本当の俺を見つけ出してくれた人物。
細原木実。出会って数秒で俺を否定し、『腹黒い』俺をおもしろいと評する変な、もとい稀有な少女は、俺にとって欠かせない存在となる。
少なくとも彼女は俺にとって、初めての友達となった。
俺に友達ができないもうひとつの理由に『才能』がある。ではなぜ、木実とは友達になれたのか。その疑問は、彼女も『才能』の持ち主だということを知って得心した。
才能を生まれ持ったがために本当の意味で他の子どもと馴染めず、ずっと友達がいなかったのに、木実とは出会って数分で友達となれた。
才能を生まれ持った子どもは、同じく才能を生まれ持った子どもとしか友達になれないんだ。そんな考えを抱くのは必然だった。
同学年にとんでもない才能を持ったふたりがいるのは知っていた。廊下などで見かけたこともある。
矢式灯火と弓月星夜。1年生の頃に学年中、いや学校中で噂になった。
噂となった要素は3つ。
ひとつは才能の実力。ふたりともそれぞれの競技で、同年齢では国内に敵がいないこと。
ふたつ目はふたりの関係。保育園のときに結婚を約束し、他人が入り込む隙が全くないこと。
最後はふたつ目と関連するが、他人にまるで興味を示さないこと。まるでふたりだけの世界に住んでいるかのように、他の子どもと一切関わろうとしなかった。灯火はいつもきりっと精悍な表情をしていたし、弓月は陸上の才能と同じくらいグレードの高い容姿を生まれ持っていた。愛想さえ良ければラブレターの嵐が降りかかっていただろう。
木実と出会ってから、急にふたりのことが気になった。親近感に類似した感情が芽生えた。本当の意味で友達になりたいと思った。なれると思った。
3年生に進級し、そのチャンスが訪れる。俺は弓月と、木実は灯火と同じクラスになったのだ。
木実と相談し、まずは同じクラスの奴から友達になることにした。自分で言うのもおこがましいだろうが、俺たちもそれなりに学年間で名が知れている。灯火と弓月が俺たちに同類意識を抱いてくれれば、きっと友達になれるはずだ。
大丈夫。『才能』を生まれ持った俺と木実なら仲良くできる。
「誰?」
思い上がりだった。
灯火と弓月にとっては、俺や木実も『凡人』のひとりに過ぎなかったのだ。
正直、ショックだった。木実以外に友達はいなかったけれど、知名度や周囲の好感度は高いという自負があった。母親から学び取った方法で積み上げていけていたと思っていた。
俺の人生を根底から否定された気分だった。悲しかった。悔しかった。
こうして出鼻をくじかれたわけだけれど、弓月に声はかけ続けた。全部無視された。徹底的な無視だった。
諦めるわけにはいかなかった。でも、ここまで無視を徹底されると少しだけ弱気になる。
相変わらず木実以外の友達もできない。作ろうとも思っていなかったけれど。
5月終盤、体力テストの日がやってくる。50メートル走の計測時、弓月の走りに魅入ってしまった。『目を奪われる』という表現を初めて体感した。
ただでさえ綺麗な少女が、ものすごく綺麗なフォームで、凄まじいスピードで走るのだ。男子でクラス1だった俺は意気揚々としていたのが恥ずかしくなった。
やっぱり弓月は凄い。彼女の『才能』は別格だと感じた。その実力を目の当たりにし、改めて友達になりたいと強く思った。
いや、ならなければならない。俺も弓月も凡人とは仲良くなれない。このままでは孤立したままだ。
俺は木実に協力してもらい、多少強引でもどうにかきっかけを作ることにした。彼女は底抜けに明るく、また無邪気で、人の懐に容易に入ってしまう。さらに言えばなぜか俺に好意を持っている。これを利用しない手はなかった。
腹黒いだろうか。腹黒いだろうな。全然構わない。
結果は成功。
相変わらず無視され続けたけれど、俺と木実を友達と認めさせたことに大きな意味があった。1から2に、2からⅳへと集まった才能は、必ず良い方向に作用する。
木実が相棒とするなら、灯火と弓月は仲間という位置付けになるのか。いずれも才能を持ったがための喜びや苦しみを分かち合える。
他人あっての自分だ、俺の人生はここからようやく始まったと言ってもいい。
それからは充実した小学校生活だったと思う。凡人との関係を維持しつつ、木実たちとは頻繁に会って親睦を深めていった。
特に5年生では4人とも同じクラスになったから毎日が楽しい日々だった。ことある毎に話していたし、野外教育活動での木実の騒動も今となっては良い思い出だ。4人揃って全国大会で優勝したのは我ながら凄いと思う。
録年生では再びクラスが散りばめられてしまったが、もはやその程度のことで俺たちの関係が薄まるなんて絶対になかった。時間をかけて着実に友情を塗り固めてきたのだ。
俺たちは才能によって繋がっている。この才能が枯れでもしない限り、俺たちの絆に亀裂が生じることはない。
でも、時々ふと思う。俺たちはなぜ才能を生まれ持ったのだろう。
そんな疑問の答えはもちろん見つからぬまま、俺たちは中学校へと進学した。
2011年4月。東北で大震災と津波が襲い、ロンドンオリンピックを1年後に控えた年だった。
3つの小学校から成る中学校は8つのクラスがあり、4人が揃って同じクラスになる可能性はまず無いだろう。しかし、運は俺に味方する。
「よっ。同じクラスなんて幸先良いな!」
中学生活初日。真新しい学生服に身を包み、教室の自分の席で頬杖をついてぼーっとしている灯火の肩を叩いた。
「よう」
振り向いた灯火は声と表情に張りがなかった。
「どうした? なにか考えてるみたいだったけど」
「うん。いきなり氷山と同じクラスで運が良いなあって思ってさ」
「おっ? なんだよ、妙に素直じゃねえか! おいおい、照れるだろ!」
「こんなところで運を使ってしまって、2年生、3年と上がっても星夜と同じクラスになれなかったら、俺はお前を恨むかもしれない」
「ほんと素直だな! 超素直だな! お前がなんか微妙に元気なかった謎が解けたわっ!」
まあ今に始まった言動ではないが。灯火の弓月に対する恋心たるやレーザー光線並みに一直線である。
「お前は細原と一緒じゃなくて残念じゃないのか?」
「別に」
即答する。
「もう中学生なんだし、そろそろ付き合おうとか思わないの?」
「あいつが俺を好きなだけだろ? 両想いじゃないんだし、そりゃダメだろ。木実は相棒ってだけで、別に恋愛感情があるわけじゃない」
本心だった。
「ふーん? まあいいや」
明らかに信じていない様子だったが、灯火はこの話題を打ち切った。
「どころでさ、どうしたら星夜と同じクラスになれるのかな。お前は知らない?」
「そんなの、俺が知るわけねえじゃん」
「お前、腹黒いじゃん。なんかこういう知恵って思い浮かばないの?」
「またまた灯火くんってばご冗談を。俺ほどピュアな男がどこにいるんだよ」
「確かにピュアだな。自分に正直っていうか、自分のことが好きで好きで仕方ないって感じだ」
「まあな! 成績優秀、スポーツ万能、そしてテニスは全国トップクラス! こんないい男、なかなかいないだろ!」
「腹黒いじゃん」
「むしろそれが一番の魅力だろっ!」
「細原にとってはな。細原はそんなお前が大好きだから、お前も自分を好きだって胸を張って言えるんじゃないのか」
「……はっはは!」
さすがというかなんというか、これだから灯火は油断できない。俺自身も自覚がないことを、全てお見通しのようにずばっと言ってくる。
「お前は細原にすげえ恩があるだろ。少しは恩返しするといいよ」
「してるよ。あいつが俺を好きでいるのを許してるじゃん」
「へえ。氷山を好きでいられるだけで幸せってこと?」
「そういうこと」
「ははは!」
今度は灯火が声を上げて笑った。
「あながち間違ってないかもな。俺も星夜が好きだけど、こうして普通に好きでいられるのがすげえ幸せだもん」
いきなりなんだろう。報われない恋愛映画でも観たのだろうか。
少し考えていると、少し前に仕入れた情報をふと思い出した。
「ところでさ、このクラスに転校生が来るらしいよ。さっき誰かが話してた」
「へえ。まあ新年度だからな」
「それがさ、来るのは外国人らしいぜ」
「あっそう。まあいいんじゃない?」
「興味なさそうだな」
「うん、ないよ」
「灯火には星夜ちゃんがいるから?」
「もちろん」
このとき、灯火は本当に転校生に興味を示していなかった。小学生の頃と変わらず、ただただ弓月に心を寄せている。
しかし、この転校生との出会いは、俺たちの人生を大きく揺るがすものとなる。灯火とのろけ話にも似た会話を交わしている間、その波は着実に近づいてきていた。
入学式が終わり、中学生になって初めてのホームルームの時間。本当に転校生がやって来た。担任教師に促され、黒板の前で自己紹介を始める。
「はじめまして。ヴィエラ・コモン・カルナックです。ブラジル人です。12歳です。ミドルネームはカルナです。よろしくお願いしますです」
女子生徒を中心に教室全体がどよめいた。ヴィエラと名乗った同年齢のブラジル人は、誰の目から見てもイケメンだったからだ。
中学1年生にして180センチ近くある上背。職人がひとつひとつパーツを丁寧に並べたような端麗な顔立ちは、南米特有の黒い肌に、ぱっちりとした瞳、整然と並ぶ真っ白な歯が際立っていて、いったいどこのハリウッド俳優なのかと問いたくなる。
心中穏やかではなかった。焦りを感じた。正直、嫉妬した。
俺だって顔立ちは整っている。身長も170センチ強と高い方だ。勉強もスポーツも得意。性格だって社交的だという自負はある。
男としての自信はあった。
1週間で粉砕した。
ヴィエラは逸材だった。人気という単語は奴のために生まれた言葉なのだと感じた。
まず、国柄なのか、非常に陽気な性格だった。場の雰囲気が暗くても、奴さえ来ればあっという間に明るくなる。人懐っこく、誰に対しても壁を作らないため、生徒のみならず教師からも気に入られていた。
奴の両親は共にブラジル人だが、父親の親友が日本人だったらしい。幼少の頃からその人と頻繁に話しており、まだ拙いものの、相手に意味が通じる程度には日本語が話せる。むしろその拙さに愛嬌があって生徒達の母性本能を刺激した。
加えて、奴は学習能力も身体能力も俺の上を行っていた。とにかく頭の回転にキレがあり、生徒が話す日本語や教科書の文を直感で理解してしまう。運動神経も抜群で、体育の授業のみならず日常生活の随所で散見できた。
マスコットという表現が最も的を射ているかもしれない。イケメンだが陽気な性格には嫌味が全くなく、一緒に居て単純に楽しい気分になれる。
そのポジションは俺が座る予定だった。もはや完全にヴィエラの支配下に置かれた。俺の存在が脅かされたと思った。
昼休み。俺たちが4人でいる時も話題になった。
「あんた、中学に入って影薄くなったね」
弓月の言葉も笑えなかった。ヴィエラはたった1週間で学年に馴染んでしまった。生徒たちの心を鷲づかみにした。
「ヴィエラくん、うちのクラスでもすっごい評判だよ。ぶっちゃけ、辰也くんの『た』の字も出て来ないもん」
「平気でそういうこと言えちゃう木実は素敵だぜっ」
「えっへへー。まあね!」
「氷山もこのまま潔くフェードアウトしたら素敵よ?」
「そんなクールな星夜ちゃんの方がよっぽど素敵だ!」
「あ、あ、辰也くんっ、大丈夫だよ! 辰也くんがみんなから忘れられても、あたしはずっと辰也くんを好きなままだからねっ」
「くううっ、お前の優しさは胸に沁みるぜ!」
「傷に沁みるぜ、の間違いでしょ?」
「おっとお。絶妙なキラーパスをありがとうな、星夜ちゃん!」
とそこで、灯火が俺の肩に手を置いてきた。
「氷山」
「なに?」
「泣くなよ」
「真顔で言ってくれる灯火の心遣いに涙が出そうだ!」
ヴィエラに対し、多少の劣等感を抱いていた。毎日クラスメイトに囲まれている奴はすごく眩しくて、近づくことはおろか、直視すらできなかった。
とは言っても、ヴィエラと話す用事があったわけでもない。だから避けていたわけではない。こちらから歩み寄らなかっただけだ。
ただ、俺にとってはそれが大問題なのだ。分け隔てなく、誰にでも等しく笑顔で接するのが俺の信条だ。このスタンスは木実たちと知り合ってからも変わらない。
ヴィエラがひとりでいる時間は少ない。しかし、ないはずがない。探せばいくらでも見つけられる。
休み時間、ヴィエラはひとりで廊下に出た。俺はその機会を逃さなかった。行き先はわかっている。トイレだ。
ヴィエラと数秒の間を置いて男子トイレに入る。奴が使用している隣の小便器の前に立った。
「あ、辰也さん。こんにちは」
先に話しかけて来たのはヴィエラだった。俺はズボンのファスナーを下ろしながら振り向く。もちろん、笑顔は忘れない。
「おっすー。日本の便器には慣れたか?」
「大丈夫です。ブラジルと変わらないです」
そりゃそうだろう。便器なんて元の形は世界共通だ。
「便器に慣れたを聞かれた、初めてです」
真っ白な歯を見せて好意的な笑みを浮かべるヴィエラは、なにやら照れくさそうだった。
「辰也さんと話した、初めてです。嬉しいです。よろしくお願いしますです」
「こちらこそ、よろしくな!」
互いに用を足しながら初対面のあいさつを交わしている俺たちを、第三者が見たら果たしてどんな光景に見えるだろうか。
ともあれ、この短い会話だけでヴィエラが好かれる要素はいくつか見つけられる。
イケメンであることと、日本語がまだ少し拙いことはもう述べた。笑顔も眩しい。これらの他に、ヴィエラには嫌味がない。俺たち日本人に敬意を払い、話す言葉も非常に謙虚で丁寧だ。
「こりゃモテるわ」
「はい? なにか言いましたですか?」
「いんや、何も」
ズボンのチャックを上げ、手を洗う。用も足したところで、俺は本題をヴィエラにぶつけた。
「ところでさ、ヴィエラってば超人気じゃん。気分はいい?」
ストレートに尋ねると、ヴィエラは驚き、やがて満面の笑みを浮かべた。
「はい! みなさん、とても優しいです! 私、嬉しいです!」
「およ?」
皮肉を言ったつもりが、別の意味で捉えたようだった。
「私、初めての日本。不安でした。でも、みんな優しいです!」
「そか。ヴィエラはイケメンだからな。そりゃ、みんな優しくするよ」
「イケメン?」
「かっこいい奴のことだよ」
「かっこいい? ……はい、ありがとうございます!」
「お? ヴィエラ、自分でもかっこいいって思ってる?」
「ブラジルでも言われた、あります。日本でも言われた、嬉しいです!」
「ほっほう」
謙遜せず、素直に礼を言うあたりが清々しくて、かつ謙虚だ。
「でも、辰也さん、もっとかっこいいです!」
「わかってるじゃねえか!」
「背が高い、顔きれい、モデルみたいです!」
「ほっほほー」
相手を持ち上げるのも忘れない。
「ヴィエラって、もしかしてすげえ奴?」
「どういう意味ですか?」
「ん? すげえってのはすごいって意味だぜ」
「違うです。それはわかるです。なにが、すごいです?」
「だから、ヴィエラがだよ」
とそこで、チャイムが鳴った。ヴィエラはまだ首を傾げていたが、とりあえずは教室に戻ることにした。
「あ、辰也さん!」
トイレを出ようとしたところで、ヴィエラに呼び止められる。
「なんか用?」
「私、カルナ、言って欲しいです!」
「そか、わかった。気が向いたらカルナって呼ぶよ」
「はいっ!」
すごく嬉しそうな満面の笑みを見ていると、なんだか俺まで嬉しい気持ちになった。
たかが数分の会話だったけれど、ヴィエラが人気者たる所以を垣間見た時間だった。
優しくて、明るい。正直、表面上は『凡人』を相手にする俺と大して変わらない。決定的に違うのは、ヴィエラは本心を言葉にしていることだ。奴の優しさや謙虚な態度は本物で、似ていても俺とは180度異なる。はっきり言って、嫉妬やら劣等感やらを抱くことすらおこがましい。もはや尊敬の念すら抱きかけていた。
4月25日。中学生になって初めての体力テストの日。1年生の男子に限っては大方の予想通り、ヴィエラの独壇場だった。ほとんどの種目で彼が1位の座を奪っていった。
特に100メートル走では度肝を抜かれた。なんと11.9秒のタイムを叩き出し、学年トップどころか校内トップに躍り出たのだ。このタイムは全国レベルの大会に出場できるほどである。
しかし、ヴィエラは自分のタイム以上に驚いていたものがある。弓月のタイムだ。彼女の記録は12.4秒で、女子のこのタイムは全国大会の決勝に残れるレベルだ。1年生に限れば頭ひとつ飛び抜けている。そんな記録を、学校の体力テストなんかで出してしまうから脱帽もひとしおだ。
俺の12.6秒も決して悪くはないのに、まるで見向きもされなかった。
「すごいです! 星夜さん、すごいです!」
ヴィエラはもっともな感想を興奮冷めやらぬ様子でずっと繰り返していた。それが弓月に負けた俺への当てつけのように思えてなんだか腹が立った。もちろん、ヴィエラはそんな奴ではないが。
反復横跳びだけは断トツの学年トップだったのが唯一の救いだった。中学生になってソフトテニスから硬式テニスに転向したのだが、必要な能力は変わらない。反復横跳びだけは絶対に譲れなかった。
体力テストの後も、ヴィエラは文武ともに能力の高さを見せつけてくれた。体育の授業ではハードル走とバレーボールを行ったが、いずれもヴィエラは際立っていた。トラック競技でも球技でも、部活動に所属すれば間違いなくエース級の活躍をするだろう。
ちなみにヴィエラはサッカー部に入っている。さすがはブラジル出身ということか、恵まれた体格もあって早くも絶対的エースを張っているらしい。
勉学の方も抜かりがない。六月に行われた中間テストではベスト20に食い込んでいた。日本語を満足に読み書きできないのにテストの問題が解けてしまうなんて、いったい彼の頭の中はどういう構造になっているのだろう。
まさに非の打ち所がない人物だった。成績だけでなく、容姿も人間性も認められている。本当に、とんでもない転校生がやってきたものだと思った。
でも俺は、いや俺たちは、きっと彼とは友達にはなれない。
ヴィエラ・コモン・カルナック。
一緒に過ごしたのはまだ春だけだが、幅広い面で高い能力を披露した。けれど、それらの中で『才能』を見られることはなかった。
100あるうちの99がからっきしでも、ひとつさえ突出していれば、その人は『才能』の持ち主となる。ヴィエラは短所というものがなく、代わりに、全国のトップクラスまでずば抜けているものがない。
つまりは、ヴィエラも所詮は『凡人』なのだ。超一流の凡人という表現が最適だろうか。
総合的に惨敗している俺が言っても負け惜しみにしかならないけれど、俺と灯火たちは『才能』で繋がっている。
いくらスーパースターのように何でもこなせても、『才能』を持ち合わせないヴィエラはやはり、友達にはなり得ないのだ。
ところが、実はひとつだけヴィエラには弱点があった。
水泳だ。7月に入り、体育の授業で水泳が始まった。水着でプールに入った。体育教師の指示で泳いだ。
見てはいけないものを見てしまった。
ヴィエラは想像を絶するほどのカナヅチだった。泳ぎはもちろん、彼は水に浮くことすらできなかったのだ。普通、息を肺に貯めて水面に体を寝かせば人間は浮くようになっている。それすらヴィエラにはできない。
どうやら全身を覆った鎧のような筋肉が重りになっているようだった。加えて、ブラジルの公立小学校では水泳の授業がなく、海に遊びに行くときくらいしか泳ぐ機会がないらしい。日本人もカナヅチはたくさんいるが、小学校での6年間の経験はやはり大きい。泳ぎはできなくても水に浮くくらいは誰でもできる。
ヴィエラだけがまったく泳げなかった。泳ごうとしても犬かきのように手足をひたすらかき回すくらいしかできない。
だからだろう。彼が灯火に惚れ込むのは必然だった。
灯火の泳ぎは何度見ても目を奪われる。中学からは、小学校にはなかった1500メートル自由形の種目が加わる。灯火はその種目を最も得意としていた。大きくゆったり泳ぐフォームは本当に優雅で、しかし人間離れしたスピードはどうにも非現実的だ。フォームもスピードも年々進化している。
差し障りのない言い方をすると、普段の灯火は特に目立つ要素はない。小学校時代は目つきが鋭く精悍な表情をしていたが、中学生になってから少し和らいできている。それは弓月も同様だ。
そんな灯火しか知らないヴィエラにとって、水中における灯火の姿にはとてつもない衝撃を受けたのだろう。体力テストの日、初めて弓月の足の速さを知った時以上に興奮していた。
「灯火さん!」
授業後、教室で灯火と話しながら着替えていたら、獲物に飛びつく野獣のような勢いで詰め寄ってきた。
「私、感動しました!」
「俺はヴィエラが泳げないことに感動したよ。お前にも人間らしいところがあるのな」
「俺はこんな時までクールな灯火に感動したぜ!」
ヴィエラに気にしている様子はない。周りの男子生徒の注目を一身に集めながら、思いがけない言葉を口にした。
「私を灯火さんの弟子にして欲しいです!」
灯火の答えは早かった。
「嫌だよ、面倒くさい」
「さっすが灯火、何のためらいもなく無下にするところが素敵だぜっ!」
「そこを、お願いしたいです!」
ヴィエラは諦めずに食い下がってきた。
「私、スポーツ好きです。でも、泳げない、嫌です。泳ぎたい、好きになりたいです!」
「その気持ちは良いと思うよ。でも俺は嫌だ」
「どうしてですか!」
「面倒くさいからって言ったじゃん」
「くううっ、今の凛々しい灯火を星夜ちゃんに見せてやりたいぜ!」
ヴィエラは着替えもせずにひたすら頼み込んでいた。頑として拒否していた灯火も揺れる気配はなく、結局、休み時間が終わるまでこのやりとりは終わらなかった。
チャイムが鳴って女子生徒が教室に入ってきて、水着姿のままのヴィエラを見ていくつもの桃色の悲鳴が上がった。ちょっとした騒動になってヴィエラは初めて職員室に呼び出されたのだが、彼は折れることなく灯火に懇願を繰り返した。
いい加減に嫌気が差したのか、夏休み直前になってついに灯火は折れた。とは言っても灯火が直接泳ぎを指導するのではなく、ヴィエラに一枚のチラシを渡した。
それは灯火が通っているスイミングスクールの短期教室の案内だった。灯火にとって、この短期教室が原点だという話は本人から聞いたことがある。
というかこれ、面倒だからスイミングのコーチに丸投げしただけじゃないのか、とは口に出さなかった。
直接的な弟子入りは叶わなかったものの、ヴィエラは灯火と同じスイミングに通うのは間接的に弟子入りできるのだと喜んでいた。まあ、あながち間違いではないと思うが。
これが2011年7月20日のことだ。数日前にFIFA女子ワールドカップで日本代表が優勝を収めたばかりの日。
このヴィエラの弟子入りが、俺たちの人生を大きく狂わすことになる。
夏休み。スポーツ競技において、中学生からは小学校時代のように学年別という枠組みは取り除かれる。1年生から3年生まで、純粋に強い者こそが表彰台に立つことができる。
国中がなでしこフィーバーに湧く中、俺たちは変わらずに全国大会に出場していた。硬式テニスに転向して初めての大舞台は、上級生を相手に善戦しつつも準決勝で敗退した。木実も3年生をふたり撃破するも、準々決勝で敗退。やはり年齢差による体格差は明らかだった。中学生と言えば第二次成長期だ。ここでの2歳差は特に大きい。
しかし、タイムで競う灯火と弓月は1年生ながら決勝に残る好成績を残した。弓月は100メートル走と200メートル走、灯火は1500メートル自由形に出場し、ふたりとも表彰台は逃したものの、1年生で他に決勝進出者はおらず、改めてふたりのずば抜けた実力を思い知った。
大会終了後は小学校時代以上に厳しい合宿が待ち受けていたが、俺たちはどうにか時間を縫って1日だけ4人揃って遊ぶことができた。
地元の縁日に4人で赴き、祭特有の高揚感に包まれながら楽しく過ごした。灯火と弓月は両者とも表彰台を逃したことを反省し合い、来年こそは雪辱を果たすと意気込んでいた。
帰りがけには定番の花火で1日を締めた。練習漬けの毎日に溺れる俺たちにとって、1日だけでも息抜きの時間をとれたのは大きかった。
9月になり、2学期が始まった。その矢先に、信じられない真実が蟻地獄のように俺たちを飲み込もうとしていた。
それは2学期最初の体育の授業。水泳の授業に向けて男子生徒が教室で着替えている間、妙にヴィエラがそわそわしていた。俺たちは意図して無視していたのだが、授業が始まって目を剥いた。
ヴィエラが泳いでいる。それも異常なスピードで、だ。
並んで泳いでないからわからないが、まだ灯火の方が速い。けれど、夏休み前のヴィエラとは完全に別人だ。肉体の改造手術を受けたと言われても信じてしまいそうだった。
灯火とは泳ぎのタイプが違う。大きなフォームでゆったりと優雅に泳ぐ灯火がイルカだとしたら、ヴィエラは手足を細かく素早く、しかし力強く水をかいて泳ぐペンギンのようなイメージだ。中学1年にして180センチ超の長身と鎧のような筋肉を持っている彼ならではの泳ぎだった。泳げなかった最大の要因が、今では最大の原動力になっている。
男子生徒から驚嘆の声が上がる。女子生徒からは黄色い歓声が上がる。
「あいつ……!」
プールサイドから見つめていた灯火は震えていた。
血の流れが止まってしまうんじゃないかというくらい両方の拳を強く握っている。
金縛りにあったかのように全身がこわばっている。
口端がうっすらと吊り上がっている。
笑っている。
「すげえ。矢式くん、武者震いしてる」
そんな声が耳に入る。
馬鹿な奴らだ、と心の中で吐き捨てる。
武者震い? 違う。灯火とは弓月の次に付き合いが長い俺だからこそわかる。
戦慄しているのだ。
焦燥と恐怖が灯火を覆っている。
灯火はまだ2歳児の頃、スイミングスクールの短期教室に参加したのをきっかけに『才能』を開花させた。そこから厳しい練習を積み重ね、順調に才能を育て、今では全国トップレベルの選手に成長した。
そんな自分と重ね合わせているのだろうか。
ヴィエラはついこの間まで完全にカナヅチだった。それなのに、わずかな期間で圧巻の泳ぎを身につけてきた。
12歳という成長著しい年齢。類い希な学習能力。恵まれた体格。悔しさをバネにする根性。尊敬する灯火を目指す向上心。
ヴィエラを劇的に変化させた要素はいくつもある。でもこれらはあくまで要素であって、全てを一斉に噛み合わせるには必要な物がある。
もはや疑いの余地はなかった。
灯火が戦慄を覚えるのも無理はない。何でもこなすスーパースターの心臓には、微塵も想定していなかった財宝が隠れていた。
ヴィエラ・コモン・カルナック。
彼もまた、水泳の『才能』の持ち主だった。
1番苦手なものが、実はその人の『才能』だという話はわりと聞く。
運動が苦手な子どもがいた。その子は幼少期から運動音痴の自覚があって、屋内で本を読むのが好きだった。しかし小学校に上がると、その子の担任はとても厳しい人になった。
彼は3段のとび箱すら跳べなかった。担任はできるまで帰さないと言って、子どもは泣きながら練習を繰り返した。その成果はあって、子どもは見事に課題をクリアした。
それから子どもは変わった。とび箱が大の得意になって、貧弱だった運動神経はみるみる鍛えられ、ついには体操選手としてオリンピックの日本代表にも選ばれたという。
灯火の話によると、ヴィエラは灯火を育て上げた白田コーチという人から指導を受けたらしい。ひと目見てヴィエラの才能を見抜き、わずかな期間であそこまで鍛え上げたとか。灯火には全く知らされていなかったらしく、まさに尻毛を抜かれた次第だ。
9月中旬、ヴィエラは準備を経て灯火の通うスイミングスクールに入会し、選手コースで灯火と一緒に練習を始めた。中学の部活動も、サッカー部から水泳部に転部している。
灯火はどんな気持ちなのだろうか。偽物だと思って差し出した宝の地図が、実は本当に財宝の位置が記されていたわけだ。
それに、ヴィエラのスピードはまだまだ伸びるだろう。明らかに付け焼き刃のようなフォームを洗練し、体格を競泳に合わせたらぐっと速くなる。
そして灯火にとって最も気持ちを複雑にさせるのは、ヴィエラを指導したのが自らの恩師ということだ。灯火の才能が日々磨かれているのは、もちろん本人の努力が1番だが、コーチの存在も非常に大きい。選手とコーチはセットと言っても過言ではない。コーチあっての選手と言える。
人生の8割近くを白田コーチと過ごしてきた灯火にとって、日本に来たばかりで、かつカナヅチだったヴィエラを脅威の存在にさせたのは、はっきり言って気分が悪いだろう。これが品位の乏しい奴ならコーチを裏切り者と罵るかもしれない。灯火は違うが。
けれど、ヴィエラはきっと、そう遠くない未来に灯火に追いつく。それは灯火もわかっている。ヴィエラもその自信はあるだろう。
競い合うのは良いことだ。互いに切磋琢磨して己を高め合うのはスポーツ界の常套手段だ。
ただ、どうしても憂慮してしまう。
自信あっての『才能』であり、『才能』あっての俺たちだ。
灯火が心身ともに貧弱な奴じゃないことはわかっている。
でも、俺も弓月も木実も、にわかに黒い燻りを胸に抱いていた。
ほんの少しではあるが、灯火に変化が生じ始めたからだ。
何が、と聞かれてもうまく答えられない。
なんとなく……灯火という眩しい光に、わずかに陰りができたような。
姿の見えない燻りが、しかし確かに、俺たちを蝕み始めていた。
どんどん時間は流れていく。
2年生の夏の全国大会。
今年は4人とも優勝を狙おうと意気込んでいた。
しかし、俺と木実は共に決勝で敗れ、準優勝に甘んじた。ふたりとも3年生に敗れたわけだが、込み上げてくる悔しさで息が詰まりそうだった。木実はしゃくり上げて泣いていた。
対して、さすがと言うべきか、灯火と弓月は優勝してみせた。
灯火は1500メートル自由形、弓月は100メートル走と200メートル走の二冠だ。
世間が騒いだ。2年生で、それも、特に2冠を達成した弓月は陸上界のホープとして大きな注目を浴びた。
そして、表彰台を逃したものの、もうひとり注目度の高い選手がいた。
ヴィエラだ。400メートル自由形に出場し、4位入賞を果たしている。水泳を始めてまだ1
年で、浅黒い肌のイケメンブラジル人だ、そりゃ目立つ。
学校に取材が来るようになった。全国大会の表彰台に乗った4人+ヴィエラがいる学校は格好の的だった。
さらに1年が流れ、3年生の夏。
ヴィエラはすっかり水泳選手の体格になっていた。筋骨隆々だった2年前と比べ、全体的に引き締まった。灯火と同じ、長距離選手の身体だ。
7月の水泳の授業で見た彼の泳ぎは2年前と様変わりしていた。これもまた灯火と同じ、大きくゆったりとしたフォームだった。しかし灯火のような優雅さは見られず、むしろ豪快なイメージだった。長身のヴィエラには最適なフォームだと言えた。
スピードはもう、灯火とどちらが速いかわからなかった。それくらい拮抗していた。
8月。迎えた中学最後の全国大会。
4人とも着実に成長を遂げていた。それぞれの種目で同世代の選手に負ける気がしなかった。それだけの自信を裏付ける努力をしてきた。
今年こそは4人全員の優勝を至上命題に掲げて臨んだ。
俺は決勝をストレート勝ちで制し優勝した。
木実はほぼ全戦で1本勝ちと圧倒的な強さで優勝した。
弓月は100メートル走と200メートル走で連覇し、100メートル走に至っては中学生女子の歴代記録に肉薄する11.70を記録した。
灯火は得意の1500メートル自由形に出場した。
準優勝だった。
ヴィエラ・コモン・カルナック。
それが優勝者の名だった。
3年間の中学校生活に終止符が打たれ、俺たち4人とヴィエラは揃って地元の公立高校の体育科にスポーツ特待生として入学した。
2014年4月。
じりじりと迫り来る現実が、俺たちの永遠を浸食し始めていた。
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