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第7章 Ⅱ
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第7章 Ⅱ
碧は知らない。
入学式の時、海々が碧に一目惚れしたことを。
浅黒い肌。短い髪。すらっと伸びた細い手足。申し訳程度に膨らんだ胸。
何より、その凛とした顔立ち。
『かっこいい』という言葉がここまで似合う人、それまで見たことがなかった。
テレビに出ている芸能人とかスポーツ選手よりも、この人の方がよっぽどかっこよかった。
高校に入って、新しい友達をたくさん作ろうと思っていた。
それで、たくさんの思い出を作ろうと思っていた。
でも、そんな目標はすぐに捨てた。
碧と友達になりたかった。
100人の友達よりも、碧との友情の方が何倍も欲しかった。
100人との思い出よりも、碧との思い出のほうが何十倍も欲しかった。
でも、碧は知らない。
――あ、あのっ。
あの時、海々がすごく勇気を振り絞ったことを。
――杞蕾海々っていいますっ。
あの時、海々の足がすごく震えていたことを。
「わたしは沙理沢碧。初めまして」
あの時、海々が飛び跳ねたくなるほど喜んでいたことを。
「初めまして」という言葉は、「これからよろしく」という意味だから。
――はっ、はじめましてっ。
一緒に思い出を作ることを、約束する言葉だから。
碧は知らない。
海々が、本当はすごく独占欲の強い女だということを。
気付いていないかもしれないけれど、碧は海々よりずっと人気がある。そんな碧を、海々は独り占めしていた。
海々以外のコと、誰とも仲良くして欲しくなかった。
海々以外のコに、笑顔を見せて欲しくなかった。
海々以外のコを、好きになって欲しくなかった。
こんなこと、とても口には出せないから、心の中で押し殺してきた。
でも、いつか言わなきゃと思っていた。
海々の全てを見せたいと思っていた。
その上で、海々のことを好きになって欲しかった。
海々がすごく嫌な女と知った上で、海々を守って欲しかった。
そんなこと、有り得るはずがないのに。
海々は、ずっとそう望んでいた。
そう思う度に呟いた。
海々は、本当に嫌な女だ。
幸せな毎日が続いていた。
中学までも楽しかったけど、高校に入ってから、もとい碧に出会ってから、日々の輝きが一気に増した。
碧と話すのが、碧と笑い合うのが、碧と歩くのが、本当に楽しかった。
碧と手を繋ぐと、すごく浮ついた気持ちになれた。
碧に頭を撫でられると、すごく安らかな気持ちになれた。
本当に、幸せな毎日が続いていた。
これからも続いていくのだと思っていた。
ずっと続くのだと思っていた。
思っていたのに。
「君の本当のお母さんが迎えに来てるんだ」
――え……?
突然、途切れてしまった。
――お願いしますっ、碧だけは助けてやってくださいっ!
「いい加減にしつこいんだよっ。あんたがどれだけ頭を下げても私の気は変わらないっ」
殴られても、何回殴られても、心が折れることはなかった。
自分でも意外だと思った。
ずっと碧に守られてばかりで、しばらく「痛い」と思うことはなかったのに。
久しぶりの「痛み」だったのに。
――海々はどうなってもいいんですっ、碧のことだけは見逃してあげてくださいっ!
違う、と気付いたのは数日が経ってからだった。
海々は碧を助けたいんじゃない。
誰にも譲りたくないだけだった。
碧は海々だけのもの。
碧と全く関係のない人達に体を隅々まで調べられて、テレビとか新聞で晒し者にされて、世界中の人々が碧に注目するのが嫌だった。
だって、碧は海々だけのものだから。
でも、やっぱり海々は弱かった。
ダメ、と思っていても、無意識のうちに願ってしまう。
願ってしまったら、本当に叶ってしまいそうだったから。
叶ってしまったら、海々は都合のいい人になっちゃうから。
それでも、願ってしまう。
――たすけて、あおい……。
次に目が覚めた時、海々はすごく心が安らいでいた。
どうしてかわからなかったけど、こんな気持ちになれたのは久しぶりだった。
「起きた?」
理由はすぐにわかった。
大好きな声がした。
大好きな温もりが頭にあった。
大好きな人が目の前にいた。
――あおい……?
「そうだよ。立てる?」
どうしてここいるの?と尋ねそうになって、それまでのことを思い出した。
――……あれっ、海々っ、確か碧のお母さんに……!
言っている最中に、碧にそっと口を押さえられた。
碧がすごく優しく微笑んでいた。
何も言わなくていいよ、って言われているようだった。
「ちょっと我慢してね」
不意に、海々の体が宙に浮いた。
碧に抱き上げられたことを理解して、すごく恥ずかしくなった。
――わっ。あ、碧っ、自分で歩けるよっ。
「いいからいいから。わたしがこうしたいのよ」
それでも、やっぱり嬉しかった。
碧の体が、すごくあたたかくて。
外に出ると、そこには朱漢組の人達が全員揃っていた。
すごく驚いた。どうしてここにいるのか、気になって仕方がなかった。
さらに驚いたことに、碧が綿谷くんと二宮くんに自分から声をかけた。
海々のいない間に、いったい何があったのだろう。
今度、聞いてみなくちゃ。
それくらいの機会は、きっとあるよね。
「杞蕾、無事か?」
急に綿谷くんに声をかけられた。
隣の二宮くんも同じように海々を見ている。
心配してくれていたんだ。
碧だけじゃじゃなくて、この人達も。
海々は幸せ者だ。
こんなにも愛されていて、みんなに守られている。
――う、うん。ありがとう……。
でも、神様はこんな幸せ者を見逃しはしない。
見逃さないし、許しもしない。
弱くて、わがままで、図々しくて、守られてばっかりの海々を、許すはずがなかった。
そして。
――パン。
ついに、海々に天罰が下った。
真っ赤な水溜りが、辺り一面に広がっていく。
海々の体に、生温かくて、だけど氷のように冷たいものが伝ってくる。
海々を落とさないようにかばってくれた碧が、真っ赤な水溜りの中心で、小刻みに震えながら、地面に背を預けていた。
「てめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええええええええええええええええええええええええっ! どこまで腐っていやがるぅぅぅぅぅぅぅぅううううううううううううううううううううっ!」
二宮くんが叫びながら走っていった。
でも、海々はその姿を目で追わない。
水溜りがどんどん広がっていく様から、目を離すことができない。
「どけっ!」
赤い飛沫を上げながら綿谷くんが碧に走り寄った。
タオルかTシャツかわからないけど、白い布を碧のお腹に押し付けている。
「あお、い……?」
ようやく、搾り出すように、なんとか声を出せた。
「あおい……、碧ぃ……」
でも、なんでだろう。
「碧ってばぁ……」
名前を呼ぶたびに、胸が締め付けられる。
「碧ーっ!」
名前を呼ぶたびに、どうしようもなく悲しくなる。
「碧っ、碧ーっ! 目を開けてよぉ!」
すると、碧がゆっくりと目を開いた。
「碧っ」
嬉しくて、顔を碧の目の前に持っていった。
「よかった……。目を開けてくれた……」
安堵のため息がこぼれた。
海々はなるべく笑顔で、碧の体を気遣う。
「大丈夫?」
大丈夫なはずがないのに。
「痛いところはない?」
痛くないはずがないのに。
「海々、どこにいるの? 顔を見せてよ」
「え、碧……?」
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「海々、どこ? どこにいるの? 暗いよ、電気点けてよ」
「沙理沢……」
お腹を押さえている綿谷くんも碧の名前を呼ぶ。
「綿谷? 綿谷もそこにいるの?」
「沙理沢っ、俺のことはわかるかっ」
いつの間にか戻ってきていた二宮くんも、碧に呼びかける。
「二宮でしょ?」
わかっている。ちゃんと誰か判別出来ているのに。
「あの女は黙らせた。あとはお前が戻ってくるだけだっ」
なのに、どうして海々の顔が見えてないのだろう。
「碧っ、碧ーっ!」
海々はここにいる、目の前にいるよ。
「なんで泣いてんのよ、あんたは?」
碧が、変なこと言うからだよ。
「あれ? ……あれ?」
碧の腕が、わずかに動いた。
「ねぇ、二宮」
「なんだ……?」
「わたしの腕、ちゃんとくっついてるよね?」
思わず、その言葉に口を押さえてしまう。
「……あぁ、ちゃんとくっついてるよ」
「だよね。でも、腕が上がらないんだ。なんでかな?」
「…………」
二宮くんは答えない。きっと、すごく辛そうな顔をしているのだと思う。
「綿谷」
「……ここにいる」
「腕に力が入らないの。なんでかわかる?」
「…………」
綿谷くんも、きっと一緒だ。
「海々、泣かないでよ。そもそも、なんで泣いてんのよ?」
碧のせいだよ。
「あんた、弱いくせに一度も泣いたことないじゃない」
碧が悪いんだよ。
「だって……、だってっ、碧ーっ!」
「だから、なによ? なんでそこで泣き叫ぶの?」
「碧っ、撃たれたんだよっ! 銃でっ! お腹をっ!」
辛くて、苦しくて、言っちゃいけないことはわかっていたのに、碧に向かって叫んだ。
「よせっ、そんなことを本人に言うなっ」
二宮くんに羽交い絞めにされ、碧から離される。
「だって! だってぇっ!」
「救急車も呼んであるんだっ、それまで黙ってろよ!」
碧からどんどん離れていく。
それが、すごく怖かった。
手足を全力で動かして、二宮くんの腕から必死に逃れる。
碧のところに走って戻った。
「碧っ」と呼ぼうとして、口を動かす。
「――たし、死ぬのかな?」
でも、言葉は出なかった。
「もう、二度と海々と話せなくなるのかな?」
聞かれている綿谷くんは答えない。苦々しい表情のまま、ひたすら沈黙を守っている。
「ねぇってば……」
碧は。
「死なないよ!」
死ぬわけがない。
「碧は死なないよっ! ずっと……、ずっと一緒に暮らすんだっ! お母さんと海々で、寿命が尽きるまで3人で暮らすんだっ! 碧はどこにも行っちゃいけないんだっ! ずっと海々のそばにいるんだっ!」
今まで絶対に口に出さなかった独占欲を、初めて曝け出した。
「海々……?」
嫌われてもいい。嫌がられてもいい。
でも、言いたいことは言わなくちゃいけない。
「だって! だって碧、海々に言ったもん! ずっと一緒にいてあげるって! 一生、海々を守ってくれるって! 海々に約束してくれたもん!」
喉が渇くのがわかった。
大声を出したからじゃなくて、ずっと隠してきたものを曝け出して、海々は怯えている。
「わたしは……」
今から何を言われるのか、それが怖くて。
「海々」
「いるよっ! ここにいるよっ!」
名前を呼ばれて、必死に叫んだ。
「悲しいおわかれはなしだよ……。今まで、こういうノリは散々やってきたでしょ……」
「え……?」
だけど、碧の言葉は予想だにしていなかったものだった。
「もう、こういうノリは慣れてるでしょ。だから、いつもみたいにいこうよ」
それは、まるで自分の死を悟ったような口調で。
「でも、あれはお芝居じゃない……。こんな……、『本当』に別れがくるなんて思ってなかったもん……」
「バカだなぁ。こういう時のために、今まで慣らしておいたんじゃない。だからね、今は、笑っておわかれするの」
「そんなの……、そんなの無理だよぉ!」
海々の頬を、一筋の涙が伝った。
「あれ? 雨が降ってきたのかな?」
それが碧の顔に滴って、茶化すように言ってくる。
こっちは本気で悲しんでいるのに。
「海々……」
突然、信じられないものを見ることになった。
「碧っ」
今まで一度も見たことのない、
「海々、わたしさ……」
碧の、涙を。
いつも頼もしくて、頭も良くて、喧嘩も強くて。
そんな、非の打ち所のない碧が、
「死にたく、ないよ……。海々と、はなれたく、な……」
初めて、『弱さ』を見せた。
それは海々にとって、面食らったような衝撃的なことで。
「碧……?」
直後、碧が瞼を下ろした。
わずかに上下していた胸も動かなくなる。
「碧っ、碧ってばぁ!」
そんな。
嘘だ。嘘だよ。
まだ話していたいのに。
ずっと一緒にいたいのに。
なんで、
なんで、海々を置いていっちゃうの?
なんで、一人でいっちゃうの?
『あの日』、海々が一人で行ったから?
黙って、勝手に一人で行ったから?
「碧ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」
もう、碧は二度と目を開かない。
もう、碧は二度と動かない。
「嫌だ……」
そんなのは嫌だ。
「認めない……」
認めるものか。
「海々は……」
海々は。
「絶対……」
絶対に。
「死なせない……」
死なせない。
「碧……」
いつも海々を守ってくれた碧。
「碧ぃ……」
いつも海々を助けてくれた碧。
「今度は……」
今度は。
「海々が……」
海々が。
「助けるからっ!」
視界が、真っ白になった。
碧は知らない。
入学式の時、海々が碧に一目惚れしたことを。
浅黒い肌。短い髪。すらっと伸びた細い手足。申し訳程度に膨らんだ胸。
何より、その凛とした顔立ち。
『かっこいい』という言葉がここまで似合う人、それまで見たことがなかった。
テレビに出ている芸能人とかスポーツ選手よりも、この人の方がよっぽどかっこよかった。
高校に入って、新しい友達をたくさん作ろうと思っていた。
それで、たくさんの思い出を作ろうと思っていた。
でも、そんな目標はすぐに捨てた。
碧と友達になりたかった。
100人の友達よりも、碧との友情の方が何倍も欲しかった。
100人との思い出よりも、碧との思い出のほうが何十倍も欲しかった。
でも、碧は知らない。
――あ、あのっ。
あの時、海々がすごく勇気を振り絞ったことを。
――杞蕾海々っていいますっ。
あの時、海々の足がすごく震えていたことを。
「わたしは沙理沢碧。初めまして」
あの時、海々が飛び跳ねたくなるほど喜んでいたことを。
「初めまして」という言葉は、「これからよろしく」という意味だから。
――はっ、はじめましてっ。
一緒に思い出を作ることを、約束する言葉だから。
碧は知らない。
海々が、本当はすごく独占欲の強い女だということを。
気付いていないかもしれないけれど、碧は海々よりずっと人気がある。そんな碧を、海々は独り占めしていた。
海々以外のコと、誰とも仲良くして欲しくなかった。
海々以外のコに、笑顔を見せて欲しくなかった。
海々以外のコを、好きになって欲しくなかった。
こんなこと、とても口には出せないから、心の中で押し殺してきた。
でも、いつか言わなきゃと思っていた。
海々の全てを見せたいと思っていた。
その上で、海々のことを好きになって欲しかった。
海々がすごく嫌な女と知った上で、海々を守って欲しかった。
そんなこと、有り得るはずがないのに。
海々は、ずっとそう望んでいた。
そう思う度に呟いた。
海々は、本当に嫌な女だ。
幸せな毎日が続いていた。
中学までも楽しかったけど、高校に入ってから、もとい碧に出会ってから、日々の輝きが一気に増した。
碧と話すのが、碧と笑い合うのが、碧と歩くのが、本当に楽しかった。
碧と手を繋ぐと、すごく浮ついた気持ちになれた。
碧に頭を撫でられると、すごく安らかな気持ちになれた。
本当に、幸せな毎日が続いていた。
これからも続いていくのだと思っていた。
ずっと続くのだと思っていた。
思っていたのに。
「君の本当のお母さんが迎えに来てるんだ」
――え……?
突然、途切れてしまった。
――お願いしますっ、碧だけは助けてやってくださいっ!
「いい加減にしつこいんだよっ。あんたがどれだけ頭を下げても私の気は変わらないっ」
殴られても、何回殴られても、心が折れることはなかった。
自分でも意外だと思った。
ずっと碧に守られてばかりで、しばらく「痛い」と思うことはなかったのに。
久しぶりの「痛み」だったのに。
――海々はどうなってもいいんですっ、碧のことだけは見逃してあげてくださいっ!
違う、と気付いたのは数日が経ってからだった。
海々は碧を助けたいんじゃない。
誰にも譲りたくないだけだった。
碧は海々だけのもの。
碧と全く関係のない人達に体を隅々まで調べられて、テレビとか新聞で晒し者にされて、世界中の人々が碧に注目するのが嫌だった。
だって、碧は海々だけのものだから。
でも、やっぱり海々は弱かった。
ダメ、と思っていても、無意識のうちに願ってしまう。
願ってしまったら、本当に叶ってしまいそうだったから。
叶ってしまったら、海々は都合のいい人になっちゃうから。
それでも、願ってしまう。
――たすけて、あおい……。
次に目が覚めた時、海々はすごく心が安らいでいた。
どうしてかわからなかったけど、こんな気持ちになれたのは久しぶりだった。
「起きた?」
理由はすぐにわかった。
大好きな声がした。
大好きな温もりが頭にあった。
大好きな人が目の前にいた。
――あおい……?
「そうだよ。立てる?」
どうしてここいるの?と尋ねそうになって、それまでのことを思い出した。
――……あれっ、海々っ、確か碧のお母さんに……!
言っている最中に、碧にそっと口を押さえられた。
碧がすごく優しく微笑んでいた。
何も言わなくていいよ、って言われているようだった。
「ちょっと我慢してね」
不意に、海々の体が宙に浮いた。
碧に抱き上げられたことを理解して、すごく恥ずかしくなった。
――わっ。あ、碧っ、自分で歩けるよっ。
「いいからいいから。わたしがこうしたいのよ」
それでも、やっぱり嬉しかった。
碧の体が、すごくあたたかくて。
外に出ると、そこには朱漢組の人達が全員揃っていた。
すごく驚いた。どうしてここにいるのか、気になって仕方がなかった。
さらに驚いたことに、碧が綿谷くんと二宮くんに自分から声をかけた。
海々のいない間に、いったい何があったのだろう。
今度、聞いてみなくちゃ。
それくらいの機会は、きっとあるよね。
「杞蕾、無事か?」
急に綿谷くんに声をかけられた。
隣の二宮くんも同じように海々を見ている。
心配してくれていたんだ。
碧だけじゃじゃなくて、この人達も。
海々は幸せ者だ。
こんなにも愛されていて、みんなに守られている。
――う、うん。ありがとう……。
でも、神様はこんな幸せ者を見逃しはしない。
見逃さないし、許しもしない。
弱くて、わがままで、図々しくて、守られてばっかりの海々を、許すはずがなかった。
そして。
――パン。
ついに、海々に天罰が下った。
真っ赤な水溜りが、辺り一面に広がっていく。
海々の体に、生温かくて、だけど氷のように冷たいものが伝ってくる。
海々を落とさないようにかばってくれた碧が、真っ赤な水溜りの中心で、小刻みに震えながら、地面に背を預けていた。
「てめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええええええええええええええええええええええええっ! どこまで腐っていやがるぅぅぅぅぅぅぅぅううううううううううううううううううううっ!」
二宮くんが叫びながら走っていった。
でも、海々はその姿を目で追わない。
水溜りがどんどん広がっていく様から、目を離すことができない。
「どけっ!」
赤い飛沫を上げながら綿谷くんが碧に走り寄った。
タオルかTシャツかわからないけど、白い布を碧のお腹に押し付けている。
「あお、い……?」
ようやく、搾り出すように、なんとか声を出せた。
「あおい……、碧ぃ……」
でも、なんでだろう。
「碧ってばぁ……」
名前を呼ぶたびに、胸が締め付けられる。
「碧ーっ!」
名前を呼ぶたびに、どうしようもなく悲しくなる。
「碧っ、碧ーっ! 目を開けてよぉ!」
すると、碧がゆっくりと目を開いた。
「碧っ」
嬉しくて、顔を碧の目の前に持っていった。
「よかった……。目を開けてくれた……」
安堵のため息がこぼれた。
海々はなるべく笑顔で、碧の体を気遣う。
「大丈夫?」
大丈夫なはずがないのに。
「痛いところはない?」
痛くないはずがないのに。
「海々、どこにいるの? 顔を見せてよ」
「え、碧……?」
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「海々、どこ? どこにいるの? 暗いよ、電気点けてよ」
「沙理沢……」
お腹を押さえている綿谷くんも碧の名前を呼ぶ。
「綿谷? 綿谷もそこにいるの?」
「沙理沢っ、俺のことはわかるかっ」
いつの間にか戻ってきていた二宮くんも、碧に呼びかける。
「二宮でしょ?」
わかっている。ちゃんと誰か判別出来ているのに。
「あの女は黙らせた。あとはお前が戻ってくるだけだっ」
なのに、どうして海々の顔が見えてないのだろう。
「碧っ、碧ーっ!」
海々はここにいる、目の前にいるよ。
「なんで泣いてんのよ、あんたは?」
碧が、変なこと言うからだよ。
「あれ? ……あれ?」
碧の腕が、わずかに動いた。
「ねぇ、二宮」
「なんだ……?」
「わたしの腕、ちゃんとくっついてるよね?」
思わず、その言葉に口を押さえてしまう。
「……あぁ、ちゃんとくっついてるよ」
「だよね。でも、腕が上がらないんだ。なんでかな?」
「…………」
二宮くんは答えない。きっと、すごく辛そうな顔をしているのだと思う。
「綿谷」
「……ここにいる」
「腕に力が入らないの。なんでかわかる?」
「…………」
綿谷くんも、きっと一緒だ。
「海々、泣かないでよ。そもそも、なんで泣いてんのよ?」
碧のせいだよ。
「あんた、弱いくせに一度も泣いたことないじゃない」
碧が悪いんだよ。
「だって……、だってっ、碧ーっ!」
「だから、なによ? なんでそこで泣き叫ぶの?」
「碧っ、撃たれたんだよっ! 銃でっ! お腹をっ!」
辛くて、苦しくて、言っちゃいけないことはわかっていたのに、碧に向かって叫んだ。
「よせっ、そんなことを本人に言うなっ」
二宮くんに羽交い絞めにされ、碧から離される。
「だって! だってぇっ!」
「救急車も呼んであるんだっ、それまで黙ってろよ!」
碧からどんどん離れていく。
それが、すごく怖かった。
手足を全力で動かして、二宮くんの腕から必死に逃れる。
碧のところに走って戻った。
「碧っ」と呼ぼうとして、口を動かす。
「――たし、死ぬのかな?」
でも、言葉は出なかった。
「もう、二度と海々と話せなくなるのかな?」
聞かれている綿谷くんは答えない。苦々しい表情のまま、ひたすら沈黙を守っている。
「ねぇってば……」
碧は。
「死なないよ!」
死ぬわけがない。
「碧は死なないよっ! ずっと……、ずっと一緒に暮らすんだっ! お母さんと海々で、寿命が尽きるまで3人で暮らすんだっ! 碧はどこにも行っちゃいけないんだっ! ずっと海々のそばにいるんだっ!」
今まで絶対に口に出さなかった独占欲を、初めて曝け出した。
「海々……?」
嫌われてもいい。嫌がられてもいい。
でも、言いたいことは言わなくちゃいけない。
「だって! だって碧、海々に言ったもん! ずっと一緒にいてあげるって! 一生、海々を守ってくれるって! 海々に約束してくれたもん!」
喉が渇くのがわかった。
大声を出したからじゃなくて、ずっと隠してきたものを曝け出して、海々は怯えている。
「わたしは……」
今から何を言われるのか、それが怖くて。
「海々」
「いるよっ! ここにいるよっ!」
名前を呼ばれて、必死に叫んだ。
「悲しいおわかれはなしだよ……。今まで、こういうノリは散々やってきたでしょ……」
「え……?」
だけど、碧の言葉は予想だにしていなかったものだった。
「もう、こういうノリは慣れてるでしょ。だから、いつもみたいにいこうよ」
それは、まるで自分の死を悟ったような口調で。
「でも、あれはお芝居じゃない……。こんな……、『本当』に別れがくるなんて思ってなかったもん……」
「バカだなぁ。こういう時のために、今まで慣らしておいたんじゃない。だからね、今は、笑っておわかれするの」
「そんなの……、そんなの無理だよぉ!」
海々の頬を、一筋の涙が伝った。
「あれ? 雨が降ってきたのかな?」
それが碧の顔に滴って、茶化すように言ってくる。
こっちは本気で悲しんでいるのに。
「海々……」
突然、信じられないものを見ることになった。
「碧っ」
今まで一度も見たことのない、
「海々、わたしさ……」
碧の、涙を。
いつも頼もしくて、頭も良くて、喧嘩も強くて。
そんな、非の打ち所のない碧が、
「死にたく、ないよ……。海々と、はなれたく、な……」
初めて、『弱さ』を見せた。
それは海々にとって、面食らったような衝撃的なことで。
「碧……?」
直後、碧が瞼を下ろした。
わずかに上下していた胸も動かなくなる。
「碧っ、碧ってばぁ!」
そんな。
嘘だ。嘘だよ。
まだ話していたいのに。
ずっと一緒にいたいのに。
なんで、
なんで、海々を置いていっちゃうの?
なんで、一人でいっちゃうの?
『あの日』、海々が一人で行ったから?
黙って、勝手に一人で行ったから?
「碧ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」
もう、碧は二度と目を開かない。
もう、碧は二度と動かない。
「嫌だ……」
そんなのは嫌だ。
「認めない……」
認めるものか。
「海々は……」
海々は。
「絶対……」
絶対に。
「死なせない……」
死なせない。
「碧……」
いつも海々を守ってくれた碧。
「碧ぃ……」
いつも海々を助けてくれた碧。
「今度は……」
今度は。
「海々が……」
海々が。
「助けるからっ!」
視界が、真っ白になった。
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夏休みが終わった後の八月。彼の前に現れたのは、なぜか顔が見える女の子、水瀬茉莉(みなせまつり)だった。
他の女の子と違うという特異性から、次第に彼女に惹かれていく翔。
中学に進学したのち、クラスアート実行委員として再び一緒になった二人は、夜に芳香を強めるという匂蕃茉莉(においばんまつり)の花が咲き乱れる丘を題材にして作業にはいる。
ところが、クラスアートの完成も間近となったある日、水瀬が不登校に陥ってしまう。
それは、彼女がずっと隠し続けていた、心の傷が開いた瞬間だった。
※第12回ドリーム小説大賞奨励賞受賞作品
※表紙画像は、ミカスケ様のフリーアイコンを使わせて頂きました。
※「交錯する想い」の挿絵として、テン(西湖鳴)様に頂いたファンアートを、「彼女を好きだ、と自覚したあの夜の記憶」の挿絵として、騰成様に頂いたファンアートを使わせて頂きました。ありがとうございました。
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