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第4章
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第4章
一夜が明けた今日、わたしと海々はいつも通りに登校した。
そして校門にだいぶ近付いた頃、わたしは異様な光景に目を疑う。
「なにあれ?」
そう呟いた海々の疑問はもっともだった。
校門から下駄箱までの道を、学校の大量の生徒が二列に並んで形作っていた。
それは、まるで国王が戦場から城に戻ってきたかのような仰々しいものだった。
「みんな! 救世主様が御登校されたぞーっ!」
ひとりの男子生徒がわたし達の姿に気付くと、そう叫んで列になっている全員に知らせた。その瞬間、およそ100人もの人が、200個の目が一斉にこっちを向いた。
思わず腰を引かせてしまいそうになるほど恐ろしい光景だった。
「うわぁ……」
隣の海々は明らかに怯えている。
天皇やら総理大臣はこんなにも不気味な光景を見ているのだろうか。
「とりあえず行こうか……」
海々にそう言うと、すかさずわたしの手を握ってきた。
わたしも思わず握り返す。いつもなら絶対にこんなことしないけど、今だけは海々の手の温もりが欲しかった。
いつまでも立ち止まっているわけにもいかないので、とりあえず校門まで歩いてみる。
そして海々と一緒に校門を跨いだ直後、
『おはようございます、沙理沢様』
地鳴りのような、しかし完璧に揃ったみんなの挨拶がわたしに向けられた。
なんか独裁者にでもなった気分だ。
「ねぇ、これはなんなの?」
わたしはたまらず列の先頭にいた男子生徒に尋ねた。
男子生徒は恭しく一礼して、
「おはようございます。自分は生徒会の会長を務めさせていただいている長谷川と申します」
そう名乗った。別にそんなことは聞いてないんだけど。
「昨日、貴女は生徒会の書記である川村を如何わしい連中から守ってくれたと聞きました。彼女は1年生ながらとても優秀な役員で、将来的には会長を任せられる逸材です。つまり、貴女は我が校の生徒を守り、そして未来をも救ったのですっ」
政治家の演説のように語尾の音を上げて、さらに両手を天に仰いだ。
なんだか怪しい宗教の教祖にも見えるんだけど。
「沙理沢さんっ、最高ですっ。あなたと同じ高校に居られて誇りに思います!」
「学年一の秀才でありながら喧嘩も強いなんて、心から憧れますよ!」
それでも、他の生徒達はそのノリで拍手を送ってきた。
「さぁ、どうぞ、我らが女帝よ。今日も勉学に勤しんでください」
会長は右手を差し出して、生徒によって作られた道を通るよう促す。
わたしは一度海々と顔を合わせて、そそくさとその道を通り抜けようとした。
当然、その道中で声をかけられる。
「あなたこそ、この源水高校の女帝であり、英雄です!」
「はいはい」
「これからも文武両道を貫いてください!」
「一般的には、その場合の『武』ってスポーツのことじゃないの?」
「沙理沢様っ、今日もお肌の調子がいいようでっ」
「あ、なんかちょっとだけ安心した」
教室に着けばさすがに落ち着いた。
校門に並んでいたのは他のクラスや後輩達のようで、うちのクラスにはほぼいつものメンツが揃っていた。
「海々、大丈夫?」
一緒に歩いてきた海々は頷きはしたけど、呼吸のリズムが普段より速い。ただでさえ暑いのに、あれだけ人がいれば熱気もこもる。体が小さい海々にとっては結構辛かっただろう。
「それにしても、昨日のコ、生徒会のコだったんだね」
あの後、綿谷と二宮は5人の男を警察まで運んでいった。
「悪人は罰を受けて、初めて自分の犯した罪を省みるのだ」とは綿谷が残していった言葉。
女の子は相当のショックを受けていて、とても一緒に警察に行ける状態ではなかったので家まで送っていった。幸いにも海々の家からそんなに離れていなかったので、そこまで手間になることはなかった。
女の子の家まで送ると、わたしと海々は深く感謝された。
わたしはそれほどのことはしていないと適当に返し、海々も「海々はなにもしてないよ!」とひたすら首を振っていた。
最後に女の子は「今日のことは学校を挙げて感謝の意を表させていただきます」とか言っていたけど、まさかこんなことになろうとはね。
おそらく、昨日のうちに会長に報告したんだろうな。それで感銘を受けた会長があんなことを立案した、と。
それにしても、たったそれだけのことであんな騒ぎになるなんて。
この学校、なんかおかしくない?
朝のホームルームでもわたしは担任から褒め称えられた。
その時もクラスのみんなから羨望の眼差しを向けられ、再び拍手を浴びることになった。
でも、ここにきて違和感を覚える。
校門での会長の話にも、ついさっきの担任の話にも肝心なことが抜けている。
確かに、わたしは例の女の子を助けようとして、ほとんどの男を倒すことはできた。
でも、女の子が絶体絶命のピンチに陥った時、助けたのは二宮だ。そしてあの喧嘩に終止符を打ったのは綿谷。
つまり、女の子を助けたのも喧嘩を片付けたのも朱漢組だ。わたしじゃない。
それくらいのことは会長も女の子から聞いているだろうし、教師の面々も耳には入っているはずだ。
それなのに、会長も担任も朱漢組の朱の字も口に出さなかった。
さすがに怪訝に思ったわたしは、昼休みに綿谷と二宮がいそうな場所に出向いてみることにした。
その場所は一発で当てることができた。
「よっ。屋上でランチタイムなんていかにも学生っぽいね」
ここで3人が顔を合わせるのは二度目だ。
学ランを来たふたりは地面に座っていて、二宮はペットボトルでお茶を飲んでおり、綿谷はメープルメロンパンを頬張っていた。
……いや、あんた風貌と食べている物にギャップがあるから。
「沙理沢? どうしたんだ、こんなところに?」
先に口を開いたのは二宮。
口から離したペットボトルにフタをして、コンビニの袋にしまう。
「あんたらからの事後報告がないから、わざわざこっちから出向いてあげたのよ」
ふたりはいつものように登校してきて、本当にいつものように過ごしていた。わたしに近付く様子もなければ、話しかけてくる気配なんかさらさらなかった。
いつでも報告を受けられるように、今日は日向ぼっこをしずにずっと真面目に授業を受けていたというのに。
「それは悪かったね」
爽やかマスクの二宮は申し訳なさそうに苦笑しながら話し始めた。
「とりあえず警察に連れて行ったらさ、奴ら、過去にも捕まったことのある前科者だったんだ。ただ、今までは万引きだとかいたずら程度のものだったんだけど、昨日のはそれじゃ済まされないからな。しばらくは外に出て来れないだろうよ」
「へぇ、そうなんだ」
としか言いようがない。元々そんなことを聞くつもりはなかったから。
「ところでさ」
だから、わたしは話を本題に移す。
「あんたら、警察に名乗った?」
尋ねると、二宮はばつが悪そうに顔を伏せた。綿谷は依然とメープルメロンパンを頬張り続けている。
……いや、だから風貌と食べる速度にギャップがあるから。
「そりゃ、名乗ったさ。俺と猛さんの名前も、朱漢組の名前もな。でもな、朱漢組は2年前まで悪名をほしいままに轟かせていたんだ。いい顔はされないさ」
なるほどね。
「それは生徒会も、教師の奴らも同じってわけか」
「あぁ、そうだな」
二宮は表情こそ苦笑いだけど、きっとやり切れない気持ちが一抹あるのだろう、その顔には無念さが見え隠れしている。
無理はないのかもれない。
このふたりはみんなの見えないところで頑張っているのに、それを他の不甲斐ない組員や過去の風評のせいでいつまでも悪者扱いされている。
わたしも先日の頼みごとの件がなければ、会長や担任のように邪険に思ったかもしれない。
でも、今のわたしは違う。
こいつらは頼みごとをする時には礼儀を重んじるし、実際に学校の生徒を守っていた。
それを知っていて、もう悪く思う理由がない。
「じゃあさ、わたしが代わりに褒めてあげる」
「は?」
突拍子のないわたしの言葉に、二宮は目を点にする。
「わたしが褒めてあげるって言ったんだよ。だから、そんなふて腐れんな」
「待て待て。別に俺らは褒められたいからこんなことをやってるわけじゃないし、ふて腐れてもねぇよ」
うんうん。こういう謙虚なところもイメージのプラス要素だね。
わたしは朱漢組風に足を肩幅くらいに開き、両手を体の後ろで組んだ。
「綿谷、並びに二宮。あんたらは昨日の喧嘩シーンにおいて、我が校の生徒のために尽力されました。よってその功績を称え、わたしから賛辞を贈呈する」
なるべく雄々しく言ってあげたつもりだけど、どうだろう。
「は、ははっ」
二宮は笑っていた。
「まさか沙理沢からそんな言葉を贈ってもらえるとはな。感激だよ」
なんか安っぽい言葉にも感じるけど、どうやら本当に喜んでいるようだ。肩が微かに震えている。ずっと黙っていた綿谷も少しは喜んでいるようで、紙パックのストロベリーミルクのストローを咥えながら固まっていた。
……いや、だからあんたの風貌とのギャップが激しすぎるから。
初めて、かもしれない。
わたしは初めてこのふたりと談話をしながら休み時間を過ごした。と言っても、綿谷はわたしと二宮の言葉に相槌を打つだけだったけど。
二宮は中学までモデルガンが好きなだけの普通の少年で、喧嘩なんて1回もしたことがなかったらしい。それでも綿谷の右腕になれたのは、その類まれな狙撃センスが認められたからだそうだ。20メートル以内なら絶対に標的から外さないらしい。
二宮が物陰から敵の不意を突いて、綿谷が一気に畳みかけるのが主流のやり方だとか。そういえば、昨日のやつも正にそれだったね。
そんな話をしているうちに予鈴が鳴った。
「そんじゃ、わたしは中庭に行くよ」
「中庭って。授業はどうするんだ?」
「午前中にみっちり受けたからいいよ」
「いや、時間割ごとに教科が違うが……」
「うるさいなぁ。結果さえ残せばいいんでしょうが」
「む。そういやぁ、沙理沢って学年トップだったよな。忘れてたぜ」
というわけで、途中でふたりと別れようして、
「沙理沢」
綿谷に呼び止められた。
昼休みの間ずっと一緒だったのに、今になって初めて名前を呼ばれた。
「なに?」
振り向いて、綿谷の顔を見上げる。
綿谷はいつものように厳つい表情をしているけど、そこはかとなくいつもより威圧的に感じた。
「最近、ここらじゃ見かけん奴らが源泉町をうろついている。わしらの情報網によれば、わしらくらいの年齢のを捜しているようだ。念のために用心しておけ」
「あぁ、あの張り紙のやつ?」
昨日の奴らのことじゃなかったんだ。
「そうだ。あれはわしらが学校側に頼んで張ってもらったものだからな」
そうだったのか。わざわざご苦労なことで。
「ん、わかった。覚えておく」
そう返すと、綿谷は頷いて教室に向かっていった。二宮も続いていく。
「朱漢組って、独自の情報網なんか持ってたんだ」
そんなことを呟きながら、わたしも回れ右をして中庭に向かった。
日曜日。
わたしは海々と商店街に来ていた。
いつものようにゲーセンに行って、お昼ご飯を食べたら午後はバッティングセンターに行ったり、小洒落たカフェで一息ついたりして過ごした。
夕方の時刻になって、まだ明るい商店街から帰路についた。
海々の笑っている顔、不満顔、舌鼓を打つ顔、汗を滴らせる顔、そのどれもが愛らしく、見ていて幸せな気分になるものだった。
休日に1日中商店街で過ごすのは月に一度くらいしかなく、1日の間で海々のこんなに色んな表情を見られるのは貴重なのだ。それだけに、今日という日を楽しみにしていた。
だけど、今日のわたしは心から楽しめていなかった。
「――ねぇ、碧、聞いてる?」
「……え?」
不意に海々に声をかけられた。
いや、正確には不意じゃない。さっきから海々は話していたけど、わたしが『それ』に気を取られていて聞いていなかっただけだ。
「あぁ、ごめん。ちゃんと聞いてたよ」
「本当に?」
「うん。海々が小さい頃に野良犬にお尻を噛みつかれて、泣きながら病院に駆けつけたらそこは動物病院で診察待ちしていた犬にもお尻を噛みつかれて、泣き喚きながら外に出たら散歩中だった犬にまたお尻を噛みつかれて犬が大の苦手になったっていう話でしょ?」
「そんな話してないよっ」
海々は必死な表情で否定すると、唇を尖らせながら恨めしそうな目をわたしに向けた。
「今日の碧、なんかぼーっとしてる。ずっと何かに気を取られてるみたい」
さすがは海々、鋭い。
「やっぱりわかってた?」
「もちろんだよっ。碧のことならなんでもわかるもんっ」
何の迷いもなく小恥ずかしいことを言われると、こっちが照れてしまう。
「で、何をずっと気にしてたの?」
首を少し傾げて、物欲しそうな目で見つめてくる海々。
こんな殺人的な仕草をされては、わたしは答えないわけにはいかない。
「ん、実はね」
「うん」
「海々って、この歳になってもまだブルマなんか穿くんだなぁ、と思って」
そう言った直後、海々の顔が真っ赤になった。
「え、えっ……、えぇっ」
海々は慌てふためきながらミニスカートを手で押さえた。
そう、今日の海々はミニスカだ。
確かに夏のミニスカは気分がいい。ズボンと違って動きやすいし、蒸れないし、何より風通しがいい。女からしたら正に夏の制服だ。
だけど、海々はゲーセンでもぐら叩きをする際にぴょこぴょこ飛び跳ねるし、バッティングセンターでもフルスイングしていた。すると必然的にスカートは舞うわけで。
こうなれば普通はパンツが見えるはずなんだけど、驚くことにそのパンツは真っ黒だった――と思いきや、実際は懐かしきブルマだった。
中学校の制服の下に穿くことはあったけど、私服のミニスカの下にブルマを穿くのは少数派だと思う。
「な、なんで見るのっ、碧のえっち!」
更に驚くことに、海々はまるで好きな男の子にパンツを見られた小学生のように紅潮した顔で非難してきた。
「『見えた』のよ。わたしだって見たかったわけじゃないんだから」
というのは嘘で、ゲーセンで垣間見えた時は本当に黒いパンツを穿いているのかと思って、午後はわたしがバッティングセンターに行くことを提案してわざとパンツを見やすい条件を揃えたのだ。
「それに、パンツを見られたくないからブルマを穿いてんでしょ? だったらブルマ見られたくらいでそんなに取り乱さなくてもいいと思うけど」
「それでも恥ずかしいものは恥ずかしいのっ」
海々はわたしに背を向けて、さっきよりも速いペースで前を歩いていく。
そんな仕草が相変わらず可愛くて、思わず口元が綻んでしまうほどだった。
でも、すぐにわたしは顔を引き締める。
そして目だけを動かして、本当に気を取られていた『それ』を見た。
……まだいる。
最初に気付いたのはふたりで家を出た直後だった。『それ』は物陰からわたし達のことを監視していて、今に至るまでずっと尾行してきている。
灰色のスーツを着て、目深にウエスタンハットを被っている。そのため顔はしっかりと見えないけど、だいたい中年くらいの男だった。
わたしがその存在に気付いていることは向こうにも気付かれているようで、だからと言って開き直ったりこそこそしたりするわけでもなく、あくまで自然を装って監視を続けている。熟練の刑事とか探偵じゃない限り、不審人物だと見抜くのは難しいかもしれない。これらのことから、ただのストーカーじゃないということは容易に判断できる。
わたしにはその男が何者か全く見当もつかない。
でも、先日の綿谷の言葉を思い出す。
『最近、ここらじゃ見かけん奴らが源泉町をうろついている』
それがこの男のことなのだろうか。
だとしたら、本当にその男ひとりなのかわからないわたしは、下手に動くことができない。
海々を危ない目に遭わせてしまうかもしれない以上、慎重に考えらなければならなかった。
「碧、どうしたの?」
海々はわたしにとって1番大切な友達だし、心から愛おしく思える存在。
「ねぇってば」
もしかしたらわたしの勘違いっていう可能性もあるけど、それでも確証はない。
「碧っ」
だから、注意を怠るわけにはいかない。
「あーおーいっ」
「……ん? 呼んだ?」
気付くと、海々は目の前に立っていて、覗き込むようにわたしに顔を近付けている。
「ずっと呼んでたっ」
咎めながら言い寄ってくるものだから、顔が近付き過ぎていることを気にしていないのだろう、今のわたしの視界は、上は海々の眉毛、下は唇が入るか入らないかくらいだ。相当近い。
「今日の碧、やっぱり変だっ」
ついでに言えば、唾が容赦なくわたしの顔に飛びかかる。
「未だにブルマを穿いてる海々に言われてもなぁ」
「なっ、そ、それは関係ないでしょっ」
「そこで顔を赤くするのも変だよ」
「むぅ……」
誤魔化してばかりのわたしに対してもどかしさを感じているのか、納得いかない様子ながらようやくわたしから顔を離した。
「ありがとう、海々」
「……え?」
あまりにも唐突にそんなことを言われた海々は、従来よりもワンテンポ遅れて反応した。
「海々はいいコだから、本気でわたしのことを心配してくれてるんだよね。だから、お礼を言ったの」
努めて爽やかに言うと、海々はさっきよりも不満顔になった。
「碧、ずるいよ。そんな風に言われたら、これ以上何も言えなくなっちゃう」
まぁ、それが狙いだったのだけど。
でも、心配してくれる海々に感謝しているのは嘘じゃない。
「ずるいかもしれないけどさ、本当に大丈夫だから」
海々は依然と不満そうだったけど、それ以上は何も言わずに黙って頷いてくれた。
そしてわたしと肩を並べると、何の気兼ねもなくわたしの左手を握ってきた。
「あのさ、こんな暑い日に手なんか握ると汗ばむよ?」
「そんなの関係ないよ。海々が繋いでいたいんだもんっ」
ついさっきまで見せていた表情は既に跡形もなく、そこには屈託なく笑う海々の幸せそうな顔があるだけだった。
釣られるようにわたしも笑って、つくづく思う。
やっぱり海々はいいコだ。こんなにもいいコな海々を、わたしは守ってあげたい。
海々に降り注ぐ危険や痛みは避けさせてあげたい。それが叶わないのなら、それら全てをわたしが背負ってあげたい。
わたしが身代わりになってあげたい。
嘘じゃない。
海々のためなら、この命だって惜しくない。
……嘘じゃない。
商店街を抜けて、ようやく西の空が赤みを帯びてきた。肌を刺すような日差しもだいぶ和らいできている。
わたしと海々はまもなく家に着こうとしていた。
「んー、今日ももうすぐ終わるねぇ。明日からまた学校かぁ」
わたしは歩きながら伸びをして、手が握られてない方の右手を頭上に伸ばす。
「あれ? 碧って学校嫌いなの?」
「いや、高校生活はそれなりにエンジョイしてるけどさ、今日みたいに楽しい時間を過ごすとどうしても、ね」
そう言うと、海々が照れながら顔を綻ばせた。
「きょ、今日、楽しかった?」
夕日以外に顔を赤く染めながら、わたしの顔を覗き込んでくる。
「もちろん。海々とのデート、最高に楽しかったよっ」
迷いなく答えて、わたしは親指を立てる。
「海々も、碧と遊べて楽しかった! また行こうねっ」
向日葵のような笑顔を咲かせる海々。
わたしまで頬を赤くさせそうになる。この笑顔は凶器に近い。
「それなのに……」
わたしは心から感動に浸ることはできない。
結局、今日は最初から最後まで男に尾行されていた。
今も尚、姿は見えないけど視線を感じる。どこか物陰から覗いているのだろう。
「ん? 何か言った?」
「いや」
だからと言って、海々に心配をさせるわけにはいかない。
とりあえず、今日は何もなかったということでよしとする。これについては後々考えればいい。
何なら、明日学校で綿谷か二宮にでも聞くのもありだ。何か新しい情報を仕入れているかもしれない。
それにしても、まさかあのふたりを頼ることになるとはね。人生何が起こるかわからない。
「ほら、着いたよ、海々」
「うん。今日は結構動いたから疲れちゃった」
門をくぐって、海々と一緒に家の中に入った。
「ただいまー」
玄関でお決まりの挨拶をすると、キッチンの方から「おかえりー」と明音さんの声が聞こえてきた。
包丁とまな板がぶつかる音がリズム良く聞こえることから、明音さんが夕飯を作っているようだった。
わたしは明音さんを手伝おうと思ってキッチンに歩を進めると、
「碧」
背後から海々に制止される。
「なに?」
振り返ると、碧は何故か誇らしそうに笑みを浮かべていた。
「またお母さんを手伝おうとしたでしょ?」
「それが?」
「海々だって手伝うくらいはできるんだからねっ。だから今日は海々が手伝うよっ」
言っていることはわかるけど、海々の言いたいことがよくわからない。
「だからどうしたの?」
海々は不満そうに頬を膨らます。
「だから、碧はシャワー浴びてきなよ。お母さんの手伝いは海々がやるから」
「え?」
予想外の海々の言葉に、わたしは思わず聞き返してしまった。
確かに今日は汗をかいたからシャワーは浴びたいけど、海々に明音さんの手伝いを制されたのは初めてだった。いつもはわたしが手伝っていると、そのうち海々が混じって一緒にやるのがパターンになっている。
「いつもみたいにふたりでやればいいじゃない。わたしだって明音さんを手伝いたいし」
わたしは食い下がったけど、海々は頬を膨らませたまま首を振った。
「いつも碧にやってもらってるから、たまには海々だって手伝いたいの!」
ついに語気を強めると、わたしが何かを言う前にさっさと2階に上がっていった。
しばらくして廊下に戻ってきた海々の手には、わたしの寝間着であるTシャツとハーフパンツが持たれていた。
「海々?」
「はいっ、しっかり汗流してきてね!」
首を傾げるわたしに無理矢理服を持たせ、半ば押し込まれるように洗面所に追いやられた。
「それじゃ、ごゆっくりー」
笑顔で言った海々はわたしに有無を言わせぬままドアを閉めた。
洗面所のドアはすりガラスが張られているため、海々の顔がモザイク状にぼやける。
「んー……」
なんなのだろう。
海々は明音さんを手伝いたいとは言っていたけど、それだけでわたしを追いやるのは納得がいかない。手伝うだけならふたりで一緒にできる。
それとも、普段はわたしが手伝うことが多いから、明音さんに感謝されているわたしに嫉妬しているのだろうか。たまには明音さんに褒められたいのだろうか。
……いや、それはきっとない。
明音さんはちゃんと海々のことを可愛がっているし、海々もそれはわかっている。何より、海々は嫉妬するようなコじゃない。それは間違いない。
だとすれば、あと考えられるのは、海々が明音さんとふたりになりたがっている、というところだろうか。親子で何か話し合いたいことがあって、それでわたしを無理矢理キッチンから引き離したのだろうか。
そうだとしたら、わたしがその親子の時間を邪魔するわけにはいかない。
海々も明音さんも大好きだし、ふたりもわたしのことを良く思ってくれている。でも、わたしはあくまで他人。ただの居候だ。親子の間に入り込めない境地だってある。少し悲しいことだけど、その辺りはちゃんと割り切っているつもりだ。
「ま、そういうことなら海々の厚意を甘んじて受け入れますか」
わたしはそれ以上考えず、シャワーを浴びることにした。
外が明るいうちのシャワータイムは、夜のものとは雰囲気が全く別物で不思議な感覚に陥る。電気ではなく夕日に照らされた浴室で、日焼けした体から汗を洗い流していった。
さっぱりしたわたしはドライヤーで髪を乾かして、海々と共同で使っている櫛で梳いた。
洗面所から出て、まず2階に上がった。
押入れからしまってあった布団を2式取り出す。と言っても、今は敷布団とタオルケットと枕だけだけど。
それらを部屋の中央に並べて敷いて、タンスから明日履く靴下を出して枕元に置いた。
「よし、と。そろそろ行ってもいいかな」
普段は風呂上りに布団を敷いたり明日の準備をしたりしないけど、洗面所からキッチンに直行するのは気が引けた。
海々と明音さんがまだ話し終えていないかもしれないからだ。
ふたりがどういう話をしているかわからないけど、いくら故意ではないにしても親子の会話を聞いてしまっては申し訳ない。
だから、キッチンには直行せずに寄り道をした。
わたしは部屋を出て階段を下りると、閉まっているキッチンにドアにそっと耳を寄せてみる。
中からは食器を並べているような音は聞こえる。話し声は聞こえない。
どうやら会話はもう終わっているようだ。これで安心して中に入れる。
「1番風呂、ありがとうございました」
ドアを開いて、そう言いながら明音さんに軽く頭を下げた。
明音さんは優しい笑顔を浮かべながら「いいえ」と返してくれた。
中は冷房が効いていて、風呂上りということもあってより心地いい。
「……あれ?」
でも、すぐに違和感に気付く。
「海々はどうしたんです?」
キッチンには食器を並べている明音さんがいるだけで、キッチンにも隣のリビングにも海々の姿はなかった。
「あら、ふたりでお風呂に入ってたんじゃないの?」
明音さんは目を点にした。
「ふたりが帰ってきたのは知ってたけど、こっちには1回も来てないわよ? てっきり、またふたりでお風呂に入ってたのかと思ってたのだけど」
わたしをからかっている様子はない。
確かに、たまにふたりで風呂に入ることはある。この歳にもなると少しは恥らう気持ちがあるけど、海々はそういうものは一切気にしない。
「いえ、シャワーはわたしひとりで入ってたんですけど……」
「あらあら、そうだったの。じゃあ部屋にでもいるのかしら」
明音さんはそう言うけど、部屋にはついさっき行ってきたばかりだ。
「それはないです。さっき行ってきましたから」
「あ、そういえば足音が聞こえてわ。だったら、どこに行っちゃったのかしらね」
顎に人差し指を添えて、明音さんは「んー」と考え始める。
わたしはシャワーを浴びる前の海々を思い出してみる。
海々は自分が明音さんを手伝うと言って、わたしを無理矢理洗面所に押し込んだ。
その様子は明らかにおかしかったけど、わたしは明音さんとふたりで会話をしたいのだと判断した。
だからわたしを、キッチンから遠ざけた。
「……いや」
違う。
海々はわたしをキッチンから遠ざけたのじゃない。
わたしを自分――海々から遠ざけたのだとしたら?
親子との会話を聞かれたくなかったのではなく、少しの間わたしに離れていて欲しかったのだとしたら?
仮定を挙げて、更に考える。
では、その理由は?
何のために、わたしを遠ざけた?
何のために、わたしの動きを封じた?
わたしを海々から離して、しばらく動けない間に何がしたかった?
「――まさか」
最悪の予感が頭の中をよぎった。
首筋を刃物で逆撫でされたように、悪寒と不安が押し寄せてくる。
「まさか……、嘘……」
わたしはバカだ。
海々の第6感は人並以上に鋭い。気配を察する能力に秀でている。
それを知っていたのに。
「碧ちゃん? どうかしたの?」
海々は気付いていたんだ。
今日、1日中尾行していたあの男に。
わたしが気付いて、海々が気付かないはずがないのに。
でも、どうして。
どうして、わたしを誘わなかった?
どうして、ひとりで行っちゃったの?
どうして、黙って行っちゃったの?
「明音さん」
様々な疑問が頭を駆け巡る。
様々な疑念が胸を締め付ける。
「わたし、海々を捜してきます!」
「えっ、何がどうなってるのっ」
明音さんにちゃんと説明しないのは失礼だ。それはわかっている。
でも、今はそんな悠長なことはしていられない。
冷静さを欠いていることも、うまく思考が回らなくなっていることも自覚している。
こういう時こそ、本能の赴くままに行動せず、冷静に考えて動かなければならない、という常套句があることも知っている。
それでも、わたしは走り出さずにはいられなかった。
海々にもしものことがあったら――。
帰りの遅い子供を心配する親もこういう気持ちなんだろうか。
わたしはキッチンから飛び出るように廊下に出ると、2段飛ばしで階段を駆け上がる。そこで滅多に使わない携帯電話を手に持って、ほぼ無心のまま外に出た。
随分と時間が経った。
家を出たときは茜色だった空も、すっかり星空になってしまっていた。
家の周り、商店街、学校付近を走り回った。
わずかな期待を込めて海々の携帯に電話してみたけど、やはり留守電のナレーションが流れただけだった。
結局、頼れるのは自分の足だけだった。
近くの公園や、普段は通らない道も走った。
既に息は切れているし、足が鉛のように重くなっている。
ここまで来ると、足そのものが枷に思えてきて、陸の上を這うことしかできない人類を恨めしく思えてしまう。
鳥のように空を飛べたらいいのに。
焦りともどかしさが相乗してそんなことまで考えてしまう。
「海々、海々ーっ!」
叫ぶことで、現実から目を逸らしそうになるのを食い止める。
人間が空を飛べるはずがない。
そんな当たり前のことを心の中で繰り返す。
それでも、足は限界が来ていた。
もはや「重い」という感覚すらなく、ただただ動かなくなった。まるで、足が地面に根を張ってしまったかのように。
両手を膝について、無力感を噛み締めながら息を整ようとする。
「海々……」
無意識のうちに、口からその名がこぼれた。
すると、途端に目頭が熱くなった。
「どこに行っちゃったの……?」
温かいものが頬を伝う。
その雫が地面にこぼれた。
1点だけ濡れた地面を、歪んだ視界ながら認識できた。
それが海々には一度も見せたことのない涙だとわかって、胸の奥底で何かが爆発した。
「海々……、海々ぃ……」
その名を繰り返す。何度も、何度も。
嗚咽が混じって、自分の声が淀んでいることがわかる。
「守るって……、決めたのに……!」
大好きな海々を。大切な海々を。
「わたし、は……」
なんて無力なんだ。
なんて愚かなんだ。
自分の大切なものすら守れない。
「み、み……」
わたしは、
「海々ぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ」
海々を、守れなかった。
一夜が明けた今日、わたしと海々はいつも通りに登校した。
そして校門にだいぶ近付いた頃、わたしは異様な光景に目を疑う。
「なにあれ?」
そう呟いた海々の疑問はもっともだった。
校門から下駄箱までの道を、学校の大量の生徒が二列に並んで形作っていた。
それは、まるで国王が戦場から城に戻ってきたかのような仰々しいものだった。
「みんな! 救世主様が御登校されたぞーっ!」
ひとりの男子生徒がわたし達の姿に気付くと、そう叫んで列になっている全員に知らせた。その瞬間、およそ100人もの人が、200個の目が一斉にこっちを向いた。
思わず腰を引かせてしまいそうになるほど恐ろしい光景だった。
「うわぁ……」
隣の海々は明らかに怯えている。
天皇やら総理大臣はこんなにも不気味な光景を見ているのだろうか。
「とりあえず行こうか……」
海々にそう言うと、すかさずわたしの手を握ってきた。
わたしも思わず握り返す。いつもなら絶対にこんなことしないけど、今だけは海々の手の温もりが欲しかった。
いつまでも立ち止まっているわけにもいかないので、とりあえず校門まで歩いてみる。
そして海々と一緒に校門を跨いだ直後、
『おはようございます、沙理沢様』
地鳴りのような、しかし完璧に揃ったみんなの挨拶がわたしに向けられた。
なんか独裁者にでもなった気分だ。
「ねぇ、これはなんなの?」
わたしはたまらず列の先頭にいた男子生徒に尋ねた。
男子生徒は恭しく一礼して、
「おはようございます。自分は生徒会の会長を務めさせていただいている長谷川と申します」
そう名乗った。別にそんなことは聞いてないんだけど。
「昨日、貴女は生徒会の書記である川村を如何わしい連中から守ってくれたと聞きました。彼女は1年生ながらとても優秀な役員で、将来的には会長を任せられる逸材です。つまり、貴女は我が校の生徒を守り、そして未来をも救ったのですっ」
政治家の演説のように語尾の音を上げて、さらに両手を天に仰いだ。
なんだか怪しい宗教の教祖にも見えるんだけど。
「沙理沢さんっ、最高ですっ。あなたと同じ高校に居られて誇りに思います!」
「学年一の秀才でありながら喧嘩も強いなんて、心から憧れますよ!」
それでも、他の生徒達はそのノリで拍手を送ってきた。
「さぁ、どうぞ、我らが女帝よ。今日も勉学に勤しんでください」
会長は右手を差し出して、生徒によって作られた道を通るよう促す。
わたしは一度海々と顔を合わせて、そそくさとその道を通り抜けようとした。
当然、その道中で声をかけられる。
「あなたこそ、この源水高校の女帝であり、英雄です!」
「はいはい」
「これからも文武両道を貫いてください!」
「一般的には、その場合の『武』ってスポーツのことじゃないの?」
「沙理沢様っ、今日もお肌の調子がいいようでっ」
「あ、なんかちょっとだけ安心した」
教室に着けばさすがに落ち着いた。
校門に並んでいたのは他のクラスや後輩達のようで、うちのクラスにはほぼいつものメンツが揃っていた。
「海々、大丈夫?」
一緒に歩いてきた海々は頷きはしたけど、呼吸のリズムが普段より速い。ただでさえ暑いのに、あれだけ人がいれば熱気もこもる。体が小さい海々にとっては結構辛かっただろう。
「それにしても、昨日のコ、生徒会のコだったんだね」
あの後、綿谷と二宮は5人の男を警察まで運んでいった。
「悪人は罰を受けて、初めて自分の犯した罪を省みるのだ」とは綿谷が残していった言葉。
女の子は相当のショックを受けていて、とても一緒に警察に行ける状態ではなかったので家まで送っていった。幸いにも海々の家からそんなに離れていなかったので、そこまで手間になることはなかった。
女の子の家まで送ると、わたしと海々は深く感謝された。
わたしはそれほどのことはしていないと適当に返し、海々も「海々はなにもしてないよ!」とひたすら首を振っていた。
最後に女の子は「今日のことは学校を挙げて感謝の意を表させていただきます」とか言っていたけど、まさかこんなことになろうとはね。
おそらく、昨日のうちに会長に報告したんだろうな。それで感銘を受けた会長があんなことを立案した、と。
それにしても、たったそれだけのことであんな騒ぎになるなんて。
この学校、なんかおかしくない?
朝のホームルームでもわたしは担任から褒め称えられた。
その時もクラスのみんなから羨望の眼差しを向けられ、再び拍手を浴びることになった。
でも、ここにきて違和感を覚える。
校門での会長の話にも、ついさっきの担任の話にも肝心なことが抜けている。
確かに、わたしは例の女の子を助けようとして、ほとんどの男を倒すことはできた。
でも、女の子が絶体絶命のピンチに陥った時、助けたのは二宮だ。そしてあの喧嘩に終止符を打ったのは綿谷。
つまり、女の子を助けたのも喧嘩を片付けたのも朱漢組だ。わたしじゃない。
それくらいのことは会長も女の子から聞いているだろうし、教師の面々も耳には入っているはずだ。
それなのに、会長も担任も朱漢組の朱の字も口に出さなかった。
さすがに怪訝に思ったわたしは、昼休みに綿谷と二宮がいそうな場所に出向いてみることにした。
その場所は一発で当てることができた。
「よっ。屋上でランチタイムなんていかにも学生っぽいね」
ここで3人が顔を合わせるのは二度目だ。
学ランを来たふたりは地面に座っていて、二宮はペットボトルでお茶を飲んでおり、綿谷はメープルメロンパンを頬張っていた。
……いや、あんた風貌と食べている物にギャップがあるから。
「沙理沢? どうしたんだ、こんなところに?」
先に口を開いたのは二宮。
口から離したペットボトルにフタをして、コンビニの袋にしまう。
「あんたらからの事後報告がないから、わざわざこっちから出向いてあげたのよ」
ふたりはいつものように登校してきて、本当にいつものように過ごしていた。わたしに近付く様子もなければ、話しかけてくる気配なんかさらさらなかった。
いつでも報告を受けられるように、今日は日向ぼっこをしずにずっと真面目に授業を受けていたというのに。
「それは悪かったね」
爽やかマスクの二宮は申し訳なさそうに苦笑しながら話し始めた。
「とりあえず警察に連れて行ったらさ、奴ら、過去にも捕まったことのある前科者だったんだ。ただ、今までは万引きだとかいたずら程度のものだったんだけど、昨日のはそれじゃ済まされないからな。しばらくは外に出て来れないだろうよ」
「へぇ、そうなんだ」
としか言いようがない。元々そんなことを聞くつもりはなかったから。
「ところでさ」
だから、わたしは話を本題に移す。
「あんたら、警察に名乗った?」
尋ねると、二宮はばつが悪そうに顔を伏せた。綿谷は依然とメープルメロンパンを頬張り続けている。
……いや、だから風貌と食べる速度にギャップがあるから。
「そりゃ、名乗ったさ。俺と猛さんの名前も、朱漢組の名前もな。でもな、朱漢組は2年前まで悪名をほしいままに轟かせていたんだ。いい顔はされないさ」
なるほどね。
「それは生徒会も、教師の奴らも同じってわけか」
「あぁ、そうだな」
二宮は表情こそ苦笑いだけど、きっとやり切れない気持ちが一抹あるのだろう、その顔には無念さが見え隠れしている。
無理はないのかもれない。
このふたりはみんなの見えないところで頑張っているのに、それを他の不甲斐ない組員や過去の風評のせいでいつまでも悪者扱いされている。
わたしも先日の頼みごとの件がなければ、会長や担任のように邪険に思ったかもしれない。
でも、今のわたしは違う。
こいつらは頼みごとをする時には礼儀を重んじるし、実際に学校の生徒を守っていた。
それを知っていて、もう悪く思う理由がない。
「じゃあさ、わたしが代わりに褒めてあげる」
「は?」
突拍子のないわたしの言葉に、二宮は目を点にする。
「わたしが褒めてあげるって言ったんだよ。だから、そんなふて腐れんな」
「待て待て。別に俺らは褒められたいからこんなことをやってるわけじゃないし、ふて腐れてもねぇよ」
うんうん。こういう謙虚なところもイメージのプラス要素だね。
わたしは朱漢組風に足を肩幅くらいに開き、両手を体の後ろで組んだ。
「綿谷、並びに二宮。あんたらは昨日の喧嘩シーンにおいて、我が校の生徒のために尽力されました。よってその功績を称え、わたしから賛辞を贈呈する」
なるべく雄々しく言ってあげたつもりだけど、どうだろう。
「は、ははっ」
二宮は笑っていた。
「まさか沙理沢からそんな言葉を贈ってもらえるとはな。感激だよ」
なんか安っぽい言葉にも感じるけど、どうやら本当に喜んでいるようだ。肩が微かに震えている。ずっと黙っていた綿谷も少しは喜んでいるようで、紙パックのストロベリーミルクのストローを咥えながら固まっていた。
……いや、だからあんたの風貌とのギャップが激しすぎるから。
初めて、かもしれない。
わたしは初めてこのふたりと談話をしながら休み時間を過ごした。と言っても、綿谷はわたしと二宮の言葉に相槌を打つだけだったけど。
二宮は中学までモデルガンが好きなだけの普通の少年で、喧嘩なんて1回もしたことがなかったらしい。それでも綿谷の右腕になれたのは、その類まれな狙撃センスが認められたからだそうだ。20メートル以内なら絶対に標的から外さないらしい。
二宮が物陰から敵の不意を突いて、綿谷が一気に畳みかけるのが主流のやり方だとか。そういえば、昨日のやつも正にそれだったね。
そんな話をしているうちに予鈴が鳴った。
「そんじゃ、わたしは中庭に行くよ」
「中庭って。授業はどうするんだ?」
「午前中にみっちり受けたからいいよ」
「いや、時間割ごとに教科が違うが……」
「うるさいなぁ。結果さえ残せばいいんでしょうが」
「む。そういやぁ、沙理沢って学年トップだったよな。忘れてたぜ」
というわけで、途中でふたりと別れようして、
「沙理沢」
綿谷に呼び止められた。
昼休みの間ずっと一緒だったのに、今になって初めて名前を呼ばれた。
「なに?」
振り向いて、綿谷の顔を見上げる。
綿谷はいつものように厳つい表情をしているけど、そこはかとなくいつもより威圧的に感じた。
「最近、ここらじゃ見かけん奴らが源泉町をうろついている。わしらの情報網によれば、わしらくらいの年齢のを捜しているようだ。念のために用心しておけ」
「あぁ、あの張り紙のやつ?」
昨日の奴らのことじゃなかったんだ。
「そうだ。あれはわしらが学校側に頼んで張ってもらったものだからな」
そうだったのか。わざわざご苦労なことで。
「ん、わかった。覚えておく」
そう返すと、綿谷は頷いて教室に向かっていった。二宮も続いていく。
「朱漢組って、独自の情報網なんか持ってたんだ」
そんなことを呟きながら、わたしも回れ右をして中庭に向かった。
日曜日。
わたしは海々と商店街に来ていた。
いつものようにゲーセンに行って、お昼ご飯を食べたら午後はバッティングセンターに行ったり、小洒落たカフェで一息ついたりして過ごした。
夕方の時刻になって、まだ明るい商店街から帰路についた。
海々の笑っている顔、不満顔、舌鼓を打つ顔、汗を滴らせる顔、そのどれもが愛らしく、見ていて幸せな気分になるものだった。
休日に1日中商店街で過ごすのは月に一度くらいしかなく、1日の間で海々のこんなに色んな表情を見られるのは貴重なのだ。それだけに、今日という日を楽しみにしていた。
だけど、今日のわたしは心から楽しめていなかった。
「――ねぇ、碧、聞いてる?」
「……え?」
不意に海々に声をかけられた。
いや、正確には不意じゃない。さっきから海々は話していたけど、わたしが『それ』に気を取られていて聞いていなかっただけだ。
「あぁ、ごめん。ちゃんと聞いてたよ」
「本当に?」
「うん。海々が小さい頃に野良犬にお尻を噛みつかれて、泣きながら病院に駆けつけたらそこは動物病院で診察待ちしていた犬にもお尻を噛みつかれて、泣き喚きながら外に出たら散歩中だった犬にまたお尻を噛みつかれて犬が大の苦手になったっていう話でしょ?」
「そんな話してないよっ」
海々は必死な表情で否定すると、唇を尖らせながら恨めしそうな目をわたしに向けた。
「今日の碧、なんかぼーっとしてる。ずっと何かに気を取られてるみたい」
さすがは海々、鋭い。
「やっぱりわかってた?」
「もちろんだよっ。碧のことならなんでもわかるもんっ」
何の迷いもなく小恥ずかしいことを言われると、こっちが照れてしまう。
「で、何をずっと気にしてたの?」
首を少し傾げて、物欲しそうな目で見つめてくる海々。
こんな殺人的な仕草をされては、わたしは答えないわけにはいかない。
「ん、実はね」
「うん」
「海々って、この歳になってもまだブルマなんか穿くんだなぁ、と思って」
そう言った直後、海々の顔が真っ赤になった。
「え、えっ……、えぇっ」
海々は慌てふためきながらミニスカートを手で押さえた。
そう、今日の海々はミニスカだ。
確かに夏のミニスカは気分がいい。ズボンと違って動きやすいし、蒸れないし、何より風通しがいい。女からしたら正に夏の制服だ。
だけど、海々はゲーセンでもぐら叩きをする際にぴょこぴょこ飛び跳ねるし、バッティングセンターでもフルスイングしていた。すると必然的にスカートは舞うわけで。
こうなれば普通はパンツが見えるはずなんだけど、驚くことにそのパンツは真っ黒だった――と思いきや、実際は懐かしきブルマだった。
中学校の制服の下に穿くことはあったけど、私服のミニスカの下にブルマを穿くのは少数派だと思う。
「な、なんで見るのっ、碧のえっち!」
更に驚くことに、海々はまるで好きな男の子にパンツを見られた小学生のように紅潮した顔で非難してきた。
「『見えた』のよ。わたしだって見たかったわけじゃないんだから」
というのは嘘で、ゲーセンで垣間見えた時は本当に黒いパンツを穿いているのかと思って、午後はわたしがバッティングセンターに行くことを提案してわざとパンツを見やすい条件を揃えたのだ。
「それに、パンツを見られたくないからブルマを穿いてんでしょ? だったらブルマ見られたくらいでそんなに取り乱さなくてもいいと思うけど」
「それでも恥ずかしいものは恥ずかしいのっ」
海々はわたしに背を向けて、さっきよりも速いペースで前を歩いていく。
そんな仕草が相変わらず可愛くて、思わず口元が綻んでしまうほどだった。
でも、すぐにわたしは顔を引き締める。
そして目だけを動かして、本当に気を取られていた『それ』を見た。
……まだいる。
最初に気付いたのはふたりで家を出た直後だった。『それ』は物陰からわたし達のことを監視していて、今に至るまでずっと尾行してきている。
灰色のスーツを着て、目深にウエスタンハットを被っている。そのため顔はしっかりと見えないけど、だいたい中年くらいの男だった。
わたしがその存在に気付いていることは向こうにも気付かれているようで、だからと言って開き直ったりこそこそしたりするわけでもなく、あくまで自然を装って監視を続けている。熟練の刑事とか探偵じゃない限り、不審人物だと見抜くのは難しいかもしれない。これらのことから、ただのストーカーじゃないということは容易に判断できる。
わたしにはその男が何者か全く見当もつかない。
でも、先日の綿谷の言葉を思い出す。
『最近、ここらじゃ見かけん奴らが源泉町をうろついている』
それがこの男のことなのだろうか。
だとしたら、本当にその男ひとりなのかわからないわたしは、下手に動くことができない。
海々を危ない目に遭わせてしまうかもしれない以上、慎重に考えらなければならなかった。
「碧、どうしたの?」
海々はわたしにとって1番大切な友達だし、心から愛おしく思える存在。
「ねぇってば」
もしかしたらわたしの勘違いっていう可能性もあるけど、それでも確証はない。
「碧っ」
だから、注意を怠るわけにはいかない。
「あーおーいっ」
「……ん? 呼んだ?」
気付くと、海々は目の前に立っていて、覗き込むようにわたしに顔を近付けている。
「ずっと呼んでたっ」
咎めながら言い寄ってくるものだから、顔が近付き過ぎていることを気にしていないのだろう、今のわたしの視界は、上は海々の眉毛、下は唇が入るか入らないかくらいだ。相当近い。
「今日の碧、やっぱり変だっ」
ついでに言えば、唾が容赦なくわたしの顔に飛びかかる。
「未だにブルマを穿いてる海々に言われてもなぁ」
「なっ、そ、それは関係ないでしょっ」
「そこで顔を赤くするのも変だよ」
「むぅ……」
誤魔化してばかりのわたしに対してもどかしさを感じているのか、納得いかない様子ながらようやくわたしから顔を離した。
「ありがとう、海々」
「……え?」
あまりにも唐突にそんなことを言われた海々は、従来よりもワンテンポ遅れて反応した。
「海々はいいコだから、本気でわたしのことを心配してくれてるんだよね。だから、お礼を言ったの」
努めて爽やかに言うと、海々はさっきよりも不満顔になった。
「碧、ずるいよ。そんな風に言われたら、これ以上何も言えなくなっちゃう」
まぁ、それが狙いだったのだけど。
でも、心配してくれる海々に感謝しているのは嘘じゃない。
「ずるいかもしれないけどさ、本当に大丈夫だから」
海々は依然と不満そうだったけど、それ以上は何も言わずに黙って頷いてくれた。
そしてわたしと肩を並べると、何の気兼ねもなくわたしの左手を握ってきた。
「あのさ、こんな暑い日に手なんか握ると汗ばむよ?」
「そんなの関係ないよ。海々が繋いでいたいんだもんっ」
ついさっきまで見せていた表情は既に跡形もなく、そこには屈託なく笑う海々の幸せそうな顔があるだけだった。
釣られるようにわたしも笑って、つくづく思う。
やっぱり海々はいいコだ。こんなにもいいコな海々を、わたしは守ってあげたい。
海々に降り注ぐ危険や痛みは避けさせてあげたい。それが叶わないのなら、それら全てをわたしが背負ってあげたい。
わたしが身代わりになってあげたい。
嘘じゃない。
海々のためなら、この命だって惜しくない。
……嘘じゃない。
商店街を抜けて、ようやく西の空が赤みを帯びてきた。肌を刺すような日差しもだいぶ和らいできている。
わたしと海々はまもなく家に着こうとしていた。
「んー、今日ももうすぐ終わるねぇ。明日からまた学校かぁ」
わたしは歩きながら伸びをして、手が握られてない方の右手を頭上に伸ばす。
「あれ? 碧って学校嫌いなの?」
「いや、高校生活はそれなりにエンジョイしてるけどさ、今日みたいに楽しい時間を過ごすとどうしても、ね」
そう言うと、海々が照れながら顔を綻ばせた。
「きょ、今日、楽しかった?」
夕日以外に顔を赤く染めながら、わたしの顔を覗き込んでくる。
「もちろん。海々とのデート、最高に楽しかったよっ」
迷いなく答えて、わたしは親指を立てる。
「海々も、碧と遊べて楽しかった! また行こうねっ」
向日葵のような笑顔を咲かせる海々。
わたしまで頬を赤くさせそうになる。この笑顔は凶器に近い。
「それなのに……」
わたしは心から感動に浸ることはできない。
結局、今日は最初から最後まで男に尾行されていた。
今も尚、姿は見えないけど視線を感じる。どこか物陰から覗いているのだろう。
「ん? 何か言った?」
「いや」
だからと言って、海々に心配をさせるわけにはいかない。
とりあえず、今日は何もなかったということでよしとする。これについては後々考えればいい。
何なら、明日学校で綿谷か二宮にでも聞くのもありだ。何か新しい情報を仕入れているかもしれない。
それにしても、まさかあのふたりを頼ることになるとはね。人生何が起こるかわからない。
「ほら、着いたよ、海々」
「うん。今日は結構動いたから疲れちゃった」
門をくぐって、海々と一緒に家の中に入った。
「ただいまー」
玄関でお決まりの挨拶をすると、キッチンの方から「おかえりー」と明音さんの声が聞こえてきた。
包丁とまな板がぶつかる音がリズム良く聞こえることから、明音さんが夕飯を作っているようだった。
わたしは明音さんを手伝おうと思ってキッチンに歩を進めると、
「碧」
背後から海々に制止される。
「なに?」
振り返ると、碧は何故か誇らしそうに笑みを浮かべていた。
「またお母さんを手伝おうとしたでしょ?」
「それが?」
「海々だって手伝うくらいはできるんだからねっ。だから今日は海々が手伝うよっ」
言っていることはわかるけど、海々の言いたいことがよくわからない。
「だからどうしたの?」
海々は不満そうに頬を膨らます。
「だから、碧はシャワー浴びてきなよ。お母さんの手伝いは海々がやるから」
「え?」
予想外の海々の言葉に、わたしは思わず聞き返してしまった。
確かに今日は汗をかいたからシャワーは浴びたいけど、海々に明音さんの手伝いを制されたのは初めてだった。いつもはわたしが手伝っていると、そのうち海々が混じって一緒にやるのがパターンになっている。
「いつもみたいにふたりでやればいいじゃない。わたしだって明音さんを手伝いたいし」
わたしは食い下がったけど、海々は頬を膨らませたまま首を振った。
「いつも碧にやってもらってるから、たまには海々だって手伝いたいの!」
ついに語気を強めると、わたしが何かを言う前にさっさと2階に上がっていった。
しばらくして廊下に戻ってきた海々の手には、わたしの寝間着であるTシャツとハーフパンツが持たれていた。
「海々?」
「はいっ、しっかり汗流してきてね!」
首を傾げるわたしに無理矢理服を持たせ、半ば押し込まれるように洗面所に追いやられた。
「それじゃ、ごゆっくりー」
笑顔で言った海々はわたしに有無を言わせぬままドアを閉めた。
洗面所のドアはすりガラスが張られているため、海々の顔がモザイク状にぼやける。
「んー……」
なんなのだろう。
海々は明音さんを手伝いたいとは言っていたけど、それだけでわたしを追いやるのは納得がいかない。手伝うだけならふたりで一緒にできる。
それとも、普段はわたしが手伝うことが多いから、明音さんに感謝されているわたしに嫉妬しているのだろうか。たまには明音さんに褒められたいのだろうか。
……いや、それはきっとない。
明音さんはちゃんと海々のことを可愛がっているし、海々もそれはわかっている。何より、海々は嫉妬するようなコじゃない。それは間違いない。
だとすれば、あと考えられるのは、海々が明音さんとふたりになりたがっている、というところだろうか。親子で何か話し合いたいことがあって、それでわたしを無理矢理キッチンから引き離したのだろうか。
そうだとしたら、わたしがその親子の時間を邪魔するわけにはいかない。
海々も明音さんも大好きだし、ふたりもわたしのことを良く思ってくれている。でも、わたしはあくまで他人。ただの居候だ。親子の間に入り込めない境地だってある。少し悲しいことだけど、その辺りはちゃんと割り切っているつもりだ。
「ま、そういうことなら海々の厚意を甘んじて受け入れますか」
わたしはそれ以上考えず、シャワーを浴びることにした。
外が明るいうちのシャワータイムは、夜のものとは雰囲気が全く別物で不思議な感覚に陥る。電気ではなく夕日に照らされた浴室で、日焼けした体から汗を洗い流していった。
さっぱりしたわたしはドライヤーで髪を乾かして、海々と共同で使っている櫛で梳いた。
洗面所から出て、まず2階に上がった。
押入れからしまってあった布団を2式取り出す。と言っても、今は敷布団とタオルケットと枕だけだけど。
それらを部屋の中央に並べて敷いて、タンスから明日履く靴下を出して枕元に置いた。
「よし、と。そろそろ行ってもいいかな」
普段は風呂上りに布団を敷いたり明日の準備をしたりしないけど、洗面所からキッチンに直行するのは気が引けた。
海々と明音さんがまだ話し終えていないかもしれないからだ。
ふたりがどういう話をしているかわからないけど、いくら故意ではないにしても親子の会話を聞いてしまっては申し訳ない。
だから、キッチンには直行せずに寄り道をした。
わたしは部屋を出て階段を下りると、閉まっているキッチンにドアにそっと耳を寄せてみる。
中からは食器を並べているような音は聞こえる。話し声は聞こえない。
どうやら会話はもう終わっているようだ。これで安心して中に入れる。
「1番風呂、ありがとうございました」
ドアを開いて、そう言いながら明音さんに軽く頭を下げた。
明音さんは優しい笑顔を浮かべながら「いいえ」と返してくれた。
中は冷房が効いていて、風呂上りということもあってより心地いい。
「……あれ?」
でも、すぐに違和感に気付く。
「海々はどうしたんです?」
キッチンには食器を並べている明音さんがいるだけで、キッチンにも隣のリビングにも海々の姿はなかった。
「あら、ふたりでお風呂に入ってたんじゃないの?」
明音さんは目を点にした。
「ふたりが帰ってきたのは知ってたけど、こっちには1回も来てないわよ? てっきり、またふたりでお風呂に入ってたのかと思ってたのだけど」
わたしをからかっている様子はない。
確かに、たまにふたりで風呂に入ることはある。この歳にもなると少しは恥らう気持ちがあるけど、海々はそういうものは一切気にしない。
「いえ、シャワーはわたしひとりで入ってたんですけど……」
「あらあら、そうだったの。じゃあ部屋にでもいるのかしら」
明音さんはそう言うけど、部屋にはついさっき行ってきたばかりだ。
「それはないです。さっき行ってきましたから」
「あ、そういえば足音が聞こえてわ。だったら、どこに行っちゃったのかしらね」
顎に人差し指を添えて、明音さんは「んー」と考え始める。
わたしはシャワーを浴びる前の海々を思い出してみる。
海々は自分が明音さんを手伝うと言って、わたしを無理矢理洗面所に押し込んだ。
その様子は明らかにおかしかったけど、わたしは明音さんとふたりで会話をしたいのだと判断した。
だからわたしを、キッチンから遠ざけた。
「……いや」
違う。
海々はわたしをキッチンから遠ざけたのじゃない。
わたしを自分――海々から遠ざけたのだとしたら?
親子との会話を聞かれたくなかったのではなく、少しの間わたしに離れていて欲しかったのだとしたら?
仮定を挙げて、更に考える。
では、その理由は?
何のために、わたしを遠ざけた?
何のために、わたしの動きを封じた?
わたしを海々から離して、しばらく動けない間に何がしたかった?
「――まさか」
最悪の予感が頭の中をよぎった。
首筋を刃物で逆撫でされたように、悪寒と不安が押し寄せてくる。
「まさか……、嘘……」
わたしはバカだ。
海々の第6感は人並以上に鋭い。気配を察する能力に秀でている。
それを知っていたのに。
「碧ちゃん? どうかしたの?」
海々は気付いていたんだ。
今日、1日中尾行していたあの男に。
わたしが気付いて、海々が気付かないはずがないのに。
でも、どうして。
どうして、わたしを誘わなかった?
どうして、ひとりで行っちゃったの?
どうして、黙って行っちゃったの?
「明音さん」
様々な疑問が頭を駆け巡る。
様々な疑念が胸を締め付ける。
「わたし、海々を捜してきます!」
「えっ、何がどうなってるのっ」
明音さんにちゃんと説明しないのは失礼だ。それはわかっている。
でも、今はそんな悠長なことはしていられない。
冷静さを欠いていることも、うまく思考が回らなくなっていることも自覚している。
こういう時こそ、本能の赴くままに行動せず、冷静に考えて動かなければならない、という常套句があることも知っている。
それでも、わたしは走り出さずにはいられなかった。
海々にもしものことがあったら――。
帰りの遅い子供を心配する親もこういう気持ちなんだろうか。
わたしはキッチンから飛び出るように廊下に出ると、2段飛ばしで階段を駆け上がる。そこで滅多に使わない携帯電話を手に持って、ほぼ無心のまま外に出た。
随分と時間が経った。
家を出たときは茜色だった空も、すっかり星空になってしまっていた。
家の周り、商店街、学校付近を走り回った。
わずかな期待を込めて海々の携帯に電話してみたけど、やはり留守電のナレーションが流れただけだった。
結局、頼れるのは自分の足だけだった。
近くの公園や、普段は通らない道も走った。
既に息は切れているし、足が鉛のように重くなっている。
ここまで来ると、足そのものが枷に思えてきて、陸の上を這うことしかできない人類を恨めしく思えてしまう。
鳥のように空を飛べたらいいのに。
焦りともどかしさが相乗してそんなことまで考えてしまう。
「海々、海々ーっ!」
叫ぶことで、現実から目を逸らしそうになるのを食い止める。
人間が空を飛べるはずがない。
そんな当たり前のことを心の中で繰り返す。
それでも、足は限界が来ていた。
もはや「重い」という感覚すらなく、ただただ動かなくなった。まるで、足が地面に根を張ってしまったかのように。
両手を膝について、無力感を噛み締めながら息を整ようとする。
「海々……」
無意識のうちに、口からその名がこぼれた。
すると、途端に目頭が熱くなった。
「どこに行っちゃったの……?」
温かいものが頬を伝う。
その雫が地面にこぼれた。
1点だけ濡れた地面を、歪んだ視界ながら認識できた。
それが海々には一度も見せたことのない涙だとわかって、胸の奥底で何かが爆発した。
「海々……、海々ぃ……」
その名を繰り返す。何度も、何度も。
嗚咽が混じって、自分の声が淀んでいることがわかる。
「守るって……、決めたのに……!」
大好きな海々を。大切な海々を。
「わたし、は……」
なんて無力なんだ。
なんて愚かなんだ。
自分の大切なものすら守れない。
「み、み……」
わたしは、
「海々ぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ」
海々を、守れなかった。
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