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第1章
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第1章
わたしの名前は沙理沢碧。1番仲がいい友達は杞蕾海々。ともに高校2年生。
「おはようございます、明音さん」
「おはよう、碧ちゃん」
制服に着替えたわたしはキッチンに顔を出すと、海々のお母さんである明音さんがてきぱきと動いていた。
「手伝います」
「ごめんねぇ。じゃあお箸出してもらっていいかしら」
「お安い御用です」
言われた通りに食器棚から3人分の箸を出して、それをキッチンテーブルに並べられていた皿の前に置いていく。
「ありがとうね、私がもうちょっと早く起きていれば手伝ってもらわずに済んだのだけど」
「いえいえ、居候なんだから当然ですよ」
申し訳なさそうに言った明音さんに、わたしは快活に返した。
元々はアパートで下宿していた。でもなかなか生活が大変で、そのことを軽い気持ちで海々に話したら、海々の家で暮らすことを猛烈に勧められた。
最初はもちろん断ったけど、生活が大変なのは事実だったし、何より海々と一緒にいられるのが嬉しかった。
申し訳ない気持ちはあったけど、わたしは海々の厚意に甘えることにした。
明音さんもすごくいい人で、快くわたしを受け入れてくれた。
ここに居候させてもらい始めたのが6月だったから、もう1年以上も住み着かせてもらっていることになる。最初は遠慮しがちだったわたしも、今では常識の範囲内で明音さんに甘えることができるようになった。明音さんの方も、わたしを海々とほとんど同じように良くしてもらっている。
だから、明音さんはもちろん、海々には感謝している。
「それにしても、海々ちゃんはまだ寝てるのかしら」
明音さんは呆れたような口調で天井を見る。正確には、わたしと海々の部屋。
「わたしが起きたときにも声はかけたけど、もしかしたら二度寝したかもしれないです」
「まったく……。ちょっと起こしてくるから、碧ちゃんは先に食べててちょうだい」
「あ、わたしが起こしに行きますよ」
そう言ってキッチンから出ようとするけど、明音さんの手に遮られる。
「いいのよ。碧ちゃんだとすぐ甘えるから、たまには私ががつんと言わないと」
人差し指をわたしの口元に置くと、ウインクをしてキッチンから出て行った。わたしはその背中を見送る。
明音さんはそろそろ40歳になると聞いたけど、とてもそうは見えない。若々しい肌といい、さっきの仕草といい、多く見積もっても20代後半だ。軽くウェーブをかけた長い髪が上品さを出して、今でもナンパされることがあるらしい。
こんな人が親なら、海々が異様に幼いのも少し納得してしまう。やっぱり血なのかな。
わたしはテーブルの椅子に腰かけた。先に食べていていいと言われたとはいえ、さすがにそれは気が引ける。なんとなく制服のリボンを結び直して、テーブルの上に並べられた朝食を眺めた。明音さんが作ってくれた食事が3人分。
そう、3人分だ。
わたしと、海々と、明音さん。
この家には父親がいない。詳しい話は聞いていないけど、海々の記憶にないほど小さい頃に亡くなったとか。だから明音さんが働いている。わたしと海々が登校したちょっと後に出勤して、わたしと海々が帰ってくるちょっと前に帰宅しているらしい。だから、わたしと海々が家にいる時間帯にはいつもいてくれている。
そんな明音さんがいてくれるから、海々も父親がいなかったことを寂しいと思ったことはないらしい。わたしは両親が揃っていたけど、明音さんみたいな人がお母さんなんて心から羨ましく思ってしまう。
「あら、先に食べててもよかったのに」
気付くと、明音さんがキッチンに戻ってきていた。
「そういうわけにはいかないですから」
明音さんに遅れることおよそ10秒、ようやく海々が顔を出した。どうにか制服に着替えられたみたいだけど、その足取りはどうにも覚束ない。
「おはよ、海々」
「うん、おふぁあぁぁぁああああああ」
「なに? 海々ちゃんの新しい挨拶?」
海々は口を全開にしながら首を振る。
「……ふぅ。違うよぉ、『おはよう』って言おうとしたらあくびがでてきたの」
頬を赤らめてはにかむ海々。
海々は朝が弱く、スイッチが入るまで時間がかかる。
「そんなんで今日のテスト大丈夫なの? 今日は数学と世界史だよ。ちゃんと公式とか単語とか覚えてる?」
ホントはテストなんかないけど。
「え? 何言ってるの、碧? 今日はテストじゃないよ」
海々は目をぱちくりさせて言う。
「海々、今日は何月何日?」
「えっと、9月9日」
お、正解。
「じゃあわたし達が住んでる町の名前と、通ってる学校の名前は?」
「んー、住んでるのは源水町で、通ってるのは源水高校。源水高校は設立60年くらいで、全校生徒が408人」
ちゃんと答えるなんて珍しいなぁ。しかも聞いてないことまで答えたし。
今日は比較的冴えているのかな。
「今日のテストの科目は?」
「数学と……、あ、世界史だ」
少し迷いながらも、海々はちゃんと答えた。
「しっかり勉強した?」
「もちろん、し……」
そこまで言って、海々の血の気が引いていくのが見ていてわかった。
「う、うわあぁぁ、全然してないー!」
海々は頭を抱え、床にしゃがみこんだ。
「えぇっ、全然してないのっ」
わたしのわざとらしい言い方に、海々はさらに煽られる。
「どうしよーっ! 世紀の大ピンチー!」
「あーあ。赤点なんか取ったら明音さん、さぞかし悲しむだろうなぁ。ねぇ、明音さん?」
「そうねぇ。泣いちゃうかも」
くすくすと笑みをこぼしながら乗ってくれる明音さん。
「いやだー! お母さんの泣いてるところなんて見たくないよぉ!」
「だったら、いい点取らなきゃね」
「それも無理ー!」
「じゃあ、これからはちゃんとテスト前は勉強しなきゃね」
「そうだけど……、そうなんだけどぉ……」
「ま、どのみち今回のテストはもう終わったね」
「うわああぁぁぁ!」
しゃがんだまま身悶えする海々。
さて、もう目は覚めたでしょ。
「それじゃ、いただきます、明音さん」
「えぇ、おあがりください」
わたしは箸を手に持って、朝食を食べにかかった。
「碧はなんでそんなに落ち着いてるのーっ。もしかしてみっちり勉強した?」
海々は若干涙目でそう尋ねてくる。
「いや、全然」
むぅ、と海々は唸った。
「やっぱり碧はすごいなぁ……。特待生だから勉強しなくても余裕なんだね」
「何が?」
「だからテストだよっ」
「さっきから何言ってんの?」
「……え?」
ようやく、海々が落ち着きを取り戻した。
「あ、あれ……?」
思考がうまく整理できていないようなので、仕方なく助け舟を出してあげる。
「海々、今日は何月何日?」
「9月、9日」
海々は頭の中で確認しているのか、一拍の間を置いて答えた。
「中間テストは10月だよ」
「そう、だよね」
「うん」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙。
「海々ちゃん、早く朝ごはん食べなさい」
何事もなかったかのようにそう言った明音さんの言葉に海々は、
「あれーっ!」
再び頭を抱え、床にうずくまった。
明音さんの笑顔に見送られ、わたしと海々は一緒に家を出た。
ここから学校までは歩いて20分ほど。わりと近い方だと思う。
「もう。朝から心臓に悪いことはやめてよぉ」
わたしの隣を歩く海々はまだ拗ねていた。
「あっはっは。でも、目はちゃんと覚めたでしょ?」
「そうだけどぉ」
納得できないのだろう、その頬は膨れている。
「その顔も可愛いなぁ」
「え、なに?」
感慨深げに言ったわたしの言葉に、海々は意味を理解できずに小首を傾げる。
「いや」
なんでもないないよ、とわたしは首を振った。
「それにしても、今日もいい天気だね」
ただ歩いているだけなのに、汗が止まることなく滴り落ちてくる。
わたしは夏休み中にだいぶ日焼けしたけど、海々は白に近い肌色を保っている。
「うん、今日も暑いねー。……あ、そうだ」
海々は何かを思い出したようだった。
「夏と言えば、やっぱ宇宙船だよね」
無邪気な笑顔。
いきなりそう言われて何のことかわからなかったけど、
「あぁ、あれね」
思い出した。
わたし達の住む源水町は、一時は全国に名が知られていたらしい。
『宇宙船が墜落した町』として。
今から十数年前、源水町に宇宙船が墜ちた――らしい。
わたしは元々隣の県出身だから詳しくは知らないけど、夏のある日の夜中に大地震が源水町を襲ったかと思えば、町の郊外で「真っ赤な煙」が立ち昇っていた。それで町の人が急いで駆けつけたところ、そこにはUFOでも飛行機でもない、言葉では言い表せない形状の物体が「青色の炎」に包まれていたらしい。それを目撃していた人の話によれば、それは「別世界の風景だった」とか。
幸い、田んぼや畑の真ん中に墜ちたから奇跡的に犠牲者は出なかったものの、そこには直径100メートルほどのくぼみが残った。
ただ、これについて専門家や評論家はテレビでいくつか不審な点を挙げていた。
一つは、その時の状況を表す物証が一つも残っていないこと。青い炎はしばらくして鎮火したけど、そこには何も残っていなかったという。宇宙船の欠片はおろか、灰や墨すら残らなかった。色んな人が調査したけど、痕跡は全く見つかっていない。
そしてそのくぼみは、数日が経った朝には湖になっていたらしい。確かに、その辺りは田んぼが密集していたから水源はあるものの、水路も引かずに水が満たされるわけがない。これには町の人も唖然とするしかなかった。
さらには、観測所や人工衛星の記録に何も残っていなかった。宇宙船が墜落したということは、当然、宇宙のどこかしらからやってきて、大気圏を突破して、はるばる源水町に墜ちたということになる。でも、レーダーには何の反応もなく、宇宙船の影らしきものは一切映っていなかった。
というように、物理的・論理的に考えれば不可思議な点が多すぎる。調査や研究も全く成果が出ず、調査チームは頓挫した。そしていつしか、この話は人々の記憶から薄れていった。
宇宙船の墜落地点を一目見ようと訪れていたたくさんの観光客も、今では誰も来なくなった。
今では源水町の外れに「源水湖」という名前の湖がぽつんと佇んでいるだけ。
「でも、この話もだいぶ都市伝説化してるよ」
実際そうなんだけど、海々は全く気にしていない。
「別にいいよっ。海々は信じることに意味があるんだと思ってるもん」
「意味って、なんの?」
「なんだかわくわくしない? こういう話ってロマンを感じるっ」
相変わらず楽しそうに話している。
「んー」
まぁでも、その気持ちはわからなくもない。
「確かに、こういう話ってホントかどうかわからないから面白いんだよね」
「そうっ。その通り!」
ツチノコとかネッシーだって、本当に存在するかわからないからみんな追い求めるんだし、いるってわかっちゃったら、その時点で海々曰くロマンなるものを感じられなくなる。
「じゃあ、もし海々が宇宙船を発見したらどうしたい?」
「そうだなぁ。とりあえず、宇宙人に会いたいな」
「え、マジ?」
「うんっ」
「エイリアンみたいに気持ち悪いんじゃない?」
「それは先入観だよ。もしかしたら、ウサギみたいにものすごく愛らしい姿かもしれないよ?」
まぁ、確かにそうかもしれないけど。
「いくら容姿がウサギでも、根は猛獣並みに凶暴かもよ」
「んー?」
いまいちわかってないようだから、わかりやすく説明してあげる。
「地球のウサギは可愛くて心癒される動物だけど、宇宙のウサギもそうとは限らない。人間を食べちゃうかもよ。海々なんて見るからに美味しそうだから、ヨダレもんじゃない? 鷲のような鋭い爪とクマのような怪力で海々の体を引き裂き、セイウチのような巨大な牙とサメのような強靭な顎力で骨を噛み砕き、ハイエナとカラスを合わせたようなその残忍さで無惨な姿になった海々を喰――って、どうしたの?」
海々は目をぎゅっと目を瞑り、手で耳を塞いでいた。かなり力を入れているのだろうか、その手がぷるぷる震えている。
「おーい、海々、何やってんの?」
呼びかけるが、耳を塞いでいる海々に届くわけがない。仕方ないから海々の肩を揺すった。
わたしの手が触れると、海々の体がびくっと震えた。
「じゅ、じゅうはっきん!」
意味がわからない。
「18歳未満禁止! グロデスクな描写は18歳未満禁止!」
……あぁ、そういえば。
「ほらほら、もう何も言ってないよ」
怪談はもちろんのこと、殺人事件のニュースを見ている時でさえもこんな風に見ず聞かずの姿勢をとっていたのを思い出した。
わたしは海々の頭を軽く撫でてやる。
「むぅ?」
海々は片目を開き、わたしの様子を窺ってくる。怖い話は絶対に聞くまい、と言わんばかりに警戒していた。
「大丈夫だって」
笑顔でそう言うと海々はため息をつき、ようやく耳から手を離したけど、
「でね」
「じゅうはっきんー!」
目で追えないスピードでまた耳を塞いだ。まだ「でね」しか言ってないのに。
「じゅうはっきんー!」
でも、こんなに怖がるなんて、本当に可愛いなぁ。
「じゅうはっきんー!」
気付くと、校門がすぐそこまで迫っていた。
「海々、着いたよ」
「じゅうはっきんー!」
まだ言っているし。っていうか、他の生徒が何事かとこっちを見てるんだけど。
このままだと私が変なことをしたと誤解を与えてしまいそうだから、そうならないようにしておこう。
わたしは声を張り上げた。
「海々っ、今日一緒に映画でも観に行こうかっ。何が観たいっ」
「じゅうはっきんー!」
誰にだって学校での憂鬱な時間はあると思う。
スタイルに自信がないコにとっては水泳の授業がそうだろうし、同じ学校の彼氏とずっといたいなんて思っているコにとっては下校時間が当てはまる。
わたしの場合は、朝の下駄箱から教室に着くまでの時間がそれだ。
「沙理沢先輩、おはようございますっ」
「ちす」
「沙理沢さんっ、昨日はお疲れ様でした!」
「はいはいありがと」
「沙理沢様っ、今日もお肌の調子がいいようでっ」
「意味がわからん」
あぁ、鬱陶しい。
廊下を歩いているだけで、ほとんどの生徒から挨拶をされる。それも、明らかな作り笑顔で。
なんでだろう。素通りすると因縁づけられるとでも思っているのか?
「へへー」
なのに、隣の海々は屈託のない笑顔でわたしを見ていた。
「なに?」
「いや。相変わらず碧はすごいなぁ、って。海々が歩いてても誰も声なんかかけてこないよ」
「むしろそれが普通なんだけどね」
そもそも、わたしが女帝と称されていることさえ不本意なのに。
去年の4月、入学早々海々が朱漢組に絡まれていた。当時はそんなに話したことはなかったけど、出席番号がわたしのひとつ前だから顔見知りではあった。朱漢組の連中は4人いて、それを撃退して海々を助けたらいつの間にかそんな風に呼ばれるようになっていた。ただ同じクラスのコを助けただけなのに。
「ふぅ」
2年1組の教室に入ると、ようやく一息つくことができた。わたしは自分の席である真ん中の1番後ろに座った。海々も窓際の後ろから2番目の席に座る。
この席はいい。何故なら海々を観察できるから。海々の授業中の様子は実に愛らしい。
黒板を真剣に見つめる視線。ノートを必死に書き写す手の動き。時々かみ殺すあくび。ぼーっと窓の外を眺める虚ろで無防備な顔。そのどれもがわたしを癒してくれる。
そんなことを考えていると、わたしの前に学ラン姿の男子生徒がやってきた。
「よっ、沙理沢」
そう爽やかに挨拶をしてきたのは、男子では唯一わたしに気軽に話しかけてくる二宮希祐だった。朱漢組の中ではわりとまともな方で、その甘いマスクと爽やかな性格からか、一部の女子から人気があるのを知っている。
その反面、朱漢組では実質のナンバー2らしく、綿谷の右腕でもあるとか。とてもそんな風には見えないけど。
「昨日はうちのアホが迷惑をかけたようだな。そいつらに代わって謝るよ」
二宮は苦笑しながらそう言って、軽く頭を下げた。
「『朱漢組は弱きを助け、強きをくじく』だっけ?」
「そう。ただの不良集団だったのは、もう2年前の話さ」
爽やかな笑顔で、何故か自慢げに言ってきた。
それにしても、「2年前」というワードは初めて聞く。
「じゃあ去年に何かあったの?」
わたしが尋ねると、二宮はその質問を待っていたかのように話した。
「俺達の入学さ」
「わたし達の入学?」
「そう。正確には、猛さんの入学」
「ふうん?」
「猛さんはこの高校に入学して、いきなり朱漢組の組長を倒したんだ。そして、そのまま朱漢組を我が物にした。それで、朱漢組を弱きを助け、強きをくじく集団にしたんだ」
「別に自分で立ち上げればよくない? なんで乗っ取る必要があったの?」
「『弱さを守るには強さが必要』と猛さんは言っている。だから、そこそこ喧嘩慣れしてる奴らをそのまま舎弟にしちまえば、育てる手間が省けたからじゃないか。それに、当時の組長を倒しちまえば自分の強さを証明することもできるだろ? 今では『皇帝』なんて呼ばれてるしさ」
あくまで爽やかに言うけど、なんか納得できるようなできないような微妙な感じ。
「それでも、今まで好き勝手にしてきた奴らがそんな改革に従うわけがない。だから、時々問題を起こす輩も出てくるんだ」
本当は朱漢組のエピソードにそこまで興味がなかったわたしはふーん、と生返事だけをして、それよりも気になっていた疑問をぶつけた。
「ところで、なんで学ランにリーゼントなの?」
この高校に入学しておよそ1年半、ずっと抱き続けていた疑問だった。
リーゼントに学ラン姿の二宮は苦笑いを隠さずに教えてくれた。
「これは猛さんの信条らしい。『男なるもの、洋服なんかで身を包むな!』って。リーゼントも男の象徴だとさ。猛さんの親父さんも昔は結構怖かったらしい」
なるほど。あいつが言うと妙に納得できるなぁ。
「あ、もうひとつ。だからといって、なんで弱い者を助ける集団にしたの? 見た目は明らかにただの不良なのにさ」
「さぁ、それは俺も聞いてないんだ。俺はただ、猛さんの理念に感銘を受けたから一緒にいるだけだし」
そっか、と頷く。
すると、教室の前のドアから綿谷が登校してきた。
「そんじゃな」
二宮はそれを認めると、爽やかに笑顔を振りまいて自分の席に戻っていった。あいつといると今が夏だということを忘れてしまいそうになる。
「おはようございますっ」
「おう」
ふたりのそんなやり取りをぼーっと見ているうちにチャイムが鳴り、やがて担任が入ってきた。
担任は連絡事項をさっさと伝えてはすぐに出ていった。わたしは鞄から教科書とノートを取り出そうとしていると、近くの女子の会話が聞こえてきた。
「今日も暑いねー」
「だよねー、もう汗でびしょびしょだよ」
「でも、今日は昼から曇るらしいよ。少しはマシになるかもね」
「マジでっ」
思わず会話に割り込んでしまった。
女子は予想外の横槍に驚きつつも、ぎこちない笑顔で答えた。
「う、うん。天気予報でそう言ってたから。今日は晴れのちくもりなんだって」
知らなかった。だったら、こんなのんきに授業の準備なんかしている場合じゃない。
わたしは立ち上がり、教室の後ろのドアから出ようとした。
「おい、どこに行く気だ」
でも、廊下側の一番後ろの席に座っている綿谷に呼び止められる。
この瞬間、教室の空気が凍った気がした。
「裏庭だよ」
わたしは立ち止まり、怯まずに吐き捨てるように答えた。
二宮は綿谷のことを随分と尊敬しているようだけど、わたしとこいつは仲がいいわけではない。というのも、朱漢組のおかげで海々が何回も怖い目に遭っているからだ。綿谷自身は関係ないけど、やっぱり組長のこいつにはどうしてもいい印象は持てない。
「もうすぐ授業が始まるぞ」
「知ってるよ」
「昨日に続いて今日もサボる気か? いくら特待生でも限度があると思うが」
教室は静まり返っていた。この学校で皇帝と女帝って呼ばれているふたりが言い合ってるんだから、それは仕方のないことかもしれないけど。
「そうだよ。夏の日向ぼっこはわたしにとって至高の時間なのさ」
答えると、綿谷は失笑を漏らした。
「不良だな」
そう言って、机の中から教科書を出し始めた。
話は終わったと判断したわたしは、何も言わずに教室を出た。
源水高校の裏庭はそれなりに広く、花壇と飼育小屋が設けられている。
花壇には夏の代名詞とも言える向日葵が所狭しに咲き誇っており、飼育小屋には数羽のウサギが飼われていた。
「うーん、やっぱり夏は日向ぼっこに限る」
そんな独り言を呟きながら、わたしは花壇の側に設置されているベンチに寝転がった。刺すような夏の日差しが心地よく、途端に眠気がわたしを包み込んだ。
わたしは目を閉じて、誘われるがままに眠りに落ちようとした。
「あたっ」
が、わたしの顔に何か硬いものが数個当たった。
「すげぇ、ドンピシャだぜ」
「でも、起きてねぇじゃねぇか」
直後に頭上からそんな声も聞こえてきた。
面倒極まりなかったけど、仕方なくわたしは顔に当ったものを掴んだ。
これは……お金?
わたしは目を開いて、その物体を確認した。
「…………」
それは確かにお金だった。500円玉と、他の小銭が数枚。
わたしは上を見る。屋上でタバコを咥え、学ランを着た男子生徒ふたりが柵に寄りかかってわたしの方を見ていた。
「お、起きたぜ」
「姉ちゃんー、悪いけどタバコ買ってきてくれやー」
どうやら授業をサボっていたのはわたしだけじゃなかったみたい。
わたしはふたりを睨みつける。
「あ? なんか見たことあるなぁ、あのコ」
「え? そういやそうだな……」
屋上は高い。きっとはっきりとわたしの顔が見えてないのだろう。わたしもふたりの顔はぼやけてはっきりは見えない。
「あ……、あぁっ、あいつ沙理沢じゃねぇかっ」
ようやく気付いてくれたみたいだ。朱漢組の連中がわたしの顔を知らないわけがない。
「なっ、マジかよっ」
「おいっ、早くずらかろうぜ!」
「お、おうっ」
ふたりは柵から離れ、わたしの視界から消えた。
ったく、上からお金を放り投げてパシらせるってどういうつもりだ。また綿谷にイチャモンをつけてやろうか。
あ、そういえばお金どうしよう。……まぁいっか。もらっとこう。
小銭をスカートのポケットに入れ、今度こそ寝るつもりで目を閉じる。あいつらのせいで少し気分は壊れてしまったものの、夏の日差しが気持ちいいのは変わらない。
わたしは夏の熱気に身を委ね、蝉の鳴き声を子守唄に眠りに落ちていった。
――あおいちゃん、今日はご馳走よ。
えっ、ほんと? やったー、ありがとー!
――ほら、あおいちゃんの欲しがってたご本よ。今からお母さんが読んであげる。
すごーい! 買ってきてくれたんだっ。
――あおいちゃん、お誕生日おめでとう。今日は頑張ってケーキを作ったのよ。
お母さんが作ったのっ。ありがとー! お母さん大好き!
――碧っ、こんな時間までどこ行ってたの!
えっと、友達の家で遊んでた……。
――こんな時間にまで遊ぼうとする友達なんて相手にしちゃいけません! もうその子とは縁を切りなさい!
で、でも、まだ19時だよ? わたしももう中学生だし……。
――あんたは私のモノなのよ! 私に逆らうなんて絶対に許しません!
そんな……。
――返事は!
う、うん……、わかった。
――いいこと? あんたが私だけのモノということは、これから一瞬たりとも忘れてはいけません!
……うん。
チャイムが鳴った。同時にわたしの意識が現実に引き戻される。
聞こえるのは蝉時雨。お母さんの声は聞こえない。
「あー……」
無意味に声を出した。そうすることで、この嫌な気持ちを外に吐き出したくて。
最悪な気分だった。よりによって、あんなことを夢で見るなんて……。しかもこんな気持ちのいい日に。
わたしのお母さんは優しかった。食べたいものは作ってくれたし、欲しいものも買ってくれた。
だけど、それは愛されているわけではなかった。
わたしは縛られていた。束縛されていたのだ。
わたしを甘やかすことによって、常に家の中に留めようとしていた。そのことに気付いたのは中学に入ってからだった。
部活動により下校時間が遅くなって、それから友達と遊ぶと自然に帰宅時間も遅くなる。お母さんはそれを許さなかった。帰るたびに頭から怒られ、反発する隙さえ与えられなかった。
苦痛だった。窮屈だった。ずっと大好きだったお母さんのことを、いつの間にか憎むようにさえなっていた。
お母さんのせいでろくに友達も作れず、またそんな母親の子であるわたしが後ろ指を指されるようになった。二重、三重の苦しみを味わう破目になった。
そしてお父さんは、そんなお母さんの言いなりだった。わたしを助けようとせず、ただお母さんに言うことに頷くだけの甲斐性なしだった。
だからわたしは必死に勉強した。元々勉強が好きじゃなかったわたしにとってはすごく辛いことだったけど、親から離れるためにはそうするしかなかった。常に学年順位のトップクラスを維持して、高校入試で最上位の成績を収めれば特待生として入学できるからだ。そうすれば、親の力を借りなくても高校に通える。
中学校生活の最優先項目を勉強にした結果、わたしはそこそこレベルの高い源水高校への首席合格を成し、学力特待生として入学することができた。とりあえず入学金と1年時の授業料を免除され、相応の成績を残し続ければ2年時、3年時も免除されていく方式だった。実家からも離れているため、アパートも高校が用意してくれた。
入学手続きもアパートの入居手続きもすべて自分でやった。保護者が記入する欄はお母さんの筆跡を真似て書いた。
引越しも業者にお母さんが仕事している間に済まし、家出同然に家を出た。
そうして、わたしは親を捨てた。親が我が子を捨てるのは時々ニュースで見かけるけど、子が親を捨てるのはどうなんだろう。たぶん、珍しいのだと思う。それでも、わたしがわたしであり続けるためにはそうするしかなかった。
それに海々と出会うこともできた。一緒に暮らすこともできるようになった。
お母さんの束縛から逃れたことで、今までで1番の友達を見つけられたのだ。きっと、わたしの選択は間違っていなかったのだと思う。
「あれ……?」
そこでふと気付く。
どうしてわたしのお母さんはわたしを束縛しようとしたのだろう。今でこそ特待生の肩書きは持っているけど、それまでは男子と平気で喧嘩するどうしようもないコだったのに。
どうしてだろう。今までこんなこと考えたこともなかった。
どうしてだろう。
「あ、碧っ」
海々は教室に戻ってきたわたしを見るなり駆け寄ってきた。
「おはよ」
「『おはよう』って、今は朝じゃないよ?」
「わたしはさっきまで寝てたから」
「そっか。それじゃ、おはようっ」
「あ、それで納得してくれるんだ」
わたしは3限目が始まる前に戻ってきた。というのも、雲が太陽を隠してしまったからだった。陽に当たれない日向ぼっこなど何も気持ちよくない。
西の空が曇っていたから、昼から雨が降るというのも信憑性が出てきた。
「ところでさ、海々」
「んー?」
海々は屈託のない笑顔を浮かべてわたしの言葉を待っている。
「次の世界史の課題、ちゃんとやってきた?」
「うん、やってきたよ」
「ちょっと見てあげるよ」
「えっ、ホント? ありがとう、碧が見てくれたらすごく心強いよぉ」
嬉しそうにそう言って、海々は自分の机からプリントを持ってきた。
わたしはそのプリントを眺める。
世界史の教科担当の教師は必ずその日の日付の数字と同じ出席番号の生徒を当て、そこから後ろの席の生徒へと順番に当てていく。
今日は9日だから、まず出席番号9番のコが当たる。で、海々はそのコのふたつ後ろの席だから3つ目の問題だ。
それは真偽法の問題で、「誤」の場合は正当な答えを書くようになっている。
『大航海時代、史上初の世界一周に成功した航海者はマゼランである』
よくある引っかけ問題だ。センター試験にも出題される。
中学ではこう習ったけど、実際はマゼランではなくその部下だ。マゼラン自身は途中で戦死している。
でも、海々はものの見事にはまっていた。「正」と記入している。
「ここ、違うよ」
わたしはその問題を指差して海々に教えてあげた。
「あれ? コロンブスだったっけ?」
「それはアメリカ大陸を発見した人」
わたしは海々の回答を口頭で訂正して、海々はそのままプリントに書いていった。
「へぇ。そうだったんだ」
海々は書き終えると、記入した答えを見ながら感嘆の声を上げた。
「ま、これで次からは間違えないでしょ」
「うんっ。ありがとね、碧っ」
満面の笑みでお礼を言われる。
「う、うん。いいよ」
わたしは顔が熱くなるのを必死に抑え、できるだけ平静を装って頷いた。
やっぱり、海々の笑顔には魔力がある……。
チャイムが鳴って、授業が始まった。
早速課題の問題を解いていくことになり、予想通り海々は3つ目の問題が当たった。
「じゃあ、次、杞蕾」
「はいっ。『誤』です」
海々は即答した。そして明朗快活に続ける。
「その理由は、実はマゼランとは『マゼンタ・ランドセル』の略で、主に小学生の女の子が背負う物だからです。そもそも人ですらありませんっ」
あまりにも自信に満ちた顔で言うものだから、思わず「正解!」と言ってあげたくなる。
しかし訪れたのは沈黙。クラス中の生徒が呆気にとられた様子で海々に目を向けていた。
「え、あれ? 違いますかっ」
その異様な空気に違和感を覚えたのだろう、海々が少し焦り始めた。
教師は咳払いを一つして、真顔で海々に言った。
「本当にそれが正解だと思ってるのか?」
「えっ、あ、いや……、はい……」
海々はわたしに教えてもらったとは言えず、頭を垂れて頷いた。
その授業が終わった直後のこと。
「ありがとう、ものすごく面白かったっ」
「碧のバカーっ!」
顔を真っ赤にした海々がわたしに突っかかってきた。
あぁ、可愛い……。
わたしの名前は沙理沢碧。1番仲がいい友達は杞蕾海々。ともに高校2年生。
「おはようございます、明音さん」
「おはよう、碧ちゃん」
制服に着替えたわたしはキッチンに顔を出すと、海々のお母さんである明音さんがてきぱきと動いていた。
「手伝います」
「ごめんねぇ。じゃあお箸出してもらっていいかしら」
「お安い御用です」
言われた通りに食器棚から3人分の箸を出して、それをキッチンテーブルに並べられていた皿の前に置いていく。
「ありがとうね、私がもうちょっと早く起きていれば手伝ってもらわずに済んだのだけど」
「いえいえ、居候なんだから当然ですよ」
申し訳なさそうに言った明音さんに、わたしは快活に返した。
元々はアパートで下宿していた。でもなかなか生活が大変で、そのことを軽い気持ちで海々に話したら、海々の家で暮らすことを猛烈に勧められた。
最初はもちろん断ったけど、生活が大変なのは事実だったし、何より海々と一緒にいられるのが嬉しかった。
申し訳ない気持ちはあったけど、わたしは海々の厚意に甘えることにした。
明音さんもすごくいい人で、快くわたしを受け入れてくれた。
ここに居候させてもらい始めたのが6月だったから、もう1年以上も住み着かせてもらっていることになる。最初は遠慮しがちだったわたしも、今では常識の範囲内で明音さんに甘えることができるようになった。明音さんの方も、わたしを海々とほとんど同じように良くしてもらっている。
だから、明音さんはもちろん、海々には感謝している。
「それにしても、海々ちゃんはまだ寝てるのかしら」
明音さんは呆れたような口調で天井を見る。正確には、わたしと海々の部屋。
「わたしが起きたときにも声はかけたけど、もしかしたら二度寝したかもしれないです」
「まったく……。ちょっと起こしてくるから、碧ちゃんは先に食べててちょうだい」
「あ、わたしが起こしに行きますよ」
そう言ってキッチンから出ようとするけど、明音さんの手に遮られる。
「いいのよ。碧ちゃんだとすぐ甘えるから、たまには私ががつんと言わないと」
人差し指をわたしの口元に置くと、ウインクをしてキッチンから出て行った。わたしはその背中を見送る。
明音さんはそろそろ40歳になると聞いたけど、とてもそうは見えない。若々しい肌といい、さっきの仕草といい、多く見積もっても20代後半だ。軽くウェーブをかけた長い髪が上品さを出して、今でもナンパされることがあるらしい。
こんな人が親なら、海々が異様に幼いのも少し納得してしまう。やっぱり血なのかな。
わたしはテーブルの椅子に腰かけた。先に食べていていいと言われたとはいえ、さすがにそれは気が引ける。なんとなく制服のリボンを結び直して、テーブルの上に並べられた朝食を眺めた。明音さんが作ってくれた食事が3人分。
そう、3人分だ。
わたしと、海々と、明音さん。
この家には父親がいない。詳しい話は聞いていないけど、海々の記憶にないほど小さい頃に亡くなったとか。だから明音さんが働いている。わたしと海々が登校したちょっと後に出勤して、わたしと海々が帰ってくるちょっと前に帰宅しているらしい。だから、わたしと海々が家にいる時間帯にはいつもいてくれている。
そんな明音さんがいてくれるから、海々も父親がいなかったことを寂しいと思ったことはないらしい。わたしは両親が揃っていたけど、明音さんみたいな人がお母さんなんて心から羨ましく思ってしまう。
「あら、先に食べててもよかったのに」
気付くと、明音さんがキッチンに戻ってきていた。
「そういうわけにはいかないですから」
明音さんに遅れることおよそ10秒、ようやく海々が顔を出した。どうにか制服に着替えられたみたいだけど、その足取りはどうにも覚束ない。
「おはよ、海々」
「うん、おふぁあぁぁぁああああああ」
「なに? 海々ちゃんの新しい挨拶?」
海々は口を全開にしながら首を振る。
「……ふぅ。違うよぉ、『おはよう』って言おうとしたらあくびがでてきたの」
頬を赤らめてはにかむ海々。
海々は朝が弱く、スイッチが入るまで時間がかかる。
「そんなんで今日のテスト大丈夫なの? 今日は数学と世界史だよ。ちゃんと公式とか単語とか覚えてる?」
ホントはテストなんかないけど。
「え? 何言ってるの、碧? 今日はテストじゃないよ」
海々は目をぱちくりさせて言う。
「海々、今日は何月何日?」
「えっと、9月9日」
お、正解。
「じゃあわたし達が住んでる町の名前と、通ってる学校の名前は?」
「んー、住んでるのは源水町で、通ってるのは源水高校。源水高校は設立60年くらいで、全校生徒が408人」
ちゃんと答えるなんて珍しいなぁ。しかも聞いてないことまで答えたし。
今日は比較的冴えているのかな。
「今日のテストの科目は?」
「数学と……、あ、世界史だ」
少し迷いながらも、海々はちゃんと答えた。
「しっかり勉強した?」
「もちろん、し……」
そこまで言って、海々の血の気が引いていくのが見ていてわかった。
「う、うわあぁぁ、全然してないー!」
海々は頭を抱え、床にしゃがみこんだ。
「えぇっ、全然してないのっ」
わたしのわざとらしい言い方に、海々はさらに煽られる。
「どうしよーっ! 世紀の大ピンチー!」
「あーあ。赤点なんか取ったら明音さん、さぞかし悲しむだろうなぁ。ねぇ、明音さん?」
「そうねぇ。泣いちゃうかも」
くすくすと笑みをこぼしながら乗ってくれる明音さん。
「いやだー! お母さんの泣いてるところなんて見たくないよぉ!」
「だったら、いい点取らなきゃね」
「それも無理ー!」
「じゃあ、これからはちゃんとテスト前は勉強しなきゃね」
「そうだけど……、そうなんだけどぉ……」
「ま、どのみち今回のテストはもう終わったね」
「うわああぁぁぁ!」
しゃがんだまま身悶えする海々。
さて、もう目は覚めたでしょ。
「それじゃ、いただきます、明音さん」
「えぇ、おあがりください」
わたしは箸を手に持って、朝食を食べにかかった。
「碧はなんでそんなに落ち着いてるのーっ。もしかしてみっちり勉強した?」
海々は若干涙目でそう尋ねてくる。
「いや、全然」
むぅ、と海々は唸った。
「やっぱり碧はすごいなぁ……。特待生だから勉強しなくても余裕なんだね」
「何が?」
「だからテストだよっ」
「さっきから何言ってんの?」
「……え?」
ようやく、海々が落ち着きを取り戻した。
「あ、あれ……?」
思考がうまく整理できていないようなので、仕方なく助け舟を出してあげる。
「海々、今日は何月何日?」
「9月、9日」
海々は頭の中で確認しているのか、一拍の間を置いて答えた。
「中間テストは10月だよ」
「そう、だよね」
「うん」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙。
「海々ちゃん、早く朝ごはん食べなさい」
何事もなかったかのようにそう言った明音さんの言葉に海々は、
「あれーっ!」
再び頭を抱え、床にうずくまった。
明音さんの笑顔に見送られ、わたしと海々は一緒に家を出た。
ここから学校までは歩いて20分ほど。わりと近い方だと思う。
「もう。朝から心臓に悪いことはやめてよぉ」
わたしの隣を歩く海々はまだ拗ねていた。
「あっはっは。でも、目はちゃんと覚めたでしょ?」
「そうだけどぉ」
納得できないのだろう、その頬は膨れている。
「その顔も可愛いなぁ」
「え、なに?」
感慨深げに言ったわたしの言葉に、海々は意味を理解できずに小首を傾げる。
「いや」
なんでもないないよ、とわたしは首を振った。
「それにしても、今日もいい天気だね」
ただ歩いているだけなのに、汗が止まることなく滴り落ちてくる。
わたしは夏休み中にだいぶ日焼けしたけど、海々は白に近い肌色を保っている。
「うん、今日も暑いねー。……あ、そうだ」
海々は何かを思い出したようだった。
「夏と言えば、やっぱ宇宙船だよね」
無邪気な笑顔。
いきなりそう言われて何のことかわからなかったけど、
「あぁ、あれね」
思い出した。
わたし達の住む源水町は、一時は全国に名が知られていたらしい。
『宇宙船が墜落した町』として。
今から十数年前、源水町に宇宙船が墜ちた――らしい。
わたしは元々隣の県出身だから詳しくは知らないけど、夏のある日の夜中に大地震が源水町を襲ったかと思えば、町の郊外で「真っ赤な煙」が立ち昇っていた。それで町の人が急いで駆けつけたところ、そこにはUFOでも飛行機でもない、言葉では言い表せない形状の物体が「青色の炎」に包まれていたらしい。それを目撃していた人の話によれば、それは「別世界の風景だった」とか。
幸い、田んぼや畑の真ん中に墜ちたから奇跡的に犠牲者は出なかったものの、そこには直径100メートルほどのくぼみが残った。
ただ、これについて専門家や評論家はテレビでいくつか不審な点を挙げていた。
一つは、その時の状況を表す物証が一つも残っていないこと。青い炎はしばらくして鎮火したけど、そこには何も残っていなかったという。宇宙船の欠片はおろか、灰や墨すら残らなかった。色んな人が調査したけど、痕跡は全く見つかっていない。
そしてそのくぼみは、数日が経った朝には湖になっていたらしい。確かに、その辺りは田んぼが密集していたから水源はあるものの、水路も引かずに水が満たされるわけがない。これには町の人も唖然とするしかなかった。
さらには、観測所や人工衛星の記録に何も残っていなかった。宇宙船が墜落したということは、当然、宇宙のどこかしらからやってきて、大気圏を突破して、はるばる源水町に墜ちたということになる。でも、レーダーには何の反応もなく、宇宙船の影らしきものは一切映っていなかった。
というように、物理的・論理的に考えれば不可思議な点が多すぎる。調査や研究も全く成果が出ず、調査チームは頓挫した。そしていつしか、この話は人々の記憶から薄れていった。
宇宙船の墜落地点を一目見ようと訪れていたたくさんの観光客も、今では誰も来なくなった。
今では源水町の外れに「源水湖」という名前の湖がぽつんと佇んでいるだけ。
「でも、この話もだいぶ都市伝説化してるよ」
実際そうなんだけど、海々は全く気にしていない。
「別にいいよっ。海々は信じることに意味があるんだと思ってるもん」
「意味って、なんの?」
「なんだかわくわくしない? こういう話ってロマンを感じるっ」
相変わらず楽しそうに話している。
「んー」
まぁでも、その気持ちはわからなくもない。
「確かに、こういう話ってホントかどうかわからないから面白いんだよね」
「そうっ。その通り!」
ツチノコとかネッシーだって、本当に存在するかわからないからみんな追い求めるんだし、いるってわかっちゃったら、その時点で海々曰くロマンなるものを感じられなくなる。
「じゃあ、もし海々が宇宙船を発見したらどうしたい?」
「そうだなぁ。とりあえず、宇宙人に会いたいな」
「え、マジ?」
「うんっ」
「エイリアンみたいに気持ち悪いんじゃない?」
「それは先入観だよ。もしかしたら、ウサギみたいにものすごく愛らしい姿かもしれないよ?」
まぁ、確かにそうかもしれないけど。
「いくら容姿がウサギでも、根は猛獣並みに凶暴かもよ」
「んー?」
いまいちわかってないようだから、わかりやすく説明してあげる。
「地球のウサギは可愛くて心癒される動物だけど、宇宙のウサギもそうとは限らない。人間を食べちゃうかもよ。海々なんて見るからに美味しそうだから、ヨダレもんじゃない? 鷲のような鋭い爪とクマのような怪力で海々の体を引き裂き、セイウチのような巨大な牙とサメのような強靭な顎力で骨を噛み砕き、ハイエナとカラスを合わせたようなその残忍さで無惨な姿になった海々を喰――って、どうしたの?」
海々は目をぎゅっと目を瞑り、手で耳を塞いでいた。かなり力を入れているのだろうか、その手がぷるぷる震えている。
「おーい、海々、何やってんの?」
呼びかけるが、耳を塞いでいる海々に届くわけがない。仕方ないから海々の肩を揺すった。
わたしの手が触れると、海々の体がびくっと震えた。
「じゅ、じゅうはっきん!」
意味がわからない。
「18歳未満禁止! グロデスクな描写は18歳未満禁止!」
……あぁ、そういえば。
「ほらほら、もう何も言ってないよ」
怪談はもちろんのこと、殺人事件のニュースを見ている時でさえもこんな風に見ず聞かずの姿勢をとっていたのを思い出した。
わたしは海々の頭を軽く撫でてやる。
「むぅ?」
海々は片目を開き、わたしの様子を窺ってくる。怖い話は絶対に聞くまい、と言わんばかりに警戒していた。
「大丈夫だって」
笑顔でそう言うと海々はため息をつき、ようやく耳から手を離したけど、
「でね」
「じゅうはっきんー!」
目で追えないスピードでまた耳を塞いだ。まだ「でね」しか言ってないのに。
「じゅうはっきんー!」
でも、こんなに怖がるなんて、本当に可愛いなぁ。
「じゅうはっきんー!」
気付くと、校門がすぐそこまで迫っていた。
「海々、着いたよ」
「じゅうはっきんー!」
まだ言っているし。っていうか、他の生徒が何事かとこっちを見てるんだけど。
このままだと私が変なことをしたと誤解を与えてしまいそうだから、そうならないようにしておこう。
わたしは声を張り上げた。
「海々っ、今日一緒に映画でも観に行こうかっ。何が観たいっ」
「じゅうはっきんー!」
誰にだって学校での憂鬱な時間はあると思う。
スタイルに自信がないコにとっては水泳の授業がそうだろうし、同じ学校の彼氏とずっといたいなんて思っているコにとっては下校時間が当てはまる。
わたしの場合は、朝の下駄箱から教室に着くまでの時間がそれだ。
「沙理沢先輩、おはようございますっ」
「ちす」
「沙理沢さんっ、昨日はお疲れ様でした!」
「はいはいありがと」
「沙理沢様っ、今日もお肌の調子がいいようでっ」
「意味がわからん」
あぁ、鬱陶しい。
廊下を歩いているだけで、ほとんどの生徒から挨拶をされる。それも、明らかな作り笑顔で。
なんでだろう。素通りすると因縁づけられるとでも思っているのか?
「へへー」
なのに、隣の海々は屈託のない笑顔でわたしを見ていた。
「なに?」
「いや。相変わらず碧はすごいなぁ、って。海々が歩いてても誰も声なんかかけてこないよ」
「むしろそれが普通なんだけどね」
そもそも、わたしが女帝と称されていることさえ不本意なのに。
去年の4月、入学早々海々が朱漢組に絡まれていた。当時はそんなに話したことはなかったけど、出席番号がわたしのひとつ前だから顔見知りではあった。朱漢組の連中は4人いて、それを撃退して海々を助けたらいつの間にかそんな風に呼ばれるようになっていた。ただ同じクラスのコを助けただけなのに。
「ふぅ」
2年1組の教室に入ると、ようやく一息つくことができた。わたしは自分の席である真ん中の1番後ろに座った。海々も窓際の後ろから2番目の席に座る。
この席はいい。何故なら海々を観察できるから。海々の授業中の様子は実に愛らしい。
黒板を真剣に見つめる視線。ノートを必死に書き写す手の動き。時々かみ殺すあくび。ぼーっと窓の外を眺める虚ろで無防備な顔。そのどれもがわたしを癒してくれる。
そんなことを考えていると、わたしの前に学ラン姿の男子生徒がやってきた。
「よっ、沙理沢」
そう爽やかに挨拶をしてきたのは、男子では唯一わたしに気軽に話しかけてくる二宮希祐だった。朱漢組の中ではわりとまともな方で、その甘いマスクと爽やかな性格からか、一部の女子から人気があるのを知っている。
その反面、朱漢組では実質のナンバー2らしく、綿谷の右腕でもあるとか。とてもそんな風には見えないけど。
「昨日はうちのアホが迷惑をかけたようだな。そいつらに代わって謝るよ」
二宮は苦笑しながらそう言って、軽く頭を下げた。
「『朱漢組は弱きを助け、強きをくじく』だっけ?」
「そう。ただの不良集団だったのは、もう2年前の話さ」
爽やかな笑顔で、何故か自慢げに言ってきた。
それにしても、「2年前」というワードは初めて聞く。
「じゃあ去年に何かあったの?」
わたしが尋ねると、二宮はその質問を待っていたかのように話した。
「俺達の入学さ」
「わたし達の入学?」
「そう。正確には、猛さんの入学」
「ふうん?」
「猛さんはこの高校に入学して、いきなり朱漢組の組長を倒したんだ。そして、そのまま朱漢組を我が物にした。それで、朱漢組を弱きを助け、強きをくじく集団にしたんだ」
「別に自分で立ち上げればよくない? なんで乗っ取る必要があったの?」
「『弱さを守るには強さが必要』と猛さんは言っている。だから、そこそこ喧嘩慣れしてる奴らをそのまま舎弟にしちまえば、育てる手間が省けたからじゃないか。それに、当時の組長を倒しちまえば自分の強さを証明することもできるだろ? 今では『皇帝』なんて呼ばれてるしさ」
あくまで爽やかに言うけど、なんか納得できるようなできないような微妙な感じ。
「それでも、今まで好き勝手にしてきた奴らがそんな改革に従うわけがない。だから、時々問題を起こす輩も出てくるんだ」
本当は朱漢組のエピソードにそこまで興味がなかったわたしはふーん、と生返事だけをして、それよりも気になっていた疑問をぶつけた。
「ところで、なんで学ランにリーゼントなの?」
この高校に入学しておよそ1年半、ずっと抱き続けていた疑問だった。
リーゼントに学ラン姿の二宮は苦笑いを隠さずに教えてくれた。
「これは猛さんの信条らしい。『男なるもの、洋服なんかで身を包むな!』って。リーゼントも男の象徴だとさ。猛さんの親父さんも昔は結構怖かったらしい」
なるほど。あいつが言うと妙に納得できるなぁ。
「あ、もうひとつ。だからといって、なんで弱い者を助ける集団にしたの? 見た目は明らかにただの不良なのにさ」
「さぁ、それは俺も聞いてないんだ。俺はただ、猛さんの理念に感銘を受けたから一緒にいるだけだし」
そっか、と頷く。
すると、教室の前のドアから綿谷が登校してきた。
「そんじゃな」
二宮はそれを認めると、爽やかに笑顔を振りまいて自分の席に戻っていった。あいつといると今が夏だということを忘れてしまいそうになる。
「おはようございますっ」
「おう」
ふたりのそんなやり取りをぼーっと見ているうちにチャイムが鳴り、やがて担任が入ってきた。
担任は連絡事項をさっさと伝えてはすぐに出ていった。わたしは鞄から教科書とノートを取り出そうとしていると、近くの女子の会話が聞こえてきた。
「今日も暑いねー」
「だよねー、もう汗でびしょびしょだよ」
「でも、今日は昼から曇るらしいよ。少しはマシになるかもね」
「マジでっ」
思わず会話に割り込んでしまった。
女子は予想外の横槍に驚きつつも、ぎこちない笑顔で答えた。
「う、うん。天気予報でそう言ってたから。今日は晴れのちくもりなんだって」
知らなかった。だったら、こんなのんきに授業の準備なんかしている場合じゃない。
わたしは立ち上がり、教室の後ろのドアから出ようとした。
「おい、どこに行く気だ」
でも、廊下側の一番後ろの席に座っている綿谷に呼び止められる。
この瞬間、教室の空気が凍った気がした。
「裏庭だよ」
わたしは立ち止まり、怯まずに吐き捨てるように答えた。
二宮は綿谷のことを随分と尊敬しているようだけど、わたしとこいつは仲がいいわけではない。というのも、朱漢組のおかげで海々が何回も怖い目に遭っているからだ。綿谷自身は関係ないけど、やっぱり組長のこいつにはどうしてもいい印象は持てない。
「もうすぐ授業が始まるぞ」
「知ってるよ」
「昨日に続いて今日もサボる気か? いくら特待生でも限度があると思うが」
教室は静まり返っていた。この学校で皇帝と女帝って呼ばれているふたりが言い合ってるんだから、それは仕方のないことかもしれないけど。
「そうだよ。夏の日向ぼっこはわたしにとって至高の時間なのさ」
答えると、綿谷は失笑を漏らした。
「不良だな」
そう言って、机の中から教科書を出し始めた。
話は終わったと判断したわたしは、何も言わずに教室を出た。
源水高校の裏庭はそれなりに広く、花壇と飼育小屋が設けられている。
花壇には夏の代名詞とも言える向日葵が所狭しに咲き誇っており、飼育小屋には数羽のウサギが飼われていた。
「うーん、やっぱり夏は日向ぼっこに限る」
そんな独り言を呟きながら、わたしは花壇の側に設置されているベンチに寝転がった。刺すような夏の日差しが心地よく、途端に眠気がわたしを包み込んだ。
わたしは目を閉じて、誘われるがままに眠りに落ちようとした。
「あたっ」
が、わたしの顔に何か硬いものが数個当たった。
「すげぇ、ドンピシャだぜ」
「でも、起きてねぇじゃねぇか」
直後に頭上からそんな声も聞こえてきた。
面倒極まりなかったけど、仕方なくわたしは顔に当ったものを掴んだ。
これは……お金?
わたしは目を開いて、その物体を確認した。
「…………」
それは確かにお金だった。500円玉と、他の小銭が数枚。
わたしは上を見る。屋上でタバコを咥え、学ランを着た男子生徒ふたりが柵に寄りかかってわたしの方を見ていた。
「お、起きたぜ」
「姉ちゃんー、悪いけどタバコ買ってきてくれやー」
どうやら授業をサボっていたのはわたしだけじゃなかったみたい。
わたしはふたりを睨みつける。
「あ? なんか見たことあるなぁ、あのコ」
「え? そういやそうだな……」
屋上は高い。きっとはっきりとわたしの顔が見えてないのだろう。わたしもふたりの顔はぼやけてはっきりは見えない。
「あ……、あぁっ、あいつ沙理沢じゃねぇかっ」
ようやく気付いてくれたみたいだ。朱漢組の連中がわたしの顔を知らないわけがない。
「なっ、マジかよっ」
「おいっ、早くずらかろうぜ!」
「お、おうっ」
ふたりは柵から離れ、わたしの視界から消えた。
ったく、上からお金を放り投げてパシらせるってどういうつもりだ。また綿谷にイチャモンをつけてやろうか。
あ、そういえばお金どうしよう。……まぁいっか。もらっとこう。
小銭をスカートのポケットに入れ、今度こそ寝るつもりで目を閉じる。あいつらのせいで少し気分は壊れてしまったものの、夏の日差しが気持ちいいのは変わらない。
わたしは夏の熱気に身を委ね、蝉の鳴き声を子守唄に眠りに落ちていった。
――あおいちゃん、今日はご馳走よ。
えっ、ほんと? やったー、ありがとー!
――ほら、あおいちゃんの欲しがってたご本よ。今からお母さんが読んであげる。
すごーい! 買ってきてくれたんだっ。
――あおいちゃん、お誕生日おめでとう。今日は頑張ってケーキを作ったのよ。
お母さんが作ったのっ。ありがとー! お母さん大好き!
――碧っ、こんな時間までどこ行ってたの!
えっと、友達の家で遊んでた……。
――こんな時間にまで遊ぼうとする友達なんて相手にしちゃいけません! もうその子とは縁を切りなさい!
で、でも、まだ19時だよ? わたしももう中学生だし……。
――あんたは私のモノなのよ! 私に逆らうなんて絶対に許しません!
そんな……。
――返事は!
う、うん……、わかった。
――いいこと? あんたが私だけのモノということは、これから一瞬たりとも忘れてはいけません!
……うん。
チャイムが鳴った。同時にわたしの意識が現実に引き戻される。
聞こえるのは蝉時雨。お母さんの声は聞こえない。
「あー……」
無意味に声を出した。そうすることで、この嫌な気持ちを外に吐き出したくて。
最悪な気分だった。よりによって、あんなことを夢で見るなんて……。しかもこんな気持ちのいい日に。
わたしのお母さんは優しかった。食べたいものは作ってくれたし、欲しいものも買ってくれた。
だけど、それは愛されているわけではなかった。
わたしは縛られていた。束縛されていたのだ。
わたしを甘やかすことによって、常に家の中に留めようとしていた。そのことに気付いたのは中学に入ってからだった。
部活動により下校時間が遅くなって、それから友達と遊ぶと自然に帰宅時間も遅くなる。お母さんはそれを許さなかった。帰るたびに頭から怒られ、反発する隙さえ与えられなかった。
苦痛だった。窮屈だった。ずっと大好きだったお母さんのことを、いつの間にか憎むようにさえなっていた。
お母さんのせいでろくに友達も作れず、またそんな母親の子であるわたしが後ろ指を指されるようになった。二重、三重の苦しみを味わう破目になった。
そしてお父さんは、そんなお母さんの言いなりだった。わたしを助けようとせず、ただお母さんに言うことに頷くだけの甲斐性なしだった。
だからわたしは必死に勉強した。元々勉強が好きじゃなかったわたしにとってはすごく辛いことだったけど、親から離れるためにはそうするしかなかった。常に学年順位のトップクラスを維持して、高校入試で最上位の成績を収めれば特待生として入学できるからだ。そうすれば、親の力を借りなくても高校に通える。
中学校生活の最優先項目を勉強にした結果、わたしはそこそこレベルの高い源水高校への首席合格を成し、学力特待生として入学することができた。とりあえず入学金と1年時の授業料を免除され、相応の成績を残し続ければ2年時、3年時も免除されていく方式だった。実家からも離れているため、アパートも高校が用意してくれた。
入学手続きもアパートの入居手続きもすべて自分でやった。保護者が記入する欄はお母さんの筆跡を真似て書いた。
引越しも業者にお母さんが仕事している間に済まし、家出同然に家を出た。
そうして、わたしは親を捨てた。親が我が子を捨てるのは時々ニュースで見かけるけど、子が親を捨てるのはどうなんだろう。たぶん、珍しいのだと思う。それでも、わたしがわたしであり続けるためにはそうするしかなかった。
それに海々と出会うこともできた。一緒に暮らすこともできるようになった。
お母さんの束縛から逃れたことで、今までで1番の友達を見つけられたのだ。きっと、わたしの選択は間違っていなかったのだと思う。
「あれ……?」
そこでふと気付く。
どうしてわたしのお母さんはわたしを束縛しようとしたのだろう。今でこそ特待生の肩書きは持っているけど、それまでは男子と平気で喧嘩するどうしようもないコだったのに。
どうしてだろう。今までこんなこと考えたこともなかった。
どうしてだろう。
「あ、碧っ」
海々は教室に戻ってきたわたしを見るなり駆け寄ってきた。
「おはよ」
「『おはよう』って、今は朝じゃないよ?」
「わたしはさっきまで寝てたから」
「そっか。それじゃ、おはようっ」
「あ、それで納得してくれるんだ」
わたしは3限目が始まる前に戻ってきた。というのも、雲が太陽を隠してしまったからだった。陽に当たれない日向ぼっこなど何も気持ちよくない。
西の空が曇っていたから、昼から雨が降るというのも信憑性が出てきた。
「ところでさ、海々」
「んー?」
海々は屈託のない笑顔を浮かべてわたしの言葉を待っている。
「次の世界史の課題、ちゃんとやってきた?」
「うん、やってきたよ」
「ちょっと見てあげるよ」
「えっ、ホント? ありがとう、碧が見てくれたらすごく心強いよぉ」
嬉しそうにそう言って、海々は自分の机からプリントを持ってきた。
わたしはそのプリントを眺める。
世界史の教科担当の教師は必ずその日の日付の数字と同じ出席番号の生徒を当て、そこから後ろの席の生徒へと順番に当てていく。
今日は9日だから、まず出席番号9番のコが当たる。で、海々はそのコのふたつ後ろの席だから3つ目の問題だ。
それは真偽法の問題で、「誤」の場合は正当な答えを書くようになっている。
『大航海時代、史上初の世界一周に成功した航海者はマゼランである』
よくある引っかけ問題だ。センター試験にも出題される。
中学ではこう習ったけど、実際はマゼランではなくその部下だ。マゼラン自身は途中で戦死している。
でも、海々はものの見事にはまっていた。「正」と記入している。
「ここ、違うよ」
わたしはその問題を指差して海々に教えてあげた。
「あれ? コロンブスだったっけ?」
「それはアメリカ大陸を発見した人」
わたしは海々の回答を口頭で訂正して、海々はそのままプリントに書いていった。
「へぇ。そうだったんだ」
海々は書き終えると、記入した答えを見ながら感嘆の声を上げた。
「ま、これで次からは間違えないでしょ」
「うんっ。ありがとね、碧っ」
満面の笑みでお礼を言われる。
「う、うん。いいよ」
わたしは顔が熱くなるのを必死に抑え、できるだけ平静を装って頷いた。
やっぱり、海々の笑顔には魔力がある……。
チャイムが鳴って、授業が始まった。
早速課題の問題を解いていくことになり、予想通り海々は3つ目の問題が当たった。
「じゃあ、次、杞蕾」
「はいっ。『誤』です」
海々は即答した。そして明朗快活に続ける。
「その理由は、実はマゼランとは『マゼンタ・ランドセル』の略で、主に小学生の女の子が背負う物だからです。そもそも人ですらありませんっ」
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「本当にそれが正解だと思ってるのか?」
「えっ、あ、いや……、はい……」
海々はわたしに教えてもらったとは言えず、頭を垂れて頷いた。
その授業が終わった直後のこと。
「ありがとう、ものすごく面白かったっ」
「碧のバカーっ!」
顔を真っ赤にした海々がわたしに突っかかってきた。
あぁ、可愛い……。
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※第12回ドリーム小説大賞奨励賞受賞作品
※表紙画像は、ミカスケ様のフリーアイコンを使わせて頂きました。
※「交錯する想い」の挿絵として、テン(西湖鳴)様に頂いたファンアートを、「彼女を好きだ、と自覚したあの夜の記憶」の挿絵として、騰成様に頂いたファンアートを使わせて頂きました。ありがとうございました。
冬の水葬
束原ミヤコ
青春
夕霧七瀬(ユウギリナナセ)は、一つ年上の幼なじみ、凪蓮水(ナギハスミ)が好き。
凪が高校生になってから疎遠になってしまっていたけれど、ずっと好きだった。
高校一年生になった夕霧は、凪と同じ高校に通えることを楽しみにしていた。
美術部の凪を追いかけて美術部に入り、気安い幼なじみの間柄に戻ることができたと思っていた――
けれど、そのときにはすでに、凪の心には消えない傷ができてしまっていた。
ある女性に捕らわれた凪と、それを追いかける夕霧の、繰り返す冬の話。
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