燐光のアートマン

lil-pesoa

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第二話

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精神科に行くと言う一大決心をしてかなり身構えていたが、実際行ってみるとあっけないものだった。簡単なアンケート用紙みたいなものに質問が並んでいて、それに答えていく。あとは脳に異常がないかの検査をして、それで終わりだった。先生が言うには、科学的な面から見ても心理学的な面から見ても、僕には何の異常も見られないと言う事だった。

だったら、僕が昨日見たアレは何だったんだ。

結局、健康体ということで特に薬などは貰えなかった。規則正しい生活とバランスの良い食事を心掛けるという、あまりにも基本的な対処法だけを与えられて、帰路についた。

病院の正面出口から出て、住宅街に面した大通りを進む。道は緩やかな下り坂になっており、三つ目の角を右に曲がると街路樹の楓が綺麗に並んだ遊歩道が現れる。この道の先には市内で1番大きい図書館があり、僕もよく通っている。
病院の件は、最初は釈然としなかったが、医者のお墨付きをもらったという事実のおかげでだんだん気分が軽くなってきた。

音楽でも聴きながらこの遊歩道を歩こう。
そうして、肩掛けカバンからイヤホンを取り出そうとしたその時、後ろから誰かに話しかけられた。
生温い風が全身を撫でるように吹き去っていくのを感じた。

「人為の建設のため 
 人々は無益に蠢動致します。
 繁栄のため 
 花は無益に風に戦ぎます。
 分子は無益に衝突し合い 
 どうしようも無い現在を、
 どうしようも無い未来へと導きます。
 それがこの世の理でございました。」

本能的に毛が逆立つような、耳障りがいいとは到底いえないしゃがれた声だった。男か女かもわからない。
心臓を鷲掴みにされたような心地でゆっくりと振り向くと、黒猫が1匹、遊歩道の真ん中に行儀良く佇んで、こちらをジッと見ていた。ゆらゆらと尻尾をくゆらせている。
動悸が早まる。体が熱い。ありえない、そんな訳が無い。祈るようにしながら、黒猫から目を離せずにいると、今度は目の前ではっきりと、

「天地の理、あらゆる学問の法則、その他森羅万象、もはや全て当てにはなりませぬ。ひっくり返るのです。ハハ、ハハ。貴方様がその選択を願ったのです。ハハ、ハハ。破壊者よ、もう取り返しはつきませぬぞ。」

人生で初めて恐怖で叫び声を上げた。と同時に全速力でその場から逃げ出した。ポケットからライターを落としたが脇目も降らず逃げ出した。角を何度も曲がって、階段を飛び降りた。どうなってんだ。なんなんだ、僕は、誰かに呪われたのか?幽霊か超能力か、そうでなければ宇宙人か、もはやそんな類の者でしか説明がつかないぞ。とにかくマズい。恐ろしい。誰に助けて貰えばいい。霊能力者か、占い師か、警察か。

僕はそのまま家に帰るのも怖くなったので、駅前のネットカフェに入って一日を過ごす事にした。周りに人が居るという安心感で、なんとか食事も喉を通り、睡眠も取ることができた。薄っぺらい毛布にくるまって夢を見ている最中も、あの黒猫の「ハハ、ハハ。」という不気味な笑い声が頭の中で響き続けた。翌日の仕事は、休みをもらう事にした。
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